エゴー・エイミ
マタイによる福音書 第14章22-33節
柳沼 大輝
主日礼拝
この夏も日本にいくつかの台風が上陸しました。私は先週一週間、夏期休暇をいただき、久しぶりに故郷である福島に帰省をしたのですが、ちょうどその日は東北に台風が接近していることもあって、まるで台風の中に突撃するようなかたちで地元に帰りました。
幸いにも東北はそこまで大きな被害にならず、実家では平穏に過ごすことができたのですが、帰りもちょうど関東に強力な台風が近づいていて、またも台風に突撃するかたちで鎌倉に帰ってきました。そんなわけで私の夏休みは台風に始まり、台風に終わりました。
しかし、感謝なことに行きの道も帰りの道もどちらも守られました。帰りの新幹線で列車が逆風の中を進んで行く光景を見ていて、ある幼き日の記憶が蘇ってきました。小学校3年生の時です。台風が近づいているということで学校が午前中で早引きになり、子どもたちは各自、下校することになりました。私も傘をさして、家に帰ろうとしたのですが、すでに風が強く吹いていて前に進めない。どんなに必死に前に一歩を踏み出しても、後ろに引き戻されてしまう。小さな私は風に吹き飛ばされないようにするため、唯々、地面にしゃがみ込むことしかできませんでした。
本日の箇所では、まさにこのように逆風に悩まされる弟子たちの姿が描かれています。彼らは、強い風に襲われて、舟をなかなか前に進めることができない。しかしここで大きな風に襲われていたのは、弟子たちだけではありませんでした。主イエスもまたこの時、激しい嵐に見舞われておりました。
本日の冒頭で主イエスは、弟子たちを「強いて舟に乗せた」とあります。この時、どうして主イエスは、このようになされたのでしょか。この問題を理解するためには、この御言葉が置かれた直前の出来事に注目しなければなりません。そこには、大変よく知られた偉大な奇跡が記されています。それは五つのパンと魚二匹から5000人以上の人々が満ち足りるほどの食物が与えられたという出来事であります。21節には、「食べた人は、女と子どもを別にして、男が五千人ほどであった」とありますから、女性や子どもを含めたら、おそらく6~7000人近い人々がこの力あるみ業によってお腹を満たしたのでありましょう。実は、この奇跡はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書が例外なく、記録しているたった一つの奇跡であります。このことは、この奇跡を目の当たりにして経験した人々、また、それを伝え聞かされた人々の間で、この出来事がどれほど大きな驚きと感動をもって受け止められてきたかを鮮明に物語ります。
そもそも主イエスはこの時、バプテスマのヨハネの死の知らせを聞かされ「舟に乗ってそこを去り、独り寂しいところに退かれた」(14:13)とあります。しかし、主イエスは独りになることはできませんでした。それは大勢の人々が主イエスの後を追いかけてきたからです。彼らは自らの仕事も放り出し、人里離れた荒野まで主イエスを慕い、主イエスの御言葉に聴き入るためにやってきたのです。これらの群衆はいったいどのような人々であったのでしょうか。14節には「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された」とあります。マルコによる福音書の並行記事には、更にはっきりこの時の様子を「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ6:34)と記されています。このことからここで主イエスの周りに集まってきた人々が、徴税人や羊飼い、病いを負った者、目や耳や足が不自由な者、つまり、当時、ユダヤ人の社会で罪人と蔑まれ、神の救いから洩れていると考えられていた人々ではなかったかと思われます。
ある者は、ローマの手先として税金を徴収し、ある者は命がけで羊を守り、ある者は、物乞いをし、望みもなく、喜びもなく、生きなければなりませんでした。もし彼らが税金を徴収すること、羊の世話をすること、物乞いをすることをやめてしまったら、たちまち食べることに窮してしまうに違いありません。ですから、ここに彼らがいるということは、たとえ日毎の糧を失ってでも、それ以上に主イエスの御言葉に聴き入ることを願って集まってきていたのであります。どうして彼らはそんなにしてまで主イエスの後を追いかけてきたのでしょうか。それはこの方の御言葉に愛があり、望みがあり、力があったからです。ここにいる群衆はきっと毎日、汚れた者として扱われ、刺すような蔑みの眼差しにさらされながら、生きてきたことでしょう。しかし今は違う。一人の生ける人格として取り扱われ、まことの愛のこもった語りかけを聴くことが許されるのです。だから彼らは、食べることも仕事も忘れて、主イエスの後を追いかけてきたのであります。
そのような人々が、今この時、主イエスの御言葉に聴き入り、たった五つのパンと魚二匹から満ち足りるまで食べることができた。この出来事が、その場に居合わせた人々にとって、どれほどの驚きと感動を巻き起こしたかということは想像に難くありません。しかし、その感動はただ単に五つのパンと魚二匹が増えたことによってもたらされた感動だけではありません。また主イエスが御言葉を語り、病いを癒し、食事まで配慮してくださったという感動だけでもなかったのです。もちろん、その一つ一つに驚きがありました。しかし決定的なことは、この出来事がかつてエジプトのファラオのもとから脱出したイスラエルの民に臨んだ神のみ業の再現と捉えられていたということではないでしょうか。
旧約聖書の出エジプト記第16章には、モーセに導かれて乳と蜜の流れる地を目指して旅立ったイスラエルの民がシナイの荒野で飢えに苦しむ姿が描かれています。その時、主なる神は天からマナという食べ物を降らせ、イスラエルの民を養ってくださいました。まさしく主イエスの力あるみ業の中に、群衆は、自分たちの先祖が経験した出エジプトの救いの再現を見出していたに違いありません。群衆は、歓喜し、心を奮い立たせます。今こそ、第二の出エジプトの時だと。イスラエルがローマの支配を打ち破るべく偉大な王を立てるべき時だと。事実、ヨハネによる福音書の並行記事には、「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた」(ヨハネ6:15)と記されています。この力あるみ業に接した人々は皆、この偉大な奇跡の意味を理解することができず、主イエスを王にしようとしたのです。人々は「この方こそ待ちに待ったメシアだ。自分たちをローマ帝国から解放してくださる救い主」だと考えたのです。
そのため、22節で主イエスは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」のであります。この群衆の熱気を何としてでも鎮めなければならなかったからです。そのためには、まず弟子たちをこの群衆の渦の中から引き離す必要がありました。弟子たちの中にもローマ帝国に対する解放運動の中心グループであった熱心党上がりの血気盛んな者がいたからです(10:4)。
このような状況に遭遇した主イエスには、祈るべき課題がたくさんありました。元々、主イエスは洗礼者ヨハネの死を知らされ、自らの身に迫る危険を感じつつ、「独り寂しいところに退かれ」ようとしておられました。それは父なる神に相対し、祈りに心を注ぐ時を持つためでありました。
ここまでの流れを振り返ってみますと、第12章で安息日に主イエスが会堂で手の萎えた人を癒された時以来、既にファリサイ派の人々の間では、主イエス暗殺の策謀が公然と企てられるようになっていました。事実、そこには「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(12:14)と記されています。そして直前には、洗礼者ヨハネが見るも無残にヘロデが開いた酒宴の座興として、首を撥ねられ、殺されたことを知らせるのです。それらの出来事は否応なく主イエスご自身の十字架への歩みを暗示するものでありました。一方、群衆はと言えば、主イエスを王に立てようと願っています。
この時の主イエスにはご自分の使命を明確にされるためにも、父なる神と祈り、語らう時が必要であったのです。私たちは今月のはじめにマルコによる福音書から「ゲツセマネの祈り」について御言葉に聴きました。主イエスは、最後の晩餐の直後で「私は死ぬほど苦しい」(マルコ14;34)と言われながら、「ひどく苦しみ」(14:33)祈られました。しかし、主イエスの祈りはゲツセマネの祈り以前からゲツセマネの祈りであったのではないでしょうか。主イエスは孤独でした。23節にも「ただ一人そこにおられた」とあります。父なる神以外、誰一人として、主イエスのみ苦しみ、戦い、使命を知る者はいなかったからです。一方には、自分を殺そうとする者がいる。他方には、自分を王に立てようとしている者がいる。確かに外見に現れてくるかたちは正反対であります。しかし、双方とも同様に自分たちが求めるイスラエルの栄光を、自分たちのものにしたいと願っています。そのような人間的、あまりにも、人間的な渦の中で主イエスは、山に登られ、夜を徹して祈られたのです。「アッパ、父よ。あなたのみこころをお示しください」と。
それでは、この時、弟子たちはいったい何をしていたのでしょうか。彼らは一人で祈られる主イエスに応えて、幾分でも、主イエスの心に寄り添いつつ、共に祈りを捧げる者であったでしょうか。この時、彼らは既にガリラヤ湖に舟を漕ぎ出していました。ところが彼らの舟は「逆風のために波に悩まされて」立ち往生しています。
ガリラヤ湖は南北20キロ、東西は、一番幅の広いところでも12キロほどの湖でした。この湖は周囲を山に囲まれており、ちょうど擂鉢の底のようなところに位置しておりました。したがって、日中、熱い太陽の光が湖面を照り付けると大量の上昇気流が発生し、ことに夕方になって山上の空気がにわかに冷却されると、上昇気流を発生させている湖面めがけて地を震わすような突風が吹き下ろしてくることがあるそうです。まさにいま、弟子たちはそのような暴風に悩まされています。普通一時間もあれば、向こう岸に渡れるところ、この時、弟子たちは、夕方から夜明けまで、ほほ12時間近く、風と波に翻弄され続けています。木の葉のように揺れる舟の中で一睡もせずに風と波と戦かわなければなりません。それこそ生きた心地がしなかったでしょう。
このような中で彼らが考えていたことは、自分たちがこのような酷い目に合うことになった原因を探り当てることではなかったでしょうか。私たちは自分の人生が順風満帆に進んでいる時は、どれほど多くの恵みを与えられていようと、自分に与えられている恵みを知ろうとはしません。そのくせ一度、逆境に陥り、嵐の中で生き悩む時には、すぐに恵みを忘れて、自分をこのような苦しみに陥れた原因について必死に思いを巡らします。そしてあの時のあいつが悪い。あの時、あんなことがなければと思い始めるのではないでしょうか。
きっとこの時の弟子たちもそうであったことでしょう。「どうしてあの時、主イエスは私たちを強いて舟に乗り込ませたのだろう。あんなに急がせなければ、こんな目に合わなく済んだかもしれないのに…」。「どうして主イエスは私たちだけ舟に乗り込ませ、自分は独りで山なんかに退かれたのだろう。もし主イエスがこの舟に乗っていてくださったならば、助かったかもしれないのに…」と思ったことでしょう。また同時に、彼らの中には、かつて主イエスと共に湖に漕ぎ出して嵐にあった際、共に乗っておられた主が一言で嵐を沈められた、驚くべき出来事(8:23~27)を思い起こさずにいられなかったに違いありません。そのような思いを巡らしながら、結局、彼らの思いは主イエスを責める気持ちでいっぱいでありました。「主イエスが無理に舟に乗らせなければ…」。「主イエスがいまここに共に乗っていてくださっていれば…」。
彼らは主イエスに対する不平不満を募らせ、嵐の中で怖じ恐れ、絶望しています。彼らは主イエスがこの時、「暗殺」と「革命」という人間の渦の嵐の中で、ご自分の歩まれるべき道を父なる神に問いかけるため、そう、十字架へと向かわれていくために苦しみながら祈った、祈りの戦いを知りません。その主イエスのみ苦しみを知りません。もしかしたら私たちも同じかもしれません。逆境のなかで絶望し、苦しみの原因を求め、いま与えられている恵みを忘れ、神にさえ平気で不満を言う。私たちも主イエスのみ苦しみがわかっていないのかもしれない。しかし山で祈られる主イエスは、そんな弟子たちを見出し、歩み寄り、救ってくださる方なのであります。
25節「夜が明ける頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。
そうです。嵐をついて弟子たちのもとへ、主イエスは歩み進まれます。その時、弟子たちはどうしたのでしょうか。なんと彼らは「『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声を上げた」のです。この弟子たちの姿を自らの姿としてしっかりと心に刻み付けたいと思います。
どうして弟子たちは、主イエスを「幽霊」だと思い込んでしまったのでしょうか。答えは単純です。彼らが主イエスの救いを信じていなかったからです。彼らは唯々、恐怖に囚われ、その虜になって、信じることも祈ることもできなくなっていた。彼らは「主イエスは共にいてくださらない。主イエスはこんなところに来てくださらない。主イエスはここに来ることはできないのだ」と思っていたから、主イエスが近づいて来られた時、彼らは慌てふためき、怖じ恐れ、主イエスを幽霊としか認識できなかったのです。そんな弟子たちに向かって、嵐をついて接近される主イエスは語りかけてくださいました。
「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。ここに「私だ」という言葉が出てきます。原文では「エゴ―・エイミ」という言葉です。英語で言えば「アイ アム」という言葉で、出エジプト記第3章14節でモーセに対し、ヤハウェが自らを紹介し、「私はいる、という者である」と告げた時の言葉です。「私はいる」というヘブライ語をギリシャ語では、エゴ―・エイミと訳したのです。つまり、エゴ―・エイミとは神がご自身を啓示し、顕現する時の特別な表現であります。力ある神がここに臨んでおられる。「安心しなさい。神である私がここにいる。私が来たのだ。もう恐れなくいい」と。
なんと慰めに満ちた語りかけでありましょうか。古くから、教父たちも、宗教改革者たちも嵐に行き悩む弟子たちとその舟を「教会の徴」として捉えてきました。そのことを現代に生きる私たちが心に留めることはとても大切なことであります。主イエス・キリストの教会は、いつも「安心しなさい。私だ。恐れることはない」との主の慰めに満ちた御言葉に聴き入り、励まされ、嵐の中を進み行く群れに他ならないからであります。それはまた、いま、様々な試練に直面している仲間たち、そしてこの雪ノ下教会に語りかけられている主イエスの御言葉に他なりません。
さて、弟子たちはこの主の御言葉をどのように受け止めたのでしょうか。主の語りかけに応えて、28節でペトロはこのように言います。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」。いかにも、単純率直なペトロらしい応答です。この時、ペトロは「安心しなさい。私だ。恐れることはない」との主の語りかけをこの私に語りかけられた言葉、自分が応答すべき言葉として受け止めたのであります。このペトロのことを目立ちたがり屋で主が語りかけたら、何でも自分が「いの一番」になってしなければならないと思い込んでいる出しゃばりのように思う方がいるかもしれません。
けれども、ここでペトロは「自分が水の上を歩いてあなたのもとに行きます」などと言っていないことに気づくことはとても大切なことではないでしょうか。彼は、何も自分の決断や意思の強さで主イエスのもとにたどり着くことができるとは思っていないのです。ペトロはここで少しばかり格好いい姿を見せようなどと思って水の上を歩こうとしたのではありません。彼は、自分がなすべきことを主のみこころに据えて、言うのです。「主よ、私に命令して、そちらに行かせてください」。その訴えに対し、「来なさい」との主の許しと招きがなければ、ペトロは、嵐の湖の上に立とうなどとは思わなかったでありましょう。
ペトロは、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」との主の語りかけを自分に対する主の招きとして聴いたのです。今まで、激しい風と波に怖じ恐れ、絶望していた者が、逆風の中、祈ることすら忘れ、主に不満を言い、いざ主が来ても「幽霊」だと思い込んでしまうような者が、主は共にいてくださらないと信じていた者が、主の御言葉によって立ち上がり、嵐の中を進み行こうとしているのです。
主が「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降り、水の上を歩いて主の御もとへと逝きました。主の御言葉を信じ、しっかりと主イエスを見つめて、嵐の中を進み始めました。するとどうでしょうか。彼は水の上を歩くことができました。主の御もとに一歩一歩、確実に近づいて行くことができました。しかし、突然、突風が吹き、自分のもとに激しい波が押し寄せてくるのを見て、「怖い…」と思い、主から目を離したその瞬間、彼は水の中に沈み込んでしまったのです。まっすぐに主を見つめ、主イエスの方に進み続けていた時は、ペトロも水の上を歩くことができました。しかし、「風だ!波だ!」と主イエスから目を離し、これはもうイエス様どころじゃない、このままでは沈んで、死んでしまうと思った瞬間、彼は本当に沈み込んでしまったのです。
主イエスが共にいてくださる。こんなにも近くにいてくださる。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と語りかけ、「来なさい」と招いてくださっている。にもかかわらず、自分に襲い掛かっている強い風に気がついた時、彼は恐ろしくなって沈んでしまいました。この時、ペトロにとって主が共にいてくださるという真実より、嵐の力の方が確かで強力なものに思えたからであります。ペトロはあんなにも主イエスの近くにいて、こんなにもさやかに主イエスの御言葉を聴かされてきたのに沈んでしまったのです。そうであれば、どうしてここにいる私たちが溺れずに済むでありましょうか。この事実を前にして、私たちは途方に暮れるしかありません。ペトロですら沈んだのだ。私たちはどうなってしまうだろうか。しかし、私たちはそう思い、そこに留まり続けるなら、信仰によって歩むということがわかっていないのかもしれません。今もなお、信仰を何か自分の意志の強さで生きることであると勘違いしているのかもしれません。
この出来事はペトロが溺れることによって終わってはいません。ペトロは沈みそうになった時、主に大声で叫んだのです。「主よ、助けてください」。すると主イエスはこのペトロに向かって、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけられながら、すぐに御手を伸ばし、ペトロを捕まえ、引き上げてくださいました。「信仰の薄い者」というのは、原文では、「オリゴ ピステ」という言葉で、直訳すると「小さな信仰」となります。つまり主イエスはここで「ちっぽけだなあ。お前の信仰は。なぜ私を疑ったのか」とペトロのことを嘆かれたのです。本当にそう言わざるを得ないペトロの、そして私たちの信仰であります。ほんの些細なことで私たちの信仰は揺らいでしまう。しかし、にもかかわらず、「主よ、助けてください」と救いを求める者を、嵐の中で立ち続ける主は見捨てない。すぐに御手を伸ばして、捕まえ、事実、助け出してくださる。私たちの信仰の歩みとは、嵐に遭遇し、唯々、地面にしゃがみ込むしかない、そこに沈み行くしかない私たちが「主よ、助けてください」と叫び声を上げつつ、差し出された主イエスの御手にこの身を任せることであります。
主を信じているからと言って、人生のすべてが順調に進むわけではありません。試練があり、逆境があり、罪の力に飲み込まれそうになる時もあります。大切なことはその只中で悔い改めの思いをもって、主に助けを求め続けることであります。
確かに人生の歩みの中でひたすらに主イエスを見つめて歩もうとしつつも、私たちに襲い来る風と波に目を奪われ、その滅びの力の方が主イエスの力を凌駕すると思ってしまいます。そこで主イエスから目を離し、溺れるのです。私たちは、これからも幾度となく溺れるに違いありません。しかしそのような時こそ、嵐をついて私たちを見出してくださる主イエスに、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と語りかけてくださる主イエスに、嵐の中、立ち続け、「来なさい」とこの私を招いてくださる主イエスに向かって「主よ、助けてください」と声を上げ、引き上げていただく者でありたいと思います。そして常にこの主の恵み深きご支配の中に立ち返り、主を礼拝し、「まことに、あなたは神の子です」と共々に信仰を告白したい。いま、この時、たとえ逆風が吹き荒れていたとしても、恐れることはない。主がここにいる。平安がここにある。大丈夫。主に委ねて、共に一歩を踏み出したいと祈り願います。
いまこの時も私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの父なる御神。
私たちの人生にも、嵐の時があり、逆風の中で前に一歩も進むことができない時があります。
事実、私たちには、試練の中で、絶望し、あなたを責めるしかない時がありました。
その時にこそ、あなたに「主よ、助けてください」と祈り求めることができますように。
その嵐の中にも立っていてくださる十字架の主を仰ぎ見ることができますように。
いま、私たちにお語りくださった御言葉によって、またここから信仰の小さき者を立ち上がらせてください。そして、新たな一歩を踏み出せてください。
教会の仲間たちの中にも、いま、病いの中にあり、死の恐怖と戦っている者がいます。どうかあなたがその者の傍らに立って、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と、慰めの御言葉を語りかけてくださいますように。主のみ苦しみを思い、しかし、死で終わらないあなたの偉大のみ業に感謝して、
この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン