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父と母を重んじる

2013年5月12日

出エジプト記20章12節
大澤 正芳

主日礼拝

本日は母の日であります。この日は、1908年にアメリカのメソジスト教会でアンナ・ジャービスという女性が、自分のお母さんのことを記念して、その母の追悼式に白いカーネーションを教会に集まってくれた人々に配った、そのようなことから始まった全ての母の愛と労苦に感謝し、敬意を払う日であります。この母の日に、全く意図せずに「あなたの父母を敬え」との、第五の戒めを共に聴くことになったということに、神様の不思議なご配慮を感じております。私たちは、母を記念するこの日、神様の言葉を通してキリスト者として、ふさわしく父母を敬うことを学びたいと願います。

さて、十戒は、出エジプト記31章18節によれば、二枚の石の板に刻まれたものでありました。聖書には、十の戒めのうち、どこからどこまでが第一の板に記されており、どこからが第二の板に属するものであるかを語ってはいませんが、しかし、その内容からいたしまして、私たちと神様との関係を語る第一から第四の戒めまでが第一の板に書かれていたものであり、私たちと隣人との関係を語る今日聞き始めました第五の戒めから後ろが、第二の板に書かれていたものではないかと考えられています。私たちは神様との正しい関係を何よりも最初に学ぶのであります。そして、神様と私たちの関係が明らかになった上で、その据えられた土台の上に、はじめて隣人との正しい関係を築いていくことになるのであります。

さてしかし、私たちと隣人との関係を語り始める後半の最初の戒めとして置かれるこの第五戒は、ひょっとしたら、私たちに違和感を与える戒めであるかもしれません。私たちが隣人との正しい関係を築くために、何よりもまず聴き、重んじなければならない最初の戒めとして置かれているのは、「あなたの父母を敬え」との教えであります。正直に申しまして、現代に生きる私たちの感覚からすれば、もっと大事な戒めが他にあるのではないかという気がいたします。具体的には、「父母を敬え」と語られる前に、次の第六の戒めである「殺してはならない」という戒めの方が、先に来るべき基本的な、大事な戒めではないかとそのように思わされるのです。

置かれる順番は関係がない。神様が語られる戒めは、優劣つけがたいどれも大切な戒めであるとも言えるかもしれません。第二の板の中の順番は、それほど気にする必要はないとも言えるかもしれません。しかし、宗教改革者ルターは、はっきりと、「われわれの隣人を対象とするもので、その中で第一にして最高のものは、『あなたは、あなたの父と母を敬え』である」と、そのように言いました。そして、この戒めは、どんな修道院生活にも勝る、どんな難行苦行にも勝る、聖なる行いであるとそのように結論付けました。

私たちは、しかしこのような結論に違和感を覚えないわけにはいかないのではないでしょうか。私は、古代イスラエルにしろ、ルターの生きた中世にしろ、彼らの生きた時代・世界は、私たちの生きる時代・世界とは異なり、長幼の序というものを大切にした封建的な社会であり、隣人との関係を語る戒めにおいて、「父母を敬え」との戒めが第一の位置を占めているというのは、そのような時代の限界のある価値観を反映しているのではないかとさえ思ってしまいます。親や目上の者を敬わなければならない。それに従うためには、白いものでも黒いと言わなければならない。そのような実践をすぐに連想させるこの戒めは、少なくとも隣人との正しい関係を私たちが築くために、最も大切な戒めとして第一に聞かなければならないものとは、直ぐに私たちの腑に落ちることはないと思うのです。

しかし、実は、「あなたの父母を敬え」という戒めは、聖書学者たちの研究によれば、また丁寧に聖書の語る言葉を見ていけば、この戒めを聴いた最初の人々にとって、隣人の命を保護するその戒めよりも大切であった戒めというわけではなく、実に、私たちの最も身近な人間の命の保護を命じる戒めであることが明らかになります。すなわち、この戒めは通常私たちが考えるように、幼い子どもが自分の父母の言うことに服従するよう求め、教育する言葉ではありません。そうではなくて、この戒めは父と母に守られなければ決して生きて行くことはできない幼い子どもに向かって語られているのではなくて、第一には成人し、財産を受け継ぎ、社会の第一線に立って活躍する、力に満ちた大人に向かって、語られている戒めであるのです。そのような者たちにこの戒めが向けられて語られる時、父と母を敬うということは、年老いて、財産を子に譲り、自分の手で働き、生きる糧を得ることのできなくなった年老いた両親を、責任を持って養うということであります。

昔は、当然、現代のような社会保障制度はありません。年金などはないのです。老人の生活は、成人した息子の肩にかかっていたのです。

「敬う」という言葉は、原語を見ますと、「重い」、「重くする」という意味を持つ言葉です。「父母を敬う」とは、言わば、年老いて労働に耐えられなくなって、それゆえに社会においても軽い存在とみなされ、そうなっていく他ない年老いた両親を、重く扱うこと、決してないがしろにせず、尊敬を払って、その命を支えることを意味したのです。働きによらず、能力によらず、その両親を重んじることを命じる戒めは、老人の命の尊厳を高らかに強調する戒めなのです。ですから、この戒めに付けられた「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という言葉も、単に約束であるだけでなく、この戒めを守った結果生じる当然の帰結であると言えるかもしれません。年老いた者を大切にし、家族が責任を持って養い続けていくことができる社会が代々と続いて行けば、自分が年老いた時にも物心両面から支えられ、その命が重んじられ生きることが保証されるのであります。

けれども、もう一歩踏み込んで問いたいと思います。私たちの父母は、私たちが親に頼らなければ生きては行かれなかった幼い子どもであった時だけではなく、私たちが成人した後も、私たちが親を養う立場になっていったとしても、決して軽い存在であったことはないのではないか? ということを、まず問い、認めたいと思うのです。それは、年老いた親の介護が、自分の生活に重くのしかかっているということではありません。親の重さというものは、その親を介護しなければならない働き盛りの男女にだけ関係あることではありません。子どもから大人にいたるまで、自分自身が齢を重ね、老年期を生きている者にとっても、関係のある重さであります。

私は神学生の頃から、少し幼児教育に関心がありましたが、娘を与えられてからは、いよいよ頻繁に、幼児教育や育児に関する本を手に取るようになりました。そして、どの育児書もどの幼児教育に関する本も、共通して語ることなのでありますが、人間の人格、あるいは価値観、人生観の形成に、幼い頃の親や、親に代わる者の関わりが、決定的に力を及ぼすのだと語っているのであります。そのようにして手に取ったある本の一つに、ある精神科医が書いているのですが、人生の終わりを私たちが感謝を持って迎えるためには、いくつかの通らなければならない、成長のステップがあると言います。そして、その第一歩は、乳児期に親やその代わりになる人に、私たちが徹底的に受け入れられ、愛されたという経験が何よりも大切であると語っています。一方的な愛を注がれることによって得られた親への基本的な信頼が、人生は素晴らしいものであるとの確信を、生涯にわたって私たちに与え続けると言うのであります。私は、幼い子どもを育てる親として、本当に責任の重さを感じざるを得ません。私たち夫婦のこの一、二年の関わりが、娘の人生観に決定的な影響を与えるということを、恐れを感じて受け止めますし、しっかりと肝に銘じたいとそのように思います。

このような点からいたしましても、父母は、ここにいる私たちの誰にとっても、決して軽い存在ではないとそのように思います。重い存在であります。良い影響も、望ましくない影響も、いずれにしても、大きくて重いインパクトを父母は私たちの人格と生涯に与えてきましたし、既に、そのような父母が召され、この世からいなくなっているとしても、今なお影響を与え続けていると思います。もしも今、私たちがこの人生を、感謝を持って受け入れているとするならば、それは、親の与えてくれた良い影響を受けているのであり、人生にもしも喜びを感じていないならば、やはり、親の与えた悪い影響を受けているのかもしれません。

私たちは残念ながら、生まれてくる家を選ぶことができません。肯定してくれる親の家に生まれたいと思っていても、私たちの人生を否定するような親の元に生まれてきてしまうこともありえます。ですから、「あなたの父母を敬え」とのこの戒めは、私たちのうちのある者にとっては、自然で簡単な、当然、当たり前のことだと思える戒めであるかもしれませんが、しかしまた、私たちのうちのある者にとっては、煮え湯を飲まされるような思いで向き合わなければならない戒めともなるのであります。もしも、私たちの生みの親、育ての親が、私たちを全面的に肯定し、愛し、受け入れてくれるような親であったならば、私たちは自然とその父母を敬うのではないでしょうか。しかし、そうでないならば、私たちを受け入れてくれず、否定し、責め続けてきた父母であるならば、その父母を重んじ、敬えとの戒めは、私たちの命を延ばすのではなくて、私たちをその影響下に引き戻し、私たちの心を殺してしまい、むしろ、私たちの命を縮める戒めにすらなってしまうのではないでしょうか?

御言葉は、ただ「父母」と語ります。どのような父母であるかを語りません。それは、どんな親であれ、父母は無条件に重んじ、敬われなければならないということでしょうか? 今日共にお聴きました新約エフェソの信徒への手紙6章1節-3節は、第五の戒めを引用する新約の御言葉であります。私たちが聴いております出エジプト記に記された戒めよりも、十戒が記録されているもう一つの箇所、すなわち、申命記に記された方に近い形で引用されています。そして、この御言葉には、この戒めには、申命記に倣ってこれを守る時、従う時、私たちを幸福にする戒めであると約束されています。この戒めは、私たちを抑圧し、殺す戒めなどではなくて、私たちを幸福にする戒めだとはっきりと語られています。

この6章3節の直後の4節が、今さらながら、大切であった、それもまた引用すべきだと気付きました。私たちが敬うべき父母の片方である父に対して、この戒めを引用した後に、4節の御言葉がこのように語ります。「父親たち、子どもを怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」と。子どもだけではなく、父に求められています。そして、その御言葉は、子どもに幸福を与える親が、どのような親であるかを語っているように思います。子どもがその父を敬うことによって幸福になる父は、子どもを怒らせない父、主なる神様が、私たちをしつけ諭されるように神様に倣う者として、神様の代理として子どもに接することのできる父であります。そのような父母は、当然敬われるべき父母であり、当然子どもを幸福にしてくれる父母であります。

それは、新約だけではありません。旧約においても同じです。親が私たちにとって尊敬の対象であるのは、実に、私たちを奴隷の家から導き出してくださった神様の御意志を私たちに伝える存在であり、神様の救いを私たちに語る者であるからこそ、重んじられる存在であるのです。十戒は、その前文が明らかにしているように、イスラエルの民を奴隷の家から導き出してくださった主なる神様の救いの御業を、世代から世代へと語りつぎ、二度と奴隷の家に戻らないように、神様の与えて下さる自由にその民が生き続けることができるようにと、与えられた神様の自由を楽しむための自由の道しるべなのであります。それゆえに第五の戒めも、子を親の奴隷とする戒めではなく、神様の下さった自由を語り伝えてくれる親を重んじることによって、神様の与えて下さる土地で、自由に生きることを子々孫々に約束する戒めであります。

ところが、私たちは知っております。神様のような親などいないのです。神様の祝福を伝えてくれる父母ばかりではないのです。神のような父母であるならば、子どもは幸福になります。けれども、神のような父母はいないのです。私たちの父母は、神のような父母ではなく、また、私たち自身も子どもたちにとって、神のような父母ではありえないことを知っています。そうであるならば私たちを幸福にするはずの神の戒めは、私たち人間の欠けと、罪のゆえに、私たちが決して味わうことのできない幸いを前に、呪われた存在である自分と自分の家族を見つめさせるだけの罪の鏡として機能しているでしょうか? 御言葉に語られる幸福な家族の姿は、私たちの罪の故に、絵に描いた餅にすぎないのでしょうか?

そうではありません。私たちは、宗教改革者たちが語ったように、貧しく、弱く、罪深く、風変わりな父母であっても、父母を敬い、重んじることができます。この父母を敬い、重んじることによって、鎖で縛りつけられ、命を削られるのではなくて、命を得、神が賜る地で幸福に生きることができます。

父母を敬うことができるのは、新約においても、父母がどういう者であるかは、第一義的には問題とはなっていません。エフェソの信徒への手紙6章1節が語るように、子が父母を敬うことができる根拠は、親以上に、子が主に結ばれているからなのです。主に結ばれる時、私たちはどんな父母でも敬うことができるようになります。なぜならば、たとえ生みの父母、育ての父母が、私たちを受け入れてくれず、お前など生まれて来ない方が良かったと、暗に、あるいはあからさまに語ったとしても、私たちは、神様に望まれたから生まれてきたのだということを確信できるからです。たとえ、父母が、お前には価値がなく、失敗作だと、暗に、あるいはあからさまに語ったとしても、そして、事実、私たちが誰の目から見ても、とりわけ自分自身の目から見ても、やはり私は失敗作のような人間だと思ったとしても、神様は、この私たちの醜さをすべてご存知の上で、それでもなお、私たちを愛して下さることを私たちは確信できるのです。たとえ、父母が、私たちが生まれてくることを望まなかったとしても、神様が私たちの存在を望んでいて下さる。だから、生まれてきたのです。両親が信仰者であろうが、なかろうが、神様の救いを語り聞かせてくれた親であろうが、なかろうが、受け入れてくれた親であろうが、否定する親であろうが、私たちの父母は、天地の創られる前から、私たちを選び、あなたがこの世界に存在したらどんなに素晴らしいだろうかとそのように願って下さった神様の、愛の御意志を具体化し実現するためにこそ選ばれた神の器であったのです。

ですから、父母を重んじるということは、私たちを呪い、殺すためではなく、私たちを祝福し、生まれさせるために、私たちを御子に贖われ、神の子として歩ませるために、そのようにするために、天地を造られる前から私たちを選び、この世の生を与えて下さった神様のその御愛を重んじることに他なりません。生涯の全ての場面において、神様にそのようにして重んじられている私たちであることを認めることに他なりません。御言葉は語ります。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」と。それは、長寿の約束であると同時に、しかしそれ以上に、私たちが父母を、ただ、私たちを存在させ、愛するために、神様が用いて下さった器だと認めることによって、そのような神様の器としての父母を認め、重んじることによって、私たちの生涯のどの場面を切り取っても、そのただの一瞬も、私たちの神、主の愛のご配慮の外にあった場面などはなかったということに気付かせる、そのような約束の言葉であるのです。

この神様の御愛を疑う必要はありません。私たちに命を与え、幸福を与えたいと願われる神様の御意志は、御子イエス・キリストの十字架において、神を裏切り、殺す私たちの無価値さ、無能さ、罪が現れたその場において、その罪を乗り越えて、その罪を赦すことによって、正に貫徹されたことを私たちは知っているからです。神様は父の愛を疑い、放蕩の限りを尽くす息子の帰りを待ち続け、まだ遠く離れているのに、変わり果てた息子をそれでも見つけ出し、イスラエルの父としては異例に、ぶざまにも走り寄り、抱きしめて下さる放蕩息子の父として、私たちを愛し抜いて下さいます。イエス様の十字架に示された、徹底的に私たちを祝福される神様の御愛を取り去ることの出来るものなど、この世のどこにもないのです。私たちはこの愛を知るゆえに、この人生は神様が下さった人生であり、それゆえに素晴らしい人生だと感謝することができます。

はじめに、神との関係から、隣人との関係を語る第二の板に記された戒めの始めとして、殺人を禁じる以上に、父母を敬うことを求める戒めは、何か違和感を与えると申しました。しかし、そうではありませんでした。本当に、隣人との正しい関係を私たちが築くために、神様との関係の次にどうしても聞かなければならない戒めは、この第五戒であると今は、はっきりとわかります。この戒めは、私たちの父母がどのような者であろうとも、その父母は神の器であり、神様が私たちが存在したらどんなに素晴らしいだろうかと願われ、用いてくださった祝福の器であったことを認め、私たちを愛して下さる神様の御愛を、それによってまず、しっかりと受け止めるようにとそのように招いている戒めであるのです。

私たちは父母を重んじることによって、神様が重んじて下さる自分を見るのです。主イエスは、第二の板を要約して、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイによる福音書22章39節)と教えられました。他者と比べて自分がすぐれているか否かというところに根差した、歪んだ自己愛ではなく、ただ恵みのゆえに、憐れみのゆえに、一方的に愛して下さる神様のゆえに、私たちは重んじられ、大切にされている愛された者である。そのことを知ることから、健やかに自分を愛することから私たちは始めなければならないのです。このような私たちが、父母を重んじ、そして子どもを育てることができたら、どんなに素晴らしい家族がそこに生まれることでしょうか? 私たちも、父母と同様に祝福の器として用いて頂けるのであり、しかも、私たちは、そのことをはっきりと知っているのであり、その祝福を子どもたちに語ることが許されているのです。自分の子どもだけではありません。まだ、自分の人生が、神様に望まれて生まれてきた人生だと知らない子どもたちにも、大人たちにも、そればかりか私たちの父母にも、老人たちにも、この祝福を告げることが私たちにはできます。先に選ばれ、神様の御愛をいっぱい受けて、神様と神様の下さった世界を信頼する者とされている私たちは、若い者にも、年を重ねた者にも、その者たちを重んじ、祝福する祝福の基となることができるのです。神様のこの御愛を、祝福を、語り伝える私たちでありたいと思います。そのようにして下さる神様に感謝の祈りを捧げたいと思います。

主イエス・キリストの父なる神様、ここにいる誰もがあなたに赦され、愛され存在している者であります。天地の造られる前から私たちがこの世界にいたら、どんなに素晴らしいだろうかとあなたが願い、そのように意志してくださったからこそ、私たちが父母のもとに生まれてきたことを思います。どうぞ、誰にも取り去られることのできないあなたの御愛を、いよいよ私たちが味わい、確信し、私たちもまた出会うすべての人々にこの祝福を語り続ける祝福の基となることができますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン