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休みましょう

2013年4月14日

出エジプト記20章8‐11節
大澤 正芳

主日礼拝

本日、共に聴きます十戒の言葉、「安息日を覚えてこれを聖くすべし」、この戒めは、十戒の中心であると言われます。その理由は第一に、この戒めを境に、その前半は、私たちと神様との関係を語っている戒めであり、この第四戒より後ろは、私たち人間同士の関係を語る戒めであるからだと説明されます。また、それだけでなく、この戒めがその説明文と共に、十戒の他のどの戒めよりも長いということも、これが中心の戒めだと説明される根拠となります。また、この戒めの厳格さも、その重要性を物語っていると言えます。出エジプト記第31章12節以下、また第35章1節以下では、この戒めに違反した時の厳しい措置が記されています。すなわち、それらの箇所では安息日を守らず、その日に仕事をする者は死刑に処せられると、そのように警告されているのであります。このようにその置かれている位置にしても、長さにしても、その厳しさにおいても、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との第四の戒めは、神様が特別な配慮をもって定めて下さった十戒のまん中、中心であるということが出来ます。

しかし、ある聖書学者は、この戒めが十戒のまん中にあるということは、それが十戒の内で、最も大切な戒めであるということを意味するわけではないとも語っています。むしろ、最も大切な戒めは、第1戒と第2戒、すなわち、「主なる神のみを唯一の神とせよ」という戒めであり、その具体的な実現の手段として、第4の「安息日」の戒めがあるのだと説明するのであります。つまり、7日毎に巡ってくる安息日を、聖なるものとすることによって、私たちは、主なる神を私たちの唯一の主、神とする最も大切な戒めを具体化するのだと言うのであります。

確かに、この第4戒は具体的な戒めであります。6日働き、7日目は「いかなる仕事もしてはならない」、これは、具体的な命令であります。この命令を守る時、これを守る者は、生き方が変わります。生活リズムが変わります。周りから区別され、周りとの違いが浮き彫りにされることになります。7日毎の休みというのは、歴史上、聖書にはじめて確認される制度であります。それは、月の満ち欠けという、その月の運行にも、あるいは他の自然のリズムから導き出されたのでもない、神様が与えて下さった7日というリズムであり、イスラエル以外の人々は、当時このような生き方をしていないのであります。言うならば、友引や仏滅とか、そういうことは関係なく、7日毎に主の安息の日はやってきて、神の民は集まってくるのであります。だから、残りの6日の日を周りの人々と同じように過ごしたとしても、週一日を必ず全ての用事に優先して、その日を聖なる日として、一切の仕事から離れ、神様に礼拝を捧げる日とするならば、その戒めの実践に生きる人は、ちょっと変わった人だと知られることになるのであります。

事実、安息日はそのようにしてイスラエルの民が国を失い、神殿を失った後も、自分たちを周りの人々から区別して、自分たちが誰で何者であるかを覚え続けるための強力な盾、しるしとなったのであります。一週間ごとに働きをやめて礼拝に集まってくることによって、自分たちが誰で何者であるかを覚え続けたのです。そのようにこの第4戒を守ったおかげで、ユダヤ人は外国の支配下にあった時も、同化し埋没することなく、ユダヤ人として生き残り続けることが出来たのであります。周囲の世界との緊張や摩擦が起ころうとも、主のご命令通りに、安息日に全ての業をやめ、神を唯一の神とし、礼拝を捧げることにより、彼らは神の民であり続けることができたのです。

この安息日は、教会の歴史においてイスラエルの人々が守っていた土曜日から、主イエスの復活の日である日曜日へと置き換えられました。イスラエルの民が、土曜日毎に毎週集まり礼拝を捧げたように、キリスト者たちも日曜日に集まり、毎週礼拝を捧げます。もちろん、イスラエルの安息日は、キリスト者によって、他の聖書に記される律法と同様に福音が来るまでの影のようなものと理解されました。パウロもそして宗教改革者たちも、儀式としての安息日はキリストと共に終わりを迎えたと理解しました。だから、土曜日に安息日を守ることは止めたのです。しかし同時に、私たちに真の安息を与えるキリストの復活の日を祝うという内実を伴って、教会の生まれた極早い段階から、週一日、日曜日に礼拝のために集まるようになりました。教会は、土曜日の安息日は、キリストの到来によって廃止された影だと捕えましたが、その安息日が指し示していた真実の休みは、イエス・キリストの復活によって完成したゆえに、主の復活の日が礼拝と休養の日になるということは、ふさわしいことであるとしたのであります。

さて、聖書に記されますイスラエルの安息日は、私たちの日曜日の礼拝、主の日の礼拝となったと、具体的に読み替えてまいりました。そうする時、それは私たちの胸をぐさりと刺すような御言葉とはならないでしょうか。神の民が命懸けで守ってきた安息日を、私たちは受け継いでいるのであります。毎週の礼拝に私たちは年何回来ることが出来ているでしょうか? 体調不良、介護、看病以外の理由で、休んでしまうことはないでしょうか? 遊びのために、仕事のために、その日曜日を使ってしまうことはないでしょうか? 私も、この戒めを前にしますとギクリといたします。牧師ですから、日曜日に礼拝を休むということは、インフルエンザに罹ったときとノロウィルスに感染したとき以外に今までありませんでしたが、主の日に自分の一切の仕事をやめて、それを聖なるものとしているかと問われるならば、そうでもないと答えざるをえません。一週間で一番疲れる日は、恥ずかしながら日曜日であるのです。心と頭とそして声をフル回転させ、語り、人と接し、交わり、疲れ果ててしまうのです。私は「礼拝に来て、イエス様と出会って、休んで下さい。本当の安息をいただいて下さい」と、そのように薦めるのでありますが、自分は、そこで働いていて疲れを覚えてしまうのであります。主の日に、自分の顔は神の民にふさわしく輝いているだろうか? 疲れた顔をしていないだろうか? ですから、私もこの戒めに、裁かれる思いがいたします。日曜日を教会で過ごして、疲れる自分に違和感を覚えます。御言葉を聴いて、エネルギー充満になっているはずなのに、疲れてしまうというのは、自分がキリスト者として成熟していないからだなと思います。

私たちは日曜日を礼拝の日としてではなく、レジャーの日として使いたいと誘惑されてしまいます。あるいは、仕事をせざるを得ない時があります。もしくは、日曜日に教会に来ていても奉仕で疲れてしまうということがあります。仕事のため、レジャーのため、また奉仕のため、そのためにこの安息日を使ってしまう。そのような時、私たちは安息日を安息日としていないのではないか、そのように思うのです。このように私たちが日曜日を安息日と考え、これを真剣に正直に、信仰者であるはずの自分のこの日の過ごし方の問題として思い巡らす時、それは私たちの欠けと、罪を指摘する律法であり、棘であり、私たちに対する枷であると感じるのではないでしょうか。このように私たちは安息日を手放しに喜べないでいる。その時私たちは罪の中にあるのです。

ところが、それがどんなに厳しく私たちの罪を指摘する戒めであったとしても、十戒の戒めは全て、神様が私たちに与えて下さった自由を生きるための恵みの言葉であり、道標であります。神様が安息日を定められたのは、私たちを縛り付け、休日を奪い、ご自分が休まれるために、私たちを仕えさせ、こき使い、安息日の奴隷とするために、その日を定められたのではなく、そうではなくて、私たちを低く見積もるこの世の隷属から私たちを全く自由にするためにこそ与えて下さった日なのであります。主イエスは、安息日が人のために定められたのであり、人が安息日のためにあるのではないと、そのように教えられましたが、それはシナイ山で、この戒めが与えられた最初の時から変わらぬ神様の御心であります。

注目すべきことに、出エジプト記第20章11節において、創世記の冒頭に記された神様の7日間の創造の出来事が引用され、そしてそれが安息日の戒めが定められる理由として掲げられています。そこでは、神様が世界を6日間で創り、7日目に休まれたゆえに、安息日は、祝福され、聖なるものとして取り分けられたと語られています。この創世記の創造物語は、造られた人間が目覚めた第一日目は、神が祝福された安息の日であった、そのことを示唆しています。人間が造られ目覚めた時、世界は欠けるところなく、完成していたのです。それは造られた人間自身も同様でありました。造られたばかり、生まれたばかりで、何もしていない人間を、神様は祝福されたのです。神様は、世界と人間、ご自身の造られた全てのものを見ながら、「それは極めて良かった」「はなはだ良かった」、そのように見て下さり、ご自身の仕事を満足し、それを楽しむように第7日を祝福し、聖別し、休まれたのです。その日には、全てのものが休んだのであります。なぜならば、為すべきことは神様が全て、為し終えていて下さったからです。

「安息日を心に留めよ、これを覚えよ」この第四の戒めは、神様の祝福を、世界とそして私たちを極めて良いものと呼んで下さる神様の声を、7日毎に思い出すようにとの呼びかけの声に他なりません。この日には、自分の仕事を止め、何もせず、神様の元に留まるのです。行いや能力や、私たちが生み出す利益に拠らず、ただ、神様に創造されたゆえに、ただ、そう呼んで下さる神様の言葉のゆえに、極めて良い、はなはだ良い、祝福された存在とされている私たちであることを再度聴くのであります。私たちが神のものとされ、祝福された者と呼ばれるのは、私たちの行いによるものではありません。神様の一方的な恵みによるのだ、そのことが明らかになるために、その日、私たちは自分の業を全く止めるようにと求められているのです。

安息日は、私たち人間のために定められた日です。とても、素晴らしい日です。このような安息日を失う時、私たちは自分が誰で何者であるかも見失ってしまうのではないでしょうか。ですから、大切なことは、その日に働かないということではありません。神の言葉を聴くために、「自分が、自分が……」そういう思いを捨てることであります。宗教改革者ルターは、安息日を聖なるものとするのは、我々が労働を中止するか否ではないと言いました。私たちが働くことを止めるから、安息日が聖なるもとなるのではなくて、ただただ神の御言葉がそれを聖なるものとするのだと語りました。神の言葉によって、人も、その日も、行いも聖なるものとなると言いました。そしてそれこそが、まさに創世記の天地創造の7日間が語るメッセージであります。造られた世界が、自分の労働によって、祝福と安息を勝ち取ったのではありませんでした。造り主の言葉が祝福と安息を与えたのであります。安息日を聖なるものとし、安息日に生きる私たちを聖なる者とするのは、働きのない者に一方的に祝福を語って下さる神のみ言葉のみなのです。そのようにして、神様から頂く安息は、私たちの労働の結果、報酬として得られる休息とか娯楽という、体と心の安息、休息を超えて、私たちの全存在を癒す本当の安息ではないでしょうか。

安息日は、能力も働きもない私たちを、主なる神様が一方的に恵み、祝福する日であるならば、それはどんなに慕わしい日でしょうか。神様の元以外のどこで、そのような自分を取り戻すことが出来るでしょうか。単なる日曜日の休息やリクリエーションが、我々が誰で何者であるかを、語ることはできません。働きもそうです。神の言葉だけが、私たちが誰で何者であるかを語り、思い起こさせてくれるのです。私たちは、主の日ごとに礼拝に集うことによって、自分が神のものである、そのことを知らされるのです。そして、このことを知るならば、体と心が疲れ果てていても、いや、働いて疲れて渇いてしまっている時にこそ、そしてまた、衰え、病を得、高齢になり、奉仕に耐えられなくなればなるほど、神の言葉が語られる礼拝は、私たちにとってなくてはならぬ慕わしいものであることが明らかになるのであります。

御言葉は、このような安息日を「心に留め」なさいと、語ります。「心に留める」とは、私たちが毎週告白する文語文のように「覚える」という意味がある言葉です。「覚えよ」そう言われるのは、忘れてしまうからです。この世は神様が言うこととは違うことを語るからです。祝福と安息は、私たちの労働の報酬として得られるものだと、叫び続ける世の中だからであります。日常の忙しさにまぎれて、雑音にまみれるならば、私たちは、主なる神様を忘れてしまいます。そして、そのことは同時に、自分自身を忘れてしまうことにつながるのです。だから、神様は安息日を与えて下さったのです。週毎に、自分が誰で何者であるかを聴き直すようにと、神様の祝福を思い出すようにと。

しかし、実に、この神様の言葉に聞かず、自分で自分の義を立てようとする所に私たちの罪があります。一方的な恵みとして語られる神様の祝福の中に憩うよりも、自分で自分の名を呼び、自分で自分の価値を示すことに夢中になります。このような自分で自分の安息と祝福を獲得し実現できると確信している私たち人間の自己実現の妄想は、主イエスの時代に守られていた安息日の過ごし方に赤裸々にされています。すなわち、私たち人間は、自分の働きをやめて、何もしないというそのことまで、自分の功績とし隣人と自分を比べる競争の道具としてしまったことが、主イエスが語られた物語からわかるのであります。安息日すらも、休むという行為によって、自分の宗教的な徳の高さを表すための活動としてしまうのです。

私たち人間は、無償の祝福に耐えきれず、自分の存在の価値を確かめるために、どうしても活動してしまいます。自分の力で生きてしまいます。神様にお任せしきれず、自分に頼ってしまいます。それは罪です。そしてその罪は、神様の前にはどのような人間の行いも、臭い匂いを放つ死んだ業であることを指摘した神の御子イエス・キリストを十字架へと追いやった絶望的な罪、腐りきった私たちの罪であります。けれども、神様はこのような私たちの弱さに同情できないお方ではありませんでした。まさに、私たちの働きも、休みも、そのどちらも、神の言葉を拒否するものであることが明らかになった、あの主イエスの十字架で、私たちのその罪を赦して下さったのであります。そして、このキリストの十字架は、神様に従いえない私たちの罪を赦し、贖い続けるだけでなく、洗礼によって、このキリストの十字架に結び付けられる私たちを、また、キリストの復活の新しい命に生きるようにするのであります。

パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第2章19―20節でこう語りました。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

キリスト者とされた者は、自分で生きているようでいても、実は、もはやキリストの命に生かされている者であります。洗礼によって、キリストの死と復活に結び付けられて以来、自分の業を永久に断念したのであります。キリストが私たちのために死に、よみがえって下さってから先は、私たちは、週の一日限り、仕事を止めて、神の前に静まり、神に生かして頂くのではありません。24時間、1週間、365日、自分の業を止めて、キリストの命に生きるように招かれているのです。そして、そのような者とされているのです。このような安息に招かれているのは、私たちだけではありません。第四戒は、出エジプト記第20章10節において、あなたの息子も娘も、男女の奴隷も、家畜も、旅人も」、すなわち、私たちの周りに生きる全ての人が、この安息に招かれているのだと語ります。

しかしながら、私たちの生きる社会は、安息日を聖なるものとする社会ではありません。神様の下さる真の安息と祝福を知らずに、今日も働き、そして休息し、娯楽に勤しんでいます。しかし、私たちが電車に乗り、教会に来て、そして礼拝の帰りに、夕ご飯の材料を買って帰れるのは、この日に働いている人たちがいるからです。そのことも忘れないでおきたいと思います。病のため、高齢のため、のっぴきならない仕事のため、事情のため、あるいは、そういうことではなくて、神様の語って下さる言葉が私たちを生かす安息の言葉である、そのことを忘れてしまっている私たちの兄弟姉妹のため、また、そもそもそのことを知らない隣人のため、ここに来ることのできない全ての人のために、今、ここに喜んで集うことを許されている私たちは、神様の祝福の言葉をしっかりと聴きたいと思います。そして、この礼拝の後に遣わされる日々の中で、祝福の言葉を語りたいと願います。私たちを祝福の中に生きるようにするのは、私たち人間の働きではなく、神様の言葉であるということ、十字架の主イエスに結ばれる時、私たちは自分の働きを止めて、主イエスに生きて頂くようになるのだと、そしてそこにこそ、世にはない私たち人間の真の安息があることを証しして行くものでありたいと、そのように願います。祈りをお捧げいたします。

主イエス・キリストの父なる神様、あなたの下さる無償の安息に生きえない私たちを、御子の十字架によって買取り、十字架に殺し、そしてあなたの安息に生きるものとして下さいました恵みを感謝いたします。私たちを生かすのはあなたの御言葉のみです。このことをいよいよ深く味わい、この新しい一週、遣わされるそれぞれの地において、この喜びを言葉と行いにおいて、語り続ける私たちとしてください。私たちに代わって、あなたがそのようにお語りくださることに信頼し続けることができますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン