今、その言葉を聴きたかった
ローマの信徒への手紙 第10章14-21節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第10章の14節以下を読みました。この箇所を読むときに忘れてはならないことは、この手紙を書いた伝道者パウロが第9章から一貫してひとつの主題に向き合っているということです。その主題というか、パウロの〈こころ〉をよく表しているのが、これまでにも何度となく引用したところですが、第9章の2節以下、そして第10章の最初の言葉です。
私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。
きょうだいたち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
このような伝道者の言葉について、おそらく多くの説明を加える必要はないだろうと思います。そしてこれは、狭い意味での伝道者、いわゆる牧師だけが共感できる話ではないと思います。皆さんも、このパウロの祈りを、このパウロの痛みを、どこかで共有しているところがあるはずだと思うのです。イエス・キリストに愛され、このお方に救われ、その喜びを知った人は、どうにかしてこの喜びを、自分のいちばん大事な人にも伝えたい。けれどもそれが決して簡単なことではないことを、私どもはよく承知しているのです。
このパウロの祈りは、このパウロの痛みと悲しみは、私ども教会に絶えず問いかけて来るものがあると思います。あなたは、この悲しみを知っていますか。「あの人のためなら、あの人が救われるためなら、わたしがキリストから離され、呪われた者とされてもよい」。この痛みを知っていますか。ローマの信徒への手紙第9章、第10章、第11章は、その意味で「痛みの手紙」であり、「悲しみの手紙」であると言わなければなりません。
■ところがその痛みと悲しみと、まるで正反対というか、むしろ私は表裏一体のものだと理解しているのですが、今日読みました第10章の15節にはこのような感動が歌われています。
「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」。
「表裏一体」という表現を使って見せましたが、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」という感動と、あの痛みと悲しみがなぜ表裏一体かというと、この美しさを理解してもらえない悲しみがあるからです。
特にこの第9章から第11章では、具体的にユダヤ人、神の民イスラエルのことが問題になっています。神に選ばれ、神に特別に愛されたイスラエル。だからこそイエス・キリストもまたユダヤ人のひとりとしてお生まれになり、まずユダヤ人のために福音を告げられたのですが、そのユダヤ人が誰よりも頑なにイエス・キリストの福音を拒否している。なぜだ。主イエス・キリストの美しさを理解しなかったからです。キリストの告げられた「良い知らせ」の麗しさを理解しなかった。したがって、キリストの福音を伝える者の美しさも理解できなかった。そのことを嘆きつつ、だからこそ、教会に委ねられた「良い知らせ」のすばらしさを歌うのです。
これを逆に言い換えると、私どもが信仰を持つようになる、神を信じるようになるとはどういうことかというと、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と言えるようになるということです。その知らせの美しさに心が動く。その知らせのすばらしさのゆえに、それを伝える者の足までが美しく見えてくるというのです。
美しい、美しいと、わかったようなものの言い方をしておりますが、美について語ることは決して簡単ではありません。私の大学の1年上の先輩に非常に優秀な人がいて、こんな優秀な人はいったい何を研究するんだろうと思っていたら、美学を専攻するようになりました。今もある大学で美学の教授をしています。「美学って、何をするんですか」と、一度個人的に話を聞いたことがありますが、さっぱりわかりませんでした。美について研究するって、どういうことなんだろう。そんなに簡単な話ではありません。同じものを見ても、美しいと思う人もいれば、そう思わない人もいるでしょうし、ところが思いがけないきっかけがあって、それまで何も感じなかったものが突然かけがえのないものに見えてくることもあります。
ここで大切なことは、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」。信仰を持つとは、この美的感覚を共有するようになることです。ある種の感性がないとだめだとか、特別な感受性がなければ信仰は持てないという話ではありません。17節には「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです」と書いてあります。キリストの言葉を聴いていると、それまで何も感じなかった言葉が、新しい響きを伴って聞こえてきます。教会の礼拝に出るようになって、1年経っても、2年経っても、ちっとも牧師の説教がわからないと言っていた人が、急にわかるようになる。あるいは、いつの間にかよくわかるようになっていた。そういうことが起こります。「ああ、わたしは、良い知らせを聴いていたんだ」。「これは、わたしを救うための良い知らせだったのだ」
■そのときに、突如として美しく見えてくるのは、「良い知らせを伝える者の足」である。足が美しいって、どういうことでしょう。この場合の足というのは、知らせを伝えるための伝令の足です。昔は現代のように電話もネットもありませんから、何かの知らせを伝えるためには、人間が走って行くしかありませんでした。
史実かどうかわかりませんが、陸上競技のマラソンがどうして42.195キロなのか、たいへん有名な逸話があります。古代ギリシアで「マラトンの戦い」というのがあって、もしもこの戦いに負けたら、アテネの市民たちは皆殺しにされるだろう。めぼしい人たちは奴隷にされるだろう。けれども遂に戦いに勝った。われわれの命は救われたんだ。その知らせを携えてひとりの兵士が何十キロも、何時間も走り続け、アテネの人びとに勝利の知らせ、「良い知らせ」を告げると同時に絶命したという話です。その兵士の足は、傷だらけで、泥まみれで、もうこれ以上動かなくなるほど疲れ切っていたに違いない。けれども、彼の伝えた良い知らせのゆえに、アテネの人たちにとって彼の足は、かけがえのない美しさを帯びるものとなりました。
「彼の足があったから、われわれは救われたんだ」。そんな話ではないということに、すぐにお気づきになると思います。伝令の足がアテネの人びとを死から救ったわけではありません。伝令の足は、良い知らせを、ただ持ち運んだだけです。パウロがここで語っていることも、それに似ていると思います。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」。どうか、われわれの足の美しさに気づいてほしい。あなたのために、良い知らせを伝えるために、わたしはこの足で、あなたのところに来ました。そのことの意味を、どうかよく考えてほしい。
■そこで改めて、ローマの信徒への手紙の言葉を読み直してみたいと思います。ここまで15節後半の「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」という、この一句だけに集中しすぎてしまったきらいがあるかもしれませんが、この一句を言うために、パウロは14節からこのような論理を展開しています。もう一度読みます。
それでは、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう。
今朝は14節から聖書を朗読したわけですが、もしかしたらそれはパウロの論理を中途半端にしてしまったかもしれません。この14節以下の論理展開は、少なくともさらに13節までさかのぼって理解しなければなりません。13節の最後には、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と書いてあります。これが大前提というか、最終的なゴールです。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。私が今ここに立って説教しているのも、このことが起こるようにということです。私の言葉を聞いている皆さんが――特にまだ洗礼を受けていない人が、と強調し直すことをお許しいただきたいと思いますが――「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。どうか、あなたも救われてほしい。どうかあなたも主の名を呼び求めてほしい。
その上で、パウロは問いを重ねるのです。ひとりの人が救われた。なぜそのようなことが起こったのか。それでこのような論理展開が始まるのです。どうしてその人は救われたのか。主の名を呼び求めたからだ。どうして呼び求めることができたのか。その人が信じたからだ。どうして信じることができたのか。その人が聴いたからだ。どうして聴くことができたのか。宣べ伝える者がいたからだ。
ここに、私がいるから。ここに、良い知らせを宣べ伝える者の足があるから。だから、あなたは聴くことができた、信じることができた。主の名を呼び求めることができた。そうして救われたんだ。そうであれば、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と、あなたもこの美しさを理解することができるでしょう? けれども、そこで話を終えるわけにはいきません。どうでもいいことですが、ふつうに考えて、私の短い足を見て、「おお、美しいなあ」と感動する人はひとりもいないと思います。けれども大切なことは、私の足が美しいか、美しくないかではなくて、この足が誰によって遣わされたのか。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう」。私は、神に遣わされて、良い知らせを伝えるために、ここに立っています。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。
こうして、13節以下に沿って救いの出来事をさかのぼっていくと、良い知らせを伝える者の足に行き着く。けれどもそれは結局、神に行き着くのです。そしてここに、最初から申しておりますように、パウロの喜びと、そして痛みと悲しみがあります。どうか、われわれの美しさに気づいてほしい。神のもたらしてくださる良い知らせ、救いの知らせのすばらしさに心を開いてほしい。皆さんも、この祈りを、そして痛みを知っておられると思います。「どうかあの人のためにも」。そのときに絶えず問われることは、「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができるでしょう」。皆さんも、神に遣わされて生きています。良い知らせを伝えるために、神に遣わされるのです。わたしの足は、何のために生えているんだ。あの人に福音を伝えるためじゃないか。神は、そのために、わたしの足を用いてくださるんじゃないか。良い知らせを伝える者の足は、美しいのです。それは、神が遣わしてくださる足だからです。
■ところで、今日の礼拝ではほとんど「美しい」という言葉をめぐって話し続けているようですが、実は原文の意味は必ずしも「美しい」ではありません。「時間」という名詞に形容詞の語尾がついただけの言葉で、私の語感からすると、英語のtimelyが、意味的にも単語の成り立ちからしてもぴったり合うと思います。Timelyって、日本語に訳すと何と言うんだろう。念のために英和辞典で「timely」を引いてみたら、最初に出てきた日本語の意味が「タイムリーな」。原文のギリシア語の用例がまた面白くて、辞書を引いて最初に出てくる意味は「(特に果物が)旬である、食べごろである」。なるほど、やっぱり果物はいちばんおいしい時に食べたいもので、そうするとこの形容詞が「美しい」という意味を持つようになったのもよくわかります。「今がいちばんいい。このぶどう、今がいちばんおいしい」。
何人かの聖書学者は、「美しい」という翻訳よりも「タイムリーな」という意味を読み取るべきだと言います。ただ美しいなあ、というだけではなくて……それこそ生きるか死ぬかの瀬戸際にあったアテネの人たちのことを考えてみるのがわかりやすいと思います。「今、いちばん聞きたかった言葉はそれなんだよ」。一年前に同じ言葉を聞いても、あるいは一年後にその言葉を聞いても、「ふーん」で終わったかもしれない。けれども、今この時には、「今、いちばん聞きたかった知らせはそれだ」。
それで、今朝の説教の題を「今、その言葉を聴きたかった」としてみたのですが、この説教題については少しだけ後悔しています。本当にこれが主題の中心なのだろうか。こう言い換えてもよいのです。皆さんは、毎週礼拝で聞かされる牧師たちの説教を、「今、いちばん聞きたかった言葉」として聞いておられるでしょうか。あるいは、もっと言えば、ここでパウロの悩みの種になっているイスラエル、ユダヤ人は、まさにこの良い知らせを「今、いちばん聞きたくない言葉」としてしか受け取らなかったのであります。けれども大事なことは、われわれが聞きたいか、聞きたくないかではなくて、神は私どもにこの知らせを聴かせたい、「どうか今、聴いてほしい」と願っておられるということです。「どうか今、聴いてほしい」。その神の思いを知るからこそ、「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」と、自分自身の尊さにも確信を持つことができるようになるのです。
■伝道者パウロの悲しみと痛みは、そこから始まるのです。神がわたしを遣わされたから。「どうか今、聴いてほしい」。その神の思いを知るから、だからこそ、祈りが生まれ、痛みが生まれ、悲しみが生まれるのです。もう一度、第9章と第10章の最初のところを読みます。
私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。
きょうだいたち、私は彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
そのために、神がわたしを遣わされたのだ。わたしの足が、神の良い知らせのために用いられるのだ。ところが、その言葉が通じない。神よ、なぜですか。パウロは決して、不信仰な人たちをなじるのではありません。裁くのではありません。その意味で大切な意味を持つのは、いきなり最後のほうに飛びますが、20節以下です。「私を求めない者に私は見いだされ 私を尋ねない者に現れた」と、イザヤ書第65章を引用します。あの人たちは神を求めない。神を探そうともしない、呼ぼうともしない。だから見捨てられるのか。いや、それが当然の成り行きかもしれません。ところがそうではなくて、「私を求めない者に私は見いだされ 私を尋ねない者に現れた」。そして21節です。これも同じくイザヤ書第65章です。「私は、不従順で反抗する民に、日夜、手を差し伸べた」。パウロは、この神の手を見せていただいたのだと思います。パウロ自身が誰よりもたちの悪い教会の迫害者だったのです。ところが神は、「不従順で反抗する民に、日夜、手を差し伸べた」。パウロにも、救いの手が差し伸べられたのです。主イエス・キリストこそ、神の差し伸べられたみ手にほかならなかったのです。
この神の恵みの手を知っているからこそ、パウロはなおも確信を持って立つことができました。遣わされた者として、自分の足の美しさにさえ確信を持つことができました。今朝、最初に読み、最後にも読んだ、パウロの痛みと悲しみの祈りは、私どもの祈りでもあると思います。いちばん大事な人に、いちばん大事な知らせを届けたい。そのような私どもの祈りと願いは、豊かな実りを見せることもありますが、思い通りにいかないことのほうがずっと多いと思います。そこでどうするのか。祈るのです。
私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。私自身、きょうだいたち、つまり肉による同胞のためなら、キリストから離され、呪われた者となってもよいとさえ思っています。
このような痛みは、美しい伝道者の姿としてふさわしくないでしょうか。私は決してそうは思いません。むしろ、このような痛みの中にこそ、良い知らせを委ねられた教会の美しさが鮮やかに表れていると思います。神ご自身が、「不従順で反抗する民に、日夜、手を差し伸べ」ておられるのです。パウロに先立って、不従順な民のために痛み、悲しまれたのは神ご自身です。その神に遣わされて、教会は良い知らせを持ち運んで行くのです。教会は、そのために生きています。お祈りをいたします。
あなたの遣わしてくださった、良い知らせを聴いたから、私どもも今このように救われ、生かされています。そして今、良い知らせを聴いたなら、私どもの足もまた、あなたに遣わされた者として新しく立つことができます。あなたを求めない者のためにも、あなたは日夜、手を差し伸べていてくださいます。そのことを信じて、この教会がいつも新しく立ち上がることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン









