主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ
ヘブライ人への手紙 第2章10-18節
川﨑 公平
主日礼拝
本日は、週報の報告欄にも記されておりますように、8時半からの小礼拝を、子どもの日・花の日礼拝として、教会学校との合同礼拝として行いました。既にその礼拝において、私ではなくて恵牧師が説教をいたしました。ふだん私が日曜日の礼拝で説教いたします時には、ルカによる福音書を順番に読んでいますけれども、今日主礼拝だけ先に進むというわけにはいきませんので、この日のために読むべき聖書の言葉を選ばなければ、ということで、ヘブライ人への手紙第2章の10節以下をお読みしました。非常に豊かな内容を持つ聖書の言葉であり、今日1回の礼拝ですべてを説き明かすことはちょっと難しそうですけれども、拾い集めきれない宝をひとつでも、ふたつでも拾い集めるように、ここに込められている神の恵みを数えていきたいと願っております。既に聖書朗読をお聞きになって、心にとまる言葉、思わず聖書に線を引きたくなるような言葉をいくつも発見することがおできになったのではないかと思います。いかがでしょうか。
たとえば11節の後半に、こういう言葉がありました。「それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで……」。これは私の愛誦の聖句のひとつであります。イエスは、私どもをご自分の兄弟と呼ぶことを恥となさらない。ただイエスさまが私どものことを、あなたはわたしの兄弟だと呼んでくださるというだけではなくて、そのことを主イエスは恥ずかしがらないと言います。言い換えれば、私どもはどうも主の兄弟としては恥ずかしがられても仕方がないのだけれども、ということを意味します。考えてみれば、私どもはイエスさまのことを、「主イエス」と呼んだり、もう少し丁寧に「尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります」などと言ったりしますけれども、「私のお兄さんイエスの御名によって祈ります」とはなかなか祈りにくいと思っています。何となく畏れ多いような気がします。しかし、「イエスは私どもを兄弟と呼ぶことを恥とはなさらず」。すばらしい言葉です。
少し個人的なことで恐縮ですけれども、今この教会で私と一緒に牧師をしております妻は、神学校でこのヘブライ人への手紙について修士論文を書いて卒業いたしました。既に私が赴任しておりました松本の教会に後から赴任してきて、しばらく、このヘブライ人への手紙について説教を試みました。まだ赴任して3回目か4回目ぐらいの説教でしょうか、この箇所を説教しながら、こういうことを言っておりました。妻には妹がいます。これはもちろん、ちゃんと私も覚えている。けれども、私などはつい忘れてしまうことですが、実はお兄さんがいたというのです。けれども、0歳の時に死んでしまったという悲しいことが起こりました。ですから今でも、妻の実家に行くと、特にクリスチャンの家庭ではありませんから、仏壇があって、その0歳のお兄さんの写真がいつも飾ってある。お兄さんがいるってどういう感じなんだろう。わたしにも兄さんがいたらどんなによかったか。小さい頃からわたしはそう思っていました、というような話をしながら、わたしにはもう、イエスさまというお兄さんがいる、と語る妻の説教を聞きながら、私はほとんど胸がドキドキしたことをよく覚えております。ああ、イエスさまはわたしのお兄さんなんだ。私も弟しかおりませんので、不思議な思いを抱きながら、その言葉に耳を傾けました。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはしない」。
このすばらしい事実をなお明確にするために、既にこの11節の前半では、「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで(もう少し丁寧に原文を翻訳するならば、「この理由のゆえに」)、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と、そう言うのです。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはしない」、それには明確な理由がある。それは、「一つの源から出ている」。この「一つの源」というのは、明らかに神ご自身を意味すると理解するのが正しいでしょう。「人を聖なる者となさる方」というのは主イエスのことであり、「聖なる者とされる人たち」というのは私どものことです。むしろ、イエスの兄弟とされることによって、私どもは聖なる者、神のものとされると言い換えてもよいと思います。その兄弟の絆は、実は最も深いところに根を持つのであって、神という一つの源から出ている。切っても切れない確かな関係がそこにあるというのです。
そのように、私どもと兄弟とまで呼べるような深い関係になってくださったイエスが、何をしてくださったかということについて、14節以下にこういう言葉があります。
