愛されなかった、その時に
創世記 第4章1-16節
柳沼 大輝

主日礼拝
聖書にはじめて登場する兄弟は創世記第4章に記されているカインとアベルであります。このカインとアベルの物語は非常に有名であり、話の筋自体も分かりやすいものです。それこそこの話を題材にした小説や映画もあります。しかし同時にこの話はなかなか腑に落ちない物語でもあります。どうして神様はカインとその供え物には目を留められなかったのだろう、逆にアベルとその供え物にはなぜ目を留められたのだろう、いわば、神様はなぜアベルを「えこひいき」するのだろう、そのような疑問が沸いてきます。そういった思いを抱えながらも、本日は改めてこの御言葉に聴いていきたいと思います。
創世記第4章にはアダムとエバにカインとアベルが生まれ、カインは「土を耕す者」、アベルは「羊を飼う者」となったとそうあります。そしてその後、兄弟の争いが記されておりました。このように見ていきますと、この話は単に二人の兄弟のことを描いていった物語のように思えます。しかしそうではありません。聖書はカインとアベルを象徴的にもちいて、何かを表そうとしているのです。このカインとアベルという二人によって表されるものと、そこに象徴的に表そうとしているメッセージが重なるようにして、二重の意味合いをもって物語が展開されていきます。
この創世記の物語を聴いていこうとする時に、この物語の背景となっているものを知っていく必要があります。それは古代世界、つまり聖書の時代における「農民」と「羊飼い」の職業や社会層を巡る問題です。
「農業」というのは、比較的、想像しやすいかもしれません。土を苦労して耕して、作物を育てます。順調に育てばよいですが、雨不足だったり、逆に雨の日が多かったり、またイナゴなどの害虫の被害を受ける可能性もあります。けっして安定した職業とは言えません。しかしそうは言っても季節の移り変わりに合わせて、ある程度の目途は立ちます。また作物を収穫すれば、それらを貯蔵することもできます。
一方で「羊飼い」の状況はこれとは異なります。キリスト教や聖書の世界では、「羊飼い」はよいイメージで語られることがありますが、その労働実態は「農民」よりもさらに苦しい状況でありました。羊飼いたちは、羊に草を食べさせる必要がありますから、それに水を飲ませる必要がありますから、そのために移動しなければなりません。屋外で生活する必要があるのです。家畜たちと一緒に草を求めてはあっちにいったり、水を求めてこっちにいったり、一年中、あっちにいったり、こっちにいったりして生活しなければならないのです。雨の日も風の日も、太陽が照り付ける日も、冷え込む夜も、屋外で耐え、時には、盗賊や野獣の襲撃に備え、警戒しながら生きていく必要があります。しかし彼らがもっと恐れていたもの、それは「疫病」でありました。一度、群れの中に疫病が広まると、最悪の場合、群れ全体が死んでしまうということになります。そのように一瞬にして全財産を失ってしまうということがあったのです。まさに羊飼いたちは外からの脅威と内からの不安に耐えながら生きていく必要がありました。
このように「農民」と「羊飼い」という職業にはこういった背景があったのです。ですから、農耕地にやって来た羊飼いたちというのは、往々にしてこの不安定な生活をどうにかして安定させようと、少しでもこの苦しい生活を抜け出して、安定した生活を得ようとして農民になることを願うことが多かったようです。しかし農民になるには、耕すための土が必要です。植える種や苗が必要です。そして何より農業をするための土地が必要でありました。しかしそういった農耕可能な土地、よい土地というのは、すでにそこに住んでいる農民たちに占領されています。
このように簡略的に見てきましたが、「羊飼い」と「農民」を比較するのであれば、農民というのは先住者であり、社会的に強い者たちでありました。一方、羊飼いたちは遅れてきた者たちであり、移民であり、社会的に弱い者たちでありました。
聖書の物語に戻って、このカインとアベルも、カインは、先に生まれた者、土地の先住者として農民となり、アベルは後から来た者、後から土地に入って来た者として、仕方なく、羊飼いをしていると言うことができます。それが「土を耕す者」である兄カインと「羊を飼う者」である弟アベルに表されているのです。
この二人の力関係というのは、兄弟の構図としも表されています。往々にして、兄が強く、弟が弱い。つまり兄カインは強者として、弟アベルは弱者として描かれています。兄カインは強者としてアベルよりも幸せな生活をして当然であると、本人もまたこの物語を受け取る者たちも考えていたことでしょう。しかしアベルの生活の方が祝福されたのです。神に祝福されるということは、その人の生活が幸せであること、物質的にも満たされて、豊かな生活を送っていることを示しています。これを聖書は「主はアベルとその供え物に目を留められたが、カインとその供え物には目を留められなかった」(4、5節)と、そのように語っています。
この言葉について「アベルは最上の物を捧げたから神に気に入られたけれども、カインは最上の物を捧げず、二番目、ないしはその一部だけを捧げたから、神はアベルには目を留められたが、カインには目を留められなかったのだ」という理解をする人たちがいます。しかしそうでしょうか。アベルがしたように羊飼いが自分の飼っている家畜の初子を神に捧げるというのは、古代世界から当然のように行われてきたことでありました。カインも農民が当然のこととして行うように収穫の中からよいものを捧げたことでありましょう。カインもアベルも精一杯の捧げものをし、そこに悪意や邪な気持ちなどはなかったはずであります。もしそういったものがあるのであれば、聖書はしっかりと私たちに伝えてくれているはずでありましょう。しかしそういったことは一切、記されておりません。
そもそも聖書の証しする神は、捧げものによって生きたり、その捧げものによって気分が変わられるといった方ではありません。これが美味しいから好きだ、これは嫌いだといったような神ではありません。それは聖書の証しする全能の神ではないのであります。
カインは強者であるはずの自分が、弱者である弟アベルに劣っているということを、自分が下であるということを認めることができません。強者であって、幸せであるはずの自分がよりによって弟アベルに追い越された、そのことが我慢ならないのです。どうして、自分ではなくて、あいつが愛されるのだ。屈辱、ねたみ、嫉妬というものがそこにはあります。この屈辱、ねたみというものはやがて怒りとなります。そしてその怒りの矛先はこの問題の原因であるアベルに、そして同時にアベルを幸せにしている神へと向かいます。
人というのは不思議です。自分の不幸ばかりを数えます。不幸ばかりを数えて、幸せなことは棚に上げ、その恵みを数えようとしません。カインにしても、神に収穫物を捧げることができているということは、収穫の実りを得ることができたということであります。農民として家があって、夜には安心して眠ることができている。神の恵みはたしかにカインに与えられている。しかし、彼はその恵みを見ることが出来なくなっています。それは何故か。彼は自分とアベルを比べたからです。自分とアベルを比較して、自らの尺度で、自分は恵まれていない、愛されていないと感じました。それが正しいかどうかはもはや関係ないのです。彼は比較に囚われています。そこに囚われて、その嫉妬やねたみは怒りとなっていきました。そして結果的にカインはその怒りに駆られて、アベルを殺してしまいました。神にその怒りを指摘されていたのに神の言葉を聴こうとはせず、神の言葉に従わずに怒りに従ってしまったのです。怒りに支配されてカインはアベルを殺しました。
そして神に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われても、「知りません。私は弟の番人でしょうか」としらを切っていきます。しかし神はすべてをご存じです。神は言われます。
「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今やあなたは呪われている。あなたの手から弟の血を受け取るため、その口を開けた土よりもなお呪われている。あなたは地上をさまよい、さすらう者となる。」
この言葉を聴いて、ようやくカインは我に返ります。自分のしてしまったことの重大さに気づかされていきました。
このカインとアベルの物語は古代世界の作り話や神話であって、この当時の社会背景を描いているものであって、私たちと関係がないというのは間違いであります。この聖書の証しする兄弟の物語はいまを生きる私たちの物語でもあります。いや、むしろこの物語は私たちの身近にあるもの、そこに潜んでいるものを示そうとしています。
カインが抱いた、屈辱、ねたみ、嫉妬、そしてそこから生まれてくる怒りというものは私たちも同じように抱えているものであります。私たちは知らないうちに他者と自分を比べます。あの人よりも幸せでありたい、少しでも恵まれた生活を送りたいと願います。それ自体がすべて間違っているとは言いません。しかし一度、自分よりもあの人が恵まれたら、幸せそうに見えたら、自分よりも下にいると思っていた者が自分よりも上に上がってきたら途端に不安になって、ねたんで、ひかんでその感情は抑えきれない怒りとなっていきます。自分も精一杯にやったのに報われない、愛してもらえない、どうしてよりによってあいつが祝福されるのだ。その経験はときに大きな傷となることもあります。そんな愛されなかった経験を私たちはカインとアベルのように家庭において、あるいは学校や職場のなかで何度か味わってきたのではないでしょうか。聖書は昔話ではなく、私たちの現実を語ります。
こういったねたみから来る怒りというものはいつか誰かを殺してしまいます。それは隣人かもしれません。あるいは自分自身かもしれません。実際に命を取るということはなくとも、その人の存在を消したいと願う。赦せない。そうやって、いつのまにか心が渇いて、一人「さすらう者」となる。孤独になっていく。
神は、怒りにふるえ、顔を伏せているカインに言われます。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」
この言葉はときに誤った意味で受け取られることがあります。この「正しい」というのはカインの捧げものが正しかったどうかを言っていると。しかし「もしあなたが正しいことをしているのなら」、これはカインの捧げものが正しいかどうかを判断するような言葉ではありません。先ほども述べたようにカインの捧げものは、彼の精一杯の捧げものなのです。それが間違っているということはない。それでは神はここで何が「正しい」と言っておられるのか。
ここで「正しいこと」と言われているのは「神と向き合う」ということです。つまりいま、あなたは神である私と向き合っているか。もし向き合っていないのであれば、罪はそこでお前を待ち構えているぞ、お前はどっちだ、とそう言われているのです。神は言われるのです。「怒りにふるえてもいいから、それでも構わないから私の方を見ろ。私の方に顔を向けろ」。大切なことは、ここで神はけっして「怒るな」とは言っていないのです。私たちの心に潜んでいる怒りもちゃんと分かったうえで、その怒りもちゃんと認めたうえで「私を見ろ」と言っておられる。カインはそれをすることができませんでした。罪に支配されてしまいました。「罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」カインはそれをすることができませんでした。
このようなことを言うと、やはり神に向かって言いたくなることがあります。はじめから人間が罪に支配されないように最初から罪を取り除いてくれたらよいではないか。罪が生じないように、人間が人と自分を比べなくてすむように、ねたまなくてすむように、そこから怒りが生まれなくてすむように、みんな同じように愛してくれたらよいではないか。同じように恵みを与えてくれたらよいではないかと思います。
しかしそれでは人間は本当の意味で神に大切にされているとは言えないのです。神が予め人間をまるで操り人間のように操作して罪に支配されないようにしたり、すべての人に同じ恵みが与えられるようしたりしてこの世界を造られたとしたら、それは本当に人間を愛していると言えるでしょうか。いや、そうではないでしょう。神は一人一人、たしかな人格をもった存在として、神と向き合う存在として人間を創造されました。故に当然、一人一人、違いがあります。与えられる恵みがあります。人生の歩みがあります。そこで初めて人と人は出会い、そこにまことの交わりが生まれていきます。交わりがあるからこそ、そこに違いが、比較が生まれます。ねたみが、怒りが、そして罪が生じてきます。神はその罪を治めなさいと言われている。それでは私たちはどうしたらよいのでしょうか。愛されなかった、その時に、どうしたらよいか。その時、カインのように最悪の選択をしないようにどうしたらよいか。
神はすでに私たちにその答えを語りかけてくださいました。「私の方を見ろ」、「怒りにふるえてもいいから、それでも構わないから私の方を見ろ。私の方に顔を向けろ」。怒りに支配される時、私たちは自分の中にいろいろな思いを抱えます。屈辱、ねたみ、嫉妬、そのような思いが私の心を捕えていきます。その時に自分の中にその思いを閉じ込めないで、神にその思いをぶつけていいのです。神様の方を向いて「神様なぜですか」、「神様どうしてあの人ばかり恵まれるのですか」、そのような怒りだってぶつけていい。そしてカインが神に言ったように「私には背負いきれません」、そうやって重荷を神に委ねたらいい。
私たちが向き合い、目を向ける神は、十字架におかかりになった主イエス・キリストであります。私たちが背負いきれない罪の重荷を主は私たちに代わって十字架で負ってくださいました。思えば、精一杯やったのに、あんなに愛を注いだのに、人々から愛されなかった、むしろ、ねたまれ、蔑まれ、傷つけられていった、その痛みを一番深く経験されたのは主であります。その主は自分から愛を奪っていた者たちに復讐を誓ったか。殺意をほのめかしたか。いえ、そうではありません。主は十字架の上で父なる神に祈ります。「赦します。赦します。赦します。」
私たちは、自分の力だけで、罪を治めることはできません。それほど、私たちは強くありません。しかし主が十字架に死んで、三日目に復活し、その罪を赦してくださいました。神の方を向くことができるようにしてくださいました。そうやって、怒りにふるえる私が恵みを与えられ、いまここに生かされております。十字架で死んだ主イエスは新しい命、復活の命を与えられました。私たちも顔を上げ、神と向き合い、その言葉に生きる時、新しい道が開かれます。赦し合い、主に祈り、霊に委ねながら、隣人と共に生きる道です。そこに今日も私たちは招かれている。だから、顔を上げよう。神を見つめよう。主の御顔の光を受けて、神のものとして、主に愛されている者として、共に歩むことができますように。
主イエス・キリストの父なる御神、怒りにふるえる私をあなたのその御手で受け止めてください。愛されなかった、あの時の傷を、あの日の痛みを思います。怒りに駆られて、多くの人を心の中で殺しました。また自分自身も傷つけました。その罪をあなたの御前に悔い改めます。今日こそあなたを見つめ、あなたの言葉に聴くことができますように。霊によって、愛の実を結ぶことができますように。主よ、本当は弱い私たちを憐れみ、その御手で支えてください。この祈り、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン








