あなたの十字架
マルコによる福音書 第15章21-32節
川崎 公平
主日礼拝
■神に招かれて、ここに来られた皆さまひとりひとりの上に、心より祝福を祈ります。いつも私どもの教会はこのように毎週日曜日の朝に、神を拝む〈礼拝〉をしているわけですが、特に今朝は〈伝道礼拝〉と称しております。「え、ちょっと待って、『伝道』っていったい何のことだ」という方もおられるかもしれませんが、まさしくそのような方のための礼拝です。初めてこの教会に来られた方、教会という場所自体が初めてという方、久しぶりに教会の礼拝に来られたという方もいらっしゃるかもしれません。この礼拝のための案内状を受け取って、あるいは誰かから声をかけられて、思い切ってここに来る決心をしてくださった方もおられるかもしれない。けれども、もっと深いところで捉えれば、神がひとりひとりを招いて、ここに連れて来てくださった。そう信じて、教会は礼拝をしております。
■先ほど読みましたマルコによる福音書第15章の21節に、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」という人が出てきます。ここにも、たいへん不思議な仕方で主イエス・キリストに招かれ、そして信仰に導かれた人が紹介されていると読むことができます。
主イエス・キリストは、十字架という道具で処刑されました。これは多くの人がよく知っていることだと思います。その十字架の柱の横木のほうを、受刑者が自分で運ばなければならないというのが当時の決まりでしたが、主イエスにはもうその体力が残っていなかったらしいのです。そこで、ローマの兵隊たちがシモンを「徴用した」と書いてあります。「おい、そこのお前、こっちに来い。お前が代わりに担げ」。「徴用」というのはいやな言葉ですが、私どもの国にも80年前には同じような制度がありました。お国に徴兵されたら、喜んで出征しなければなりません。鉄が要るからお前の家の鍋を出せと言われれば出さないといけない。この教会も、80年前に教会堂の鐘まで持って行かれた。もちろん返してもらっていません。徴用というのはそういうことです。その時のシモンからしたら、とんだ災難でしかなかったでしょう。
ところがこのシモンという人は、のちに洗礼を受けてキリスト者になり、もしかしたら牧師というような教会の指導者にまでなったと言われます。なぜそういう推測が成り立つかというと、このシモンはアレクサンドロスとルフォスの父であると、何の説明もなく記されているからです。何の説明もないというのはつまり、マルコによる福音書を最初に読んだ人びとは、説明がなくても、この家族のことを知っていたということでしょう。福音書が書かれた頃、年代的に考えてシモンは死んでいたのかもしれません。ふたりの息子、アレクサンドロスとルフォスが教会の中で活躍していたのかもしれません。そういう教会の交わりの中で、キリストの十字架の物語が語り継がれました。「ほら、これ、ルフォスのお父さんの話だよ」などと言いながら。というよりも、まずシモン自身が、何度も自分の話をしたと思います。「イエスさまの十字架は、こんなに重かった」。
当然のことですが、シモンが主イエスの十字架を代わりに運んだとき、すぐに信仰を持ったわけではないでしょう。十字架の横木を運ぶというのは、日本的に言えば要するに「市中引き回し」ということですから、シモンは人生でいちばん恥ずかしい思いをしただろうと思います。そんなシモンが、どういう経緯で信仰に導かれたのか、これはよくわかりません。けれども、シモンにとって、「わたしは、あの十字架の重さを体で知っているのだ」ということが決定的な意味を持ったことは明らかです。そこで大切なことは、そこにも神の導きがあったということです。シモンも、神に招かれた。しかも聖書は、このシモンの経験をシモンだけの珍しい経験として書いてはいないと思います。
■「イエスの十字架を担がせた」と書いてあります。ローマの兵隊がシモンを徴用して、無理に十字架を担がせたのですが、聖書の本来の意図からすれば、本当は神がシモンを徴用された。徴用という言葉が悪ければ、神がシモンを捕らえてくださった。招いてくださった。そして、神がシモンに、「十字架を担がせた」のです。マルコがこの言葉を記したとき、はっきりと思い起こしていた言葉があると思います。
「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(第8章34節)。
一度聞いたら忘れられない言葉だと思います。そしてマルコは、シモンこそがこの言葉を実行させられた最初の人であると理解していたと思います。無理やり徴用されて、自分を捨てさせられ、十字架を背負って、主イエスのあとを歩いたのです。皆さんも、このシモンのあとに続くことが求められています。このシモンの姿は、わたし自身の姿でもあるのです。
しかし、どうでしょうか。「自分の十字架を負って」と言われるのですが、どうもわかったような、全然わからないような言葉だと思います。自分の十字架って、いったい何だろう。先に皆さんをがっかりさせるようなことを言うかもしれませんが、「自分の十字架」とは何か、「あなたの十字架」、それはこういうことですよ、というわかりやすい話をする予定はありません。わかりやすく話せるならそれに越したことはないかもしれませんが、それは難しいと思います。「自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従う」。たとえば、自分を犠牲にして、キリストを見習って、隣人愛に生きるとか、そういう話を期待する方もいるかもしれませんが、このシモンが隣人愛に励んだなんて話はひとつも出てこないのです。
シモンがさせられたことはただ、キリストの十字架を代わりに担いで、そのうしろを歩いただけです。十字架刑の一部始終を、目撃させられたということだけです。それだけで既に、シモンは生涯、十字架の重みを忘れることはできなかっただろうと思います。「イエスさまの十字架は、本当に重かった」。どうしてあの十字架は、あんなに重かったんだろう。なぜあのお方は、あんなに苦しんだんだろう。なぜ人間は、あのお方をあそこまで苦しめたんだろう。あの十字架の重さは、いったい何の重さだったんだろう。
■シモンはかくして、イエス・キリストの十字架の苦しみの一部始終を目撃させられることになりました。いったいシモンはそこで、何を見たのでしょうか。神は、何を見せてくださったのでしょうか。そこで聖書が丁寧に伝えることは、これは意外なことかもしれませんが、十字架という処刑の方法がどんなに残酷だったか、ということではありません。もし私がここで、十字架という処刑の方法についてその詳細を語り始めたら、きっと何人かの方は体調が悪くなるだろうと思います。ところが不思議なことに、聖書は、マルコによる福音書だけではありません、聖書のどの頁を探しても、十字架がどんなに残酷な方法であったか、そういうことを強調する箇所は見つかりません。なぜかと言うと、そういうことは人間の救いに何の関係もないからです。
そうではなくて、聖書がここで強調することは、十字架がどれだけ残酷かという話ではなく、人間がどれほど残酷であったかということです。シモンが主イエスの十字架を仰ぎながら聞いたに違いない罵りの言葉が、29節以下に書いてあります。
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスを罵った。
いろんな人が、いろんなことを言ってイエスを罵ったというのですが、実は皆が同じことを言っております。「今すぐ十字架から降りて来い」。「他人を救ったのなら、自分を救ってみたらどうか」。今皆さんにとっても、実はこれがいちばん大切なことだと思うのです。なぜこのお方は、十字架から降りて来なかったんだろう。なぜこのお方は、自分を救わなかったんだろう。
■今朝は、伝道のための礼拝をしております。伝道のため、というのはわかりやすく言い換えると、私ども教会はこのイエス・キリストというお方をすべての人の救い主として信じているので、だからこそまた今日は特に、まだキリストを信じていない、洗礼を受けていない方のために呼びかけて、どうかこのお方を信じて救われてくださいと、そういう話をしたいわけです。けれども、そこでよく考えていただきたいのですが、いったい救われて生きるってどういうことでしょうか。今日はこういう趣旨の礼拝ですから、私が教会のいろんな方から釘を刺されたことは、先生、この日だけは難しい話はしないでくださいね、わかりやすい話をお願いします、と言われていたのですが、わかりやすい話ができる自信がまったくありません。やっぱり難しいですよ。イエス・キリストこそ救い主とか言われたって、じゃあその救いって何だ。決して簡単な話ではないのです。
救われるって、どういうことでしょうか。いろんなことが考えられると思います。生きる力を与えられたい。つらいことがあっても乗り越える力を得たい。自分の生活を良くしたい、豊かにしたい、できれば自分だけでなく、周りの人も幸せにしたい。そしてそのために、神さま、こうしてください、ああしてくださいと、私どもはいろんなことを願うのですけれども、そういう私どもの願いを象徴的に表現した言葉が、「十字架から降りて来い」という、この言葉になるのではないでしょうか。逆に、十字架から降りて来ることもできない、自分で自分を救うこともできない、そんな人が救い主だとか言われても、ちょっと信じにくいのです。
主イエスの十字架の周りで、好きなだけ悪口を言い続けた人びとは、決して、誰がどう見てもわかるような悪人ではなかったと思います。皆、ふつうの善良な市民です。そして、皆どこかで救いを求めているのです。十字架につけられたって、軽々と宙返りでもしながら降りて来て、その力で自分を救い、もちろんついでに世界中を救い……そのような人びとの素朴な願いが裏切られたとき、ふつうでは考えられないほどの罵詈雑言が生まれました。
そして私は、たとえばこういうことを考えるのです。もし現代の日本にもう一度主イエスが同じような姿でおいでになったら、どういうことになるだろうか。たくさんの人が、このお方に心惹かれるかもしれません。たいへんな期待を寄せるかもしれません。ぜひイエスさまに総理大臣になっていただきたいと、そんな運動を始める人だっているかもしれません。そして結局、もう一度このお方を十字架につけてしまうかもしれません。「キリストとか言いやがって、結局何の役にも立たないじゃないか。他人を救うようなふりして、自分すら救えないじゃないか。今すぐ十字架から降りて来いよ。そうしたら、信じてやったっていいんだぞ」。
■もしも現代の日本にもう一度イエスさまが来られたら、などと申しましたが、そういう設定の漫画があります。『聖(セイント)☆おにいさん』という作品で、先に言っておきますが、個人的には大好きです。あと、小学生のうちの息子も大好きです。イエスさまとブッダが長期の休暇をもらって、日本にバカンスに来ているという設定なのですが、さすがイエスさまとブッダ、と言うべきでしょうが、バカンスといえどもかなりつつましい生活をしておられます。東京のはずれにある昭和な感じのアパートにお住まいになられて、それでも家賃の支払い日に怯えたり、古いパソコンを粘り強く使い続けたり、ばかばかしいような話ですが、不思議と人気のある漫画で、もう20年近く連載が続いているそうです。そういうのを読むと、一方では牧師としてたいへんうれしいんです。「ああ、イエスさまって、こんなに日本の人たちに愛されているんだ」。そんなの当たり前だろ、と思われるかもしれませんが、決して当たり前ではないと思います。こんなに愛されているイエスさまが、なぜよりにもよって、十字架という方法で殺されなければならなかったか。もちろん、その漫画のイエスさまと、聖書の伝えるイエス・キリストとは、まったく別ものです。
ひとつこの漫画で気になることは、よくイエスさまが石をパンに変えるのです。イエスさまが、なんと言いますか、ハッピーな気持ちになると、ちょっとしたことでいろんなものがどんどんパンに変わっちゃう。ついでに、同じ仕組みでただの水が赤ワインに変わっちゃう。聖書にそういう話がまったくないとは言えないのですが、その上でよく覚えておかなければならないことは、むしろ主イエスは、悪魔の誘惑に対して、「わたしは石をパンに変えるような救い主にはならない」と断言なさったということです。主イエスが公の活動を始められてすぐ、40日間荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになりました。40日間、飲まず食わずで、そこで最初に受けた誘惑が、「石をパンに変えたらどうだ。そうやって自分を救い、また他人を救ったらどうだ」。それに対して主イエスがお答えになったのが、たいへん有名な言葉で、「人はパンのみにて生くるにあらず」。どうでしょうか。「ああ、本当にそうだ」と感服してくださる方もあるかもしれませんが、その一方で、そんな非現実的な教えがあるか、と反発される方だってあるだろうと思います。
■話がいろんなところに飛んで申し訳ありませんが、かつてこの鎌倉雪ノ下教会で長く牧師をされた、加藤常昭先生という人がいます。残念ながら、今年の春に亡くなられました。あるとき加藤先生が、ドイツの教会に招かれて説教をさせていただいた。礼拝のあともその教会の人たちとお昼ごはんを食べながら集会をしていたら、突然その教会の牧師が「ちょっと休憩しよう」と言って、集会を中断して、すぐに加藤先生を別室に連れて行って、何と言われたかというと、「いきなりナチの批判をされても困る。あの人たちの中には、今でもヒトラーを懐かしむ人たちが何人もいるんだから。わかったね」。ところが加藤先生は、そのあと逆にその人たちに率直に聞いたそうです。「皆さんの中に、まだヒトラーの時代を懐かしむ人たちがいるそうですね。なぜですか」。そんなことはわかりきったことで、ヒトラーが政権を握ったころ、例の1929年の世界大恐慌で、ドイツの経済も大打撃を受けて、町は失業者であふれかえっていた。ところがヒトラーが政権を取ったとたんに、あっという間に失業者はいなくなり、国がどんどん豊かになって、そのおかげで「われわれはドイツ人なのだ」ということがどんなに誇らしいことになったか。それは、一部のドイツ人にとっては、今なお忘れることのできない出来事だったのです。
石をパンに変える救い主であります。十字架につけられたって、軽々と降りて来て、逆に敵を成敗してくれる救い主です。ところが、そのような救い主のとりこになったドイツの人びとが、ヒトラーに扇動されて、ユダヤ人は昔から金もうけだけは上手なんだ、そのせいで大昔から世界中の人がどんなに苦しめられてきたか、と思い込んだときに、悪魔が現れたとしか考えられないような恐ろしいことが起こりました。
「人はパンのみにて生くるにあらず」というのは、霞でも食べていなさい、という話ではありません。むしろ主イエスというお方は、生身の人間として、飢えるということがどんなにつらいことか、よくご存じでした。人間という生き物が飢えたときに何を考えるか、どんなに恐ろしい罪に誘われるか、主イエスはよくご存じだったのです。「人はパンだけで生きるのではない」と言われたって、きっとわれわれは、「いや、でも、それは建て前でしょう。現実はそう甘くはないですよ」などと偉そうな顔して言うでしょう。そういう私どもが、そのくせ他人の飢え渇きにはどんなに鈍感であるか、ちっとも反省しないのです。その意味で、ただ80年前のドイツ人をあざ笑うことは許されません。私どもだって、同じ立場に立たされたら、同じことをしたでしょう。同じ罪人なのです。
■そういう罪人の私どもを救うために、主イエスは最初から心を決めておられました。自分は絶対に、石をパンに変えるような救い主にはならない。自分で自分を救うこともしない。神のみ心であるならば、十字架につけられてもそこから降りない。その上で、私どもにも言われるのです。「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」。私どもも、シモンのように、キリストのうしろについて歩くことはできると思います。シモンと同じようにではなくても、「なぜイエスさまの十字架は、こんなに重いんだろう」と、思いを深めることはできると思います。その十字架の重さは、私どもの罪の重さでしかなかったのです。そのことに気づいたら、きっと私どもも、小さなわがまま、大きなわがままを捨てることができるだろうと思います。他人の飢え渇きにも、少しは敏感になるかもしれません。そうやって少しずつでも「自分を捨てる」練習をしていくことも、できるかもしれません。
けれどもいちばん大切なことは、石をパンに変えようとされなかった救い主を、わたしが殺したんだ。われわれが殺したんだ。それは人間にとって、いちばん絶望的なことでした。もし、このお方がそのまま死人の中からお甦りにならなかったとしたら、この世界には本当に絶望しか残らないのです。けれども、もし、このお方がお甦りになったのであれば、私どもはもう一度、このお方に対する態度を決めなければならないのです。
どうかそのために、今朝ここに招かれた皆さんが、今日だけでなく、来週もこの福音書の続きを読みますから、ぜひここに来てくださるようにと願っています。来週も、その次の週も、せめてこのマルコによる福音書を読み終わるところまで、共に礼拝をする仲間が新しく加えられることを、私どもの教会は心から願っています。神に招かれた皆さんひとりひとりの上に、神の導きがありますように。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、あなたに招かれて、あなたのみ言葉を聴きました。主の十字架の重さを思いながら、自分の罪を思い、またこの世界の罪を思うことができますように。今、主の苦しみのしるしである聖餐をいただきます。キリストの体、キリストの血であります。なぜこのお方が血を流さなければならなかったか、そのことを思うと共に、なおひとりでも多くの人が、この食卓の前にひざまずくことができるように、あなたの導きを心より願います。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン