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呪いに勝つ神の愛

2020年5月31日

ゼカリヤ書第11章10-14節
マタイによる福音書第26章69節-第27章10節
川崎 公平

主日礼拝(聖霊降臨記念礼拝)

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■先ほど、6名の方の洗礼入会式をすることができました。若い方も、年老いた方も、ひとつの思いになって主の前に立ち、主イエス・キリストに対する愛と信仰を、言い表すことができました。この6名の方たちの、ひとりひとりの信仰の言葉を、神が今、どんなに喜んでくださっているかと思いますし、今共に礼拝をささげる私どもも、この神の喜びのまなざしの前に立たせていただくのです。

今改めて、私どもが心から願うことは、今日信仰を言い表した6名の方たちが、どうか終生変わることなく、主の弟子としての歩みを全うすることができるように、ということであります。洗礼を受けるとは、主の弟子にさせていただくことです。主イエスに愛された自分、そういう自分であることを裏切るようなことがないように。しかしそのようなことを考え始めますと、先ほど読みましたマタイによる福音書の記事は、私どもを複雑な気持ちにさせるかもしれません。主イエスの愛をいちばん近くで受けながら、その主の愛を裏切り、深みに落ちていったふたりの弟子の姿に、私どもも、心を打たれるものがあるだろうと思います。三度イエスのことを知らないと、呪いの言葉まで口にして主イエスとの関わりを否定したペトロと、銀貨30枚で主イエスを売って、それを後悔して首をつって死んだユダと、その間に第26章、第27章の区切りがありますが、今日はそのふたつの記事を、あわせて読みたいと思いました。

特に今日は、ペンテコステとも呼ばれる、聖霊降臨記念の日であります。主のお甦りののち、聖霊が注がれて教会が生まれた、記念の日です。聖霊降臨というのは、正確に言えば、教会が聖霊を受けて、新しい言葉を語り始めたということです。その先頭に立ったのがペトロです。かつて主を裏切ったペトロが、神の霊を受けた教会の先頭に立って、あの十字架につけられたイエスこそ、死に勝つ救い主であると、力強く語りながら、けれどもペトロは、自分がたいへん卑怯な裏切り者であったことを忘れてはいなかっただろうと思います。既に姿を消したユダのことも、ことにその悲惨な死にざまのことを、忘れることなどできるはずもなかったのであります。

■おそらく皆さんにとっても、ペトロとユダというふたりの弟子の話は、一度聞いたら忘れられないものがあると思います。主イエスの弟子として生きるとは、どういうことなのだろうか。そのようなことを考えますときに、ひとつ私がどうしても忘れることのできない書物があります。日本キリスト教団出版局が出した『死の陰の谷を歩むとも』という書物で、「愛する者の死」という副題がついています。8人の方が、ほとんどが牧師ですが、それぞれ自分の家族の死について書いているのです。その書物の中に、山下萬里という牧師の文章があります。自殺してしまった自分の娘について書きながら、同時に、同じように自殺してしまったユダのことを丁寧に考察しています。

この山下牧師の娘さんというのは、非常に感受性が強く、ある意味で問題児であったといいます。そういう娘が、17歳にして早くも結婚の決断をしてしまう。けれども、十分予想されたことでしょうけれども、あっという間に行き詰まり、心身疲れ果てて家に戻ってくるのです。ところが、それから一か月もしないうちに、その結婚相手から電話があって、両親は引き留めたけれども、振り切って家を飛び出してしまいます。夜になっても帰って来ない。それで、心配した山下牧師は翌朝早く彼の家を訪ねてみるのですが、家の中から話し声がしたので、ある意味で安心して帰ってしまった、その日のうちに、その部屋で娘は自分で死んでしまったというのです。

そこで山下牧師はこう書いています。「その時わたしたちは、どんなに心に打撃をうけ、信仰をもぐらつかされたことでしょうか。わたしの牧師としての任務は、もうおしまいだと思いました」。山下牧師は、牧師をやめる決心をするのです。それで、次の日曜日、山下牧師は友人の牧師に説教を頼み、自分は会衆席に座って礼拝をしました。その友人の説教の中で、こういう話を聞くのです。戦時中、蒙古伝道、モンゴル伝道を志した牧師がいた。家族も連れて、モンゴルに渡った。ところがこの人が、モンゴルの奥地に伝道するために、三週間ほど家を留守にしていたその間に、まだ小さい自分の子どもが死ぬのです。この話も、まだ小さい子どもがいる私にとってはたいへんつらい話で、もしも自分の伝道の生活の中でこんなことが起こったら、「いったい何をやってんだよ、自分は」と、自暴自棄になってもおかしくないだろうと思います。けれどもこの牧師は、自分の子どもの小さな墓の前で、こういう詩を読んだというのです。

蒙古伝道――それはあまりにも重々しき言葉
小さき旅に 小さき死が 供えられたり
愚かなる父を励ますために この児は死をもって
再び帰ることなきよう 我が脚に 釘打てり

この牧師は――ちなみに沢崎堅造牧師といって、私の前任地の松本の教会ともかかわりの深い人ですが――敗戦ののち家族は日本に返してしまって、もう一度自分だけモンゴルに帰っていきます。山下牧師は、そういう友人の説教を聴いて、牧師を続ける決心をするのです。

愚かなる父を励ますために この児は死をもって
再び帰ることなきよう 我が脚に 釘打てり

この詩を引用しながら、山下牧師はこう言います。「娘の死は、わたしがもはやキリストからはなれることがないように、わたしの脚を釘づけにしたのです」。

山下牧師は、この文章の最初のところで、こうも言っています。愛する者の死、それはただ悲しいとか寂しいとか、そんなことではすまない。それはしばしば、罪責感という重荷をもたらす。明らかに山下牧師は、自分のせいで娘は死んだんだと考えるのです。だからこそ、もう牧師を続けることはできないと考えた。娘の自殺という重荷を、自分で背負っていこうと考えた。自分で責任を取って、教会を辞めて、牧師も辞めようと思った。しかしそこで気付いたのです。娘の死を、既に主イエスが背負っていてくださる。主イエスから離れては、娘の死を背負って生きていくこともできないということに気付いたのです。だから、山下牧師は、キリストの恵みに立ち続ける決心をした。自分だけの責任で、牧師を辞めるなんてことは言うまいと思った。娘の死が、山下牧師の脚を、キリストに釘付けにした。

■今日お読みしたペトロとユダの物語について、改めてその内容をくどくど語り直す必要はないと思います。一読して私どもの心を打つ物語です。ペトロとユダという、ふたりの弟子が、それぞれの仕方で、主イエスから離れていく。しかもそこで、厳しい罪の意識に捕われる。ひとりは絶望の涙を流し、ひとりは絶望の死を遂げるのであります。そこでいったい、何が起こっていたのだろうか。今朝は、そのことに集中して考えたいと思うのです。

ペトロが主イエスのことを、三度知らないと言ってしまったということ、これは本当に厳しいことですし、なぜそれが厳しく感じられるかというと、私どもにもよく分かるからです。「そんな人は知らない」と、ペトロは三度主イエスとの関わりを否定しました。もちろんとんでもないことで、ペトロは、このお方のことを知るようになったからこそ、ペトロの人生は本物になったのです。今朝、ここに6名の洗礼入会者を迎えて改めて思うことは、イエスさまを知ることができて本当によかった、ということです。わたしはイエスさまのことを知っている。いや、イエスさまに知られているという、その事実こそが、皆さんひとりひとりの人生の真実、そのものであるはずですが、同時にほとんどすべてのキリスト者がよく承知していることは、ふとした拍子に、その事実を否定したくなる、隠したくなる、そういう誘惑があるということです。

ある人が、こういうことを言っています。ペトロも、もし最高法院の裁判のような場所で、主イエスとの関わりを問われたら、勇気を振り絞って、そうだ、わたしはイエスさまの弟子だと言ったかもしれない。けれどもここでペトロの前に現れたのは国の偉い人なんかじゃない、ただの女中です。けれどもそれが難しいんです。たいていの人間は、自分の名誉がかかっているような場面であれば、戦場で命を懸けることだってできる。けれどもいちばん難しいことは、何気ない日常生活の中で笑われること、軽蔑されることに耐えることだと、その人は言うのです。本当にその通りです。自分はイエスの弟子である。教会に行っている人間なんだということを、いつでも胸を張って言えるわけでもない、そういう自分であることを、しかし大切なことは、そういう自分のことを、主イエスが既によくご存じだということです。

第26章の31節以下に、既にこういうやりとりがありました。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、主イエスはペトロに予告しておられたのです。とんでもない、とペトロは申しました。「先生のことを知らないなどとは、口が裂けても言いません」。そのことを思い出して、激しく泣いたと言うのです。この一連の出来事を、もちろんペトロは、のちに教会の仲間たちに何度でも語ったと思います。私どもにも、よく分かる話なんです。

しかもここで福音書は、驚くべきことを伝えます。74節で、「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた」と言うのです。ちょっと言葉を濁したとかそういう話ではないんで、「呪いの言葉を口にして」……いったいペトロは誰を呪ったのだろうか。ここは文法的には解釈が難しいのですが、ひとつは主イエスを呪ったのだと考えます。「冗談じゃない、あんな男と一緒にしないでくれ! あんなやつは地獄に落ちて当然だ」と、ペトロは主イエスを呪ったのだと読むのです。しかしもうひとつ、ペトロは自分自身を呪ったのだという解釈があります。どうもこちらの解釈の方が有力のようで、「とんでもない、もしあんな人の仲間であるくらいなら、呪われた方がましだ」と、自分について呪いの言葉を語った。わたしはあの人と何の関係もない。わたしは、あの人を愛したことはない、あの人から愛されたことも一度もない。神に誓って、一度もない。

「するとすぐ、鶏が鳴いた」。ペトロは、その鶏の鳴き声を、生涯忘れることはなかったと思う。鶏の鳴き声を聞くたびに、深い心の痛みを感じただろうと思います。鶏の鳴き声によって、主イエスの言葉を思い出したからです。

もうひとりの弟子、ユダは、首をつって自殺をしたといいます。けれども多くの人が指摘することは、ペトロもまた、ここで魂においては自殺したようなものだと言います。ペトロの肉体の命はなお永らえたとしても、自分の魂を神の命から引き離してしまった、自分で自分を呪いの中に置いてしまった。

この話をペトロから聞いた、のちの時代の教会の人たちは、他人事ではないと感じたと思います。自分たちも、絶えず同じような誘惑にさらされていることを知っていたと思います。自分でも思いがけないところで、自分自身を呪ってしまう。しかもそのことをしたペトロが、自分たちの牧師なのです。そのことを、当時の教会の人々はどう受け止めたでしょうか。ペトロ先生も、結構だらしないんだね、などとは考えなかっただろうと思います。そのペトロをなお伝道者として生かしておられる、神の恵みをそこで知ったと、私は思います。

山下萬里牧師。娘が自ら命を絶った。思うに、これ以上の試練はめったにないだろうと思います。そこでこの山下牧師が、罪責感にさいなまれて、牧師を辞めよう、教会を去ろうと考えたのは、正直なこと、誠実なことであったと思います。けれどもそこで山下牧師が知ったことは、「わたしがもはやキリストからはなれることがないように、わたしの脚を釘づけにした」。「愚かなる父を励ますために この児は死をもって/再び帰ることなきよう 我が脚に 釘打てり」。呪われているとしか思えないこの自分が、しかし既に、キリストの恵みに釘づけにされていることを知るのです。自分で悔い改めて立ち直るとか、そういう話じゃない。ペトロだって、ここはひとつ悔い改めて、立ち直ってみよう、なんてことは考えられなかったと思います。悔い改める資格すらない、そんな自分のことを、けれども、主イエスは知っていてくださる。

■この山下牧師は、その文章の中で、こういうことを言っています。娘もキリスト者であった。キリストを信じているはずの娘が自殺をしたということは、ユダと同じように、キリストの恵みから落ちたということではないだろうか。それで、ユダについてもっと知りたいと思った。いろんな書物を読みあさった。ところがそこで、山下牧師は言うのです。自分は、娘の姿をユダに重ね合わせてきた。ユダは救われるのだろうか、自殺をしてしまった娘はどうなるのだろうかと、思い煩ってきた。しかしそうじゃない。娘がユダだったのではなく、わたしたちがユダであったのだ。

たとえば、こういうことを言います。山下牧師が注目するのは、ユダには明確な罪の自覚があったということです。その意味ではペトロなんかよりもずっと立派だったんで、きちんと自分のしたことについて、けじめをつけたのです。ペトロはと言えば、女中の前でさえ、しどろもどろになってしまいましたが、ユダはきちんと祭司長たちのところに行って、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。あの方に罪はない、十字架につけられるようなことはひとつもしていないんだと、堂々と言い表しました。あのペトロの醜態とは正反対です。

けれどもユダは、自分の罪を激しく後悔して、しかし後悔しただけであって、遂に帰るべきところに帰ることができませんでした。第27章4節で、祭司長たちは印象深いことを言います。「我々の知ったことではない。お前の問題だ」。かつて用いられていた口語訳聖書では、「自分で始末するがよい」と訳されました。それはお前の問題だろう。自分で始末したらいい。当時の宗教の専門家が、そう言ったのです。神に頼れとは言わなかった。「自分で考えろ。お前の問題だろう」。そしてユダは、まさに祭司長たちに言われた通り、自分で自分の罪の始末をつけてしまいます。

山下牧師が注目したのは、そこです。娘の死について、わたしも心責められている。しかし、なぜそこで、自分で責任を取ろうなんて考えるんだろうか。牧師を辞めようとか、教会を辞めようとか、まさにそれがユダの罪ではないか。しかしそこで知るのです。「娘の死は、わたしがもはやキリストからはなれることがないように、わたしの脚を釘づけにしたのです」。もう、このキリストの恵みから逃れるなんてことは、不可能だ。そのことを悟ったのであります。

■ペトロとユダの物語を読む際に、注意しなければならないことがあると思います。うっかりすると、こういう読み方をしてしまうことがあるだろうと思うのです。ペトロは涙を流して悔い改めたから救われたけれども、ユダは悔い改めなかったから滅びたんだ。聖書はしかし、そんなことはひとつも言っていない。だいたい、ここでペトロが本当に悔い改めていたのか、いくらでも疑うことはできます。主イエスの言葉を思い出して、激しく泣いて、けれども本当にまずかったと思ったのなら、ユダの100分の1でもいいから勇気を出して、人びとのところに戻って、「さっきのは嘘だ、わたしはイエスさまの弟子だ」と言えばよかったんです。けれどもペトロは、ただ泣いただけであって、そのまま主の十字架の姿を見届けることすらしなかったのです。

そんなペトロが、なおキリストの弟子として立つことができたのは、ペトロが清い悔い改めの涙を流したからとか、そういうことではありません。ペトロの涙もまた、その涙それ自体は、呪われた涙であると言うほかないのです。けれども、その涙を流すペトロのことを、全部知っていてくださった主イエスのことを、ペトロは思い出すことができました。第26章75節を、もう一度きちんと読んでみます。

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

他の何を否定してしまっても、この主イエスの言葉だけは、否定することができませんでした。「わたしはあんな人のことは知らない」と、そんな嘘を何度ついたとしても、自分のすべてを知っていてくださる主イエスの言葉を忘れることはできませんでした。「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した」のです。本当にこのお方は、わたしのことを知っていてくださるのだ……。もし、この主イエスの言葉がなかったら、ペトロは破滅していただろうと思います。自分自身を呪い、もうどうしようもないと思われたところで、なお振り返ってみれば、ペトロのすべてを知っていてくださる主の恵みがあったのです。

その事実にしっかりと立って、ペトロは最初の聖霊降臨の日、〈このわたしのため〉の主イエスの恵みを語りきることができました。そのとき、ペトロは決してひとりではありませんでした。ペトロのために死に、甦ってくださった主が、聖霊において、ペトロと共にいてくださったことは明らかであります。

今朝、この喜びの席に立つ6名の洗礼入会者の皆さんも、これまで、ひとりひとり、その人だけの歩みがありました。喜びの日もあり、悲しみの日もあり、そういうことについて私も何も知らないわけではありませんが、本当のところは結局、その人と神さまだけの秘密です。そういう6名の方たちが、今この喜びの日を迎えながら、神に対する感謝の思いも、あふれるほどにあるでしょうけれども、神にお詫びをしなければならないことだって、いくらでもあるだろうと思うのです。そして今日洗礼を受けたからって、私どもの信仰生活は、必ずしも、思い通りになることばかりではありません。何度しりもちをつくか、分からないのであります。それでも私どもは、主イエスの言葉を思い出すことができます。私どもを愛し、私どものために命をささげられた神の御子イエスの恵みが、皆さんひとりひとりの上に、豊かにありますように。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、どうか今、あなたの恵みの大きさのゆえに、悔い砕かれた魂を、御前にささげることができますように。悔いることにおいても、涙を流すことにおいても、罪を犯してしまう愚かな者です。けれども、主が共にいてくださいます。振り返ればいつも、主の恵みの言葉を思い出すことができます。ありがとうございます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン