1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 人間を解き放つ愛

人間を解き放つ愛

2012年6月17日

ルカによる福音書第8章26-39節
川﨑 公平

主日礼拝

ルカによる福音書が伝える、ゲラサ人の地方という聞き慣れない土地で起こった、不思議な物語を読みました。いろいろな意味で不思議な記事ですけれども、難しい内容ではないと思いますから、改めてその筋をたどって、私が語り直し、説明の言葉を重ねる必要もないと思います。しかし皆さんがこの物語をお聞きになり、今どういうことを思い巡らしておられるかなと思います。

このゲラサの町に、悪霊に取りつかれている男がいた。「長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」と言います。「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」。異様なことです。

けれども何と言っても、私どもが驚かされるのは、おびただしい数の豚の群れです。悪霊どもがその人から出て、豚の群れの中に入ると、突然狂ったように走り出し、崖から湖に転がり落ちていく。まず、その豚を飼っていた人たちが度肝を抜かれたでしょう。とんでもないことが起こったと、周りの町や村に住む人びとに告げる。何事かと集まってきた人びとも驚き、大きな恐れに捕らえられた。

しかし、誰よりも驚いたのは、悪霊を追い出していただいた、この人、本人であったと思います。突然豚の大群が走り出し、湖になだれをうって落ち込んで行く……「ああ、これがわたしの中に巣食っていたものだったのか。これが、これまでのわたしの正体だったのか」。忘れ得ぬ光景であったと思います。そして、改めて問うたと思います。この方は、いったい何者なのだろう。湖を渡ってこの土地に現れたこの方は。いったい、何しに来られたのだろうか。
このお方は、いったいどなたなのでしょうか。

この出来事が起こったのは、「ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方」であったと言います。このゲラサとはどこにあるのか。実は学者たちも、よく分からないと言います。この福音書を書いたルカもまた、実はその地理をよく知らずに書いたのではないかと疑う人もおります。私どもは学者ではありませんから、なおさら分からなくてもよいと思いますが、しかしここでおそらく大切なことは、ここが「ガリラヤの向こう岸にある」ということです。同じ「向こう岸」という言葉が、既にその前の段落の22節にありました。主イエスがまず、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われた。そして私は、この福音書を書いたルカが、どんなに深い思いでこの言葉を書いたかと思います。湖を渡り、嵐をついて、主イエスはここに来られた。なぜか。主イエスが向こう岸にいる、このひとりの悪霊につかれた人を愛されたからです。

ついでにこの先も読みますと、すぐ後の40節には「イエスが帰って来られると」とあります。主イエスはゲラサにおいて、ただこのひとりの人を救われただけで、また戻って行かれたということです。直接の理由としては、その地方の人びとが、主イエスに出て行ってほしいと言ったからですが、しかし私はむしろ、主イエスがたったひとりの救いを目指して、嵐の中、向こう岸に渡ってくださったということに心打たれます。くり返しますが、たったひとり。そのひとりのために、主イエスが来てくださったのです。

ルカによる福音書は、のちに第15章で、失われた羊の譬えと呼ばれる、忘れがたい主の言葉を書き記しました。百匹の羊を持っている人が、もしもそのうちの一匹を見失ったら、その失った一匹を見つかるまで捜し続けるだろうと、主は言われました。「誰が何と言おうと、わたしは、捜す」と言われたのです。まさにその羊飼いとしての主イエスの姿を、既にルカもここに読み取っていたと思います。湖を越えて、嵐をついて、主イエスは来てくださった。このひとりの人のために。主イエスは、この人を愛しておられたのです。そして、この主イエスの愛をここに読み取ることがなければ、決してこの物語は分からないと、私は信じています。

今日の主礼拝後、少しの時間お昼ごはんをがまんして、午後1時までという時間設定で、地区別懇談会という集まりをいたします。主題は、「これからの伝道」という、まあ何と言うか、あまり輪郭のはっきりしないものにしました。けれどもそれだけに、広く、自由に、これからこの鎌倉雪ノ下教会がどのような伝道をしていくのか、皆さんと語り合いたいと思っています。この懇談会の最初に、私が発題のようなものをするといいという意見も長老会の中にあったのですが、むしろ皆さんがそれぞれのグループで、なるべくゆっくり、自由に語り合っていただくことを大事にしたいと思いました。その代わりに、この礼拝の説教で、「これからの伝道」という主題に沿った発題のようなことをしたいと長老会の席上で申しました。けれども、やはり私はここで、あまり多くのことを語りすぎないほうがよいと思いました。私のような者がこのような場所で語り得ることはいつも単純なことで、ひとりの人の救いのために、向こう岸に渡って来てくださった方がおられるということです。私どもも、このお方に救われたのです。そしてこのお方が、今もこの鎌倉の地でみわざをなさると信じて、私どもは伝道に励む。

けれどもそこで、ひとつ問わなければならないことがあると思います。主イエスがこの地方に来られたのは、悪霊に取りつかれた人がいたからです。そこで問わざるを得ない。悪霊とは何か、ということであります。一方から言えば、悪霊なんて、現代人がそんなもの信じるだろうかと疑うこともできます。理性を持った現代人に、悪霊などという表現を用いて、伝道などできるだろうか。けれども私は、必ずしもそうでもないと思っています。むしろ、私どもは悪霊をよく知っていると思います。悪霊のしわざとしか思えないことが、たくさんあるのです。

今日の礼拝に備えて、説教の準備のために聖書の言葉を読み続けながら、同時に私が聴き続けていたことは、オウム真理教という宗教団体の関係者が、ふたり続けて逮捕されたというニュースです。テレビなどを見ていても、17年前の地下鉄サリン事件のことを、いやでも思い出させられます。以前にも、日曜日の説教の中でお話したことがあったと思いますが、その事件が起こった時、私は大学1年生でした。1995年3月。麻原と名乗る人物を教祖と仰ぐ集団が、地下鉄の中でサリンという猛毒を撒いて、何千人という人が重傷を負いました。戦後最悪の事件とも言われます。その事件の日、大学は春休みでしたが、たまたま都心に出かけなくて本当によかったと思いました。家のテレビで、その事件を知ったのです。少なくとも私にとって、その事件が本当に重い意味を持ったひとつの理由は、私の通っていた大学の学生が、たくさんオウム真理教に入信したということです。私の友達のクラスで、ふたり続けて出家したなどという話を聞いたりしたものです。

このたび逮捕された人の両親が、コメントを発表した。テレビなどでご覧になった方も多いかもしれません。十何年ぶりに、娘の消息が明らかになった。「わたしたちも、どうすればいいか分からなかったのです」。「娘よ、生きていてくれて、ありがとう」。「日本中の皆さんには申し訳ないけれども、娘に会いたいという思いでいることを、許してほしい」。ああそうか、この人にも親がいたのかと思いました。もしかしたら、私のような世代の人間と、私の親くらいの世代の方とでは、この事件の捉え方もずいぶん違うのかもしれないと思いました。たとえばそこで私は、この悪霊に取りつかれたゲラサの人にも、帰るべき家があったのだということに気づきました。主イエスはこの人に、39節で、「自分の家に帰りなさい」と言われました。あなたには帰るべき家があるだろう。そこに帰れ。もしかしたら、まだその両親も健在であったかもしれません。どのような思いで、墓場を住まいとするようになった息子のことを案じていたのかなと思います。その両親の悲しみを、主イエスはどのような思いで見ておられたかなと思います。そして今、イエスさまはいかなる思いでいらっしゃるのだろうかと思います。この日本において、主イエスはどのような思いで悪霊と対峙しておられるであろうかと、私は思うのです。

けれどもまた、私はさらに別のことをも考えておりました。特にその地下鉄サリン事件のあと、ひとつの風潮が強まっていったと思います。「宗教は怖い」。大学の中にも、ますますそういう雰囲気が強くなっていきました。少なくとも大学全体にそのような空気があったし、私の心の深いところに、そういう空気を恐れる思いがありました。はっきり言えば、自分が神を信じていること、教会に行っていること、それどころか教会学校の教師をし、子どもたちにキリスト教のドグマを説き教えているなどということを、大学の友人には知られてはならないという恐れがありました。今正直に思う。そのような私を見つめておられた主イエスのまなざしは、どのようなものであったかなと、今悲しみと共に思い起こすのです。

そんな私が大学4年生の時、既に大学院の入試の出願まで済ませていたにもかかわらず、神学校に行くことを決心しました。まわりの友人は、祝福してくれる友人も多かったと思いますが、突然関係がぎこちなくなった友人もいました。今でもその友人たちの顔を思い起こすと、つらい思いになります。神学校に進み、教会に行っていない人が日常的には周りにいなくなって、正直、解き放たれたと思いました。もちろんこういう解き放たれ方は間違っていることにも気づいていました。自分は伝道者になりたいんだよな……伝道をしたいんだよな……。けれども一方で、「神などいない」「宗教は怖い」という空気の友人たちの前では、どうも伝道者らしい姿は見せにくいと思っている自分を、イエスさまの前でどう言い訳できるであろうかと思っていました。

しかし、理屈をこねるのでも何でもない。主イエスは、その大学の友人たちのことも、愛しておられたと信じています。私が今でも主イエスの前に恥じていることは、その主イエスの愛を裏切った自分自身の浅はかさなのです。

そのような私が、悲しみをもって読まざるを得なかったのが、ここに出てくるゲラサ地方の人びとの姿です。この人たちも、おびただしい豚の群れが湖に飛び込んで、悪霊の力を恐れたかもしれません。ところが、この人たちが結局何をしたかというと、主イエスを追い出したのです。「出て行ってもらいたい」。なぜそんなことをしたか。手元からいきなり、自分たちの財産が失われて、その経済的な損失を嘆いたのだと説明する人もおります。そうかもしれません。マルコによる福音書は、豚2千匹という数字を伝えてくれます。1匹5万円でも1億円。たいへんなことです。しかし、なぜ主イエスが追い出されたか、その一番の理由は、主イエスが悪霊を追い出してくださった、そのありがたさが分からなかったということです。結局自分には関係のないことだったのです。考えてみれば、薄情なことです。自分たちの仲間のひとりが悪霊にとりつかれて、言葉では言い表しがたい苦しみの中に落ち込んでしまっていた、その人がいやされた。救われた。そのことだけでも、どんなに喜ぶべきことであったか。しかしそのことも、人びとにとってはどうでもよいことでありました。それで、人びとは主イエスを追い出してしまった。主の愛のありがたさが分からなかったのです。

しかも、さらに興味深いことがあります。悪霊に取りつかれた人が主イエスに初めて出会った時に、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言いました。この言葉は、ほとんどそっくりそのまま、主イエスを追い出した人びとの叫びになるのです。「イエスよ、どうかこれ以上かまわないでくれ。はっきり言って迷惑だから、出て行ってほしい。関わらないでほしい」。これは、まことに現代的な悪霊の姿だと、私は思います。そこで何度でも思い起こすべきことは、主イエスは、この人たちを愛しておられたということです。

この人びとの無理解に阻まれて、主イエスは再び湖を渡って、向こう岸に帰って行かれる。けれどもただ姿を消しただけではありませんでした。説教の最初に、主イエスはたったひとりをお救いになっただけであったと言いましたが、正確には違います。その救われたひとりの人を、その土地における伝道者として残していかれました。そのようにして、主イエスは、ゲラサの人びとに対する愛を貫かれました。

「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

ここで「言い広めた」と訳されている言葉は、新約聖書においても、また後の教会の歴史においても大切にされるようになった言葉です。新約聖書の他のところでは、「宣べ伝える」と訳されることが多いと思います。伝道を始めたのです。しかもこの人は、何も難しい話をしたのでもない。神が自分にしてくださったこと、イエスが自分にしてくださったことを言い広めただけです。

この人が語ったこと、それは何と言っても、豚の大群が湖に飛び込んで行ったことであったでしょう。その光景を、生涯忘れ得なかったと思います。その地響きを、忘れることはなかったと思うのです。よく分かったと思う。自分がどんなに恐ろしいところに落ち込んでいたか。いや、その恐ろしいところから、自分がどんなに確かに救われているか。けれども私どもは、もっと強烈な記憶を持っているはずです。言うまでもなく主イエスの十字架です。豚の大群どころではない、神の子みずから、私どものいのちを救うために、その体をささげてくださいました。湖の底どころではない、地獄の底にまで突き落とされてくださいました。その主イエスの十字架の死によって、私どももまた、自分を捕らえていた悪霊の現実に気づくのです。自分が、どんなに恐ろしい罪の力に捕らえられていたか。自分が今、どんなに確かないのちを与えられているか。私どもは、このお方のことを話すのです。それが、私どもの伝道です。

主が悪霊に取りつかれていた人を、ゲラサの町に残して行かれたように、私どもも、主イエスに遣わされるように、この国に生かされています。「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」。ここに、私どもの教会の姿が映し出されています。この伝道に生きる教会の姿こそ、主イエスの愛の証し、そのものなのです。お祈りいたします。

主イエス・キリストの父なる御神、今私どもが祈りをひとつに集めますことは、主が私どもにしてくださったことを、もういちど力ある言葉で語りたいということであります。新しい言葉を与えてください。語る勇気を与えてください。何よりもあなたに愛されている自分自身であることを、新しく受け止めなおすことができますように。この鎌倉雪ノ下教会の伝道の歩みの上に、あなたの導きを改めて祈ります。この地に教会がたてられ、伝道を始めて95年の歴史の節目の時を迎えております。もう一度あなたが与えてくださる伝道の志を、み前にお捧げすることができますように。この日本のために新しく祈る思いを、主よ、どうぞ新しく与えてください。主のみ名によって祈り、願います。アーメン

礼拝説教一覧