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慰めを必要とする神

2024年7月7日

マルコによる福音書 第14章1-11節
川崎 公平

主日礼拝

 

■マルコによる福音書の第14章に入ります。ここから、いわゆる主イエス・キリストの受難物語が始まります。私どもは、今月からおそらく約半年かけて、第14章、第15章、そして最後の第16章。主イエスが十字架につけられ、そしてお甦りになる物語を礼拝の中で読んでいくことになります。

私どもの救い主イエス・キリストは、十字架につけられました。そのことは、教会の信仰のいちばんの中心であると言ってよいだろうと思います。しかもこの十字架というのが、いちばんわかりにくいことではないかと思います。十字架、十字架と簡単に私どもは口にしますが、十字架というのは、考えられる限りいちばん残酷な死刑の方法です。あまりにも残酷すぎるという理由で、のちに十字架という処刑の方法は廃止されたと言われます。問題は、なぜそのような死に方を、主イエス・キリストがしなければならなかったかということです。私自身、20年以上聖書を説き続ける生活をしておりますが、何十年たっても難しいことだと思います。キリストの十字架を説くということは。

なぜ主イエスは十字架につけられたか。一方では、非常に簡単な話なのです。四つの福音書の記事を読めば、どの福音書にも同じことが書いてある。主イエスの周辺の人びとが一致して、このお方の死を願ったからです。今日は第14章の1節から11節までを読みましたが、その最初と最後に、その経緯が簡潔に伝えられています。「祭司長たちや律法学者たちは、どのようにイエスをだまして捕らえ、殺そうかと謀っていた」というのです。そのようなところに十二弟子のひとりであるイスカリオテのユダがやって来て、お金と引き換えにイエスの身柄を引き渡す約束をした。そして周りにいた他の弟子たちも、この計画を止めようと思えば止められたかもしれませんが、誰もそんなことはしませんでした。のちに弟子たちは、全員逃げました。

■そのような主イエスの受難物語を、これから時間をかけて読んでいくわけですが、そもそも〈受難〉って何でしょうか。主イエス・キリストの苦しみというのは、いかなる内容の苦しみなのでしょうか。死ぬのが怖い。十字架が恐ろしい。死ぬにしてもなるべく楽に死にたい。そういうこともあったかもしれませんが、主イエスのみ苦しみの中心は、そういうところにはありません。その証拠になるかどうか、聖書のどこを読んでも、十字架という処刑の方法がどんなに残酷であったか、そういうレベルの事柄を敢えて強調する箇所はひとつもありません。

10節に、「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして」と書いてあります。11節にも同じく「引き渡す」という言葉があります。これと同じ言葉が、18節や21節では「裏切る」と訳されていますが、原文では同じ言葉です。この言葉が、福音書の受難記事においてたいへん重要な意味を持ちます。主イエスは、引き渡されたのです。いちばん近くにいた者に、それだけいちばん愛していた者に裏切られたのです。そして主イエスというお方は、そういう人びとの殺意とか敵意とか裏切りとか、そういう暗い心に鈍感な方では決してありませんでした。「誰が何を考えようが、俺には関係ねえ」などとうそぶくようなことは、決してありませんでした。むしろこのお方は、誰よりも繊細なお方でした。誰よりも敏感な心で人びとの悪意を感じ取りながら、そのことを誰よりも繊細な心で苦しまれたのです。今月中に読むことになるだろうと思いますが、ゲツセマネという場所で主イエスが徹夜の祈りをされたという記事が第14章32節以下にあります。「お父さん、お父さん、勘弁してください。もう逃げ出したいです」という祈りをなさったのは、そのよう主イエスのまことに人間らしい、繊細な心を反映したものでしかなかったのです。

私どもだって、その意味では主イエスの苦しみが理解できなくもないのです。人に憎まれるということは、つらいことです。世界中の人が自分をほめてくれても、たったひとりの憎しみに気づいただけで、夜も眠れなくなるものです。憎しみというのは、それだけで既に人を殺す力を持つものです。ところがそういう弱い私どもが、平気で人を憎むのです。人の悪口を言うのです。場合によっては死を願うのです。それは、ひとつの言い方をすれば私どもの弱さと言うことができるでしょうが、弱さなんて言葉では片づけられないほどのものがあるかもしれません。そういう私どもの前に、神の御子キリストが現れたとき、まるで人間はそれまで隠していた本性を途端にあらわにするかのごとく、「どのようにイエスをだまして捕らえ、殺そうかと」相談を始めたというのです。

ハイデルベルク信仰問答という古典的な信仰の書物があります。この信仰問答にあるたいへん有名な言葉ですが、その最初のところで、人間のみじめさについて説き起こしながら、人間のみじめさの本質は、心を尽くし力を尽くして神を愛しなさい、自分を愛するように隣人を愛しなさい、という神の戒めを守り得ないことだと言いました。しかしなぜ人間はこの戒めを守れないか。なぜ愛に生きることができないか。ハイデルベルク信仰問答の答えは非常に強烈であって、「わたしは、生まれつき、神と隣人とを憎むように心が傾いているからです」と言います。これはあまりにも厳しすぎるようですが、わかる人にはよくわかるかもしれません。「わたしは、生まれつき、神と隣人とを憎むように心が傾いている」。福音書が伝えることは、まさにこの人間の本性が、無残にも現れたということでしかなかったのです。そしてここが大切なことだと思うのですが、主イエス・キリストは、まさにそのことで苦しまれたのです。「生まれつき、神と隣人とを憎むように心が傾いている」人びとの、その憎しみを一身に受けられたのです。

■十字架の意味については、またこのように教えられることがあります。キリストの十字架の死は、われわれ罪人のための身代わりの死であると。先ほど歌いました讃美歌140番は、その色合いが強いかもしれません。「わが身にかわりて 死にたるイエスよ」と歌うのです。既にマルコによる福音書もまた、第10章の45節で、「人の子は……多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と書いています。けれどもその身代わりの死というのは、決してかっこいいものではありません。誰かの身代わりになって、その罪をかぶって死ぬというのは、世界でいちばんかっこいいことのように思えてしまうかもしれませんが、こと主イエスの死に関して言えば、その捉え方は絶対に違います。身代わりのヒーローではありません。むしろ、冤罪で犯罪者のレッテルを貼られた人のほうがよっぽと主イエスの立場に近いだろうと思います。

たとえばです。たとえば、私がほかの乗客と一緒に列車に乗って峠に向かって坂を上っている途中で、何らかの理由でその列車が動かなくなり、次第にゆっくりと坂を下り始め、緊急用のブレーキもきかず、このままでは列車はスピードを上げて、たくさんの人が犠牲になってしまう、というときに、私が身を投じて列車に轢かれて死んで、そのおかげで列車は転落事故を免れた、たくさんの人の命が救われた、という話であれば、誰もが私のことをほめるでしょう。鎌倉雪ノ下教会には記念碑か何かが立つかもしれない。私どもはそういう話が大好きなのです。けれどもそれとは正反対に、たとえばです。たとえば私が、殺人とか暴力とか性犯罪とか盗みとか、いくら何でもこれは牧師としてアウトだ、という理由で逮捕されて、場合によっては処刑されて、ということになったら、誰も私のことをほめる人はいないでしょう。

主イエスが十字架において強いられたお立場というのは、今の話で言えば前者よりも後者に近いのです。身を投じて暴走列車を止めて大勢の人を救ったヒーローではないのです。誰もが眉をひそめるような罪状で社会的に抹殺された人のほうが、主の置かれたお立場にはずっと近いのです。もちろん主イエスは、何ひとつ悪いことをしておられないのにもかかわらず、であります。ですから主イエスが十字架につけられたとき、人びとはこのお方をあざ笑いました。「おいおい、お前、キリストじゃなかったのかよ。もしキリストなら、十字架から降りて来いよ。でも、お前みたいなやつは、十字架がいちばんお似合いだよな」。まさしくそのようにして、人間の本性が明らかになりました。「生まれつき、神と隣人とを憎むように心が傾いている」人間の本性であります。

そういう人間のための身代わりの十字架ですから、このお方は〈神を憎む罪〉の報いを受けなければなりませんでした。神を憎む罪人が受けるべき報いは当然、神に憎まれることでありましょう。主イエスは十字架の上で、人びとがあざ笑う中で、大声で神の名を呼びました。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。けれども、その大声の叫びが、神にも無視されたかのように、主イエスは息を引き取られました。究極の絶望であります。それがしかも、私どもの身代わりの絶望であったというのです。

■その究極の絶望が、刻一刻と迫っています。「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」と第14章の最初には書いてあります。祭司長たちも律法学者たちも、あろうことかいちばん主イエスの近くにいた弟子たちさえも、「神と隣人とを憎むように心が傾いている」、その本性を少しずつあらわにし始めております。主イエスに味方する者は、ひとりもおりませんでした。どんなにつらい思いで、主イエスは一日、一日を過ごしておられたか。ところがそんなとき、奇跡が起こりました。「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。この女の行為について、そんなに複雑な説明をする必要はないだろうと思います。このときの主イエスの苦しみがどれほどであったか。ところがそんなときに、このようなひとりの女の愛に触れて、主イエスはどんなに慰められたか。そこで主イエスは最大級の賛辞をもって、この女をおほめになりました。

「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。よく言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(8、9節)。

これほどまでに主イエスを喜ばせた人は、おそらくひとりもいなかったと思います。「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とまで言われたし、事実、その通りになりました。なぜ主イエスは、そこまでお喜びになったのだろうか。この女が、主イエスを愛していたからです。

今日の説教の題を、「慰めを必要とする神」としてみました。これで意図が伝わるかどうか、多少心もとないところがありますが、私なりに思いを込めたつもりです。「慰めを必要とする神」、もう少し丁寧に言えば、神はご自分が慰められることを欲しておられる、必要としておられるということです。そんなばかな、神が誰かの慰めを求めるなんて、という感想もあるかもしれませんが、それは神の痛みを無視した感想でしかありません。「生まれつき、神と隣人とを憎むように心が傾いている」私どものために、神がどんなに傷つかれたか。そのために御子キリストが、どんなに深い傷を負わなければならなかったか。受難週の一日、一日、人びとの憎しみによる主イエスの傷は、深まるばかりでした。

ところがそんなとき、奇跡が起こりました。「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。この女は、明らかに、主イエスを愛していたのです。そのために、どうしてこんな行為に及んだのか。これは、人間の言葉では説明できないことかもしれません。ある人はまことに簡潔に、「この女は神の霊の促しによって、そうせざるを得なくなったのだ」と言いました。きっとそれがいちばん正しい説明なのだろうと思います。

主イエスは、このような名もなき女性の愛に慰められて、「この人は、わたしの埋葬の準備をしてくれたのだ」と言われました。埋葬の準備とは、これまたたいへん不思議な発言であります。まるで、「あなたの愛に支えられて、わたしはこれから十字架への道を歩むことができる」と言わんばかりの発言であります。逆に、もしもこのような埋葬の〈準備〉がなかったら。もしもこの人の愛がなかったら。もしも、ただ人びとの憎しみだけに取り囲まれているだけで、それ以外何の準備もなかったなら、わたしはここから先、歩みを進めることができなかったかもしれない。ありがとう。あなたは、本当に、わたしを愛してくれるんだね。……まさしく、「慰めを必要とする神の子キリスト」であります。このような主イエスのお心を理解することができたなら、私どももまた悔い改めて、このお方を愛するほかないのです。

■ここで説教を終えてしまってもよいのかもしれませんが、福音書の記事は、それで話を終えておりません。この女の愛の行為が、ただちに人びとの批判にさらされたというのです。「無駄遣いだ」と言うのです。

すると、ある人々が憤慨して互いに言った。「何のために香油をこんなに無駄にするのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。そして、彼女を厳しくとがめた(4、5節)。

これは、まさしく〈正論〉であります。こういう正論に反論するのは難しい。反論が難しいけれども、明らかに何かが間違っている、そういういわゆる〈正論〉の典型です。「ええ? あの香油、きっと一千万円はするよ。貧しい人のことを少しでも考えたら、こんな無駄遣い、できるわけがないのに……」。

このような出来事が起こったのが、「規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき」(3節)であったということも、見逃してはならないと思います。「規定の病」という表現は、聖書協会共同訳が初めて試みた翻訳で、かつては「らい病」とか「重い皮膚病」と訳されました。けれどもいろんな方面の研究が進んで、現在のらい病、ハンセン病とは違う病気であることが明らかになり、それで新共同訳は「重い皮膚病」と訳しましたが、実はそれほど重くない皮膚病も含まれていたかもしれません。それで「規定の病」という、少しわかりにくい翻訳が生まれました。この翻訳の力点は、この病気の本質的な問題は、症状が重いか軽いかではなくて、まさしく「規定の病」。指定感染症の第何類か、というような話で、何年か昔のコロナみたいなものです。あるいはもっと昔のらい病とか、結核のようなものです。そういう病気ですから、悲しいことですが、それだけに残酷な差別を生みました。ここには、「規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき」とさらりと書いていますが、読む人が読めば目を丸くするか、あるいは眉をひそめるか。あの病気の人の家にいるなんて。まして、一緒に食事をするなんて。おお、汚らわしい! と、誰もが言ったかもしれない状況で、けれどもこの場面に登場する人たちは、差別を乗り越えて、一緒に食事をしていたのです。明らかに主イエスご自身が、最後の宿りをこのシモンの家に求められたのです。そして周りにいた人びとも、おそらく主イエスの愛の感化を受けて、差別を乗り越えていく勇気を与えられたのでしょう。

そういう、言ってみれば正義感の強い人たちの目の前で、何百万円、あるいは何千万円もするような香油が一気にぶちまけられたとき、人びとの正義感が爆発しました。「何のために香油をこんなに無駄にするのか」。貧しい人のことを考えたことがあるのか! きっとそこには、ねたみの思いも含まれていたと思います。「うわー、あの香油、たぶん300デナリオンはするよ。そんなお金、俺たちみたいな庶民は見たことすらないなあ。でもさあ、たとえばさあ、あの香油を売ったらどんなにたくさんの貧しい人を助けることができるんだろうねえ」と、いう批判をしている人が、全財産をなげうって貧しい人のために生きているわけではないのです。ましてそこには、主イエスの苦しみを思う思いは、かけらもなかったのであります。

■主イエスというお方は、誰よりも敏感で繊細な心をお持ちでした。「なぜこんな無駄遣いを。貧しい人のことを考えたことがあるのか」という発言の背後にも、どんなに醜い思いがあるか。主イエスが、そのような人びとの醜い心に、どんなに傷ついておられたか。その傷ついた心を隠すことなく、主イエスはこの女をかばってくださいました。

「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」。

言うまでもなく、主イエスはここで、貧しい人を助けるなんてことは二の次、三の次だと言われたのではありません。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから」、今からでも、あなたの持っているものを用いて、できる限りのことをすればいい。けれども、「私はいつも一緒にいるわけではない」と言われました。わたしがあなたがたと一緒にいるのは、今日まで、明日まで。あさってには、もうわたしはあなたと一緒にはいない。なぜだか分かるか。あなたのために、わたしは死ぬのだ。その主イエスの痛みの深さに気づいたら、私どももまた、ただありのままをすべてささげて、このお方を愛するほかないのです。このお方の苦しみは、わたしのための苦しみ。このお方の死は、わたしのための死。そのことが本当にわかったら、「何のためにこんな無駄遣いをするのか」という屁理屈は消えてなくなるだろうと思います。

主イエスの死は、決して犬死にではありませんでした。今、聖餐を祝いながら、そのことを心に刻みます。もしも神が、こんな愚かな罪人のためにひとり子の命を使うのは無駄だ、とお考えになったら、私どもが今神の前に立つことはなかったのであります。今、御子の十字架の痛みを覚えつつ、主イエスを心から愛する者としてみ前に立たせていただくことできますように。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、あなたの霊に促されて、ひとりの女が御子イエスを慰めることができました。自分の持っているものすべてを注いで、あなたの痛みを慰めることのできたこのひとりの女性のことを、私どもも記念として語り伝えることができますように。今、この人と自分自身を重ね合わせるようにして、私どもはあなたに愛されてここに立ちます。今私どもも、あなたを愛する者としてここに立たせていただくことができます。ありがとうございます。感謝して、主のみ名によって祈ります。アーメン