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主の神殿はあなたがた

2021年1月31日

中村 慎太
創世記 第2章1-25節 
コリントの信徒への手紙一 第6章12-20節

主日礼拝

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」

私たちは、主の栄光を現し続ける群れです。主なる神の栄光を現すことこそ、私たちの人生の目的です。
コリントの信徒への手紙一は、私たち教会に生きる者が、どのように生きるかを教えています。それは同時に、このようになってはならない、と、気を付けることも示しています。

今日私たちが聴いた聖書の御言葉も、伝道者パウロがコリント教会の信徒を叱責し、注意を促す言葉からはじまりました。
イエス・キリストの救いを知らされた者が、ある誘惑に陥ることがあります。それは、「救われたから自分は何をしてもいいのだ、何をしても許される」、と思うことです。
そのような思いを極端に言い表すと、次のようになります。「キリストの救いはすごいものだ。どんな罪人さえも救ってくださる。ということは、自分がどれほど罪を犯しても構わないだろう。なんて自由だ。」
かつて、コリント教会にも、そのような思いにとらわれてしまった者がいたようです。コリント教会の信徒たちは、伝道者パウロたちによって、イエス・キリストの福音を知らされました。しかし、パウロがその地を去った後、信徒たちのうちに、不品行な行い、性的に乱れた生活をしてしまう者がいたようです。
もともとコリントの町にそのような不品行や不道徳な生活がありふれていたということもあるでしょう。だから、「他の人もやっているから」と、それを言い訳にしてしまった。そして、さらには、イエスさまの許しの大きさを、言い訳にしてしまった。「キリストによって自由にされたから、何をしてもいい」と。
しかし、そのように主イエスの救いを自分の思いのために利用してもいいのでしょうか。主イエスの救いを下にして、自分のしたいことをその上にしてもいいのでしょうか。

パウロはコリントの信徒への手紙一によって、コリント教会の人々を叱責します。
コリントの信徒への手紙一第6章 12節。
「「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」

この箇所、単純に言い換えれば次のようになるでしょう。「わたしたちは、たしかに神さまによって許されています。だからといって、何をしても神さまや隣人のために利益となるとは限らないはずです。わたしたちは、たしかに神さまによって許されています。しかし、自分の欲望に支配されていいわけではありません。」と。

パウロは訴えるのです。「主に赦された者として、神さまのために生きようではないか。何かに支配されるような生き方はやめようではないか」と。
私たちはイエスさまによって救われました。それは、わたしたちが自分の思いに支配されて生きるためではなく、主のために、主のご支配の中で生きるようになるためです。

13節からの言葉にも、私たちが主のために生きることが言い表されています。
「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」

私たちはこの世のもののために生きるのではありません。それは、永遠に続くものではありません。私たちは主によって復活させられ、永遠に入れられることを望みながら生きます。永遠の希望を与えてくださる主のために私たちの体をささげて生きるのです。
そのように私たちが主のものとされていることは、ある表現をもって的確に言い表されます。それは、私たちが、主イエス・キリストの体である、という言い方です。

15節から。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」

私たちは、主イエス・キリストの体とされたのです。私たちの体は、自分のものではなく、主のためのものとされているのです。
教会に属する者として、自分の体を自分のために守り、大切にすることは言われるでしょう。自分のために、自らの体をみだらな行いから離し、清く保つことは、自分自身でも考え付くことです。

しかし、ここで言われるのはさらに私たちの思いを超えることなのです。あなたの体はもうあなただけのものではない。イエスさまのものである。
ここでは、創世記の出来事の引用までなされます。創世記において、主なる神は男のために女を造られました。そして、「二人は一体となる」という言葉によって、二人の結婚を表しました。

私たちと主イエスとの間柄は、そのような男と女の結婚よりさらに強い交わりです。イエスさまの霊が私たちのうちに宿るということです。主の霊が私たち自身の霊となる、霊において、主と私たちが一つになること、それこそが主によって信仰が与えられた者なのだ、とパウロは伝えます。
私たちが主と一つの霊として結びつくことは、私たちが主の聖霊の神殿である、と言い表されます。

18節から。
みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

神殿、旧約聖書に出てきます。エルサレム神殿のことを思い浮かべていいでしょう。イスラエル王国の王、ダビデが備え、その息子ソロモン王が、建築した神殿を思い浮かべてください。そこは、まさに、人々が主なる神にささげものをし、賛美をし、主の御業を喜び祝い、礼拝をささげた場所です。そして、そこに、主なる神は現臨して、共にいてくださった場所です。

ただし、旧約を読めば、そのエルサレムの神殿がどのような歴史をたどったか、私たちには知らされます。エルサレムの人々が信仰を失った時、神殿は建物そのものが崇拝されることとなりました。偶像が神殿に置かれることもありました。異国の風習が神殿の中に入り込むこともあったのです。
まさに、コリント教会の人々のうちに、異教の風習が入り込み、主なる神以外の何かと一つになってしまうことが起こったのと同じようなことが、かつてのエルサレム神殿にも起こってしまったのです。

このエルサレム神殿の建物は、ついには壊されてしまいました。では、神殿は、主なる神さまが現臨してくださるところは、永遠に失われたのでしょうか。
新約を読むと私たちは知らされます。主イエスは新しい神殿を建ててくださいました。そこに、主イエスは聖霊として来てくださいました。

ペンテコステの出来事です。主イエスの言葉に従って、集まり、祈っていた弟子たちの群れに、主は聖霊として降ってくださいました。この弟子たちの群れこそ、新しい神殿だったのです。この信仰者一人一人こそ、主のために礼拝をささげるものとされたのです。

かつて、エルサレムという神殿において、人々が礼拝をささげる中、そこに主は現臨してくださいました。しかし、新約の時代、そして今は、信仰者一人一人が集まるところに、主は現臨してくださいます。そして、私たち一人一人を、主の神殿として、主のものとしてくださるのです。

私たち自身が、主のものとされること、主がいてくださる神殿とまでされること、あまりにも途方もないことに思えます。なんて畏れ多いことだろうと、私たちは思うのです。

それほどまでに、主イエスは私たちを大切に、値高く思ってくださったことになります。罪にまみれて、もともとは全く価値のなかったはずの私たちおも、主イエスは愛してくださいました。そのご自身の命を持って、買い取ってくださるほどに、私たちを愛し、罪にまみれた私たちを清めようとしてくださいました。まるでこの世の思いに溢れて汚れ切っていた、偶像に染まっていた神殿を清めてくださるように、イエスさまの十字架は私たちを清めたのです。
パウロはそのことを、次のような言葉で言い表します。

20節。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
代価、とは、父なる神の独り子、イエス・キリストの命です。父なる神は、私たちを愛して、罪の奴隷となっていた私たちを、その独り子の命によって、買い取ってくださったのです。私たちは罪に支配される罪の奴隷ではなく、あらたに、主なる神の僕として、主のために生きるものとされたのです。

いみじくも、伝道者パウロは自らのことを「主イエス・キリストの僕」と言い表すことがありました。この僕という言葉、「奴隷」と訳してもいい言葉です。奴隷、僕として、パウロは、私たちは、主のものとされ、その主の御心に従って歩みます。自分自身の求めるものを第一にはしません。主の御心こそを、第一の目的とします。

「自分の体で神の栄光を現しなさい」とパウロは伝えました。私たちは具体的にはどんなことをして神の栄光を現すのでしょう。それは、私たちではなく、主なる神を大きくすることです。主をほめたたえ、主を大きくすることです。自らは小さくし、僕として、主に仕え、隣人に仕えることです。自らのすべてを、主にささげることです。

今、まさに、私たちは主なる神の栄光を現しています。自らを主の神殿として、ささげ、賛美し、感謝する器としています。礼拝をささげることで、私たちのすべてを主に差し出し、主にお仕えしています。

そのような私たちの礼拝者としての歩みは、主の神殿とされた者としての歩みは、これからも続きます。この神殿を偶像や異教の風習で満たすことはありません。常に、主への祈りと感謝を私たちの内に満たし、聖霊なる主がそこに宿ってくださるようにします。

そのようにして、主の栄光を現し続けましょう。