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神の力はどこに見えるか

2025年3月9日

ローマの信徒への手紙 第1章18-23節
川崎 公平

主日礼拝

 

■私どもの教会が今でも大切にしている、ハイデルベルク信仰問答という古典的な信仰の書物があります。私が学生の頃から、文字通り愛読してきた、つまり、愛して読んできた、繰り返し読んできた書物です。この信仰問答は、大きく分けて三部構成になっていて、その最後の第三部に「感謝について」というタイトルがついています。「感謝について」。その内容をなお具体的に言うと、キリストに救われたわれわれがどういう生活をするのかということを、十戒と主の祈りを説き明かすことによって明らかにしようとするのですが、何と言っても決定的な意味を持つのは「感謝について」というこの表題であると思います。

「あなたはキリストによって救われたのですか」。「そうです」。「そうであれば、これからどういう生活をするのですか。何の功績もないのに、何もいいことをしたわけでもないのに、ただキリストの恩恵によってのみ救われているというのであれば、これからはどんなでたらめな生活をしてもだいじょうぶだ、ということになりませんか」。この信仰問答が文字通りそういう問いを問いかけているわけではありませんが、そういう誤解を封じるような問いと答えを重ねていることは確かです。その問いと答えの文章を全部紹介することは省きますが、とにかくそこで信仰問答が語ることは、「これからは、わたしの生活は、感謝の生活になるのです」ということです。

この「感謝」という言葉を、今でも私は折りに触れて心に刻みます。私の生活の、どこをどう切り取ってみても、そこには必ず神への感謝があると、言えるか、言えないか。「なぜ私は今ここで、こんな生活をしているんだろう。私は、神に感謝しているのだ」。感謝の生活というのは、少し言い換えると、〈感謝の相手〉がいつも見えている生活ということです。感謝とは、言うまでもないことですが、感謝すべき相手があって初めて成り立つことだからです。なぜあなたはそういう生き方をするのですか。なぜあなたはそういう考え方をするのですか。なぜあなたはそういう発言をするのですか。いちいちそんなことを言葉に出すこともめったにないでしょうが、それでもいつも、私どもの生活を支配していることは、「わたしは、神に感謝して生きているのです。わたしの残りの人生すべては、神に対する感謝の生活なのです」。

■ハイデルベルク信仰問答が、他の信仰問答と比べてひとつたいへん優れていることは、聖書の引用が非常に豊かだということです。この信仰問答を書いた人が、どんなに聖書をよく読んでいたか、窺い知ることができます。そして時々、「あれ、どうしてここでこんな聖書の言葉が?」と首をかしげたくなることもあります。この信仰問答の言葉と、この聖書の言葉と、何の関係があるんだろう。第三部の最初のところでも、ハイデルベルク信仰問答はたいへん興味深い聖書の言葉を引用します。そのひとつは、ペトロの手紙Ⅰ第3章1節以下です。

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神のものとされるようになるためです。神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞いを見るからです。

これは正直に申しまして、現代において非常に評判の悪い聖書の言葉です。「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」。しかも重ねて、「妻の無言の振る舞い」などと言います。女は黙っていろと言わんばかりの発言ですが、もちろんそんな意図はありません。きっと妻たちの無言の振る舞いによって、不信仰な夫が神を信じるようになるときが来るに違いない。あなたがたの生活には、あなたがたの振る舞いには、それだけの力があるのだ。

そこでよく考えなければならないことは、なぜここで、この聖書の言葉が引用されるのでしょうか。「たとえ御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって」気づかされるのです。「神を畏れ敬うあなたがたの清い振る舞いを見」て、鈍感な夫も気づくのです。この妻は、神に感謝してこういう生活をしているのだ。なぜこの妻は、黙って俺の言うことを聞いてくれるんだろうか。どうも俺のことを恐れているのではなさそうだ。俺に感謝してこういう生活をしているのではなさそうだ。この妻は、神を畏れ、神に感謝し、神を相手にしている生活をしているんだ。目には見えない神の姿が、あなたがたの生活を通して見えてくる。そのことに気づいたら、きっとあなたの夫も、いずれは神の前にひれ伏すことになるでしょう、と言うのです。この妻たちは、言ってみればその感謝の生活によって、神の臨在を担う存在にさせていただくのだ、という話です。私どもに無限の望みを与える聖書の言葉だと思います。

そこでもう一度申します。急所は、私どもの生活が、今は感謝の生活になっている、そうさせていただいているということなのです。

■ローマの信徒への手紙第1章の18節以下を読みました。なんだか今日はいつまでたっても本題に入らないな、と思われているかもしれませんが、ハイデルベルク信仰問答が美しく語る感謝の生活を、ちょうどひっくり返したような人間の悲惨な姿が、ここに描かれていると読むことができると思うのです。特に強烈なのは、何と言っても冒頭の18節です。「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます」(18節)。先週の礼拝でも、この18節だけに集中して説教をしました。神がお怒りだということは、たいへん厳しいことであり、またできれば受け入れたくないことでもあると思いますが、他方から言えば、わからないでもないのです。だって、この世界は、こんなに暗いんですから。こんなにでたらめなんですから。「人間のあらゆる不敬虔と不義に対して」、それはつまり、私どものでたらめな生活に対して、「神は天から怒りを現されます」と言われても、一方では、それはそうだよな、仕方ないよな、という感想があっても、むしろ当然だと思います。

その神の怒りの理由について、なお19節以下でこのように語っていきます。「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです」(19節)。神が生きておられることは、こんなに明らかなのに、その態度はどういうことか。「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません」(20節)。神は目に見えません。けれども、神の永遠の力と神性は、つまり、神が神であられることは、被造物を通して、神がお造りになったすべてのものを通して、はっきりと認められるではないですか。違いますか。それなのに、まるで神がいないかのような生活をしているあなたがたの状態が、現に、どんなに悲惨なことになっているか、あなた自身がよくわかっているのではないですか。

そこでさらに21節でこう言うのです。「なぜなら、彼らは神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。先週の礼拝でも紹介しましたが、カール・バルトという神学者がたいへん有名なローマ書の注解を書きまして、この部分に「夜」というタイトルを付けました。どうしてこの世界は、こんなに暗いんだろう。いつまで、この夜の闇は続くんだろう。そういう夜の暗さの根源的な原因を、21節は明らかにしています。私どもの心が暗くなったからです。鈍くなったからです。なぜそうなったのでしょうか。「(神を)神として崇めることも感謝することもせず」。ハイデルベルク信仰問答が美しく語っているような、感謝の生活が崩れたから、あなたがたの今の悲惨があるのではないですか。

では、なぜ感謝することができなくなったのでしょうか。この手紙はここで、非常に緻密な論理を組み立てております。その論理についていくのに、皆さんも少し苦労しておられるかもしれません。なぜ私どもの心が暗くなったか。神に対する感謝を失ったからです。では、なぜ神に感謝できなくなったか。神は目に見えないからです。見た目上、神なんかいないように見えるものですから、それをいいことに、いくらでもでたらめな生活が許されると思い込んでいるのです。ところがこの手紙が何と言っているかというと、「彼らには弁解の余地がありません」と言うのです。19節以下。

なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかだからです。神がそれを示されたのです。神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。したがって、彼らには弁解の余地がありません。

神は目に見えないとか言うけれども、そんな弁解は通用しないよ。神が生きておられることは、誰の目にも明らかではないか。「神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです」。神のお造りになったすべてのものが、神の力をはっきりと証ししているではないか。そう言うのです。

■このことについて、明確な発言をしている典型的な聖書の言葉は、先ほどご一緒に読みました詩編第19篇です。

天は神の栄光を語り
大空は御手の業を告げる。
昼は昼に言葉を伝え
夜は夜に知識を送る。
語ることもなく、言葉もなく
その声は聞こえない。
その声は全地に
その言葉は世界の果てにまで及んだ。

この詩編は、まことに単純素朴に神のお造りなったものを賛美しているかのように読めるものですから、それだけ多くの人に愛されているものだと思いますが、よく読むと、とても不思議なものの言い方をしていると思います。「天は神の栄光を語り/大空は御手の業を告げる」。その天とか大空とかは、もちろん、何の言葉も語らないのです。「語ることもなく、言葉もなく/その声は聞こえない」。当たり前です。ところがそのあとで何と言っているかというと、「その声は全地に/その言葉は世界の果てにまで及んだ」。神のお造りになった大空は、何の言葉も語らないけれども、その言葉は全地に及ぶ。神の栄光を証しするその言葉は、世界の果てにまで及ぶのだから、「彼らには弁解の余地がない」と、そう言っているのです。天にしても大空にしても、何も語らないのに、にもかかわらず、雄弁に言葉を語っているのですから、そうであるならば、その言葉を聴かないことが罪なのです。ペトロの手紙Ⅰが語る、あの妻たちが、何も「語ることもなく、言葉もなく、その声は聞こえない」のに、にもかかわらず雄弁に神の臨在を証ししていることにも通じるものがあると思います。その神の言葉に、きちんと応答しなければなりません。感謝という、応答であります。それができないのは、私どもの心が鈍く、暗くなっているからでしかありません。その点、詩編第19篇のさらに先を読むことが大切だと思います。

主の律法は完全で、魂を生き返らせ
主の定めはまことで、無知な者を賢くする。
主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせ
主の戒めは純粋で、目を光り輝かせる。(8、9節)

「主の律法」を聴かなければ、神の言葉を聴かなければ、いくら空を見上げていたってだめです。「主の戒め」を聞かなければ、私どもの目は鈍く、暗いままです。そして、まさしくローマの信徒への手紙がこの先語っていくこともそのことで、私どもの心を啓き、目を明るくするために、神がイエス・キリストというお方を通して、何を語ってくださったか。私どもの暗い心が、明るい心に変えられて、神に対する感謝の生活を確立するために、神がキリストを通していかなる言葉を語ってくださったか。それを、ここから説き起こそうとするのです。

■交読詩編のときに、この第19篇を読みましたが、実はこの詩編第19篇は、この箇所を説き明かす人たちが皆一様に引用するものですから、言ってみれば非常に安易に選んだのですけれども、あとから「しまった」と思わなかったでもありません。なぜかというと、ローマの信徒への手紙がここで、神が生きておられることは被造物を通して明らかだろう、と言っているその被造物というのは、空とか宇宙とか大海原とか、そういうものをまず思い浮かべたくなりますが、本当はそれだけではありません。神の神たることがいちばん色濃く表れている被造物は、何と言っても人間であります。だから詩編第8篇はこう言うのです。

あなたの指の業である天を
あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。
人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。
人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは。(4、5節)

天を仰ぎ見て思う。月と星を仰ぎ見て思う。ああ、神は本当におられるのだ。ところがこの歌を詠んだ人は、天をぼんやり見上げているだけでは済まなくなるのです。それでは、いったい、自分は何者なんだろう。「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは。人の子とは何者なのか、あなたが顧みるとは」。

あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ
栄光と誉れの冠を授け
御手の業を治めさせ
あらゆるものをその足元に置かれた。(6、7節)

わたし自身が、神の力、神が生きておられることの証しであり、そのような人間に与えられた最高の生活が、感謝の生活なのです。だがしかし、私どもの心が罪のために鈍く、暗くなったときに、そのために私どもの生活がどんなに悲惨なことになったか。「あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ/栄光と誉れの冠を授け/御手の業を治めさせ」と、そこまで言っていただいている人間の栄光を、どんなに汚してしまったか、それはローマの信徒への手紙そのものが恐ろしいまでに丁寧に語ってくれていますから、それを敢えて語り直す必要もないだろうと思います。

■このような人間の悲惨を救い、本来のあるべき姿に回復させるために、私どもに与えられた救い主がイエス・キリストであります。主はあるところで、「空の鳥を見なさい」と言われました。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、明日のことまで思い煩うな」。「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい」と言われました。新共同訳では「注意して見なさい」と訳されましたが、新しい聖書協会共同訳では「よく学びなさい」と翻訳が変わりました。こちらのほうが翻訳としては正確です。「学びなさい」。心が鈍く、暗くなっている私どもですから、だからこそ学ばなければなりません。空の鳥からも、野の花からも、学ぶべきことを、学び取らなければなりません。この「学ぶ」という言葉から、「弟子」という言葉も生まれました。このお方の弟子になることによって、救われなければなりません。救われて知るのは、ただ野の花や空の鳥のうるわしさではありません。私ども自身が、どんなにすばらしい存在として造られているか、神が人間を、どんなに心を込めて、美しい存在として造ってくださったか。そこに私どもの感謝の生活が造られていくし、そういう私どもの生活から、たとえば、み言葉を信じない夫の目を開かせ、心を開かせるという出来事さえ起こるようになるのです。

こんなに大きな望みを与えられているのですから、これを捨てるなんてことはもう考えられません。何のとりえもない私どもの生活であるかもしれません。しかしそれが感謝の生活になるならば、ただそれだけで、私どもの生活は無限の望みを現すものとされます。そこにしっかりと立ち続けることができますように。祈りをいたします。

 

あなたが与えてくださった人間の栄光と、それを捨て去った人間の悲惨を思います。どうか、目を開かせてください。私どもの心を、あなたが明るくしてください。ただ感謝の生活として、私どものすべてをみ前にささげることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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