ところで、子らは(この子らというのは、とりあえず人間一般と考えてよいかと思いますが)血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ここで「備えている」と訳されている言葉は、もちろんこの翻訳でも間違いないのですけれども、もう少し原文を直訳するならば「共有する」とか、同じものを「分け合う」というような意味の言葉です。人間たちは同じものを分け合っている。共有している。それは血と肉である。そのことによって結ばれている。この「共有する」と訳される言葉から、いつも教会で祝う聖餐を意味する言葉が生まれました。コイノーニアというギリシア語をどこかでお聞きになったことがあるかもしれません。主の恵みを分かち合うのです。しかしここでは、われわれは皆、血と肉を分け合っていると言います。兄弟というのは血を分け合うものです。そこで大事なのは、「イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」。少し細かい話で恐縮ですが、このふたつ目の「備えられました」と訳されている言葉は、最初の「備えている」という言葉とは、原文のギリシア語では少し違った言葉で、しかし似たようなニュアンスを持ちます。「一緒に持つ」「同じものを持つ」という意味の言葉です。イエスは私どもの兄弟として、私どもと同じく、血と肉を一緒に持ってくださった。それは何を意味するのだろうか。
私どもは皆、血と肉を持って生きています。これは一方から言えば、すばらしい神の恵みです。血も肉も神さまが与えてくださったものです。古代のギリシアの哲学から始まり、世界中至るところで、人間の肉体を軽視するような思想が生まれましたけれども、聖書は一度も人間の肉体を軽んじたことはありません。だからこそ主イエスは、私どもを肉体の牢獄から救い出す救い主として現れたのではなく、むしろ私どもと同じように、血と肉を共有してくださった。血と肉を持っているからこそ、私どもは共に生きることができるのです。
週報にもその報告が短く書いてありますけれども、昨日、この場所で教会員のAさんの結婚式をいたしました。Bさんという方と結婚なさった。結婚もまた、神の定められたこと、神が祝福なさったことであり、まさに私どもが肉と血を持っているからこそ成り立つことです。このお相手の中本剛央さんという方は、小、中、高、大学、そして社会人になってからも野球を続けておられるという筋金入りの野球少年、野球青年で、午後の披露宴にも私は招待されたのですが、その席に同じ野球のチームの若い人たちが大勢招かれておりました。この野球チームの人たちが非常に盛り上がって、おそらくその宴席で一番目立っていましたね。午後3時に披露宴が始まり、新郎新婦入場というところで、既にたいへんな盛り上がりようで、いったいいつの間に、そんなにお飲みになったかなと不思議なほどでしたが、たとえばそういう時にも私どもが思い起こすのは、主イエスがヨハネによる福音書第2章において、ガリラヤのカナというところで結婚式の披露宴に列席なさった。その時にも、おそらくかなりの盛り上がりを見せたのでしょう、新郎の友人たちか、親戚のおじさんたちか、とにかく主催者が予想したよりもはるかに速いペースでお酒を飲み干していく。ついにワインが底をつくという困った事態が起こった。その時に、主イエスは、私も今朝改めて聖書を調べ直して驚きましたが、聖書の伝えるところによれば、最高のぶどう酒を約600リットル、ふつうのワインボトルで言えば約800本のワインを用意なさるという、ちょっと考えると、ずいぶんばかばかしいような、けれどもやはりよく考えると、非常に慰め深い奇跡をなさいました。いくら何でもその600リットルが飲み干されることはなかっただろうなあと思います。教会で結婚式をする時には、必ず司式者がその出来事を思い起こさせる言葉を最初に述べます。「主イエス・キリストも、ガリラヤのカナで婚礼につらなり、最初の奇跡を行って、これを祝福されました」。これが、主イエスの最初の奇跡であったと福音書も明確に述べます。そのようにして主イエスは、私どもの血と肉をもってする生活を、神の祝福のうちに置いてくださいました。「イエスもまた同様に、血と肉を備えられました」というのは、まずそういう意味です。
けれども他方で、このヘブライ書が血と肉という言葉を語りました時に、明らかにそこで暗示していることは、私どもの弱さです。はっきり言えば、私どもが死ななければならない、滅びなければならないということです。血と肉を持っているからこそ滅びが起きる。だからこそ、たとえば生まれたばかりの赤ちゃんが、思いがけず死んでしまうというような悲しいことまで起こるのです。しかも問題は、このヘブライ書の語っているところによれば、そのことを私どもが恐れてしまっている。その恐れの奴隷になってしまっていることだと言います。そこから自由になることができない。昨年大きな地震が起こり、たいへんな津波が襲ったという時に、沿岸部の人たちがまず何を恐れたか。海に行くのが怖い。もう海なんか見たくない。海に行くと、そこに何があるか。何が転がっているか。こういう恐れは、ほとんど人間の本能に属するようなことではないかと思います。けれども、このヘブライ人への手紙はその恐れを人間の本能として説明するのではなくて、それは悪魔のしわざだとはっきり言います。
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
ここで聖書が語っていることは、ただ単に人間は死ななければならないのだということではありません。問題は死そのものではなくて、死に対する恐怖です。その恐怖が、われわれを奴隷状態にしている。死の間際にだけそうなるというのではなくて、一生涯、その死の恐怖の奴隷になって生きなければならない。そしてそれは人間の本能だと言うのではなくて、「死をつかさどる者、つまり悪魔」が、その恐怖をつかさどっていると言うのです。
死をちらつかせながら、悪魔がわれわれを支配している。どうだ、怖いだろう。お前は死ぬのだ。そのようにささやきかける悪魔の奴隷になっている。一生涯。この人間理解はなかなか深いものがあると思いますし、このようにはっきりと死の恐怖について語る聖書の言葉は、ヘブライ書のこの箇所を除いて他にないのではないかと思うほどです。そのような奴隷になっている人間を助けるために、神の御子が人となってくださったということを、ヘブライ書はなお16節以下でこのように語っています。
確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
この17節において初めて現れる言葉は、私どもの罪です。ヘブライ書は、結局のところ、罪を見ている。しかし、これはもしかしたら、そんなに分かりやすい言葉ではないかもしれません。血と肉を持っているからこそ、悪魔の罠にかかり、死の恐怖の奴隷になる。その恐怖の中でわれわれは罪を犯すのだ。ヘブライ書が言っていることは、そういうことでしょう。しかしそれは、いったいどういうことか。なぜそこで罪が問題になるのか。
また昨日の結婚式の話をいたしますけれども、昨日この場所で結婚式の礼拝をし、そこで私はペテロの手紙Ⅰ第3章を読み、説教をいたしました。伝統的に教会の結婚式においてよく読まれる聖書の言葉のひとつであります。
同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。
こういう聖書の言葉は、一方から言えば何の説明も要しない言葉です。読めば分かるのです。けれどもまた他方から言えば、現在これほど評判の悪い聖書の言葉はないと言ってもいいかもしれません。正直に言って、評判が悪いです。昨年の今頃であったと思いますけれども、英国の皇太子が結婚式を挙げた。その時にひとつ話題になったのは、その結婚式で、伝統的に結婚式で読まれる言葉、「妻は夫に従いなさい」というような言葉は一切語られなかったということでした。英語をそのまま伝えると、obeyといった英語はなかった、というようなニュースが流れました。しかも一般に言って、日本でもそのニュースは好意的に受け取られたと思います。
しかも、これは英国の王室だけがそうしているというのではなく、何年か前に、私どもも属しております日本基督教団が、新しい礼拝のための式文集を出しました。結婚式の式文もそこに収められています。たとえば今読みましたようなペテロの手紙Ⅰの言葉、あるいは私どもの教会で、いつも結婚式で読むようにしているエフェソの信徒への手紙第5章、コロサイの信徒への手紙第3章などに出てくる、結婚そのものについて聖書が教えている言葉を、全く読まないような式文を作りました。そんな時代錯誤の言葉はもうおかしいという理解が、そこにあったことは明らかです。しかし私は、それは完全に聖書を読み違えていると思っています。
なぜ黙って妻は夫に従うのか。なぜ無言なのか。「妻の無言の行いによって」と、ペテロの手紙Ⅰは明確に言います。このペテロの手紙をさらにさかのぼって第2章から読みますと、第2章の終わりの方にこういう言葉があります。キリストは、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず……」(23節)。なぜ妻は無言の行いを求められるのか。既に主イエスが無言で、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」、そのようにして私どもに仕え抜いてくださったということを知っているからです。
そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました(第2章24節)。
それに続けて第3章で、「同じように、妻たちよ」、あなたがたも同じようにしなさい、と言うのです。キリストがあなたのために仕えてくださったように、あなたも同じように、もし夫が御言葉に従わないような人であったとしても、無言の行いによって夫に従いなさい。その妻たちというのは、既に主イエスに救われ、主イエスに似た歩みを与えられている妻たちのことでしかありません。女は黙ってろ、などと乱暴なことを言ったのではないのです。十字架の主イエスを模範として、無言の行いによって夫に従う妻は、既に主イエスに似始めているのです。
昨日の結婚式で、新郎がこの説教卓の真正面に座っておりました。まだきちんと教会生活をしようなどとは考えておられない、そういう新郎を前にして、「夫が御言葉を信じない人であっても」などという言葉を説教するのは、失礼すぎるかなと少し心配になりましたけれども、とても真剣な顔つきで、頷きながら私の言葉を聞いてくれました。大事なことは、たとえそういう夫であったとしても、神を畏れる妻の姿を見ていると、信仰に導かれるということが起こるのです。イエスさまに似た存在がそこにいるのですから、これは当然のことです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」、そのような主イエスに似た妻を通して神に出会ってしまった夫は、もはや、いや~、妻が自分の言いなりになってくれてありがたい、などと不謹慎なことを考えることはないはずです。そこに、御言葉を信じない夫であっても、妻を重んじる心が生まれるはずです。そういう牧師の言葉を、新郎さんはどのように聞いていたかなと思いますし、既に教会員として生活をしておられる新婦の内藤芳子さんが、その横で説教中に新郎の方を見ながら、どういう思いで聞いていたかなと思います。そこにもまた畏れの思いが生まれたのではないかと思っています。
こういうことを自分で言うのは何だかおかしなことのようですけれども、結婚式の後、ひとりならずの方から、今日は本当にいい話を聞いたと、男性からも女性からも、信仰を持っている人からも持っていない人からも、感謝の言葉をいただきました。新郎と同じように、まったく教会と関わりを持っていないであろうと思われる野球チームの人たちが、披露宴の中で20人ぐらい前に出てきて、もう既にずいぶん酔っぱらっておられたかなと思いましたけれども、新郎を巻き込んで余興をなさった。最初に挨拶をなさった方が、開口一番、「いや~、今日の牧師先生の話、本当に胸にしみました!」と言われて、正直に言って少し驚いたのです。結婚式の後の披露宴で、自分の説教が話題にされるという経験をそんなに持っているわけではありません。そんなことではいけないと思いますけれども、正直に言ってそうです。珍しい経験をしました。何よりも私が驚きましたのは、こんなに評判の悪いはずの言葉なのに、日曜日は教会でなく毎週野球をやっているという人たちの心に、なぜその言葉が届いたのだろうか。私は正直に申しまして、評判の悪いはずの言葉なのに、ということにとらわれて驚いておりました。しかし私は思いました。本当は誰もが気づいているのです。互いに愛し合うこと、互いに仕え合うこと。それが、神に造られた人間の、本来あるべき姿である。それなのに、ののしられたらののしり返し、何とかして必死で自分を守ろうとしてしまう。そのように結局、お互いに傷つけ合ってしまう。そういう自分は、やはり、どこかで間違ってしまっているのではないか。誰もが気づいているのではないかと思いました。
誰だってののしられるのはいやです。ののしられたらののしり返したいと思います。苦しめられるのはいやです。何とかして自分を守りたいと思います。自分が悪く言われること、自分が傷つくこと、自分が損することに私どもは耐えることができません。けれどもそのような不自由な私どもが造っている世界というのは、たとえば最も深い愛が求められる夫婦の間であっても、まことに醜い、罪深いものになってしまうことを、私どもはよく承知しております。誰もが、どこかで、何となくではあっても、気づいているのです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」。このイエスというお方の生き方こそ、本物だ。これが本来の人の道だ。誰もが気づいているのだと思います。それなのに、ののしられたらののしり返したくなってしまう。なぜか。怖いからです。傷つくのが怖い。損をするのが怖い。その最も深いところにあるのは、死の恐怖です。その恐怖のために不自由になり、自由に人を愛し、仕え合うことができなくなっていることこそ、私どもが悪魔の奴隷になっていることのしるしなのです。
このように不自由な奴隷状態から私どもを解き放つつための主イエスの十字架です。そのために主イエスは血と肉を一緒に持ってくださった。今日お読みした10節以下の、その直前の9節にも書いてあるように、「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。わたしのためにも死んでくださった。「ののしられてもののしり返さず。苦しめられても人を脅さず」、「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。その時、主イエスは怖くなかったのでしょうか。そうではないのです。むしろ主イエスが一番怖がっておられました。十字架につけられる前の晩、ゲツセマネという地名とともに私どもがよく記憶していることは、主イエスはそこで血の汗を流しながら、神さま、わたしは死にたくありませんと徹夜の祈りをなさった。十字架につけられた、なおそこにおいても、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになりましたか」。神さま、見捨てないでください。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。主イエスが死の間際に叫ばれた、そのお言葉をその発音どおり、福音書は伝えてくれています。怖かったのです。血と肉を持つ人間としての恐怖を、誰よりも深く味わわられたのが主イエスであったのではないでしょうか。けれども主イエスは、その恐怖の中で、罪を犯すことはなく、むしろ自由に私どもに対する愛を貫いてくださいました。ここに主イエスの自由があります。その主イエスが私どもをも自由にしてくださる。
夫婦の誓いを交わした者同士であっても、本当に血を分けた兄弟であっても、私どもはなかなか自由に愛し合うことができません。まことに不自由です。何かにとらわれています。けれども主イエスは、私どもを兄弟と呼ぶことを恥となさらず、むしろ私どもの先頭に立つようにして、何をしてくださるかというと、12節以下で、三つの旧約聖書の引用をします。
「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」
と言い、また、
「わたしは神に信頼します」
と言い、更にまた、
「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」
と言われます。
この旧約聖書の引用には、当時の礼拝の様子が反映していると言われます。当時の教会がいつも礼拝に集まり、このような言葉をもって礼拝していた。しかし実は、その言葉を最初に語っていてくださるのは、私どもを兄弟と呼ぶことを恥とはなさらない主イエスであると言うのです。私どもを恥ずかしがらずに兄弟と呼んでいてくださる主イエスだからこそ、一緒に礼拝をしていてくださる。今私どもがしている礼拝です。
この旧約聖書の引用について、丁寧に解説をする時間は残されておりませんが、いずれも詩編、あるいはイザヤ書の言葉です。しかし特に私どもの心を打つのは最初の引用、これは詩編第22篇の引用です。先ほど私どもも、この詩編をご一緒に読みました。
「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」。
ヘブライ書は、もちろん、この詩編がどのような言葉で始まる詩編であり、何よりも、この詩編の最初の言葉を主イエスが十字架の上で叫ばれたことを忘れてはいなかったと思います。
わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
私どもを兄弟と呼ぶことを恥となさらない主イエスが、こう叫ばれたのです。しかもここで私どもが真剣に悔い改めればならないことは、このような主イエスのことを、私どもは今もどこかで恥じているということです。福音書に出てくる弟子たちが、なぜ主イエスのことを真っ先に捨てたか。こんな人を救い主として信じていると人に知れたら恥ずかしいと思ったからです。そんなことを公にしたら、自分の身が危ないと思い込んだからです。多くのキリスト者が共感することであります。しかし、私どもがキリスト者であることを恥じても、イエスは私どもを兄弟と呼ぶことを恥とはなさらない。そして私どもと一緒に、いやむしろ私どもの先頭に立って神を礼拝し、「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言ってくださる。今も神の名を忘れそうになる私どもに、神の名を教えてくださる。そして「わたしは神に信頼します」と言い、つい神に対する信頼の心を失いそうになり、人間の道から落ちそうになる私どもの先頭に立ってくださる、そして、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」。神よ、どうか見てください。ここにあなたが与えてくださった子らがいます。わたしの自慢の兄弟ですと、私どもを神の御前に紹介してくださるのです。それが、17節で、「イエスは神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって」と言われていることの意味です。
このような兄弟イエスがいてくださるからこそ、今は、私どもも死の恐れから解き放たれました。恐れることはない。ただこの主イエスの後に従って、人間らしく生きることができるのです。そのような歩みは、たとえば小さな家庭での生活から始まるかもしれません。しかし、もしかしたら主を愛する愛を貫き、殉教さえさせていただけるかもしれないのです。私どもの、この教会の歩みの先頭に立っていてくださる方、これが私どもの兄弟イエスです。このお方は、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と言われます。すぐにつまずいてしまう私どもの貧しい歩みを、主イエスもよくご存知であると思います。だからこそ、私どもの兄弟となってくださる。今、私どもに代わって神の名を呼び続け、私どもの心に神への信頼の心を新しく蘇らせてくださるのです。ここに、人間が人間らしく生きる道がある。私はそのように確信しております。
皆さんひとりひとりの主の弟子としての歩みの上に、確かな神の導きがありますように。神を信じない者と共に生きるその生活の中にも、主の愛を映す歩みを、神ご自身が、イエスご自身が作ってくださるよう、心より主の導きを祈ります。お祈りをいたします。
今も私どもの先頭に立ち、「わたしは神を信頼します」と歌い続けてくださる主の姿を仰ぎます。改めてあなたに願います。わたしも、あなたを信頼することができますように。そこに生まれる主に似た愛の歩みを、互いに仕え合う歩みを、新しく造り始めることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン