主よ、あなたの帰りをお待ちしています
ルカによる福音書第12章35-48節
川﨑 公平
主日礼拝
私どもの教会が礼拝の中で聖餐という、主イエスが定めてくださった食卓を囲みます時に、しばしば歌うのは、『讃美歌21』の81番、「マラナ・タ」と呼ばれる讃美歌です。今日もその讃美歌を歌います。この「マラナ・タ」という歌詞を含む讃美歌が、聖餐に関わる他の讃美歌に比べてひとつ優れていると思いますのは、何と言っても、「マラナ・タ」という言葉が繰り返されることだと思います。ただ、この「マラナ・タ」という言葉が何を意味するかということは、折に触れきちんと説明しなければならないのではないかと改めて思いました。旧約聖書が書かれたヘブライ語の仲間のアラム語という言語で、「主よ、来てください」という意味の言葉です。私どもの讃美歌では、「主のみ国が来ますように」と歌いますが、「主のみ国が」というよりは、もっと鋭く簡潔に、「主よ、来てください」という祈りです。主イエスよ、あなたが来てください。それは簡潔に言えば、主イエス・キリストの再臨を待つ祈りだということです。
死人の中からお甦りになり、天に昇られた主イエスは、もう一度私どもに見える姿で来てくださる。「再び来られる」という意味で、「再臨」と言うのです。その時にこの地上の歴史は終わる。私どもが使徒信条という言葉で、礼拝のたびに言い表していることは、そのことです。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」。私どもの信仰は、「死んだら天国に行く」という信仰ではないのであって、むしろ、「天から主イエスが再び来られるのを待つ」信仰です。それがいつのことかは、誰にも分かりません。分かりませんけれども、だからこそ、待ち続ける。それが私ども教会の信仰です。「マラナ・タ、主イエスよ、来てください。あなたが約束してくださった通りに」と歌いながら、私どもは、〈待つ〉ということをしている。その祈りを新しくしているのです。
そのような私どもの「主を待つ」姿を、主イエスは今日お読みしたルカによる福音書第12章の35節以下で、このようなたとえをもって描き出して見せてくださっています。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。この言葉の意味を正確に説明しようと思ったら、2000年前の当時の人たちの服装から説明しなければならないかと思いましたが、その必要もないと思います。主イエスがきちんと説明してくださっています。「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」。「腰に帯を締め、ともし火をともし」というのは、そのための格好です。いつ主イエスが帰って来られてもいいように、そのために身支度を整えるのです。
ここで主イエスが語っておられることは、ひとつには、明らかに命令であります。腰に帯を締めなさい。ともし火を掲げなさい。それは主人を〈待つ〉姿勢です。言うまでもなく主イエスはここで、私どもの服装のことではなくて、心の姿勢を問うておられる。いつ主が帰って来られてもよいように、姿勢を整える。ともし火をかかげて。そのともし火というのは、何よりも主人が帰って来る、その足元を照らす明かりです。この主人というのは、イエスさまです。イエスさまが帰って来られる時、夜道を明るく照らしてくださらないと暗い道も歩けないのだろうか、などと余計なことを考える必要はありません。そのともし火を見て、他の人も気づくのです。「あなたはなぜそんなともし火を掲げているのですか。ああ、あなたには主人がいるのですね。主人を待っているのですね」。もしも誰かから、「なぜあなたはそのような生き方をするのですか」と問われたら、私どもはいつでも答える準備ができております。「わたしは、主人の帰りを待っているのです」。このお方のことを証しする。それが教会の務めです。しかもこの主人というのは、教会に属する私どもだけの主人ではなく、すべての人の主人であります。
36節によれば、この主人は、婚宴から帰ってきます。ちょっと余計なことを申しますと、「婚宴」という言葉は、私の調べた限り、どの辞書にも載っていない言葉で、もう少しふつうの言葉で訳せないかと思いますけれども、つまり結婚披露宴ですね。なぜ結婚の祝いの席に譬えられたのか。これはちょっとよくわからない。ただ、当時の結婚披露宴はたいへん長い時間がかかったそうです。3時から6時までで終わり、ということはなくて、38節に「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」とあるように、いつ帰って来るか分からない。そしてこの、いつ帰って来るかわからないというところに、私どもの教会の主イエスの再臨の信仰の難しさというか、分かりにくさがあると思います。おそらく皆さんの中にも、教会の信仰の中で特に分かりにくいのが再臨のことだと思っていらっしゃる方があるのではないかと、私は率直にそう思っています。主イエスが再び来られるって、どういうことだろうか。どうもちょっと分かりにくい。むしろ、死んだら天国に行って、それで救いは完成。そっちの方がずっと分かりやすいと思っていないでしょうか。「わざわざもう一度来ていただかなくても……」ということにさえ、なるのです。正直に申しまして、私どもの日常の生活の中で主の再臨の気配を感じることはないのです。
新約聖書について少し勉強いたしますと、このことが教会の歴史の最初から問題になっていたのだということを学びます。ほとんど常識のように教えられることがあるのです。主イエスがお甦りになり、天に昇られた、その当時の人たちは、主イエスが再び来るということは、本当にすぐに起こることだと考えていたようです。教会が伝道を始めて、洗礼を受ける人が次々と起こされて、少なくともその洗礼を受けた人たちが死ぬ前には、主イエスは必ず来てくださるだろう。ところがどうもそうではないということに気づき始めます。主イエスを信じて洗礼を受けたのに、主イエスが来られる前にあの人もこの人も死んでしまったではないか。十二使徒さえ死んでしまったではないか。そのことがとても切実な問題になった。これを、新約聖書について勉強するとすぐに覚える言葉があって、「再臨の遅延」などと申します。「遅延」などという言葉は、電車が遅れたというような場面でしか使いませんけれども、別に神さまが遅延なさったわけではない、人間の予想が違っただけです。新約聖書が書かれたのも、要するに、主イエスの再臨が思いがけず遅かったからだと説明されるのです。最初は誰も、福音書など書こうと思わなかった。けれども10年経ち、20年経ち、このままではまずい、早いところ大切なことは書き残しておかなければ、と考えて書かれたのが新約聖書だと、そのように説明されることがあります。そのようにして教会は、それからなお2000年近く、その営みを続けてまいりました。まだ主イエスは来られない。けれどもそれは、主イエスの再臨がますます疑わしいことになったということを意味するのではありません。
主イエスはここで明確に、主人の帰りを待ち続けることを求めておられます。主人を待つ心がなくなってしまうことに対して警告を発しておられます。45節で、「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」と、そう言うのです。
主イエスの再臨を信じなくなると、何が起こるか。主人の帰りは遅い。いや、もう帰って来やしない。そう思う時、何が起こるのか。世界の主人は自分たちだと思い込むようになるのです。特に現代人は、主イエスの再臨なんか信じなくなった。そう言ってよいでしょうか。もしかしたらそういうところがあるかもしれません。それならば、なおさら気をつけなければなりません。もう一度申します。自分が主人だと思い込むのです。そして、「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うような」、たいへん自分勝手なことをし始める。それが倫理的に、道徳的にけしからんという話ではないのです。本当の主人を忘れるなと言われたのです。
今日私は、3週間ぶりにここに立っています。3週間も間を空けますと、ここに立って説教をさせていただくということがどんなにありがたいことかということを改めて思いますけれども、前回私がこの場所に立って説教した時に、ルカによる福音書第12章の13節以下を読みました。「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれる、主の言葉を読んだのです。自分の畑が豊作で、もうこれでしばらくは遊んで暮らせるかと思うほどの蓄えができたひとりの金持ちが、さあ、これで安心だと自分に言って聞かせている時に、思いがけず神の声が聞こえる。「お前は本当に馬鹿だ。今夜、お前は死ぬのだ」。要するに、この金持ちは、酔っ払っているだけだと、主イエスはおっしゃりたかったのだと思います。正気ではなかったのです。
前回の説教でも申しましたことですけれども、この「愚かな金持ちのたとえ」が、私どもにとって実に忘れがたいものであるのは、どこかこの愚かな金持ちが自分に似ていると思うからです。とても分かりやすいたとえであり、しかしまた、非常に分かりにくい言葉だと思います。なぜ分かりやすくて分かりにくいのかと言えば、要するにこの金持ちがわたしに似ているからです。酔っ払っていい気持ちになっているところに、思いがけず冷や水を浴びせられるような、そういう鋭さを持った聖書の言葉です。「さあ、これで何年も遊んで暮らせるだけの貯えができたぞ」。自分の貯蓄の額を眺めながら、それに酔うこともできる。自分の到達した社会的な地位に酔うことだってできる。自分の築いたささやかな家庭の幸せに酔うこともできる。けれどもそのように酔っ払って、あるいは眠り込んでしまっている姿を主イエスはこのように描きながら、私どもに語りかけてくださるのです。酔っ払っていませんか。何か大切なことを忘れてはいませんか。
じゃあ、起きているって、どういうことでしょうか。待つべき方を、忘れないということです。この世界の主人はわれわれ人間だという、幻想を捨てることです。「誰も帰ってなんか来ない。この家は自分たちのものだ」。既にこの世界全体が、そういう迷いの中に落ち込んでいるし、教会もまたその錯覚に誘われてしまうかもしれない。けれども、本当は、教会がこの地上に建てられているのは、「違う、この世界は神のものなのだ。この世界の主人は、いつか必ず帰って来られるのだ」と告げ続けるためです。そのことによって、この教会が、確かなともし火となるのです。
私が今日の説教の準備をしながら、やはり何と言っても繰り返し、触るように読み返したのは、先ほども読みました45節の言葉です。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば」。実際にこういう主人がいると思います。そして自分自身がそのような主人になってしまうことがあると思います。しかしそれは本当の主人を忘れた人間の姿でしかありません。私はそこで改めて思うのですが、私どもは、他人の奴隷になることを好みません。みんな、自分が主人になりたいと思っています。支配されるよりも、支配することが幸せだと思っています。他人の言いなりになるよりも、自分の思い通りに生きることが幸せだと思っています。だいたいここに出てくる「主人」などという言葉が死語になり始めています。夫のことを主人と呼びたがらない人が増えているのも、当然のことのように受け止められています。それはまあ、結構なことかもしれません。けれども、私は思うのです。なぜ私どもは、主人という言葉をそんなに嫌うのでしょうか。まだ本当の主人に出会っていないからではないでしょうか。「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うような」、極端な言い方をすれば、こういう主人にしか出会ったことがないからではないでしょうか。だからこそ、たとえば結婚式などでも、「互いに仕え合いなさい」とか、「夫は妻のかしらです」などという言葉に、アレルギー反応を示す人があるのだと思います。けれども私どもは、本物の主人に、もう出会っているはずです。このお方になら、喜んで支配していただきたい。このお方になら、喜んでその僕にさせていただきたい。この主人とは、いかなる主人なのでしょうか。
37節で主イエスは、たいへん不思議なことを言われました。
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
さあ、やっと主人が帰ってきた。そら来た、ご主人さまのために働こう、と思ったら、この主人は、「あなたがたは休んでよろしい。食事の席に着きなさい。わたしがあなたがたのために、食事の準備をしよう」。そういう主人だったのであります。しかも、私どもは、このような主のお姿を、初めて知るのではありません。
誰もがそこで思い起こすことがあります。ヨハネによる福音書第13章の最初のところで、主イエスが十字架につけられる前の晩、主イエスはご自分が、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。そこで主イエスが何をしてくださったかというと、弟子たちの足をひとりひとり洗ってくださったのであります。弟子たちにとって、その主イエスの仕草は忘れられないものとなったと思います。食事の席で突然立ち上がり、いったいこの方は何をなさるのだろうと思っていたら、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、それを腰にまとわれ、たらいに水を汲み、その水で弟子たちの足を洗った、その水の音さえ、弟子たちは忘れることができなかったと思います。その時の主イエスの手の感触、その主の手のぬくもりをも忘れることができなかったと思います。息を飲むような思いで、「この方は、いったい何をしておられるのだろうか」。そう思ったところで、主イエスは言われました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。そして事実、あとになって分かるようになったのです。「わたしは、愛されているのだ」。あの主イエスの仕草、あの主イエスの手のぬくもり……わたしは、あのお方に愛されたのだ。
そして、そのように主が弟子たちの足を洗ってくださったその席上で、最初の聖餐の食卓が祝われました。そして今も祝い続ける。そこで私どもが思い起こすことがあります。わたしも、あのお方に足を洗っていただいたのだ。そしていつかもう一度、主イエスが来てくださる時に、このお方はあの時と同じように、私どもに仕えてくださるのだ。今、私どもが聖餐の食卓を囲んで「マラナ・タ」と歌うのは、この主イエスの愛を待ち焦がれるような思いで、この歌を歌うのです。「主よ、早く来てください」と歌いながら、「いつでもあなたにお仕えする準備はできております」と言いながら、けれどもまた私どもは、このお方に仕えていただく喜びをここで知るのです。その畏れをもここで知るのです。そこに私どもの生き方も定まってまいります。
主イエスの再臨の信仰は、やはりどうも分かりにくいところがあると申しました。私が思いますのに、その分かりにくさのひとつの理由は、主イエスの再臨が、裁きと結びついていることだと思います。使徒信条もはっきり申します。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」。そして、たとえば今日読みましたルカによる福音書第12章にも、そういう裁きの厳しさを匂わせるような言葉がいくつも見つかります。そんな裁きなんて、ないほうがありがたいとどこかで思っていないでしょうか。
たとえばこういうことを考えていただいてもいいと思います。この1週間、いや2週間、3週間、今日のために説教の準備をし、この主イエスの言葉を何度も読みながら、ああ、主イエスは再び来られるのか、と思いながら……その間にも、いろんなことがありました。いろんな出会いがありました。いろんな言葉を語り、いろんなことをし、またいろんなことをしませんでした。さまざまな出会いがあり、さまざまな心の動きが生まれました。そういう時に、改めてこの聖書の言葉に立ち戻った時に、「今、イエスさまが来られたら、ちょっと困るな」。私も時に、そういう思いに捕えられないわけではないのです。ちょっと誰かと仲違いしているような時に、今イエスさまが来られたら、非常にタイミングが悪いな、と思ってみたり、ちょっと機嫌がよかったりすると、主イエスよ、いつでも来てください、お待ちしております、と思ってみたり……。
けれども、ここは大切なことですから、声を大きめにして言いたいと思いますけれども、終わりの日に再び来てくださる主イエスというのは、今まで私どもが出会ったこともないような主イエスが来られるわけではないのです。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。考えてみれば、最初から、主イエスはこういうお方だったのであります。弟子たちの足もとにひざまずき、その足を洗ってくださったお方です。それとは打って変わって、急に厳しいイエスさまが来られるわけではないのです。
ただここで、主イエスがほとんど警告のような言葉を発しておられるのは、要するに、そのようなわたしの姿を忘れて酔っ払うな、ということです。あの愚かな金持ちのことでも思い出せばいいのです。私どももそのような愚かな金持ちになってしまうことがある。けれどもそこで私どもが忘れているのは、わたしはあのお方に愛されているという事実でしかありません。そのことを忘れて酔っ払うな。そしてそのように、酔っ払わずに生きるあなたがたの存在が、この地上にあって確かなともし火となるのだと言われるのです。
もうひとつ、私が説教の準備をしながら、心に食い込んでくるように思いましたのは、47節です。
主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
「主の思いを知りながら……」。こう語られながら、既に主は、「あなたがたは、わたしの思いを知っているね」と、弟子たちに念を押されたのではないかと思います。そしてその主人の思いをよく知ってもらうために、主イエスは弟子たちの足を洗われたのであります。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたのです。私どもも、もう分かっているのです。
しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。
これだけ読むと、主人の思いなんて知らない方がよかったのではないかとさえ思ってしまいそうです。しかし、そんなことはもう、私どもには考えられないことです。私どもは、主の思いを知っている。それは言い換えれば、既に「多く与えられた」ということです。そのことにまさるさいわいは、ないのであります。
私どもは、主の思いを知っております。私どもは、このお方に愛された主の僕です。このような主人に、他のどこでも出会うことはできません。僕を愛し、僕の幸せに全責任を負い、そのために命まで捨ててくださったお方です。その主人の思いを、私どもは知っております。そのお方に出会うとき、私どもは酔っ払った生き方と決別します。あの愚かな金持ちのような生き方とは決別します。ただこのお方に愛されていることを重んじ、思い煩いを捨てて、恐れを捨てて、愛の労苦に生きるようになるのです。そして主を待ち続ける。
そのことによって、教会は、この地上にあって、確かな光をともす「ともし火」となります。そのともし火を見て、気づく人は気づくのです。「なぜあなたはこういう生き方をするのですか。ああ、そうか、あなたは、主人を待っているのですね」。「そうです。わたしは、本物の主人に出会うことができたのです。そして、どうぞあなたもご一緒に!」 私どもの教会の伝道というのは、そのようなところから始まるのだと思います。ここに、酔っ払わないで生きる道がある。主が、さいわいだ、さいわいだと繰り返し語られた、私どものさいわいな生き方が、ここに開かれるのであります。この聖餐の食卓において、そのことを、もう一度目覚めた思いで思い起こさせていただきたいと心から願います。お祈りをいたします。
今は私どもも、あなたの思いを知っております。命をかけて、あなたの御子はその思いを伝えてくださいました。そのあなたの思いを知る者にふさわしい歩みを、どうぞ今、新しく造らせてください。腰に帯を締め、ともし火を掲げて、この世界にあって確かな望みの光を輝かし続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン