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神の言葉が、あなたの近くに

2026年10月4日

ローマの信徒への手紙 第10章5-13節
川崎 公平

主日礼拝

 

 

■先ほど歌いました讃美歌第二篇15番は、決して日本の教会で広く知られた讃美歌ではないと思いますが、私の愛唱讃美歌のひとつです。「いとしたわしき 主イエスのみ名を」と歌います。主イエス・キリストの名を愛し、主イエス・キリストの名を呼ぶ、その喜びと感動を教えてくれる讃美歌だと思います。楽譜のすぐ下にいくつか聖書の箇所が書いてあります。そのひとつが今日お読みしたローマの信徒への手紙第10章12節、13節です。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と13節に書いてあります。主イエス・キリストの名を、呼ぶのです。「いとしたわしき 主イエスのみ名を」ただ呼べばいい。それだけで、あなたは救われる。その喜びを歌う讃美歌です。

この讃美歌の背後にはもうひとつ大切な聖書の記事があって、ルカによる福音書第23章43節とあります。主イエス・キリストが十字架につけられたとき、ふたりの犯罪人も一緒に十字架につけられました。ひとりはイエスの左に、もうひとりは右に。十字架というのは、きわめて残酷な処刑の道具です。悶絶するような苦しみの中で、ひとりの犯罪人はイエスを罵り続けました。「お前、キリストだってな。それなら自分を救い、そしてわれわれを救ってみろ。そんなこともできないくせに、何がキリストだ」。ところが、もうひとりの犯罪人がそれをたしなめて言いました。「お前は神を恐れないのか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているだけだ。しかし、このお方は何も悪いことをしてはいない」。そして主イエスのほうに向き直って申しました。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」。すると主イエスは、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。その主イエスの約束の言葉、救いのみ声が、この讃美歌の最後の節に歌われています。「イエスよ、私を思い出してください。見捨てないでください」。「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。

■ここでひとつ不思議なことがあります。なぜあの〈もうひとりの犯罪人〉は、主の名を呼ぶことができたのでしょうか。いや、ここはもう少しわかりやすくいきましょう。この人はなぜ、信じることができたのでしょうか。それはまあ、聖書の中の話ですから、聖書の物語の中に立派な信仰の人が出てきたって不思議でも何でもない。でも、本当はやっぱり不思議なことだと思います。なぜ、信じることができたのでしょうか。しかもこの問いは、ただちに私ども自身の問いになるのであって、それならば、なぜ私たちは信じることができたのでしょうか。あるいは、皆さんの中にまだ信じることができない、だからまだ洗礼を受けることができないと考えている方がいらっしゃると思います。どうしたら、信じることができるんだろう。これは、正直に申しますが、私にもわかりません。むしろ、私どもの多くは、洗礼を受けていたって、本当に確信を持って信じているかと言われたら、口ごもるようなところがあると思います。ところが、今日読んだローマの信徒への手紙第10章9節以下にはこう書いてあります。

口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。

しかし、あなたは、本当に信じているのですか。どんなことがあっても、絶対に、そう信じているのですか。そう言われたら、困ってしまう人のほうが、案外多いのではないでしょうか。

最近、ちょっとおもしろいことがありました。昔から親しくしているある先輩の牧師が、私の説教原稿を(私に無断で)AIで分析してくれて、「けっこうおもしろいよ」と、その分析結果をメールで送ってくれました。確かにおもしろい。AIが分析してくれた私の説教というのは、〈ペトロの否認〉と呼ばれる聖書の記事を説くものでした。主イエスの一番弟子のペトロが、三度繰り返して、「イエスなんて、そんな人のことは知らない」と言ってしまうという、私どもの多くが共感する話です。この説教の中で、われながら変な話をしたものだと思うのですが、ずいぶん前に路傍伝道をした夢を見た、というのです。大通りに立って、街を行く人びとのためにイエスさまの話をしようと思うのだけれども、全然うまくいかない。勇気がなくて何もしゃべれない。そういう私の情けない姿を、後ろから教会の人たちが見守っていて、「あ~、あ~、先生、そんなんじゃだめじゃないですか」。そのあたりで目が覚めて、私がいちばん悲しかったのは、その夢の中にイエスさまはいなかったということなのです。私を軽蔑する教会の人たちはたくさん出てきたのに、イエスさまは意識の片隅にもいなかった。……という私の説教をAIが分析して何と言ったかというと、「これは非常に危険な自己開示です」。そう言った上で、「しかし、その危険を引き受けるから、『私もペトロと同じだ』というメッセージが伝わる」と好意的に分析してくれたのですが、それでも、このAIのひと言は妙に心に刺さりました。「これは非常に危険な自己開示です」。そうだよな。確かに、非常に危険だよな。私の夢の、意識の片隅にすら、イエスさまがいなかったなんて。

けれども、おそらく多くの方が共感してくださるに違いないと私は信じているのですが、そこまで不信仰な私が、それじゃあ信仰なんかないのかと言ったら、決してそんなことはないので、それでも私はイエスさまを信じているのです。夢の中ではイエスさまのことなんかすっかり忘れているような、そこまで不信仰な人間が偉そうな顔して牧師なんかやっているわけですが、そんな私がイエスさまを信じていないのかと言えば、それはやっぱり絶対に違うので、私もイエスさまを信じているのです。

信仰は、神からいただくものです。自分で信じる、自分の信仰の力で神を信じるなんて、そんなことはできません。8節にはこう書いてありました。

「言葉はあなたのすぐ近くにあり
あなたの口に、あなたの心にある」。

あの〈もうひとりの犯罪人〉も、そうであったに違いないのです。神がご自身の言葉を、わたしの口に、わたしの心に置いてくださる。こんなにも近くに。そうであれば、そのわたしの口で、わたしの心で、「イエスは主であると告白し、神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」。信じないわけには、いかないのであります。

■既に何度も繰り返していますが、ここでパウロは「口」と「心」という言葉を三度繰り返しています。「言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある」。だからこそ、その「口」と「心」とをもって信仰を告白するのです。「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです」。

ただここで、もしかしたら少し別の意味で抵抗を感じる人もあるかもしれません。なぜ「口」と「心」と、両方が必要なんだろう。「心で信じる」。それはわかる。けれどもそれだけでは足りないのであって、心で信じていることをきちんと口でも言い表さないといけない。なぜわざわざそんなことを強要されなければならないかと感じる人もいるかもしれません。神の前では、そもそも言葉なんか必要ないだろう。心で信じていればいいじゃないか。それに対して、いや、心で信じているだけでは足りない、それをきちんと自分の責任で、はっきりと言い表さないと。そういう意見もあるかもしれません。

けれどもパウロは、そもそも〈口で告白する〉ことと〈心で信じる〉ことを分けてはいなかったと思います。10節には、「実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです」と書いてあります。義とされることと救われることは同じことです。心では信じているから、義とされてはいるけれども、まだ口で告白する勇気はないから、救われるのはもうちょい先の話だ。それはとてもおかしなことです。それこそ、三度主イエスを否認したペトロのことでも考えてみればよいのです。「ペトロは、心では信じていたけれども、勇気がなかったから、口ではイエスさまのことを否定してしまったんだ」という話ではないと私は思います。心で信じていなかったから、口でも否認した。それだけの話です。夢の中で全然路傍伝道ができなかった私の心に、イエスさまがいなかったのと同じです。ところがそんな私どもの口に、心に、み言葉を置いてくださる。そこに信仰が生まれるのです。

ある人がおもしろいことを言っています。「パウロにとっては、ここは心や口でなくてもよかった。極端な話、『手で信じて、足で告白する』と言ってもよかったのだ」。いや、それはいくら何でも極端すぎて、説得力に欠けるのではないかと心配しつつも、私にはその人の言いたいことがよくわかりました。体の一部だけで神を信じる、ほかの部分では信じていない、などということは考えられません。神はご自分のみ言葉をわたしのすぐ近くに置いてくださった。そのときに、「わたしの心にはみ言葉を与えてくださった、でもまだ口にはみ言葉が与えられていない」、そんなことは考えられません。

「言葉はあなたのすぐ近くにあり
あなたの口に、あなたの心にある」。

わたしの口にも、わたしの心にも、わたしの手にも足にも、神の恵みの言葉が、こんなに近くにある。そうであれば、そのわたしのすべてをもって信じるのです。神はわたしのすべてを愛してくださり、わたしのすべてを救ってくださるのですから、心も口も、手も足も、全身全霊を傾けて神を信じるのです。

■それで、10節でこう言われるのです。「実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです」。ここでパウロは、「信じる」、そして「告白する」という言葉を繰り返しています。ただ、「告白する」という日本語にはどうも微妙なニュアンスがあって、「愛を告白する」とか「過去の悪事を洗いざらい告白する」というように、「言いにくいことを言う」という意味にもなりかねません。以前使っていた新共同訳は「公に言い表す」と訳しました。言葉のわかりやすさという点では新共同訳のほうがすぐれていると思います。

ただ、この言葉はもう少し大切な意味を持っていて、いちばん基本的な意味は「同じことを言う」ということです。原文のギリシア語をそのまま紹介するとホモロゲオーという動詞です。「ホモ」は「同じ」という意味、「ロゲオー」というのは「言葉」を意味する「ロゴス」というギリシア語を聞いたことがあるかもしれませんが、その派生語です。「同じことを言う」。それが文脈によっては「意見が一致する」とか、「同意する、賛成する」とか、場合によっては「賛美する」という意味にもなります。賛美というのはつまり、「あなたのおっしゃることは何ひとつ間違いがありません。賛成! 万歳!」という感じです。

いずれにしても大切なことは、「同じことを言う」。では「誰と」同じことを言うのか、ということが直ちに問われます。少なくとも教会の信仰に従うならば、ひとりで信仰を言い表すことはできません。必ず誰かと「同じことを言う」。誰と同じことを言うのでしょうか。教会の仲間たちと同じ信仰を言い表すのです。だから、誰かが信仰を言い表して洗礼を受けたいということになると、この教会では必ず長老会で試問会をします。いろんなことが語られます。自分がどのような道筋で信仰に導かれたか、それは人によって千差万別です。けれども、最後に問われることは、「あなたもわたしたちと同じことを言いますか」。同じこと、何を言うのでしょうか。その典型的な表現が、いつも説教の前に告白している使徒信条です。ローマの信徒への手紙第10章9節は、その使徒信条の芽生えがここに現れていると読むことができます。「イエスは主である」、「神がイエスを死者の中から復活させられた」と、私どもひとりひとりが信仰を言い表すというよりも、教会がひとつの体になって、ひとつの信仰を言い表すのです。

自分で自分の信仰の確かさを確かめることはできません。疑ったり、動揺したり、夢の中にイエスさまなんか意識の片隅にすらいなかったり、けれどもそんな時にも、教会が「イエスは主である」と告白し続けています。なぜなら神は、教会にみ言葉を与えてくださるからです。教会の口に、教会の心に、み言葉を置いてくださる。教会全体がひとつの心になって、具体的には鎌倉雪ノ下教会というこの教会全体がひとつの口になって、「イエスは主である」と、ひとつの信仰を言い表す。その教会の信仰告白に自分の声を重ねるように、私どもは信仰を言い表すのです。

■そのような教会について、11節では、「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」と書いてあります。私どもが生かされている〈教会〉というひとつの体は、その口に、その心に、いつもすぐ近くにみ言葉がありますから、どんなことがあっても「恥を受けることがない」。どういう「恥」を、皆さんはお考えになるでしょうか。聖書協会共同訳には注が付いていて、別の訳し方をすると「失望することがない」と書いてあります。「主を信じる者は、失望することがない」。あるいは、この11節はイザヤ書第28章16節の引用です。そのイザヤ書の箇所を見ると、「信じる者は、慌てることはない」と書いてあります。慌てたり、失望したり、恥ずかしい思いをしたり。けれども主を信じる者は、そこから救われている。なぜかと言えば、皆でひとつのことを信じているからです。

もちろん、私どもはそれぞれの生活の中で、恥をかいたり失望したり、慌てたりするのです。週報にも報告が載っていますが、先週この場所で教会の仲間の葬儀を行いました。あまりこういう報告を説教の中で丁寧に言い過ぎないほうがよいのかもしれませんが、今にも泣き崩れそうなご主人をご家族が一所懸命支え、しかしまた、この場所で葬儀をしながら、教会がこのご主人を支えていると思いました。この教会全体が、ひとつの心になって、ひとつの口になって、同じことを信じているのです。「イエスは主である」。「神がイエスを死者の中から復活させられた」。弱い私どもです。すぐに慌てたり、失望したり、辱められたり。けれども私どもはもう、どんな時にもひとりではありません。教会というひとつの体に生かされ、同じ信仰に生かされている私どもは、決定的な意味で絶望することは絶対にないのです。たとえ死の陰の谷を行くときも、「イエスは主である」。「主はわたしの羊飼い」。そうであれば、どんな絶望の中でも、最後の望みを奪われることはありません。

■そのような望みに生かされる教会というひとつの体が、ここにも生きています。12節にはこう書いてあります。

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。

教会というのは、不思議な場所だと思います。ここでは「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません」と言うのですが、おそらく当時のローマの教会にもユダヤ人とギリシア人がいたのでしょう。普通に考えたら絶対に一緒にいるはずのない人間が、教会では、ユダヤ人とギリシア人が並んで座っているのです。「ユダヤ人とギリシア人」だけではないでしょう。教会ほどいろんな人間が集まる場所は、ほとんどないのではないかと思います。年齢も性格も、学歴も職歴も、趣味も好みも全然違う。ここに集められている皆さんのただひとつの共通点は、「主の名を呼び求めている」。それ以外の共通点は、ひとつもありません。

だからこそ、教会の中ではしばしば人間関係のトラブルが起こります。それこそこのローマの信徒への手紙を最後のほうまで読み進めると、このことが非常に大事な主題になります。ときどきはっきりと、「教会はいい人たちの集まりだと思ったのに、どうして」という言葉を聞くことがありますが、残念ながらそれは事実に反します。「教会にも悪い人はいますよ」という話ではないのであって、むしろ教会は、「主の名を呼び求める」、それ以外の共通点はひとつもない集まりであって、その先頭に立つのが、あの〈もうひとりの犯罪人〉です。主の名を信じ、主の名を呼び求める、罪人の集まり。それが教会です。

その教会が何をするのか。もう一度申します。「同じことを言う」のです。ただひとりの主、イエス・キリストの名を呼ぶのです。このお方に対する信仰によって、励まし合うのです。死の絶望の淵にある仲間のためにも、「イエスは主である」、「神がイエスを死者の中から復活させられた」、そう言って慰め合うのです。「主を信じる者は、誰も恥を受けることがない」。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」。そのような教会が、今ここにも生きています。

まだ洗礼を受けておられない人も、どうか私どもと同じ場所に立ってください。同じ信仰を言い表してください。まだ洗礼を受けておられない方のためにも、「言葉はあなたのすぐ近くにあり/あなたの口に、あなたの心にある」のですから、「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。どうかこの場所で、なおひとりでも多くの方が、その救いに導かれますように。お祈りをいたします。

 

あなたの御子イエスに救われ、だからこそあなたの御子の名をひとつの心、ひとつの口で呼び求めるあなたの教会が、今このように生きています。その教会が、今ひとつの心、ひとつの口で聖餐の食卓にあずかります。主と共に十字架につけられた犯罪人と並び立つ私どもですが、だからこそ望みをもって主の名を呼び求めさせてください。今失望している者、辱められている者を、あなたが顧みてください。この教会が、あなたからいただいた慰めによって互いに慰め合う群れとして生きることができますように。まだ信仰を言い表していない、そのためにまだこの聖餐の食卓にあずかることのできない者のためにも祈ります。既にすぐ近くにある主の近さに気づいて、信仰を言い表す喜びを知ることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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