生まれつき
嶋貫 佐地子
ヨハネによる福音書 第9章1-12節
主日礼拝
聖書の中に出てくる、主イエスに出会った人たちの中でも、今日出てくるひとりの盲人は、とても愛おしい存在であります。なぜなら、自分みたいだからです。
5世紀の偉大な神学者であるアウグスティヌスが、この人のことをこう言いました。この人は主から、目に泥を塗られて、シロアムの池に洗いに行く。それは洗礼を受けようとする人の姿だ。
この人は、キリストを信じるようになった人で、まるで自分みたいなのです。
彼は純粋でした。
年はまだ若いんだと思います。でも彼は生まれつき、目が見えませんでした。
生まれつきですから、彼は今まで何も見たことがなかったのです。光すらも知らなかったのです。でも、主イエスに出会い、光に反応しない自分の目に触れていただいたとき、彼は自分をすべて主にお渡ししました。すべてにおいて従順で、主の言われた言葉のとおりにするのです。すると目が開いて、彼の人生は180度変わりました。この世界も、自分も、初めて見えるようになったのです。そして自分が生まれた意味も、初めて、見えるようになったのです。
この物語の最後で主イエスがおっしゃいます。「こうして、見えない者は見えるように」なる(9:39)。
「こうして」。神の業が行われたとき、見えない者は見えるようになる。それは神が見えるようになるのです。今までは知らなかったけれども、神がほんとうに見えるようになる。神をほんとうに知るようになるのです。この「見える」というのは、聖書の中では「認識」というものであって、わかる。知識ではなくて、神がわかるんです。神を知り、認めるのです。それは霊的な視力、ともいわれますが、霊的に、心の目が開かれて「見えるようになる」のです。そしてそれは「信じるようになる」というのと同じなのです。聖書は、旧約も新約も共にいいます。救い主が来られた時、人々の目は開かれる。キリストは、見えない者を見えるようにするために来られたのだ。それが聖書の共通の使信であります。
このあと、彼は主イエスにもう一度出会うことになりますが、そのとき彼はほんとうに主が見えるようになり、主イエスがどなたであるかを知るようになり、そして言うのです。信じます。「主よ、信じます。」(9:38)その道筋が、ほんとうに私どものようなのです。
このことが起こったのは仮庵祭が終わってすぐのことでした。主イエスが、道端で、一人の盲人に目を留められたのです。彼は座って物乞いをしていました。主イエスがこの人を御覧になったので、弟子たちもそれに気づき、この人を見たときにある問いが生まれました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(9:2)弟子たちは主イエスに、この人がこうなったのはだれのせいですか?と尋ねました。本人の罪ですか、それとも両親の罪のせいですか?
痛みを覚える質問です。因果応報といわれますが、何か原因があったから、そのせいで、その報いでこの人はこうなったのですね?
それは誰かの罪の報いで、神の審きが下ったからこの人はこうなったのですよね?
生まれつきの原因は、この時代でも難問でした。弟子たちだけでなく人々も皆、興味があったのです。でも興味だけではなかったと思います。どうしてこうなったのか。「可哀そうに」という思いがそうさせたのだと思います。でもそれは、私どもも思うところなのではないかと思うのです。苦しむ人がいるときに、何の気なしに思います。「気の毒に」。そしてどうしてこうなったのか、わけを知りたくなるのです。
でもそれがなんとなくその人にも伝わり、更にその人を苦しめることはあまり気づいておりません。そしておおむね苦しむのは、当の本人か、親であって、自分のせいだと、自分を責めてしまうことです。これは自分に与えられた罰だと。自分がいけなかったと思うのです。それを毎朝考える。そしてそのことを一生背負って生きてゆく。それがどれほど私どもを苦しめることでしょうか。
しかし、この人の生まれつきについて、主イエスが言われたことは驚くべきことでした。
主はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)
神の業がこの人に現れるためだ。
澱んだ水が、一気に澄み切っていくようでした。この人は、神の業が現れるために生まれついた。
この人は、神の目的だ。
人のつらい思いを、一気に変える神の憐れみが、ここにありました。もはや、どうしてこうなったのか、原因を問う必要もなくなったのです。この人は神が、ご自分の目的のために造られ、その業が、この人に現わされようとしています。周りが何と言おうと、「気の毒に」なんて神に失礼でありますし、この人は初めから、神の祝福の命であって、そのためにこの人は生まれたのです。
そして主イエスは速やかに、その神の業を実行されました。
さっき彼は私どものようだと申しましたが、その救われる様子はどうだったのでしょう。
彼はただ座っていたのでした。そして物乞いをしていたというのですから、両親の手はすでに離れていたのでしょう。彼はそうやって神の前で、一人で生きていました。でも彼からは悲壮感は感じられないのです。このあとの彼の言動からみると、施しを受けていましたが、神様からいただいていると思っていたはずです。それに周りは「気の毒に」「可哀そうに」というけれど、彼は何も思わなかった。生まれつきずっとこうだったからです。これが自分だったからです。他の何に生まれたのでもなく、他の誰でもなくて、これが自分だったからです。
その彼のところに神から遣わされた方が向こうからやって来たのです。その方は自分を見たようでした。自分の前で足音が止まったからです。続いて他の人も止まって、静まりました。するとそのうちの誰かがその方に聞きました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
するとその方は声を発せられました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
自分にはその人の体温のようなものがすでに伝わってきました。するとその人は続けられました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(9:4-5)すると急にやわらかい風が来ました。その人がしゃがんで何かをして、そして自分と、同じ高さにいた、その人の手が、自分の目に触れました。
冷たい土のようなもの、不思議に熱をもったものを、その人は自分の目に塗って、言われました。「シロアム」。
その人はボクを見て言われました。
「シロアムの池に行って洗いなさい。」(9:7)
シロアムは「遣わされた者」という意味だ。ボクは、立ち上がった。シロアム。周りの声がボクについてきながら、ボクはシロアムの池のほうに歩き始めた。また声がする。こっちだ。そうしながらボクの足はまっすぐにそっちに進んだ。そして池に着くと、ボクはあの方が言われた通りに自分の目を洗った。「遣わされた者」という水で、塗られた土を、自分の手で洗うと、光が見えた。
光というものを、ボクは初めて知ったんだ。
あの方は言われた。
「わたしは世の光である」。ボクは来た道を引き返した。光の道を、まだ日のあるうちに。
「まだ日のあるうちに」あの方の声がまた聞こえる。「わたしをお遣わしになった方の業を行わねばならない」。あの方はそう言われてボクに触れた。そうしたら、ボクはいま、光の道を歩いてる。
自分も見えるし、周りも見える。
みんなが驚いている。
ボクはわかった。これは、神の業だ。
神がボクに働いてくださったんだ。
私どもの、信仰の歩みもこうして始まりました。自分は何も知らずに生きてきたのに、それでよかったのに、遣わされた方が、光を帯びて向こうからおいでになって、心の目を開いてくださいました。シロアム、「遣わされた者」。その主イエスに自分を洗っていただいて。 そのときから、自分の暗さが明るくなり、罪ののろいが祝福に変わり、何があっても、自分のせいだと思わなくてよくなり、誰かのせいだと憎まなくてよくなり、人生そのものが新しくされました。
それも生まれつき、自分に
神の業が現れるためでした。
そのために自分は生まれたのです。
これから、彼はさまざまな人から尋問を受けますが、自分に起こった事実をありのまま証言してゆきます。自分に起こった神のなさった事実を、その証しを立ててゆくのです。神の業がそこにも現れるからです。 そのためにも、彼は生まれましたし、私どももそうなのだと思います。私どもを見れば神の業が見える。主が言われたとおりです。
「神の業がこの人に現れるためである。」
天の父なる神様 あなたの目的がこのわたしに、存分に果たされますように。主の御名により祈り願います。アーメン