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羊飼いが打たれたら

2024年7月28日

マルコによる福音書 第14章26-31節
川崎 公平

主日礼拝

 

■マルコによる福音書第14章26節から31節までを読みました。4年前の4月にも、そのときにはマルコ福音書ではなくマタイ福音書の第26章を読んだのですが、ほとんど同じ内容の記事を読みました。2020年4月12日のイースター、復活の祝いの日曜日のことです。どうしていきなりそんな昔の話をするかというと、少なくとも私にとっては、4年前の復活の祝いの日にこの聖書の記事を読んだということが、忘れがたい思い出になっているからです。

ちょうどその頃から、新型コロナウイルス感染症という、未知の疫病が本格的に流行り出して、日本でいちばん有名な芸能人が亡くなったりして、これはいよいよ危ないということで、この鎌倉雪ノ下教会でも本格的に教会堂を閉鎖することになりました。教会の皆さんには、「絶対に、礼拝に来ないでください」という、今考えても考えられないほど悲しいお知らせをしなければならず、毎週日曜日にはごく僅かの人間がここに集まり、礼拝のライブ配信をしました。ちょうど小学校に入学した息子も2ヶ月間学校に行くことができず、正直に申しまして、その頃のことを思い出すだけで心が暗くなります。

そのようなときに、とにかく教会の印刷物をまとめて、教会員全員に郵送するということをしました。そのときに、嶋貫牧師の発案で小さなカードを同封しました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という詩編第23篇の言葉と共に、明らかに主イエスの手とわかる右手が、上の方から優しく差し伸べられている。そういうカードを見て、私は言いようのない感動を覚えました。感動という言葉はどうもありきたりで曖昧であるかもしれませんが、むしろ非常に明瞭な、具体的な希望を見せていただいたと思いました。

「主はわたしの羊飼い」。本当に、この詩編の言う通りなのだと思いました。この羊飼いがいてくださるならば、わたしには何も欠けることはない。この教会にも、何も足りないことはない。教会に集まることを禁止しなければならないというのは、少なくとも鎌倉雪ノ下教会の歴史始まって以来初めてのことだったと思いますが、だからこそそのような危機の中で、ますますはっきりと、教会の希望を見せていただくことができました。ひとりの羊飼いに導かれる羊の群れの姿を、幻の内に見せていただいたと思いました。

■今日読みましたマルコによる福音書第14章の27節以下に、このような主イエスの言葉があります。

「あなたがたは皆、私につまずく。
『私は羊飼いを打つ。
すると、羊は散らされる』
と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

ここに、「あなたがたより先にガリラヤへ行く」とありますが、ここはもしかすると「先に行く」ではなくて「先頭に立って導く」と訳した方がよかったかもしれません。「導く」という動詞に、「前に、先に」という意味の前置詞がくっついています。羊飼いが羊の群れを導く。ただ導くのではなくて、前に立って、先頭に立って、羊の群れを導いて行く。その意味では、この28節に既に、教会の姿が鮮やかに描かれていると読むことができると思います。復活の主イエスが、先頭に立って羊たちを導いて行かれる。それが教会です。

その関連で大切な意味を持つのは、第10章の32節以下です。そこにもこの「先頭に立って導く」という同じ言葉が出てきます。

さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、鞭打ち、殺す。そして、人の子は三日後に復活する」。

福音書を書いたマルコは、この段落には特に深い思いを込めて書いたのではないかと思います。「イエスが先頭に立って行かれる」。既にそこにもマルコは、主イエスが羊飼いとして、羊の群れの先頭に立ち、これを導いて行かれる姿を描いていたと思います。ところがこの第10章で印象深く語られることは、この羊飼いが、群れの先頭に立って、どこに向かって歩いて行かれるのかというと、殺されるためだ、そして三日目に復活するためだと言われるのです。だから今日読んだ第14章のほうでも、「私は羊飼いを打つ」と言われます。羊飼いが打たれる。主イエスが十字架につけられる、という意味です。「すると、羊は散らされる」。羊たちは、そのことを知りません。自分たちの先頭に立って歩いておられる方が誰であるか、誰の羊飼いであるのか、羊たちはまだ知りません。羊たちが知らなくても、羊飼いイエスにはその先がきちんと見えておりました。「しかし、私が復活した後、なお私があなたがたを先頭に立って導く」。そう言われるのです。

■しかし、繰り返しますが、羊たちはまだそのことを知りません。だからこそ第10章でも、「イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と言われますし、その弟子たちの驚きと恐れが、いよいよこの第14章から本格的な現実となります。それを具体的に予告されたのが、先ほども読みました27節です。

「あなたがたは皆、私につまずく。
『私は羊飼いを打つ。
すると、羊は散らされる』
と書いてあるからだ」。

「私は羊飼いを打つ」というのはつまり、神ご自身が、羊飼いである御子キリストを十字架につけて殺す、ということを意味します。キリストの十字架というのは、一方では人間の罪のなせる出来事であったけれども、同時にこれは神の確かなみ旨に根ざすことでありました。神ご自身が御子キリストを十字架につけられるのです。そのように羊飼いが打たれたら、羊の群れは散らされるのです。必ず、そうなるのです。

ところがそれに答えて、一番弟子のペトロが申しました。「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」。ある人はこのペトロの言葉を簡潔に説き明かしてこう言いました。「このとき、既に羊の群れは散り始めている」。つまり、ペトロはこう言ったのです。「他の皆がつまずくことはあるかもしれません。そうであったとしても、このわたしは違います」。「羊飼いが打たれても、わたしはつまずきません。わたしは迷いません。羊飼いが打たれても、わたしだけは大丈夫です」。それは、勇敢な弟子としては当然の発言であったかもしれませんが、決して羊の発言ではありませんでした。羊飼いが打たれたら、羊の群れは、必ず散らされるのです。

聖書にはしばしば羊という動物が登場するわけですが、比喩的に用いられる場合は、ほとんど例外なく、神に愛された神の民を意味します。私どものこと、教会のことを意味します。しかし、なぜ羊なのでしょうか。いちばん弱い動物だからでしょう。ひとりで生きて行くことはできません。羊飼いがいるから、羊は生きるのです。逆に羊飼いが打たれたら、羊は必ず、散らされる。散らされるというのは、たとえば、ここでたいへん勇敢なことを言って見せたペトロが、主イエスの予告された通りに、「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」。事実、その通りのことが起こります。それは一方では、ペトロの弱さであり、罪深さであり、責められなければならないことであるかもしれないけれども、しかしここで私どもは聖書を注意深く読まなければならないと思います。主イエスは「あなたがたは、つまずく」と言われたのであって、「つまずかないように気を付けなさい、頑張りなさい」と言われたのではないのです。「羊飼いが打たれたら、あなたがたは、必ずつまずく」。それは、「あなたがたは、わたしの羊なのだ」という、恵みと慈しみの言葉でもあったと思うのです。

したがって、あのペトロが「あんな人のことは知らない」と、その日のうちに三度も繰り返して主イエスとの関わりを否定したというあの出来事は、「ペトロの信仰心がもっと強かったらこんな無様なことにはならなかったのではないか」とか、まして「われわれはペトロのような失敗をしないように、心しなければならない」とか、そんなレベルの話ではないので、まさしくあの〈ペトロの否認〉という出来事は、羊飼いが打たれたから、羊は散らされたということでしかないのです。その散らされたペトロ、つまずいたペトロを、なお先頭に立って導いてくださる羊飼いはただひとり、お甦りになった主イエス・キリストであり、それはそのまま、私どもの教会の物語ともなるのです。

■けれども、少なくともこのときの弟子たちは、そのことを理解することができませんでした。「どんなことがあっても、わたしは絶対につまずきません」。「たとえ死んでも、先生のことを裏切るようなことはいたしません」。そのようにペトロが豪語したとき、自分がいったい誰の羊であるのか、忘れていたとしか言いようがないのです。ペトロが主イエスの羊でなくなったことは一度もないのですが、そのことを本当に理解するためには、まだまだいくつもの山を越えなければなりませんでした。

その意味では「死んでもあなたについて行きます」というペトロの言葉と、「あんな人のことは知りません。一緒にいたことなんかありません」というペトロの言葉は、言葉の上では矛盾しているようですが、本当は何も矛盾していないのです。ペトロは二枚舌だ、嘘つきだと、そのように聖書を読むとしたら、それは理解不十分です。ペトロは二枚舌なんかじゃない。ある意味で、ペトロは首尾一貫して同じことを言い続けただけだと、私は思います。「わたしは羊なんかじゃありません」と、そう言ったのです。「先生のことを裏切るなんて、わたしに限って絶対にあり得ません。わたしは羊なんかじゃありませんから、羊飼いが打たれても、わたしはつまずきません」。「いえいえ、あんな人のことは知りません。一緒にいたことなんかありません。わたしはあの人の羊なんかじゃありません」。ペトロはずっと同じことを言っている。けれども、ペトロが何を言おうと、ペトロがどこに行こうと何をしようと、ペトロが主イエスの羊であるという事実が揺らいだことは一度もありませんでした。

■私どもも、主イエスに救われ、主イエスに守られ、主イエスに導かれる羊の群れです。「主は羊飼い。わたしには何も欠けることはない」。そのことの最大の証明は、ここでも予告される主のお甦りであります。主イエスは、「私は復活した後、あなたがたの先頭に立って、あなたがたをガリラヤへ導く」と言われます。復活の主イエスこそ、今も変わることなく、私どもの羊飼いです。しかし、ここでもうひとつ問いが生まれます。なぜガリラヤなのでしょうか。

ガリラヤというのは弟子たちの出身地です。ペトロも他の弟子たちも、ガリラヤで主イエスに呼ばれたのです。たとえばペトロは、ガリラヤの湖で漁師の仕事をしていました。兄弟のアンデレと共に、また漁師仲間であったヤコブとヨハネと共に、主イエスに声をかけられた。「わたしについて来なさい」。そうしたら彼らは、その場で即座に仕事道具を置きっぱなしにして、家族も捨てて、主イエスについて行ったというのですが、考えてみれば不思議なことです。イエスさま、どんな超能力をお使いになったのかと思いますが、けれどもそういうことを言い出したら、われわれだって、主イエスに声をかけられたのです。主イエスが招いてくださったから、今このように私どもも、主イエスの羊として生かされています。今も主イエスが私どもの先頭に立って、この群れを導いていてくださるのです。そのことを考えるとき、先ほど、「イエスさま、どんな超能力を」などとふざけたことを申しましたが、そんなふざけたことを考える必要なんかひとつもないことに気づかされます。羊飼いに声をかけられたら、羊は必ず、ついて行くのです。

ヨハネによる福音書第10章に、たいへん印象深い言葉があります。「羊は羊飼いの声を知っているので、ついて行く」というのです。「羊はその声を聞き分ける」とも書いてあります。私の密かな愛誦聖句です。

門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く。
(ヨハネによる福音書第10章3、4節)

なぜこの弟子たちは、ガリラヤに行かなければならなかったか。最初に羊飼いの声を聞いたのが、ガリラヤであったからです。そして今、私どももひとりひとり、自分の来し方を振り返りながら、何度もこのことをよく考えなければならないと思うのです。なぜわたしはここにいるのだろうか。なぜわたしは主イエスを信じて生きているのだろうか。「羊は羊飼いの声を知っているから、ついて行く」のです。それ以外の理由はないのです。

つまずき、散らされた弟子たちの群れは、しかし羊飼いイエスに導かれて、もう一度ガリラヤに行きます。その故郷ガリラヤで何があったのか、主イエスから何を教えられたのか、マルコによる福音書は不思議なほどに沈黙を守っております。われわれからすると、主イエスの復活のあと、何が起こったか、そのあたりのことがいちばん知りたいことなのに、と思うのですが、おそらく、今われわれが自分で考えるべきことを、マルコは残してくれたのだと私は思います。

ペトロも他の弟子たちも、ガリラヤに帰り、そこで改めてお甦りになった主イエスを礼拝しながら、最初に主イエスに声をかけられたときのことを、ありありと思い出したに違いないと、私は思います。漁師の仕事をしている真っ最中に、突然声をかけられて……しかし不思議だなあ。なぜあのとき、自分は立ち上がったんだろう。なぜ自分は、このお方について行ったんだろう。そのことを思うとき、自分が誰の羊であるのか、そのことが本当によくわかったと思うのです。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、付いて行く」。皆さんも、もし必要と思われれば、かつて自分が洗礼を受けた日のことを思い出してごらんになるとよいと思います。幼い頃、初めて教会でイエスさまの言葉を聞いた日々を思い出してみてもよいと思います。……なぜあのとき、自分にも羊飼いの声が聞こえたんだろう。そうだ、私は、主イエスの羊なんだ。今感謝のうちに、羊飼いイエスをたたえる歌をひとつに集めたいと心から願います。お祈りをいたします。

 

散らされていた羊の群れが、しかし主よ、どうかご覧ください、今このようにひとつに集められています。羊飼いイエスよ、あなたがこの教会を集めてくださったのです。今もこの教会を守り、先頭に立って導いてくださるのはあなたです。「死んでもあなたを裏切ることはありません」とか、「わたしはあの人の羊なんかじゃありません」とか、いくたびつまずいたことかと思いますが、今私どもの心を定めさせてください。わたしはあなたの羊です。羊は、羊飼いの声を知っております。感謝して、主のみ名によって祈ります。アーメン

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