人を赦すために
ルカによる福音書第17章1-10節
川﨑 公平
主日礼拝
先ほどの長老の祈りにもありましたように、本日の午後に行われます長老会において、2名の方の面接をいたします。洗礼を受け、この教会の教会員になりたいと志願なさった方の試問会をするのです。ぜひ皆さんにも祈りのうちに覚えていただきたいと思います。
ここにおられる多くの方が、ご自分の試問会の時のことを覚えておいでだと思います。先週、志願者の方とそれぞれにお会いして、試問会に備えながら、ひとつ思いましたことは、「ああ、やっぱり緊張するんですね」ということです。特にこの教会は長老の数が多いですから、18人の長老たちと4人の牧師たちの前で、自分の言葉で信仰を言い表す。緊張しないほうがおかしい、ということになるかもしれません。しかし私は、そこに生まれる緊張は、ある意味では仕方のないことだというよりも、むしろ必要不可欠のものであると考えています。この鎌倉雪ノ下教会でのことですけれども、一度、そういう試問会をするという時に、志願者の方が緊張しておられたのがちょっと気の毒になったということだと思いますが、口を滑らせまして、「あー、いやいや、そんなに緊張しなくてもだいじょうぶですよ、だーれも怖い人はいませんよ」などと言ってしまったことがありました。けれどもその後聖書を読み、祈りをして試問会を始めようとした時に、その失言を撤回しました。「すみません、さっきのは取り消します。やっぱり緊張してください」。人の前に立つ緊張感ではないのです。主イエスの前に立つ、まことに晴れやかな、喜ばしい緊張感があってしかるべきだと思ったのです。
私は、洗礼のための試問会において、本当に試問をなさるのは主イエスだと思っています。主イエスご自身が問われる。あなたは、わたしを信じるか。答えてほしい。主イエスが、答えを待っていてくださるのです。考えてみれば、ありがたいことです。しかも、その答えもまた、神が与えてくださる。伝道者パウロは、神の霊によらなければ、誰ひとりとして「イエスは主である」と言うことはできないと言いました。「イエスは主である」。この言葉は、当時の教会において、洗礼を受ける人が必ず言い表さなければならない信仰告白の言葉であったと言われます。「イエスは主である」と言い表して、洗礼を受けたのです。今日の午後の試問会においても、聖霊よ、どうかその信仰の言葉を与えてください。「イエスは主である」と、明確に言い表すことができますように。長老皆が、その祈りを新しくするひと時でもあります。その祈りを、皆さんの祈りともしていただきたいと願っているのです。
神を信じて、洗礼を受ける。それはいったい、何を意味するのだろうか。まことに単純なことで、「イエスは主である」という事実を、受け入れるのです。そういう生き方を始めるのです。この私の人生において、新しい主人が現れるのです。それまでは、自分の人生の主人は自分だと思っていた。自分のいのちの責任者は自分であった。しかしこれからは違う。自分以外の主人の支配を受け入れる。喜んで受け入れるのです。
そのようなことを考えますときに、まず私のような者が思い起こすのは、450年前に書かれたハイデルベルク信仰問答という信仰の書物のことであります。この書物は、その最初のところで、私ども共通に与えられた、しかも、ただひとつの慰めとはいったい何かと問うて、「それは、生きる時も死ぬ時も、わたしの身も魂も、主イエス・キリストの所有であることだ。もうわたしはわたしのものではない。そこに唯一の慰めがある」と申しました。死をも越えて、イエスはわたしの主でいてくださる。そこに唯一の慰めがある。
それと合わせて、私がここでもうひとつ紹介したいのは、星野富弘というキリスト者の詩であります。この星野富弘さんという方について多くの説明をする必要もないと思います。大学を卒業して間もないような年齢で、中学校の体育の先生だったそうですが、生徒の前で体操の見本を見せようとしたところで首を打って、以来首から下が動かなくなってしまった人です。のちに病室で洗礼を受け、今でも口に筆をくわえて、絵や文章を書き続けている人で、皆さんの中にもその作品に心ひかれる方が多いと思います。この星野富弘さんの詩の中に、こういうものがあるのです。「鈴の鳴る道」という詩集に収められているものです。
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった
こういう詩については、あまり解説なんかしないで、そのまま静かに味わうべきものではないかとも思います。ただ、誰もがこの詩の心をすぐに了解できるわけでもないかもしれません。たとえば、前半はまだ分かるかもしれません。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった」。なるほど、そういうこともあるかな、と多くの人が考えると思います。「自分のいのちにしがみついていた時」と言い換えてもいいかもしれない。けれども分かりにくいのは後半で、「いのちより大切なもの」と言うのです。「いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」。この詩を書いた星野富弘さんは、「いのちより大切なもの」って何ですか、と尋ねられても、答えないようにしているそうです。ですからここで、私がいかにも牧師らしい講釈を垂れて、これはつまり信仰のことで、とかなんとか言い始めることも控えた方がよいと思います。ただ私の感想のようなものを申しますと、ひとつ明らかなことは、ここに自由解放の出来事が起こっている、ということです。もう、自分のいのちが一番大切だと、そのことにしがみつく必要はなくなった。そんな苦しいところからは解き放たれた。それは言い換えれば、自分のいのち、自分の存在が、自分以外のものに支えられる安堵と喜びということではないかとも思います。この星野富弘さんの詩もまた、結局のところ、あの450年前の信仰問答が語っていた、ただひとつの慰めを歌っているのではないかと私は思います。わたしの存在は、キリストのもの。身も魂も、生きる時も、死ぬ時も。もう自分で自分のいのちを支える必要もない。自分のいのちが一番大切、そんなことにこだわる必要もない。そこに慰めが見えてまいります。まことに重い、また不思議な恵みを語る言葉だと思います。
このような信仰の事実を、今日読みましたルカによる福音書第17章は、その7節以下で、「わたしどもは僕である」という表現で言い表しているのです。「イエスは主である」。それを逆に言えば、わたしは主イエスの僕、主イエスの奴隷である、ということであります。
そのことを、ひとつの譬えを用いて語っておられます。この7節以下の譬え話は、言葉としては難しいことは何もないと思います。しかし分かりやすいとも言いにくいと思います。明らかに、神の僕である私どもの姿を描いています。もっとはっきりと、「奴隷」と訳した方がよかったかもしれません。私どもは神の僕、神の奴隷。なぜそう言われるのでしょうか。
ここに出てくる僕は、実によく働いております。非のうちどころがありません。畑で一日忠実に働いただけでなく、夜は家に帰って来ると、今度はすぐに台所に立ち、主人の食事の用意をし、給仕をする。しかもそれを、自分の意志でやるのではない。主人の命令だから、するのです。しかも、奴隷というのは、今月は何日、何時間働いたから給料はこれだけ、というようなことにはなりません。その存在そのものが主人の所有物ですから、奴隷がしたことに対して主人がいちいち報酬を支払い、あるいは感謝する必要はないのです。そんなこと、当たり前だろう? と主イエスはこの譬えの中で語っておられるようです。
特に最近の註解書を読みますと、この箇所を説教する人はこういうことに気をつけた方がいい、と忠告してくれるものがあります。このような奴隷と主人の関係を譬えにして語るのは、現代人にはよく分からないだろうから、もう少し違ったイメージを使った方が分かりやすいだろうと、そんなことまで提案してくれる註解書があります。しかし、私はそんなことですむだろうかと疑っています。神を主と呼び、自分を神の奴隷と呼ぶ関係は、古代人には通用したが、現代人には通用しないのでしょうか。昔の人と違って、現代人は神からも自由になって、「しなければならないことをしただけです」と言うのではなくて、「神よ、わたしはこれだけのことをしましたから、それにふさわしい報酬をください」と言えるようになったのでしょうか。……いや、実際にはそうなっているのかもしれません。
僕でないとしたら、どう生きるのでしょうか。……自分で働いて、その自分の働きに応じた報酬をいただいて、自分は生きていくのだ。自分のいのちの権限を自分で掌握し、自分の存在を自分で支える。それが現代人にふさわしい生き方なのでしょうか。しかし私どもはどこかで気づいています。そんな苦しい生き方はないのです。けれども今は違います。私どもは、身も魂も主イエス・キリストの所有。もう、これだけのことをしたからこれだけの報酬をくださいなどと言う必要すらなくなりました。主イエスはここで、そのように解き放たれた人間の姿を語っておられるのです。
そのような僕が言うべき言葉が、最後の10節に記されております。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」。実はこの「取るに足りない」という言葉の翻訳には、いろいろと議論があります。原文のギリシア語にさかのぼっても、その意味をどう捉えるかということについては、あまり決定的なことを言いにくいところがあります。辞書を引いてすぐに出てくるひとつの意味は、「役に立たない」というものです。しかしここでは、どうもそういうことではなさそうです。役には立っているのです。自分は何の役にも立っていないではないか、こんな自分は死んだ方がましだと考える必要もない。神の僕として、神さまに命じられたことを果たし、立派に神さまのお役に立っている。こんなすばらしい人生はない。けれどもここで、「取るに足りない僕」と言われているのは、その働きに対して、それがどんなに大きな働きだと自分が思っていたとしても、それに対する報酬を求める資格を持ってはいないということです。「金を払うに値しない僕です」とも訳すことができます。
しかしさらにこのように理解することができると思います。「わたしは報酬を求めないで仕えることができるようになった、あなたの僕です」。主人に感謝や見返りを求める言葉ではありません。自分が主人に感謝する言葉です。もうわたしの生き方は変わりました。どう変わったのか。報酬を求めずに生きることができるようになりました。自分は報われているか、報われていないか、感謝されているか、感謝されていないか、そんなことからも解き放たれた。なぜかと言うと、「わたしは主のもの」。その事実に、既に慰められているのです。わたしの存在そのものが、報われているのです。ここに、私どもの命そのものが新しくなる道が開かれるのだと思いますし、主イエスのご覧になるところ、ここにどうしても解決しなければならない私どもの問題があるということであったに違いない。なぜかというと、私どもはいつも、自分がしたことに対する評価を気にしているからです。自分がこんなに頑張ったのに、その報いがなかったりすると、たちまち空しくなります。とても悲しい思いになります。そのことにこだわり続けています。こだわりすぎると、病気にまでなります。
もともと、このような譬え話を主がお語りになったのは、5節で使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったことがきっかけになっています。それに答えて語られた譬え話です。しかしなぜ信仰を増やしてほしいと思ったのでしょうか。さらにさかのぼって1節から4節までを読みますと、その思いを理解できると思います。そこですぐに分かることは、罪が問題になっているということです。しかも、自分が犯す罪ではありません。他人が犯す罪です。
1節に「つまずきは避けられない」という言葉があります。この言葉は、かつて口語訳では、「罪の誘惑が来ることは避けられない」と訳されました。ただつまずいて転んでしまうということではなくて、人に罪を犯させるような、そういうつまずきです。他人に罪を犯させるような、そういう誘惑になってしまうようなことをするな。それがまずひとつのことです。けれども、実際に罪を犯してしまっている人がいれば、その人をきちんと戒めなさい、と言います。その人のいないところで、あの人はこんなに悪いと陰口をたたくようなことをするのではなくて、きちんとその人が罪から解き放たれるように戒める。そして、その人が悔い改めるならば、何回でも赦してあげなさいと言われるのです。
このところを、皆さんはどのようにお読みになるでしょうか。「『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。悔い改めているのなら、赦してやってもいいかな、と思うかもしれません。ただここで、非常に強烈だな、と思いますことは、4節で、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」。1週間に7回、つまり毎日のように過ちを繰り返しても、これを赦せ、と言っているのではないのです。1日に7回です。朝から晩まで、ひっきりなしに、性懲りもなく罪を犯し、このわたしに迷惑をかけるのです。ところがそういう人が、どの面下げてわたしの前に出てくるのでしょうか。1日に7回、さんざん人に迷惑をかけながら、「わたしが悪かった。すまなかった。悔い改めます」と言ってくる。たぶん、私どもの多くは、1日のうち2回目か3回目くらいで、「馬鹿は死んでも治らない」と、思ってしまうと思います。
この7回という数字は、もちろん象徴的な意味を持つのであって、これは聖書における完全数であると説明されます。今日はもう7回赦したから、8回目はもう赦さない、それまでの7回分も合わせて、二度と立ち上がれないくらいとっちめてやる、ということではありません。完全に、赦すのです。ほとんど身震いがします。我慢にも限度があります。赦すということは、自分が傷つくことです。自分が傷つかない程度になら赦しましょう、というのは、実は赦しでもなんでもない。ただのお遊びであります。1日に7度赦す。延々と、自分が傷つき続けるということです。それでも赦す。主イエスよ、いつまでですか。いつわたしは報われるのですか。
そのようなところで、この弟子たちは、「わたしどもの信仰を増してください」と申しました。あまり説明をしなくても、その心は理解できるのではないかと思います。1日に7回赦すなんて、主イエスが私どもの信仰を大きくしてくださらないと、そんなことは到底できっこないだろう。しかし、その「信仰」とは、何を信じるのでしょうか。主イエスは、「信仰はからし種一粒でいい」と言われました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とまで言われました。もちろん主イエスは、こののち弟子たちが、それこそ5節にあるように、使徒たちと呼ばれるようになり、教会の指導的役割を担うようになった時に、がっぽがっぽと桑の木を地面から抜け出させ、海の中に桑林を作るようになるなんてことを考えてはおられません。この弟子たちは、罪との戦いをしたのです。それが、教会に委ねられた務めです。あなたがたは罪との戦いをするのだ。1日に7回罪を犯すような人、けれどもその人を罪から解き放つような戦いをするのだ。その時にあなたがたが武器とすべきものがある。それは信仰だ。そこで語られたのが、この僕の譬えであったのです。
あなたがたは、わたしの僕ではないか。もう、わたしがあなたがたの主になっているではないか。そのことを信じればよい。主イエスは、そうおっしゃったのではないでしょうか。そのような信仰を、たとえば、あの星野富弘さんというひとも、与えていただいたのではないでしょうか。
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
改めて考えてみると、なぜ私どもは、人を赦すことができないのでしょうか。間違った意味で、自分のいのちが一番大切だと思っているからではないでしょうか。自分のいのちの主人は自分だと思っているからではないでしょうか。その自分がいくら損したか。今あの人に何を貸しているか、何を借りているか、どれだけの迷惑をこうむったか。一生こだわり続ける。けれどもそんなに苦しいことはないのです。
そのような私どもを解き放つために、既に主イエスが私どもに、僕として仕え抜いてくださいました。それがあの十字架であります。主イエスはあるとき弟子たちに、祈るときにはこう祈れ。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。そう祈りなさいと言われました。けれどもそんなに難しいことはないと私どもは思っています。
私どもが主の祈りにおいて、いつも「罪」という言葉で祈っているこの言葉は、本当に「罪」という翻訳でよかったか、もしかしたら問い直した方がよいかもしれません。たとえば新共同訳聖書が主の祈りを伝えているところを読みますと、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と書いています。負い目、つまり、借金であります。私どもは、神さまに負い目を負っている。借金を背負っている。そう言うのです。
私どもの間にも、これは悲しいことですけれども、どうしても貸し借りの関係が生じます。私は今あの人にどれだけのものを貸している。まだ返してもらっていない。お金の貸し借りに限りません。けれどもそこで気づきます。私どもは、とんでもない額の借金を、神に対して負っているのではないか。いや、神は既にそれを赦してくださったのではないか。主の十字架の前で、そのことに気づくのです。気づいたところに、あの10節の、僕の言葉が生まれてくるのです。「しなければならないことをしただけです」。この言葉も、「返さなければならない借金を返しただけです」とも訳すことができます。義務感から出てくる言葉ではありません。解き放たれた人間の言葉です。その解き放たれた人間が、他者の罪をも赦すようになるのです。
そのために、私どもは繰り返し主の十字架の前に立ち続けます。そのための、この聖餐の食卓です。私どもが主に仕えるに先立って、まず主が仕えてくださいました。まさにそのようにして、主イエスが私どもの主人になってくださいました。そのお姿に、ここで気づきます。
聖餐の式文のなかで、必ず読む言葉があります。「主イエス・キリストは、私どものために十字架にかかり、その死とみ苦しみをもって罪を贖い、何のいさおしもない私どもを招いて、神の子とし……」。贖う、という言葉は、もう古風なものになってしまったかもしれません。代金を払って買い取る、償いをする、ということです。私どもが主の僕になる前に、まず主イエスが、十字架の上でいのちを注いで、とんでもない代価を支払って、私どもを買い取ってくださいました。私どもが志願して、主の僕になったのではないのです。買い取られたのです。それほどに、私どもの値段が高かったからだとも言えます。それほどに大切にされているこのわたしであることを知りながら、私どもも今ここで解き放たれるのです。「いのちが一番大切だと/思っていたころ/生きるのが苦しかった」と言えるようになったのです。けれども今は、「いのちより大切なものが/あると知った日/生きているのが/嬉しかった」と言えるようになったのです。
主に愛された僕として今私どもはここに立ちます。もう報いを計算する必要もありません。こんなにすばらしいところに立たせていただいていることを、改めて心に刻むこの聖餐の食卓に仕えてくださるのもまた、主イエス・キリストであります。今聖霊の促しによって、「イエスは主である」と、「わたしの身も魂もあなたのものです」と、明確に言い表したいと心から願います。皆さんひとりひとりの心に、聖霊の注ぎが豊かにありますように。お祈りをいたします。
どうぞ今、私どもを解き放ってください。まだ赦すことができていない人を、今ここで赦させてください。何よりもあなたに大切にされた私どもであることを、すべてをあなたのものとされた私どもであることを、その私どもの新しい姿に、今、この食卓において気づくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン