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ここに、救いが見えているのに

2013年4月21日

ルカによる福音書第11章29-36節
川﨑 公平

主日礼拝

以前にも説教の中で紹介したことがあったかどうか、ちょっと記憶が正確でないのですが、私が牧師として、いろんな人の結婚式を司式することがあります。先月もこの場所でひとつ結婚式をいたしましたし、今も一組、今年中に結婚式をしようと準備をしている方がいます。そういう準備をする時に、いつも私が用いている書物があるのです。キリスト品川教会という単立の教会の牧師の書いた、『ふたりで読む教会の結婚式 大切な12のこと』という書物です。もちろん私が牧師として、責任をもって指導をしなければなりません。結婚の意義について牧師として言葉を語らなければならない。けれどもある時から、自分の言葉で指導するのをほとんどやめたのです。他の牧師が書いた一冊の書物をふたりに渡して、これを読んでほしいと申します。もちろんこれから結婚しようというふたりを牧師室に迎えて、私と一緒に、つまり三人で、その本の最初のところだけをちょっと読んだりしますけれども、全部を三人で読むということはしない。「それでは、あとはふたりで読んでおいてくださいね」でおしまい。とても楽になりました。こう言うと、どうもさぼっているように聞こえますが、この方法が今のところ一番だと思っています。なぜかと言うと、こういうことが大事ですよ、ということを牧師が話しても、なかなかそこで深い話しにはなりにくいですよね。やはり牧師は他人ですから。けれどもふたりに本を渡して、牧師も誰もいないところで、ふたりだけで話し合ってもらう。そうすると、ほかの誰にも話せないようなことをゆっくり話し合うことができます。そういうことは、本来、牧師にだって話す必要のないことです。けれども、ふたりできちんと話しておくべきことです。それを結婚前に、きちんとしてほしい。ですから私は、結婚準備会と称して、2回、3回と回を重ねても、「もう読みましたか」「ちゃんと話し合いましたか」ということを確認するだけです。ふたりとも読もうとしないということはまずありません。1回目にその本を渡して、2回目に会って、女性のほうはちゃんと読んだけれども男性のほうは読んでいないということも起こり得るわけで、「ちゃんと読みましたか」「ええ、まあ」「ええ? あなた、まだちゃんと読んでいないじゃない」ということにもなる。ごまかしがききにくいものです。鎌倉に赴任しましてまだ3年ですけれども、既に10組の結婚式の司式をいたしました。少なくとも20人がこの本を読破しているはずです。とてもいい本で、若い人にも高齢の方にもお勧めしたいと思っています。

たとえば、こういう話があります。夫婦の間で、きちんと愛を伝え合うことが大事であろう。「愛しているよ」というようなことを、何らかの形で表現すべきだ。その点、どうも日本人は、ヨーロッパやアメリカの人たちに比べて苦手なところがあるだろうと、その本もはっきり書いています。本当にあった話かどうか分かりませんが、こういう夫婦の会話が紹介されています。「あなた、もうわたしを愛していないのね」「そんなことはない、今でも愛しているよ」「だって最近は、『愛してる』って言ってくれないじゃない」「そうかな、確か5年前に言ったはずだ」「もう5年も前じゃない」「あれ以来、取り消していないから、あの言葉がまだ有効なんだ」。夫婦の間でこそ、愛を伝える努力が必要だと言います。

けれども、この本を書いた牧師は、ただ手放しでアメリカ人を称賛しているわけでもないのです。なるほど確かに欧米人のほうが、アイラブユーとか何とか、毎日言い合っているであろう。けれども、なぜその人たちのほうが日本人に比べても圧倒的に離婚する率が高いのか。長くアメリカに暮らしたことのある人に、率直にそのことを尋ねてみたそうです。「お互いに不安があるからでしょう」という答えが返ってきたそうです。積極的に言葉や行動で愛を示さないと不安になる。しかしこういうことは、もちろん夫婦の関係に限ったことではないのであって、たとえばその質問に答えた人がこういうことも言っていたそうです。アメリカで長く働いていた時に、ひとつ苦労だったことは、部下を使って仕事をするというときに、その部下の仕事を自分がどう見ているか、どう評価しているかということを、いちいち言葉や態度で示さなければならなかった。それが結構たいへんだったと言うのです。いろいろなことを考えさせられる話です。

この本を書いた牧師は、そこで、それならやっぱり日本人従来のやり方で、あまり愛しているとか何とか、そういうことは言わないほうがいいのだ、と言うのでもないのです。きちんと愛を伝え合おう。これは大切なことだとはっきり言います。けれども、その愛とはいったい何か。愛の表現が不安の表現にすり変わったら困るのです。不安の表現ではない、本当の愛とはいったい何か。「愛することは、信じることだ」と、そう言うのです。

同じ書物の別の文脈で、こういう言葉が出てきます。「愛は証拠を求めません」。これも心に残る言葉だと思います。証拠を求め始めた時点で、その夫婦は既に間違った道に入り込んでいる。「証拠を求める」というのは、「相手を採点する」と言い換えてもいいと思います。この人は0点だとか100点だとか、50点とか70点とか、「品定めをする」と言い換えていくこともできると思います。不安だから、証拠を求めるのです。その証拠に基づいて、この夫には愛がない、この妻には愛がないと判定を下す。品定めをする。けれどもそこで既に何かが間違っています。これはどんな人間関係でもそうです。しかも私どもは、よく考えてみれば、始終周りの人の品定めをしながら生きているようなところがあると思います。この人はいい人かな、悪い人かな。この人と付き合って、いいことがあるかな、悪いことがあるかな。いつも心はその点に向かう。けれどもそれは不幸なことです。この子はいい子か、悪い子かと、いつも親から品定めされていると感じて育つ子どもは不幸です。自分が周りの人からどう評価されているか、そのことに捕らわれて生きるということはやっぱり不幸です。「愛は証拠を求めません」。愛するとは、信じることなのです。そしてその結婚についての書物を書いた牧師は、その愛をきちんと表現しようと言うのです。不安の表現ではなくて、証拠を求める表現ではなくて、「わたしはあなたを愛している」「わたしはあなたを信じている」。その愛の表現は、証拠を求める態度とは全く違ったものだ。そういうことだと思います。

今日は、ルカによる福音書第11章の29節以下を読みました。「群衆の数がますます増えてきた」。そう始まります。この「ますます増えてきた」と訳されている言葉は、かつて用いられていた口語訳聖書では「群がり集まった」と訳されました。ただ数がいっぱいいるというだけではなくて、そのたくさんの人たちが一点を目指して集まって来る。そういう様子を伝える言葉です。何を求めて集まって来たのでしょうか。その人びとが集まって来た、その中心にいたのは主イエスです。

その群がり集まって来る群衆の姿をじっと見つめながら、その人びとの目を見つめながら……けれどもそこで主イエスが語り始められた言葉は、なかなか厳しいものでありました。「今の時代の者たちはよこしまだ」。もっとはっきり言えば、「あなたがたは邪悪だ」と言ったのです。この「よこしま」という翻訳はとても適切なものだと思いますけれども、もっと単純に訳せば、「悪い」という言葉です。今日はふたつの段落を続けて読みましたけれども、その後半の段落の34節にも同じ言葉が出てきます。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」。この「濁っている」と訳されている言葉も、単純に訳せば、「(目が)悪い」という言葉です。何かを求めて集まって来た群衆。けれどもその目は、どこか濁っていた。よこしまな目つきであった。

この「悪い」という言葉は、これは何ということもない、ギリシア語の初歩の初歩で学ぶ単語ですけれども、ふとしたことで先週、この言葉について新しいことを知りました。もともと、「苦労」「労苦」という言葉から派生した形容詞です。その悪さのために、自分が労苦、痛みを負わなければならない。そういうニュアンスを持つ言葉です。昨日、賞味期限を大幅に過ぎたおにぎりを食べながら説教の準備をしていたところで生まれた連想で恐縮ですが、たとえば食べ物が悪くなるというときにもこの言葉を用います。もしこのおにぎりが悪くなっていたら、あとで自分がたいへんな苦労を背負い込まないといけない。実際には平気だったのですけれども。主イエスがここで、「この時代は悪い」「あなたがたはよこしまだ」とおっしゃった時にも、客観的に、評論家のようにそう言われたのではなくて、わたしはこの人たちのために、どんな労苦を担わなければならないか。そういうニュアンスを、少なくともここでは読み取ることが許されると思います。

この主イエスに苦労をかけるような人びとの悪さ、よこしまさは、どこに現れてくるのか。「しるしを欲しがる」と言われます。それが主イエスにとって、どんなにつらい重荷であったか。この「しるしを欲しがる」という言葉は、前回読みました第11章16節にも同じ趣旨の言葉が出てきました。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」。その話がまだ続いている。「天からのしるし」とありますように、ただ単に奇跡をしてみろとか、不思議なことをしてみろということではなくて、あなたが本当に神さまから遣わされた救い主であるのかどうか、証拠を見せてほしい。われわれをその証拠によって納得させてほしいということです。ちょっとした奇跡を行うぐらい、主イエスには何でもなかったと思います。けれどもそれが、耐えがたい労苦になったのは、しるしを求める人びとの目つきの悪さによるのです。証拠を求め合う夫婦と同じです。そこに愛はないのです。「証拠を見せてみろ。そうしたら信じてやろう」。「俺を納得させてみろ、そうしたら信じてやろう」。そういう態度はしかし、相手が誰であろうと人の道に外れることなのです。しかもここで問題になるのは、神に対してしるしを求める、ということです。

特にそこでもうひとつ急所になるのは、16節に「試す」という言葉が出てきたことです。「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」。前回、第11章14節以下を説教いたしました時に、この16節の言葉だけはほとんど触れることがありませんでした。今日の説教で丁寧に説こうと考えていたのです。「しるしを求める」ということは、言い換えれば、「試す」ということでしょう。同じことです。「証拠を見せろ。試してやろう。俺がお前を採点してやろう」。そこでどうしてもあわせて読まなければならないのは、ルカによる福音書第4章1節以下であります。主イエスが荒野において40日間、悪魔の誘惑を受けられたとあります。この「誘惑する」という言葉が、第11章の16節では、「試す」と訳されているのです。原文は同じ言葉です。つまり悪魔が主イエスを誘惑したのと同じことがここでも起こっているのです。かつて主イエスを試そうとして失敗した悪魔が、今度は人間の姿をとって、主イエスを試そうとしている。逆に言えば、人間の中にもともと住んでいた悪魔が、ここで新しく姿を現したということでしょう。

ルカによる福音書第4章において、特に「試す」という言葉と深い関わりを持つのは、その三つ目の誘惑です。悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて言いました。神の子なら、ここから飛び降りてみたらどうだ。天使たちがさっと駆け寄って、あなたの足を支えてくれるに違いない。けれども主イエスの答えは明確でした。「主なる神を試してはならない」。神に対して証拠を求めること、神さまらしい証拠を求めること、それは悪魔のわざでしかない。

特に私がこの箇所を読みます時に、厳しい思いで思い起こさざるを得ないことがあります。おそらく、一生忘れないであろうと思う。先週の月曜日、この教会を会場にして、10名くらいの牧師が集まって説教についての学びをいたしました。続けて学んでいる説教学についてのテキストがあるのですが、たまたま先週読みましたところに、「預言者的説教」という主題が出てきました。少し難しい言葉ですけれども、つまり、今置かれたこの時代の状況に対して、その急所を衝くようなみ言葉を語る。たとえば今私がしているようなルカによる福音書の連続講解説教などというのも中断して、今この国が聞くべき言葉を語る。そういうことが必要なこともあるのではないか。そういうことです。

その学びの席で、ほとんど自然と、2年前、大きな地震が起こったあとにわれわれは何を語ったかという話題になりました。もちろんよく覚えています。3月11日に震災が起こり、その翌々日に、まず妻が説教した。そしてその次の週には私が説教をいたしました。ある意味では勇気がなかったというか、1か月以上前に決めていた聖書の箇所で、既に決めていた説教題の通りに説教をいたしました。その震災が起こった約1週間後に私が説教したのが、このルカによる福音書第4章のみ言葉でした。説教題も1か月以上前から決めていた。「神を品定めする罪」。日本中が不安の中にある時に、私はその説教の中で、震災とか津波とか原子力とか、そういう言葉はひと言も用いないで説教したと思います。言わなくても分かると思ったのです。「神を品定めする罪」。そういう誘惑があるのではないか。しかし私は、ほとんど足が震えるような思いで説教したことをよく覚えております。厳しいことです。

地震なんか起こらなくても、私どもの信仰生活の中に、絶えず、そういう誘惑はあると思います。せっかく神さまを信じているのに、神さまは全然神さまらしくしてくれない。この世界はこんなに悪いのに、わたしはこんなに不幸なのに、なぜ神さまは神さまらしくしてくれないのか。いったいどこに神のしるしが見えるか。証拠を見せてほしい。神さまらしい力を見せてほしい。神さまらしい言葉を聞かせてほしい。そうしたらあなたを神と認めましょう。こういう誘惑は、私どもがよく知るものではないかと思います。けれども、そのような信仰は、既に信仰ではないと、言おうと思えば言える。しかし、厳しいことだと思います。いったいこういうみ言葉に、誰が耐え得るであろうかと思いました。

主イエスは、「この時代はよこしまだ。しるしを求める」と言われました。「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言われました。この「ヨナのしるし」というのは、先ほど読みました旧約聖書にヨナ書というのがある。預言者ヨナの物語です。ニネベという大変盛んな町があって、けれども盛んな町であるがゆえに、ということであると思います、悪徳と不正に満ち、もはや神の裁きを免れ得ない。そこに預言者ヨナが遣わされました。神の裁きを告げよと命じられたのです。けれどもこのヨナは、いったんその神の求めを断りました。気持ちはとてもよく分かります。三日分の道程を歩いて、神の裁きは近い、あと40日でこの都は滅びると言わなければなりませんでした。そんな勇気は私にはないなと思いました。同じようなことをしながら、若宮大路を歩くだけでも勇気が要ります。鎌倉よりもずっと悪徳に満ちた町であれば、なおさらのことだと思います。冗談ではないと舟に乗って逃げ出そうとしたら、嵐に遭い、海に投げ込まれ、大きな魚に飲まれて三日三晩、魚の腹の中で過ごします。ついにその魚から吐き出されたところが、神から遣わされたニネベの町であった。そこでヨナは、神の言葉を語りました。そうしたら思いがけず、ニネベの人たちが悔い改めたという物語です。けれども面白いのは、ニネベの人たちが思いがけないほど素直に悔い改めたために、神の裁きは撤回された。そこでヨナが腹を立てたというのです。興味深い物語です。主イエスはその物語を思い起こさせておられます。

このヨナという預言者が何をしたかというと、別に目覚ましい奇跡をしたのでも何でもない。言葉を語っただけです。けれどもニネベの人たちは、その〈言葉〉を聞いて悔い改めたではないかと、主イエスは言われるのです。どうしてあなたがたはそこで神が見えないと言うのか。ヨナにまさるしるしがここにあるのに、と言われるのであります。そして30節では、「つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」。主イエスご自身のことです。わたしもヨナと同じように〈言葉〉を語っている。「神がここにおられる」という現実を語っている。こんなに近くでわたしが言葉を語っているのに、なぜそれが聞こえないのか。ここにわたしがいるではないか。ここに、神の言葉が聞こえているではないか。そう言われるのです。

31節では、「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」。旧約聖書の列王記上第10章に、シェバの女王と言われる人が、ここでは南の国の女王と言われていますけれども、当時の考え方からすれば、地の果てとしか呼びようがない所からソロモンの知恵を聞くためにやって来たという物語があります。その知恵がどれほどのものかと思って、たくさんの質問を用意していたけれども、ソロモンから返ってくる答えに圧倒されて、すっかり降参してしまったという記事です。主イエスはそれを持ち出される。同じことであります。こんなに近くにソロモンにまさる知恵があるのに、このわたしが神の言葉を語っているのに、なぜ聞こえないか。

そして32節、「また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある」。先ほど申しましたように、ニネベの町がヨナの言葉を聞いてたちまち悔い改めて神の裁きを免れると、このヨナは腹を立てたというのです。考えてみればおかしなことですが、何となく分かります。あと40日でニネベの町は滅びると言って回ったのです。人の目の見るところ、どうもあいつの言ったことは実現しなかったということになりかねない。自分の面子丸つぶれということです。

「見よ、ここに、ヨナにまさるしるしがある」。主イエスは、自分の面子などは問題になさらない。そして、自分の面子も何もかも踏みにじられるような、あの十字架への道を歩み抜かれたのであります。主イエスは、あなたがたはよこしまだ、だからだめだと言われたのではなくて、むしろ神を品定めする人に取り囲まれて、お前はだめだと言われる道をお取りになったのです。主が十字架につけられたというのは、そういうことです。まさに「悪い」人びとに取り囲まれて、その人びとの悪さのために、ご自身が労苦を担わされる道を歩まれたのです。

このルカによる福音書を最後まで読みますと、こういう場面にぶつかる。第23章の35節以下、主イエス・キリストが十字架につけられた時に、その周りで起こった出来事であります。

民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。

……「何だったら、場合によっちゃあ、信じてやってもいいぞ。俺たちを満足させてくれるなら、信じてやってもいいぞ。証拠を見せてくれたら、信じてやってもいいぞ。十字架から降りて来い。そうしたら、信じてやるよ」。悪魔の言葉にそっくりです。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。『神は、あなたを守る』。『天使もあなたを守る』。旧約聖書にそう書いてあるではないか。けれども神の守りなどないではないか。どこに神のしるしが見えるか。お前は落第だ」。人びとが主イエスを十字架につけたというのは――私どもが主イエスを十字架につけたというのは――そういうことです。神の品定めをしたのです。悪魔の虜になって。

けれどもこのルカが伝えるところ、その十字架の上から、祈りの声が聞こえてきました。「父よ、彼らを赦してください。彼らの罪を責めないでください」。私どもが主イエスを品定めしていたときに、けれどもこのお方は、私どもを品定めなさらなかった。「お前は神を信じていると言うけれども、証拠があるのか」。そんなことは、主イエスは一言もおっしゃらない。何のしるしも求めず、何の証拠も求めず、ただ私どもを愛し抜いてくださいました。「父よ、彼らを赦してください」。ここに、神の愛は極まるのです。実に恐るべきこと、しかしまた、まことに驚くべき恵みではないでしょうか。

33節以下に語られている主イエスのお言葉については、もうこれ以上丁寧に説き明かす必要もないと思います。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。マタイによる福音書にも同じような言葉が伝えられており、そこでは「あなたがたは世の光である」、私どもが世の光であると、そう語られておりますけれども、ここでは明らかにこのともし火というのは主イエスご自身のことです。その光を消すな。あるカトリックの学者は簡潔に、「十字架こそ、この燭台のことだ」と言いました。人びとが神の愛を理解せず、間違ったしるしを求め、主イエスを十字架につけたときに、けれどもまさにそこで、神の光が輝いた。愛の光が輝いたのです。その光を消すなと言うのです。

互いに品定めをし、互いに愛の証拠を求め合いながら、疲れ果てているのが私どもだと思います。愛が通い合わず、言葉が通い合わず、どこにしるしがあるのかと、いきり立ちながら、互いに重荷を負わせ合っているのが私どもだと思います。その私どもが、遂に神に対してもしるしを求め、重荷を負わせ、そこに立ったのが主の十字架でした。けれどもそこで知ります。神は、わたしを愛してくださる。一切品定めなさらずに。この十字架の光を澄んだ目でしっかり見つめる人は、その人の全身に神の光が溢れるようになると、34節以下で言われます。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。

主イエス・キリストの十字架の前でこそ、私どもはこの光を仰ぐのです。「父よ、彼らを赦してください」。この神の愛に触れたときに、私どもの全身も光り輝くのです。ここに私どもが人間として、すこやかに生きる道があるのであります。お祈りをいたします。

もう一度新たな思いで、十字架の上から差し来る光を仰がせてください。あなたに対しても、隣人に対しても、よこしまな心を抱いてしまうこの私どもの心を、けれどもどうぞあなたが、澄んだものとしてください。あなたに愛されている私どもであることを、もう一度澄んだ思いで、心いっぱいに、体いっぱいに受け入れることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン