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人間が人間になるために

2025年11月16日

ローマの信徒への手紙 第5章12-21節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■今年もクリスマスの季節が近づいてきました。本日、教会員の皆さんのメールボックスにはクリスマスのいろんな礼拝・諸集会の案内を配付しましたし、私のように平日も一日中教会堂で過ごしておりますと、既にしばらく前から、毎日いろんなオルガニストの方が練習に来られるその響きの中に、クリスマスの喜びを静かに感じます。

クリスマスというのは、神のみ子イエス・キリストが、ひとりの赤ちゃんとしてお生まれになったことを祝う祭りです。神ご自身にほかならないお方が、ひとりの人となって、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになったのです。

クリスマスとは、光の祭りです。その本来の意味を知ってか知らずか、教会と何の関係もない街中にも、この季節になるといろんなイルミネーションが輝き始めます。しかしまた他方から言えば、クリスマスというのは、この世界の闇を知る出来事でもあると言わなければなりません。闇の中に、光が輝いたのです。聖書の伝えるいくつかのクリスマスの記事は、いずれもこの世のものならぬ光の輝きを伝えますが、なぜそのような光が輝いたかというと、神の光によって慰められなければならない、この世の暗さがあったからです。神のみ子イエスさまが来てくださった。もちろんそれは、こんなにうれしいことはほかにないのですけれども、他方から言えば、神ご自身が来てくださらなければ、どうしようもないほどにこの世界の闇が深かったから、だからクリスマスの出来事が起こらなければなりませんでした。

クリスマスが12月25日と決まっているのは、イエス・キリストの誕生日がその日だったからではありません。歴史家たちが二千年前のことを丁寧に調べて、どうもイエスさまは12月25日の未明にお生まれになったらしい、ということではなくて、当時の暦で12月25日が冬至だったから、いつしかその日にクリスマスの祝いをするようになったと言われます。冬至というのはつまり、いちばん日が短い。いちばん夜が長い。いちばん闇が深くなった、その闇の底に、光が輝いたのだ。

そのことを証しするように、ルカによる福音書の伝えるところによれば、神のみ子キリストは、誰も注目しないような小さな村の片隅の、しかも人間が寝るような場所ではない、家畜小屋のえさ箱に産み落とされたと言われます。光なんかどこにもない。よくもまあ、こんな不潔な場所で出産を、というような場所におられる小さな赤ちゃんを指差して、「神が、ここに来てくださったのだ」と言うのです。

クリスマスというのは、本当に不思議な出来事だと思います。人間の小さな脳みそでは、とうてい捉えきれない深みを持っていると思います。この闇の中に、神がお生まれになったのだ。小さな赤ちゃんとして。それは、いったい、何を意味するのでしょうか。

■伝道者パウロの書いたローマの信徒への手紙の、第5章12節以下を読みました。少なくともここには、クリスマスのクの字も出てこないと感じられるかもしれませんが、実はこんなにも深くクリスマスの意味を教えてくれる聖書の言葉は、ほかにあまりないかもしれません。

特に今朝は――いろいろ事情がありまして、少し説教を短めにしなければならないのですが――14節の最後の言葉に集中して礼拝をしたいと思います。「このアダムは来るべき方の雛型です」。先月、やはりこの第5章12節以下について説教したときに、ある方から質問を受けました。「雛形って、どういう意味ですか」。確かに、これだけではわかりにくい表現であるかもしれません。以前用いていた新共同訳は、ここをもう少しわかりやすく、説明的に訳しました。「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」。

旧約聖書の最初に、神が最初の人間を造られたという話があります。その最初の人の名前がアダムだということは、おそらく皆さんもご存じだと思います。そのアダムが「来るべき方の雛形です」。「来るべき方」というのはもちろんキリストのことです。そうすると、「アダムは、キリストの雛形。来るべき方、キリストを前もって予言するように、その形を表す者だった」。アダムとキリストと、いったい何がどう重なるのでしょうか。

この「雛形」と訳されている言葉はたいへん興味深い言葉で、ギリシア語をそのまま発音すると「テュポスtypos」という言葉です。それが英語のタイプtypeという言葉になりました。それをなぜ「雛形」と訳すかというと、少し説明がややこしくなりますが、まずその背後に「打つ」という動詞があります。一応ギリシア語を紹介すると「テュポーtypō」という言葉です。たとえば、手をパーにして粘土の塊をバンと打つと、そこに私の手形が残ります。そのように、打ち込んだ跡が残る、その形を「テュポス」と呼ぶのです。で、その粘土の形の中に溶かした金属を流し込むと、(誰もそんなもの欲しがらないと思いますが)鉄製の川﨑公平の手形を作ることができる。

ここでパウロは言うのです。「アダムは、来るべき方の雛形です」。アダムとぴったり形が重なるような、そういう方が来なければならない。イエス・キリストは、まさしくそのような存在として、私どものところに来てくださったのだと、そう言うのです。

来るべき方が、来なければなりません。来るべき方が来てくださらない限り、この世界に望みはないのです。そして事実、主イエスが地上にお生まれになる前から、人びとは「来るべき方」、別の言葉で言えばメシア、救い主を待ち続けました。神よ、あなたはこの世界を、絶対にこのまま放っておかれるはずはありません。必ずあなたが、この世界を救ってくださいます。闇を光に変えてくださいます。そのために、あなたが遣わしてくださるお方が、来てくださらなければなりません。皆がそういう祈りをしていた、そのような世界の中に、イエス・キリストがお生まれになった。そのお方を指差して、パウロは言うのです。「アダムは、来るべき方の雛形です」。来るべき方、いったいどんなお方がおいでになったのだろう。アダムを見ればよい。あのアダムとぴったり形が重なるお方、そういうお方が来てくださったのだ。これは、たいへん不思議な、しかしまたそれだけに深い意味を持つ言葉だと思います。

■今日初めて教会に来られて、礼拝に出ておられる方があるとして、いきなりアダムなどと言われても、さっぱり話がわからないだろうと思います。アダムというのは、聖書の最初に出てくる、最初の人間だと申しましたが、言うまでもなく、はっきり言ってしまえば、伝説上の人物です。おとぎ話と言ったら言い過ぎかもしれませんけれども、実在の歴史上の人物だと考える必要はありません。しかしまたそうでありながら、創世記の最初の部分を読んでいると、どうして何千年も昔の人が、こんなにも深く〈人間〉というものを理解することができたのだろうかと、本当に不思議に思います。

アダムというのは、人間の代表者です。その人間の代表者が何をしたかというと、今日読んだ12節にあるように、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。いったいアダムが何をやらかしたのか、今それを丁寧に紹介している時間はありません。罪を犯した人間アダム、けれどもその人間が、どんなに神に愛されているか。人間というのものが、どんなに神に心配をかけてしまっているか。そのことを、聖書は驚くほどの深みをもって教えてくれます。その原点に立つのが、アダムという最初の人間なのです。

「来るべき方」、主イエス・キリストは、このアダムを救うために、人間を救うために、この世に来られました。それが、クリスマスの意味です。ベツレヘムの馬小屋に、小さな赤ちゃんが生まれた。そのときに神は決して、スーパーヒーローをお遣わしにはなりませんでした。誰よりも強い救い主、誰よりも大きい救い主、誰よりも賢い救い主を、人びとはそのようなスーパーヒーローを待ちわびていたのですが、神のお考えはそうではありませんでした。むしろ、アダムとそっくりな、本当に型紙でなぞったかのようなアダム型の人間として、神のみ子イエスがお生まれになりました。まさしくそのようにして、主イエス・キリストは、アダム以来人間が抱え込んでしまっていた死の呪いを、取り去ってくださったのです。

しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです(15節)。
そこで、一人の過ちによってすべての人が罪に定められたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです(18節)。
こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです(21節)。

■先週は、おふたりの方の葬儀をこの場所ですることになりました。60歳の男性と、87歳の男性です。この礼拝のあと、いつものように、ご遺族を紹介して祈りをいたします。当たり前のことですが、先週ここで葬儀をしたおふたりの歩んだ歩みは、まったく異なります。そりゃそうです、赤の他人なのですから、何も重なるところはない。けれどもまた私は、どんな人の葬儀をするときにも思うことがあります。ことに、既に動かなくなってしまったご遺体をじっと見つめながら、心ひそかに、「イエスさま、イエスさま」と主の名を呼びます。「イエスさま、あなたは、この人にもそっくりになってくださったのですね」。

牧師になって以来、本当にたくさんの方の葬りのお手伝いをしてきました。私が直接司式をした人数だけでも、優に200人は超えます。そんな人数を自慢したって何の意味もないかもしれませんが、同じ死はふたつとしてありません。幸せな死もあれば、不幸な死もある。不幸と言って悪ければ、ご遺族が穏やかに受け入れられる死もあれば、到底受け入れることのできない死の出来事もあるのです。けれども、ただひとつ、すべての死に共通していることがある。それは、どんな人の死も、主イエス・キリストの死とぴったり重なるということです。アダムを雛形として、アダムとぴったり重なるようにお生まれになったお方は、またアダムと重なるように死ななければなりませんでした。だからこそ、クリスマスの出来事を説き明かすほとんどすべての人が申します。あのベツレヘムの馬小屋の貧しさは、十字架の死を前もって表す貧しさである。その貧しさは、わたしのための貧しさでもあったのです。

少し聞きにくい話をすることをお許しください。まだ私が鎌倉に来る前の話です。自殺された方のところに駆けつけて、そのご遺体を囲んで、とにかくまず牧師として祈りをしなければならないというときに、ためらいながらも、主イエス・キリストの言葉をそのまま読みました。「心の貧しい人は、幸いである」。「悲しむ人は、幸いである」。本当に、よくわかりました。イエスさまは、この貧しい人を祝福してくださる。悲しみに耐えかねて、悲しみに負けて死んでしまったかのようなこの人を、しかし主イエスは祝福してくださる。しかもその主イエスご自身、貧しさとも悲しみとも無縁なスーパーヒーローではありませんでした。むしろこのお方こそ、誰よりも貧しく、誰よりも深い悲しみを知る人として、私どものところに来てくださったのです。

その自殺された方の葬儀は、やっぱり、どうしたって、本当に悲しい葬儀でした。ある人が、そのご遺体をさすりながら、ぽろぽろ泣きながら、「イエスさまにそっくりだ」と言われました。本当に、その通りだと思わされました。イエスさまは、この人にも似てくださったのだ。

どんな人の死も、主イエス・キリストの死と無関係ではありません。どんな人の貧しさも、どんな人の悲しみも、どんな人の絶望も。主イエス・キリストは、私どもの絶望にご自分の身を重ねるように、十字架の死を死んでくださったのです。だからこそ、主イエス・キリストのお甦りは、すべての人の望みとなるのです。

■本日、教会員の皆さんには長老会だよりという印刷物を配付しました。クリスマスを記念して洗礼をお受けになる方の試問会を、11月の長老会でいたしました。さらに12月7日の長老会でも、何名かの方の試問会が行われる予定です。その12月7日の礼拝では、ローマの信徒への手紙第6章に進みます。3節以下に、こう書いてあります。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにあずかる洗礼を受けた私たちは皆、キリストの死にあずかる洗礼を受けたのです。私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。

この言葉について、もうこれ以上説明をする必要もないと思います。洗礼において、私どもは主イエスとひとつにされます。主イエスと共に死に、主イエスと共に甦るのです。すべての人が、この洗礼の恵みに招かれています。すべての人の貧しさが、すべての人の悲しみが、すべての人の絶望が、「キリスト・イエスにあずかる洗礼」へと招かれているのです。すべての人が、喜びをもってここに立つことができますように。お祈りをいたします。

 

闇の中に、光が輝きました。アダムの罪を雛形とするように、あなたのみ子が人となってくださったのです。悲しみがあり、貧しさがあり、何よりも死の力に押し流されているこの世界であることを思います。その闇の底に立ってくださったみ子イエスがいてくださるのですから、あなたはこのお方を死者の中から甦らせてくださったのですから、すべての人が、その望みに立つことができますように。来月には、洗礼を志願する者たちがここに立ちます。ひとりひとりを、あなたが励ましてください。なお多くの人が、いやすべての人が、この望みに招かれ、これに答えることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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