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み言葉体験

2012年1月15日

ルカによる福音書第7章1-10節
川﨑 公平

主日礼拝

先ほどお読みしました旧約聖書エレミヤ書第20章9節にこういう言葉がありました。

主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。

非常に印象深い言葉です。そうではないでしょうか。神に捕らえられ、神の言葉を語る者として神に召された預言者エレミヤの祈りの言葉、告白の言葉であります。神の言葉を語るということは、預言者のエレミヤにとっては楽なことではありませんでした。辛いことばかり。神の言葉は確かに聴いた。しかし、もう忘れよう。なかったことにしよう。……と思っても、「主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります」。もう押さえつけておくことはできない。「わたしはもう疲れ果てました。わたしの負けです」。神の言葉が勝利する。そのことを認めざるを得ない。(ここ改行せず)
皆さんは、そういう経験をお持ちではないでしょうか。
ちょうど2年ほど前ということになります。私が前任地の松本の教会を離れて、いよいよ春から、この鎌倉雪ノ下教会の出身でもある本城仰太先生を新しく後任の伝道者として迎えようとその準備をしていた時に、その赴任の前に、既に一度、二度、松本の教会に来ていただいて説教をしていただいたことがありました。二度目にお招きしたときであったと思いますけど、松本の教会の人たちは「今度来る新しい先生はどんな人であろうか」と思っていますから、本城先生の愛誦の聖句を伺って、それを教会の人たちのために教えていただくということをいたしました。その時に教えていただいたのが、このエレミヤの言葉でした。礼拝の後、本城先生とその愛誦聖句の紹介をしながら、私にとっては初めて読んだ言葉ではなかったはずですけれども、一種の感動と言いますか、衝撃をもってこの言葉を読みました。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて……」。30歳をようやく越えたというこの若い伝道者は、いったいどこでそういう経験をしたのだろうかと思わされたものです。「わたしの負けです」。神の言葉が勝った。だから、私は主の言葉を語らざるを得ない。そのような者として私はここに立つと、伝道者の神に対する告白の言葉を聞いたような思いがいたしました。そこで改めて問います。みなさんはそのような経験をどこかでしたことはおありではないでしょうか。

私がこの鎌倉雪ノ下教会に来て以来、一昨年の5月からこのルカによる福音書を読み続けております。今、年を越して足掛け3年目に入ったというところで、その第7章にようやく入りました。この第7章の最初のところを説教しようと準備していて、どうしてもこのエレミヤ書の言葉を併せて読みたいと思いましたのは、第7章の1節にこういう言葉があるからです。「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」。このところをしかし、別のある日本語訳の聖書ではこのように訳しておりました。「イエスは、そのすべての言葉を人びとの耳に満たされてから……」。どこが大きく違うかお分かりになったでしょうか。原文では、「満たす」という言葉がはっきりと用いられています。私は決してギリシア語をすらすらと読めるほうではありませんけれども、この新約聖書の原文のギリシア語を読むと、力強い文体で書かれているということが私にも分かる、そういう文章だと思いました。「彼はそのすべての言葉を満たした。人々の耳の中に」。ああ、主イエスさまが地上のご生涯でなさったことは、要するにこのことなのだなと思いました。人びとの耳に、ご自分の言葉を満たしていかれる。「耳」というのは実は意訳でありまして、もとのギリシア語をもっと直訳すると「聴覚」と訳したほうが良いかもしれません。聴覚のあるところ、どこでも主イエスはご自身の言葉をその心の中、骨の中に満たしていかれた。聞く人々の状況がどうであろうと、その人の心の準備ができていようと、いなかろうと、主イエスは耳のあるところではどこでも、ご自身のすべての言葉を満たしていかれた。

今日この礼拝においても、主イエスがそのようなみわざを続けておられると信じて、私どもはこの礼拝をいたします。皆さんの心の中に、骨の中に主の言葉が満たされる。そのようなみわざを今日も主イエスはしてくださっていると信じて、私はここで説教をするのです。

このような主イエスのお心のうちを、なおよく読み取ることができますのが、今度は終りの方にいきますが、第7章9節の言葉であると思います。

イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。

ここで「感心し」と訳されております言葉は、普通は「驚いた」と訳す言葉です。大学などでギリシア語を学びますと、この言葉は割と早い段階で覚える人が多いと思いますけれども、まず真っ先に覚える意味は「驚く」です。主イエスはここでびっくりしておられる。なぜか。信仰が見つかったからです。福音書を読んでおりますと、むしろ、「主イエスは人々の不信仰に驚かれた」という表現がところどころに見つかりますけれども、ここではそうではなくて、信仰が見つかって驚いた。「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」。私はずっと信仰を探してきたのだ。主イエスが人びとの心に、そのすべての言葉を満たしてこられたのは、信仰を探すためでした。神を信じる者はいないのか。どこにもいないのか。そういう思いで、ずっと探してきた。イスラエルの中を、神の民の中を探してきた。けれども見つからなかった、と思ったら、ついに、見つかった。こんなところに見つかるとは! 「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見つけたことがない」。もちろん驚きながら、主イエスは喜んでおられたと思います。人々の耳に言葉を満たしてきた甲斐があったと、そのような喜びの言葉としても聞き取ることができるお言葉であります。

もちろんそこで改めて問わなければならないことは、主イエスがこの鎌倉雪ノ下教会の礼拝をご覧になって、ここにも信仰が見つかったと喜んでいただけるかどうか、ということです。

今日お読みしたこの福音書の事の発端になりましたのは、この百人隊長の部下のひとりが、死に瀕したことでした。この百人隊長にとって、特に大切な部下であったようです。そこで彼は、ユダヤ人の長老たちを介して、何とか助けに来てほしいと主イエスに頼みます。3節にはっきりそう書いてあります。来て欲しい。ここに足を運んで欲しい。そう願った。ところがその先、少し話が複雑になってまいりまして、6節以下を改めて読んでみます。「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。。『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました』」。明らかに、一度ははっきりと「来てください」と言っておきながら、そして主イエスもその願いに応えて、ほど遠からぬところまで来ておられるのに、「やっぱり来なくていいです」。常識的に言えば、少し失礼なことをしていると、読まれかねません。その心のうちに矛盾があるのではないかと、思われるかもしれません。しかし、多くの人はそうはお読みにならないと思います。来ていただきたい。しかし待てよ、その資格もない。しかも、そのような謙遜な姿勢が主イエスに褒められたというわけでもないのです。

ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。

面白い言葉だと思います。明らかに、ここにこの百人隊長の信仰の特質が現れてきます。しかも、この百人隊長の信仰というのは、自分自身の軍人としての経験と、深く結び付いています。よく分かる言葉です。このわたしでさえ、行けと言えば行くし、来いと言えば来る。まして、主イエスよ、あなたのお言葉にはそれ以上の権威があるはずです。そう言うのです。

「わたしも権威の下に置かれている人間です」と申します。ひとりの軍人として、権威のある言葉というのがいったい何を意味するのかということを、よく知っていたのだと思います。百人隊長というのは、100人の兵隊を自分の部下として従えている人という意味ですが、自分が「進め!」と言えば、その100人は進んでくれる。「止まれ!」とひとこと言えば、全員がピタッと止まる。なぜそんなことが起こるのだろうか。自分にそういう権威が与えられているということを、むしろ恐れを持って受けとめていると思います。自分の一言が部下の命までも握っている。そのことを恐れつつ、(ここ改行せず)けれども、ここで改めて知る。この主イエスという方は、もっと大きな権威のもとに生きておられる方だ。そのことを認めた。だから、言うのです。「ひと言、おっしゃってください」。ひと言でいい。あなたの言葉をいただきたいのです。多くの言葉は必要ありません。一言でいいのです。ほかの人の言葉では困ります。しかしあなたの言葉であれば、ひとことでいい。そのあなたの言葉が必要なのです。神の言葉を語られる、その主の権威の前に、ひれ伏したのであります。

私が2年前この鎌倉雪ノ下教会の牧師として赴任したその2日目に病床を訪ねて、その翌週には葬儀をしなければならなかった、Aさんという、教会員の方がおられました。初めてお訪ねしたときに、既にご家族は、葬儀の日が遠くないことを覚悟しておられました。大きなマスクをして、本当に苦しそうに呼吸をしているAさんに、新しく来た牧師ですと挨拶をすると、「感謝、感謝!」「言うことなし!」 おもしろい信仰の表現だと思いました。

このいかにも謹厳実直な人はいったい何者であろうかと、少し不思議な思いを抱きながら、病院を後にしたその帰りの車の中で、あの人はもともと海軍出身の人で、戦後も自衛隊に長く勤めた方だと伺いました。なるほどと思いました。本当に苦しそうに呼吸をしながら、けれどもなお最後に残った言葉が「感謝であります!」 深い感銘を受けながら、迷うことなくその葬儀の礼拝で、この百人隊長の物語を説教いたしました。

このAさんという方は2000年にこの教会で洗礼をお受けになりました。それからしばらく経って発行された教会の記念誌に、ご自身の信仰の歩みについてお書きになった文章があります。その中に、初めてこの教会に通い始めたころのことを振り返って、こういう言葉を記しておられます。「加藤牧師の説教を聞いて足が震えた」。こういう感覚で、教会の言葉をお聞きになった方はいらっしゃるでしょうか。足が震えた。この文章を、亡くなってすぐに、まだご健在の奥様がお読みになって、こんなことを夫が書いていたなんて知らなかったとおっしゃいました。こんな話、私は聞いたことがない。奥様にも話すことのできないような、ただひとりで神と向かい合う経験があったということだと私は理解しました。若いころから海軍に入り、長く自衛官として勤め、上官の命令は絶対だという世界に生きながら、けれども70歳、古希を迎えて、これまでに見たこともないような権威に出会ってしまう。その言葉を聴いて足が震えた。けれどもその恐れは、感謝と喜びとひとつとなるような恐れでもありました。「感謝であります!」

葬儀の打ち合わせをしたときに、奥様がこんなものが見つかったと驚いて、牧師に見せてくださったものがありました。聖書の言葉だけを書き記した、何十冊にも及ぶ大学ノート。それも奥様は全然ご存じなかったそうです。そこにも、あの百人隊長と同じ信仰の姿があると私は思いました。あなたの言葉だけでいいのです。「ただ一言、あなたの言葉をください」。そうすれば私は救われる。私は生きることができる。

このルカによる福音書が伝える百人隊長の物語について、多くの学者たちが指摘するひとつのことは、この百人隊長は、結局、主イエスにお会いしていないということです。なぜ学者たちがそのことを強調するかというと、新共同訳聖書を見ると一目瞭然ですが、マタイ福音書にも、ヨハネ福音書にも、同じような物語が記されている。けれどもマタイもヨハネも、ちゃんとこの男は主イエスにお会いしているように伝えています。その前に跪いている。どこからどう話が食い違ったか、ルカによる福音書は、実際にはお会いしていないのだという話に作り変えたのだと、そのように批判的に、あるいは客観的に説明する学者が多いと思います。しかし問題は、なぜそういうことをしたのかということです。この百人隊長も、もちろん癒されたその僕も、直接主イエスにお会いしたわけではない。その肉声を聞いたわけでもない。けれども、そのような福音書の物語を読んだのちの教会の人びとは、惜しいことをした、もうちょっとで本物のイエスさまに会えるはずだったのに、とは思わなかったと思うのです。深く慰められてこの物語を読んだと思います。わたしたちと同じだ。わたしたちも、この百人隊長と同じように、イエス様の言葉を聞いて、今、このように生かされているではないか。

個人的なことで恐縮ですが、私は今年2012年の春で、伝道者としての歩みを始めてようやく10年の節目の年を迎えます。あれ、もういつの間にか10年も説教をし続けているのか、とも思う一方で、私自身の実感からすれば、まだまだ駆け出しの牧師であるというような思いが、正直なところです。見てのとおり若者ですから、皆様から見ても、いろいろと頼りないところがあるかもしれません。10年前の春、27歳で神学校を卒業し、すぐにひとつの教会の主任担任教師として働き始めました。とにかくほとんど毎週自分で説教をしないといけないということが、こんなに大変なことであったか、というのが私の伝道者スタートの最初の思いでした。というよりも、説教するとはどういうことか、そのことがまだよくわかっていなかったと言った方が正確かもしれません。それでもとにかく、毎週、説教に打ち込んでおりました。赴任して何回目の説教であったか、ある時、いくら何でもこれはアウトだと、自分でも思うような説教をしたことがありました。もう説教の最初から終わりまで、自分の言葉が教会の人たちの頭の上を通り越して、その向こうにむなしく消えていくような、そういう感覚を覚えました。少々暗い気分になっていたその次の日曜日、その日は説教しなくてよかった。私の伝道師就任式のために教区の副議長が来てくださって、午前中の礼拝の説教も、その先生がしてくださいました。その時に読まれたのが、このルカによる福音書第7章の、百人隊長の記事であります。説教の題もよく覚えております。「ひと言おっしゃってください」。百人隊長の言葉がそのまま説教題として掲げられました。ただひと言でいい。あなたのひと言があれば、わたしも、わたしの僕も救われる。そのように主イエスの言葉を心から信頼してほしい。この説教者が語る主の言葉を、そのように重んじてほしい。ただひと言でいい。主イエスの言葉を聞きとることができれば、あなたがたの救いは間違いないのだ。伝道者に、それ以外のことを求めてはならないのだ、とも言われました。私が折に触れ、心に刻む説教のひとつであります。

この物語はこのように締めくくられております。10節、「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」。使いに行った人たちが、その言葉を伝えたら、そこで元気になったというのではないのです。帰ってみると、その言葉を、主イエスの言葉を伝えるまでもなく、すでに元気になっていた。その事情を説き明かしたある説教者は、このように申しました。「主イエスの言葉が百人隊長の家を先に訪れておりました」。慰め深い言葉だと思いました。そしてもう一度申します。このルカ福音書を読んだ人々は皆、主イエスの言葉の訪れを、今、自分たちに起こる、主の訪れそのものとして聞き取ったのです。聖書を読みながら、そうだ、主イエスの言葉が、今この私を訪ねていてくださる。そのことを確信したのであります。

私どもが読んでおります、このルカによる福音書というのは、ひとつの言い方をすれば、「主イエスのご訪問」を大切にする福音書であると言うことができます。例えば、このルカによる福音書の序章とも言うべき第1章、第2章の、いわゆるクリスマスの物語を語るところで、「訪れ」と言う言葉がどこで出てくるか、お調べになると面白いことが分かると思います。洗礼者ヨハネの父親であるザカリヤという祭司が、主イエス・キリストがお生まれになる、そのように神の御業が始まったのだということを説き明かすような、ザカリヤの賛歌と呼ばれる歌をうたいました。第1章68節で「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し」と歌うのであります。その歌の結びにも、「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」。神の救いとは、神の訪れのことであると、そうルカは理解したに違いない。もう少し有名な箇所を思い起こしておられる方もいるでしょう。第19章では、徴税人ザアカイという人が、主イエスを一目見ようと木に登って、けれどもすぐに見つかってしまったという物語があります。このザアカイが喜んで主イエスを自分の家へ迎えたところ、主イエスは厳かに宣言なさる。「今日、救いがこの家を訪れた」。来週読みます第7章の11節以下にも、同じ言葉が出てまいります。その16節に「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また『神はその民を心にかけてくださった』と言った」。この最後の「心にかけてくださった」という言葉が、ルカによる福音書がしばしば用いる、「訪れる」と訳されている言葉と同じ言葉なのです。「神はその民を心にかけてくださった」。ただ心にかけるだけではない。きちんと訪れてくださった。

その主イエスのご訪問は、今ここでも起こるし、これからも起こり続ける。主イエスのお言葉がここに聞こえます。今すでに、主のお言葉が先に訪れています。その主の言葉の訪れが、皆さんの心を満たし、骨の中まで満たし、押さえつけておこうとしても、火のように燃え上がってきます。今ここにも訪れてくださる主イエスの御前に、改めて膝をかがめ、賛美と感謝をお捧げしたいと思います。そして、皆様がここから出て行く、その歩み一歩一歩に、抑えつけておこうとしても燃え上がってくるような、主イエスの御言葉の訪れがいつも伴ってくださるように、心より祝福を祈ります。 お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、今私どもは、あなたの言葉を聞きます。今はもう、抑えつけておこうとは思いません。喜んで、あなたの言葉を受け入れたいと願います。私どもの命を支え、そして私どもが心にかけている隣人たちの命を支えるあなたの言葉を、今新しい心をもって慕い求めたいと、心より願います。どうぞ、あなたの言葉をいつも聞かせてください。

主の御名によって祈ります。アーメン。