解放
ローマの信徒への手紙 第8章1-11節
川崎 公平

主日礼拝
■もう1年以上ローマの信徒への手紙を礼拝で読み続けてまいりまして、今日から第8章に入ります。ローマの信徒への手紙、伝道者パウロの書いた手紙の中でも最も大きな手紙、見方はいろいろありましょうがおそらくはいちばん大事な手紙であると言っても過言ではない、そのローマの信徒への手紙の最大の山というか、ひとつの頂点が第8章です。その最初に、こう書いてあります。
従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません。
パウロは、この言葉を遂に書くことができたとき、どんなに深い思いに誘われたことだろうかと思います。簡単な言葉では言い表すことのできないような、深い喜びを爆発させるような思いで、「結局わたしが言いたいことは、この一句に尽きるのだ」と、この第8章1節の言葉を書いたと思います。「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」。
もう少し原文の味わいを生かして、私なりに訳し直してみると、こんな感じの文章です。「何もない、かくて今や、いかなる断罪も、キリスト・イエスの中にいる者にとっては」。まず最初に何と言うかというと、「何もない、かくて今や」。今は、これまでとは違う、特別な時なんだ。その特別な「今」という時に、完全になくなってしまったものがある。「何ひとつない」と、きっちり否定しておかなければならない事柄がある。何がないのかというと、「断罪は」と言います。これも強い言葉です。「キリスト・イエスの中にいる者には、いかなる断罪もない」。どんなに幸せそうな生活をしていても、どんなに力があり、富があり、知恵があるように見えても、もしもその人の上に神の断罪が降りかかるというのであれば、何の意味もありません。ところが、キリストにある者には、その頭上にいかなる断罪もないと言われるのです。
ダモクレスの剣という古代ギリシアの伝説があります。ダモクレスという人が王さまの権力にすばらしさをほめたたえて、「いやあ、王さまは本当にすばらしい、本当にうらやましい」ということを申しましたら、その王さまはダモクレスを宴会に招いて、特別にいつも自分が座っている王座に座らせてあげたというのです。「一度お前もここに座ってみたらどうだ。王座の座り心地を味わってみたらどうだ」。ところがダモクレスがふと上を見上げると、王座の頭上には細い一本の糸で重い剣がぶら下がっている。ダモクレスは慌てて、冗談じゃないと、その王座から逃げ出したという話です。それと同じように、人間の生活には、いつでも、罪と死のゆえにダモクレスの剣のような断罪が、頭の上にぶら下がっている、はずなのに、ところがキリスト・イエスの内にある者は、いかなる断罪も、その頭の上にかかっていない。解き放たれたのだ、と言うのです。
■そのことを2節ではこう言います。「キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。あなたは、解放されたのだ。罪の剣から。死の剣から。断罪の剣から、あなたは解放されたのだ。ここにまた多くの人が注目する表現があって、「あなたを解放したからです」と書いてあります。なぜそれが多くの人を注目させるかというと、少なくともこの前後の文脈の中には、「あなた」という言い方はどこにも出てこないからです(厳密には第2章の最初のところにも「あなたは」という言い方が出てきますが、そのあたりは話がずいぶん違います)。
それですから、少しややこしい話をするようですけれども、ローマの信徒への手紙の最初の原稿というのは残っていないのです。パウロが最初にこの手紙を書いて、それからずいぶん時間が経ってから書き写された写本がたくさん残っているだけです。その写本の中には、「あなた」ではなくて、「わたしを解放したからです」と書いてあるものが、実はものすごくたくさんあります。それに比べて、私どもが今読んでいるような「あなたを解放したからです」と書いてある写本は、数だけ比べればごく僅かなのです。けれども、今日のほとんどの学者は、やはりパウロが最初に書いたのは「あなたを解放した」という文章だっただろう、と考えます。もしかするとパウロがこの文章を最初に書いたとき、その心の中でちょっとした感情の爆発が起こったのかもしれません。「そこのあなた、あなたの話ですよ!」あなたの頭上には、いかなる断罪もぶら下がっていないんだ。
「律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです」(3節)。だから、今や、あなたは罪に定められることはない。神が、あなたを解放してくださったのだ。これが、ローマの信徒への手紙によってパウロが伝えようとした福音、喜びの知らせの神髄です。なぜそれが喜びになるのでしょうか。私どもがもともと断罪されるはずだったからです。神から捨てられ、神の命から断ち切られて、死の恐れに捕らえられていたからです。けれども今や、あなたにはいかなる断罪もない。
しかも、そのために何の条件も求められないと言うのです。条件があるとすれば、それはただ、「キリスト・イエスにある者」ということだけであります。ほかに何の資格も条件もいりません。立派な信仰を表す必要もないし、誰もが認めるような力も能力も実績も、何か人徳が求められるわけでもないのです。ただキリスト・イエスの中にありさえすればいい。直訳すれば「キリストの中にいる者」という表現です。それだって「条件」とは呼べないでしょう。私どもが自分からキリストの中に入ったのではありません。私どもがキリストを選んだのではありません。キリストが、あなたを選んでくださったのです。「あなたは、わたしの内にとどまりなさい」。そうすれば、あなたの頭上にはいかなる断罪もない。
■来週の主礼拝において、柳沼大輝牧師の就任式を行います。司式をいたしますのは、神奈川教区総会議長代理としての、私川﨑公平です。正直に言えば「神奈川教区総会議長代理」ということはあまり意識しないのですが、とにかく私がこの教会に来て、ひとつ感謝していることは、この教会の担任教師の就任式を司式するようになったということです。もう何人の伝道師、あるいは牧師就任式をしてきたでしょうか。そのたびに――もちろん来週は柳沼先生の牧師就任式ですから、何と言っても柳沼先生のために祈りを集めていただきたいと思いますが――しかしまた同時に思わされることは、私自身のことです。なぜ私が牧師として召されているのか。何のためにここに立たされているのか。そのことを、牧師就任式のたびにしみじみ思います。
今日はたまたま柳沼先生がいらっしゃいませんし、「そういう話は来週の礼拝ですればいいのに」と思われるかもしれませんが、来週は来週でまたたくさん話すことがあるでしょうから、話したいことは今のうちに話しておきます。2002年に神学校を卒業して、まず信州松本の教会で8年、そして鎌倉に移って来て、自分でも信じられないのですが、丸16年間ここに立つことを許されています。合計24年も牧師の生活をしておりますと、「最初は頼りなかったけれども、だんだん板についてきた」とか、そんな余裕ぶったことを口にすることは全然できません。むしろ年を重ねれば重ねるほど、ますます自分の弱さを知ります。自分の罪深さを知ります。こういうことを、あまり率直に話しすぎると、泣き出してしまうかもしれませんので、抑制した話し方をせざるを得ませんが、牧師になってしまったからこそ犯した罪だって、山ほどあると思っています。
牧師としての生活をしておりますと、ことに牧師就任式のようなときにふと思い起こす主イエスの譬え話があります。家の主人が長い旅に出て、その留守の間、僕たちに自分の仕事を全部任せてしまわれたというのです。この主人とは、もちろん、と言ってよいと思いますが、主イエス・キリストご自身のことです。この主人は、いつかは必ず帰って来るのです。思いがけないときに帰って来る。そのとき私のような人間は、どんなに厳しく怒られるだろうかと思います。「お前は、なんてことしてくれたんだ。神さまに詫びろ。そしてわたしの教会に詫びろ」と、人間的にはそうとしか考えられないのですが、だからこそ、今私が牧師として語り得ることは、たとえばこのような場所で、自分の身をもって証しできることは、「キリスト・イエスにある者は罪に定められることはない」、「私の頭の上には、いかなる断罪もかかかっていない」という、このひとつのことに尽きるのです。
しかもそのために、同じことをもう一度言いますが、条件は何ひとつ必要ない。条件があるとすれば、ただキリストにありさえすればいい。以前用いておりました新共同訳の翻訳で言えば「キリスト・イエスに結ばれている者」ということだけであります。
■延々と牧師の生活の話をしているようにも聞こえるかもしれませんが、もちろん牧師でなくたって、誰にとっても同じことです。毎日の生活の中で、神に対しても、隣人に対しても、どうしようもない生活をしているのです。第7章15節でパウロはこうも書いています。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしているからです」。あるいは18節。「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあっても、実際には行わないからです」。それで最後に24節では、「私はなんと惨めな人間なのでしょう」。「だめだなあ、俺という人間は」。「死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか」と、そう言うのです。こういう言葉について、説明なんかいらないだろうと思います。
そういうわれわれの生活を少しでも何とかするために、世の親たちの中には、こういうことを言う人もいるかもしれません。「人が見てなくてもね、神さまは全部見ていらっしゃるんだよ」。あるいは人によっては、「神さまは」ではなく「お天道さまは」ということになるかもしれない。けれども問題は、実は私どもの罪の問題は、「神さまが見ていらっしゃるから」とか、「お天道さまが見ていらっしゃるから」とか、その程度のことでは解決しないのです。少しは解決しているつもりになっている人もいるかもしれませんが、もしかしたらそれはせいぜい、ファリサイ派的な人間を生み出しているだけであるかもしれません。
パウロはここで、「神さまが見ておられますよ」なんて、中途半端なことは言いません。「あなたの上に、断罪はないんだ」。「あなたは、解放されたのだ」。これはしかし、そう簡単に納得できる話でもないかもしれません。人は知らなくても、そしてもしも神さまさえご存じなかったとしても、けれども自分は自分のことをよく知っております。自分の罪深さをよく知っております。それで、自分で自分を断罪したくなったり、自分で自分を赦したくなったりするのです。ところがここで聖書がはっきりと告げていることは、たとえあなたがあなた自身を断罪したいと考えたとしても、それでもあなたの頭の上に断罪の剣はない。
そしてそのために、あなたの側に何の条件もいらないんだ、ただキリストにありさえすればいいんだ、ということを再三申してまいりましたが、しかし条件と言えば、実はこちら側の条件はなくても、あちら側の条件は大いにありました。3節の後半に、こう書いてあります。「つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです」。今朝、「断罪」という少しきつい言葉を使い続けていますが、この3節の最後にも「断罪」という言葉が使われています。原文のギリシア語では同じ言葉なのです。「神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を〈断罪〉されたのです」。神は御子イエスに、十字架の死の苦しみを強いられました。なぜこのお方は苦しまなければならなかったか。このお方が肉において苦しみを受け、そのキリストの肉において、人間の罪が徹底的に断罪されるためです。従って、かくて今や、私どもの頭上にいかなる断罪の剣もぶら下がっていない。すべての断罪の剣をキリストがその肉において受けてくださったからです。
■また妙な話をするようですが、今度中学生になる私の息子が、もうずいぶん前から聖歌隊に入って歌わせていただいております。先輩がたのご指導のもと、またそれだけでなく、きっと周りの人たちが何かと息子のことをほめてくれるのでしょう、いつだったかしばらく前に、日曜日の聖歌隊の練習が終わって私のところに来るなり、「はあ~、俺の美声すげえ」などと独り言を申しておりました。ちょっと自己肯定感のリミッターが外れているんじゃないかと心配になりますが、しかしきっとそういうことも、教会の交わりの中で与えられるひとつの祝福なのだろうと、感謝して受け止めるようにしております。自己肯定感、大いに結構。「ぼくの頭の上には、断罪の剣はないんだ」ということを、子どもの頃から体で学ぶことができるということは、本当に幸せだと思います。
その息子ですが、父親の私よりも体の成長が早いようで、既に声変りが進んで、最近ソプラノからテノールに移りました。そうすると、これまではただメロディーを歌っていればよかったのが、別の音を取らないといけない。それができずに苦労しております。聖歌隊でこのところずっと、讃美歌第二編の195番、「キリストにはかえられません」という歌を練習しているらしいのですが、なかなかテノールの音を覚えられない。それで、家でも時々母親の協力のもと音取りの練習をしていて、おかげで私の耳にもこの歌がこびりついております。今日の礼拝で歌うわけでもない讃美歌の説明をするというのもどうかと思いますが、「キリストにはかえられません」というのは、何にどう代えることができないかと言うと、こういうふうに歌うのです。
キリストにはかえられません、
世の宝もまた富も、
このおかたがわたしに
代わって死んだゆえです。
世のどんな金銀財宝も、あるいはその次の第2節では、「有名なひとになることも、ひとのほめることばも」、キリストにはかえられません。その理由は何かと言って、この讃美歌はただひとつの事実だけを歌います。「このおかたがわたしに/代わって死んだゆえです」。どんな金銀財宝があったって、どんな有名な人になってどんな名声を得たとしても、もしも自分の頭の上に、細い一本の糸で死の剣がぶら下がっているような人生であったとしたら、どうしようもないのです。ところが、このお方が、わたしに代わって死んでくださった。わたしに代わって断罪されてくださった。「神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を〈断罪〉されたのです」。だから、今や、キリストにある者には、いかなる断罪もない。だからこそ、私のような者が、あるいは嶋貫牧師、柳沼牧師のような人間が、ここに立って語ることも結局は、キリストのことだけなのです。「キリストにはかえられません」。「このおかたがわたしに代わって死んだゆえです」。
自己肯定感のリミッターが外れているんじゃないか、などという微妙な言い方をしてしまいましたが、そんな息子だって、今度どういう種類のみじめさに苦しむことがあるか、どういうところで自分の罪に苦しむことになるか、親だってそれはわかりませんし、実はもう苦しんでいるかもしれない。根本的には神さましか助けることができないようなことが、いくらでもあるでしょう。皆さんも、例外なく、そのような罪人としての生活をしていらっしゃるのです。そういうところで、少なくとも私は自分の息子に、「人が見てなくても、神さまはね」などと教えたことは一度もないつもりです。「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」。「このおかたが、わたしに代わって死んだゆえです」。人間が知るべきことは、この一句に尽きるのです。
「キリストの十字架のゆえに、わたしの頭の上にいかなる断罪もない」。このことさえ知っていれば、人間は人間として解き放たれて生きることができるし、人と一緒に生きることができるし、また神と共に生きることができるのであります。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、罪に苦しむこの私どもを、この世界を、どうか憐れんでください。互いに互いを断罪し合って、もうどうしようもないのです。「自分が生きるためには」と思いながら、互いに命を縮め合うような生活をしているのです。神さま、あなたは、み子イエスを私どもの罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、その肉において罪を断罪されました。世の何ものも、キリストにはかえられません。そこに与えられる確かな自由解放の福音を、力強く証ししていくこの教会の歩みであることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン







