今、すべきことをしよう
ルカによる福音書12章54-59
川﨑 公平
主日礼拝
「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」(五六、五七節)。
〈今〉の時を、正しく見分けなさい。〈今〉すべきことを、正しく判断しなさい。この〈今〉とは、どういう時なのでしょうか。主イエスが私どもの目の前に立っておられる、〈今〉という時であります。
「どうして見分けないのか。どうして分からないのか。今、わたしが、ここにいるのに」。たたみかけるような主イエスの問いかけの中に、まことに激しい、神の愛の呼びかけが聞こえてきます。このお方の前で、今、すべきことがある。何をするのでしょうか。「仲直りしなさい」。五八節以下で、そう言われます。その意味では、ここで主が語っておられることはまことに単純です。「今、わたしがここにいるではないか。そのわたしの前で、今、すべきことがあるだろう。仲直りしなさい」。そう言われるのです。
しかし、そのように主イエスが語られた言葉の中で、何よりも驚くひとつの言葉があります。「偽善者よ」。厳しい言葉です。この言葉を聞いた「群衆」と呼ばれる人たちは、おそらく主イエスのこの言葉にたいへん驚いたと思います。なぜわれわれが、しかも突然、偽善者などと呼ばれなければならないか。しかし、皆さんは、なぜこの群衆が「偽善者」と呼ばれなければならなかったか、お分かりになったでしょうか。
「偽善者よ」。私どものふだんの生活ではあまり使われない言葉です。いやな言葉です。しかし私どもは、聖書に親しむようになると、この「偽善」という言葉が重要な意味を持っていることを知ります。主イエスというお方は、盗みを働いたとか、道徳的な過ちを犯したとか、そういう人を捉えてその罪をあげつらうようなことはなさらず、むしろ多くの人の認めるところ、模範的な生活をしている人びとに向かい合って、その〈偽善〉を徹底的に指摘なさいました。そして私どもは、そういう福音書の記事を読みながら、何となく納得したつもりになりながら、しかし本当にはなかなか納得しないと思います。
もしたとえば、私が牧師として、教会の中でどうしても指導的な立場に立って発言をしなければならない時に、面と向かって「あなたは偽善者ですね」という言葉で誰かの批判をしたら、厳しいなどということではすまないかもしれません。「あの人は偽善者だ」と思うことがあったとしても、口にはしません。私どもは、偽善者と言われることがいちばんつらいのです。しかも、繰り返しますが、この言葉を主イエスは「群衆にも言われた」。この呼びかけから漏れている者はひとりもいない。すべての人の心に潜む、偽善の罪を主は見ておられたのです。しかし、この群衆のどこが偽善者なのか。お分かりになるでしょうか。皆さんのどこが偽善者なのか。すぐに悟ることができたでしょうか。
「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに」と言われます。それを具体的には五四節以下で、「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」。テレビの天気予報などない時代です。けれども、あなたがたは正しい判断ができているね。それを、主イエスは認めておられるのです。
私どもは、どちらの方向に雲が出たなんてことをほとんど気にしなくなりました。天気を知ろうと思ったら、私の場合は、インターネットで調べます。雨が降りそうなら、傘を持って出かける。本当に大雨になりそうなら、上等の靴は履かない。そういう私どもにも主イエスはおっしゃると思います。あなたはインターネットは見るのに、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」。「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」。けれどもそこで分からないのは、なぜそれが「偽善者」のしるしになるか、ということです。
偽善者とは何でしょうか。最も常識的な理解は、表向きは善良な姿を見せながら、実は腹の底は真っ黒というように、表裏があるということでしょう。しかしそういう理解で、この主の言葉を正しく読み取ったことになるでしょうか。いや、こう言ってもよい。そういう理解だけで、私どもは、偽善の罪を克服することができるでしょうか。
「空や地の模様を見分けることは知っているのに……」。ここを訳し直すと、「空や地の〈顔〉を見分ける」となります。空や地も、いろんな顔を見せる。その表情に合わせて、理性的な人間は自分の生活を整えるのです。そういう正しい判断ができるようになっているのです。そのこと自体は悪いことではない。けれども根本的な問題は、神の〈御顔〉が自分の前に迫っているのに、それを無視していることです。
私ども偽善者にとって何よりも大切なことは、人にどう見られるかということです。こんなことしたら、あの人はどういう顔をするかな。その表情を読み取りながら、自分の生活を規定します。けれども、神の顔色を窺おうとはしないのであります。偽善者にとって、そんなことは、どうでもいいのです。主イエスが再び帰って来られる時、自分がどうなるかということも、偽善者の人生設計においては意味を持たないのです。
けれども今は、違います。違うはずです。私どもは、今も、いつも、神の御顔の前に生きる。そのことを、何にもまさる幸いとして受け入れるようになったはずです。そして、全ての生活を、神の御顔の前において、整えるのです。「どうして今の時を見分けないのか。わたしが、あなたと共にいるではないか」。この主のみ前で、今、すべきことがある。他人のことなど、一切気にしなくなるのではありません。むしろ、神の御前でこそ、隣人との関わりも正しく整えられるのです。主は、そのことをよく分かってもらおうとお思いになって、五八節以下でこう言われます。
「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。
何も複雑なことは言われません。「仲直りしなさい」。それだけのことです。「あなたと一緒に歩いている人がいるだろう。その人のことを忘れるな」。それは、「あなたを訴える人」。あなたの罪を糾弾する権利を持つ人です。そういう隣人が、あなたと一緒に歩いていることを忘れるな。
先月の説教でも同じことを申しましたが、この説教のあとに聖餐を祝い、『讃美歌21』の八一番、「マラナ・タ」と呼ばれる讃美歌を歌います。「マラナ・タ」という外国語は、「主よ、来てください」という意味の言葉だという説明を、先月の説教でもいたしました。お甦りになった主イエスは、今は私どもの目に見えませんが、必ず、再び、来られる。その信仰を「再臨」などと呼びます。私どもは、折に触れてこの讃美歌を歌うたびに、「私は誰を待っているのか」、それを言い換えれば、「私は、誰を相手にして生きているのか」、その思いを新たにするのです。
ところで、先月、そのような説教をしながら、ひとつ、こういうことを申しました。私どもの生活の中には、「今、このタイミングでイエスさまが来られたら困るな」という局面があるのではないか。そうしたら、さっそくその日のうちに感想を述べてくださった方がありました。「確かに。今来てもらっても、少し、困る。そういう思いがある」。これは正直な感想です。そして、これは決して私ひとりだけのことではないと思っていますが、そういう思いが生まれる典型的な場面は、誰かと仲違いしている時です。たとえば私も、妻と心が行き違うことがあります。「なんだか気まずいな。でもこっちから謝るのはしゃくだな」などと思っている時に、今、イエスさまが来られたら、非常に困る。けれどもそれは、本当はおかしなことです。必ず再び来られる主イエスは、また同時に、霊においては、今ここにおられるお方です。私の目の前におられる。私と妻の間にもおられる。だからこそ、主イエスは言われるのです。今、すべきことがあるだろう。仲直りしなさい。わたしは、ここにいるよ。そして、言われるのです。
「さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。
仲直りできないくらいで、こんな大げさな、という感想もあり得るかもしれません。けれどもたとえば、日本と隣国との関係ひとつ考えてみても、多くのことを考えさせられる聖書の言葉です。こういうことをお語りになった時、まことに深い悲しみをもって主イエスが見ておられたことは、人間の恨みとは、こんなに深いのか、仲直りできないということは、こんなにも悲惨なことなのか。そういうことではなかったかと思うのです。
今週、八月九日に私は三九歳の誕生日を迎えます。私は幼い頃から、この日付が長崎に原子爆弾が落とされた日だということを忘れることはありませんでした。私にとってひとつ忘れがたい思い出がある。テンフィート運動という言葉をお聞きになったことはあるでしょうか。広島と長崎に原爆が落とされた直後の映像を、アメリカ軍が撮影していた。そのフィルムを、ひとりテンフィート、約三メートルずつ買い取って、それを公開しようという運動があったのです。当時私の通っていた教会でも、そのようにして手に入れたフィルムの撮影会をした。小学一年生の時、母に連れて行かれました。激しい衝撃を受けました。焼け爛れた死体が、川を埋め立てるようにして積み重なっている。喉の渇きに耐えかねた被爆者たちが、川の水を求めて、そこで死んだのです。生き延びた人が、生涯後遺症に苦しみ続けるという映像もありました。今でもよく覚えています。その日以来、暗い所が恐くなりました。それから、飛行機の音が恐くなりました。小学校高学年くらいまで、ひそかに怯え続けました。けれどもある時、平静を装いつつ、母に言いました。「あの時以来、飛行機の音が怖くなった」。母は答えました。「わたしもそうだ。子どもの頃から」。人間が和解できないということは、こんなに恐ろしいことなのだ。そう思いました。
「最後の一レプトンを返すまで」。一円でも借金が残っていたらだめ。人間の恨みは、行き着くところまで行かざるを得ないのだ。だから、早く和解しないと、たいへんなことになるよ。主イエスは、たとえば、原子爆弾の恐ろしさも、悲しさも、すべてよくご存知だったのだと思います。
敢えて、こういう言い方をさせていただきたい。私が、幼い日に得た心の痛みを、本当の意味で乗り越えることができたのは、キリストの十字架を信じ得た時です。原爆よりも恐ろしいことが起こった。それが、キリストの十字架です。人間が、神を殺したのです。
仲直りできない人間の罪の姿は、夫婦げんかという姿を現すこともあるし、原子爆弾という悪魔的な姿を見せることもある。けれども、その罪の姿が最も恐ろしい正体を現したのは、キリストの十字架においてであったのです。まことの神が、まことの人となられた。このお方は、私ども人間が神と和解するために遣わされました。けれども人間は、このお方を見た時に、激しい怒りを燃やし、十字架においてこれを殺したのです。遂に人間と神との和解は成立せずに、決定的な破綻に至ったかに見えた。けれども、まさにそこに、神の愛が見えたのだと悟った時に、私は、絶望ではなく、望みを与えられた。そう信じています。
主イエスは、十字架につけられ、人びとの憎しみの中で殺されました。私は思います。このお方は誰よりも深く、訴えられるつらさ、仲直りできない悲しみを知っておられたのだ。人と人とが和解できないことを、そして、神と人とが和解できないことを、このお方は、誰よりも深く苦しみ抜いてくださったのであります。
けれども、神がこのお方を死者の中から甦らせてくださった時……それは、神の愛が人間の憎しみに勝利した出来事となりました。
この神の愛の前で、私どもはみ言葉を聞きます。「なぜ、今の時を見分けないのか」。「なぜ、天気の表情は見るのに、人の顔色は窺うのに、恵みに満ち溢れる神の顔を見ないのか」。このお方の前で、キリストの恵みの前で、今、すべきことがある。一緒に歩いている人と、本当の意味で、共に生きるようになるのです。