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神と出会う場所

2026年1月11日

ヨハネによる福音書 第4章1-26節
柳沼 大輝

主日礼拝

 

 

私たちは、毎週日曜日にここで礼拝を捧げます。主に招かれて、主に名を呼ばれて、神を礼拝するのです。それでは、礼拝とはなんでありましょうか。聖書の話を聴く、讃美歌を歌う、それぞれに礼拝とはこれであるといったイメージがおありでしょう。しかし本日の箇所で、主イエスはこのように言われました。「神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」(24節)。霊と真実をもって礼拝するとはどういうことか、いわば「まことの礼拝」とは何か、本日は特にその観点から、ヨハネによる福音書第4章の御言葉に聴いていきたいと思います。

3、4節を読んでみますとこう書いてあります。

「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。」

サマリアというのは、イスラエル人に非常に近しい人々であります。もとはイスラエル民族であった人々がそのなかにはたくさんおりました。しかし彼らは北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたことを契機にいろいろな民族との混血になってしまった人々なのです。それに加えて彼らは血において混血になったというだけではなく、宗教的にもユダヤ教の本筋からはずいぶんとそれてしまって、異教とユダヤ教が混合したような宗教をもっていたのがサマリアであります。ですから、ユダヤ人の立場からするとたいへん近いのですが、近いだけによけいその敵意も強かったようです。ユダヤ人の血がそこで他の民族と混合してしまったという考えもあったでしょうし、あるいは、宗教的に混合してしまっているというそういう気持ちもあったでしょう。そういった意味では、普通の、完全に神を知らない異邦人を嫌う以上に、非常に、このサマリアというのを、ユダヤの人々は嫌ったようです。そこには近親憎悪的なものがあったのではないかと思います。ただ嫌うというだけではなく、非常に軽蔑していたわけです。

そのサマリアを通らねばならなかった、と4節に書いてあります。「通らなければならなかった」というのは、そこを通っていかなければ、目的地のガリラヤに着けないという意味も多分あったでしょう。事実、それがガリラヤへと向かう普通の行き方だったのです。しかしあるユダヤ人たちは、そこを通らないで、わざわざ遠回りしてでもそのサマリアを避けた、といったこともあったようです。つまり「サマリアを通らなければならなかった」というのは、そこを通らなければ、目的地に着けないということだけではなくて、主イエスの側にその必要性があったわけであります。

しかし現実には、主イエスはそのサマリアで何をしたかというと、なにか大きな奇跡を起こしたとか、何かの業をなされたとかいったことは全くないわけで、主イエスがサマリアでなされたこと、それはそこで一人の女と出会われたということであります。いわばこの一人の女と出会うために主イエスはサマリアを通られたのです。この一人の女と出会うために、サマリアを通らなければならなかった。それが神の側の必要性でありました。

しかしこのたった一人の女が主イエスに出会ったことを通して、この女がまた多くのサマリア人に主イエスのことを話して、そして、この女の言葉によって多くのサマリア人が主イエスを信じた、と39節に書いてあります。この女に、主イエスは出会っただけですが、その女によって、たくさんの人々が信じたと書いてある。主イエスはこの女に深く出会うことによって多くの者にご自分を証しされたのです。

主イエスとこの女との出会い、この出会いを私たちは「礼拝」と呼んでいいだろうと思います。「出会い」すなわち礼拝において救い主と私たちが出会う、そのことが私たちを証し人にするのです。礼拝において私たちが主に出会う、そのことが私たちをこの世に対して証し人にしていくのです。

それではこの女と主イエスとの出会いとは、どういった出会いであったのでしょうか。6節からのところにこう書いてあります。

「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水を汲みに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」

「正午ごろ」と書いてあります。暑いさかりであったようです。主イエスは旅に疲れて、のどが渇き、井戸のそばに座っておられます。しかし、正午ごろに水を汲みに来るという人は普通、いないそうです。日盛りですから、なるべくそんな時に水を汲みに来るようなことはしない。朝、涼しい時とか、あるいは夕方であるとか、そういう時間に水を汲みに来るのが普通であったようです。この女性がそんな真昼の暑い時刻に水を汲みに来たのには、何か事情があったに違いない。つまり、この女性は他の誰かに会いたくない、何か他の人々から好意をもたれない、そういう女性に違いない、というようなことが言われています。しかし主イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と一杯の水を求めました。

この女性は驚きました。驚いて彼女はこう言いました。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)。先ほど、述べたようにユダヤ人はサマリア人のことを嫌っていたのです。そのユダヤ人であるあなたが、どうしてサマリア人である私に、水をくれとおっしゃるのですか。あなたと私との間には、何の関係もないではありませんか、と彼女はびっくりしたわけであります。

たしかに彼女の言う通りであります。主イエスの側からしてもこの女とは何の関係もありません。言ってしまえば、神の子である主イエスが一人の罪の女から水を求める、そんなことはいらないことであります。神の子が人間に渇きを癒してもらう、本来であれば、そんなことは必要ないでありましょう。しかし主イエスは一杯の水をこの女性から求められます。それはなぜか。それは神が私たち人間の小さな献身を求めておられるからです。取るに足らないかもしれない小さな献身を主イエスはここで、この女性に求めています。つまり、神は交わりを求めておられるのです。

神はべつに人間から助けてもらう必要は少しもありません。人間から何か与えてもらう必要は少しもありません。与えてもらったらうんと助かるなどということは神の側にはおそらく一つもないでありましょう。神はすべてを持っておられる方、むしろ、私たちがそこからすべてをいただいている方であります。それはあとのところでご自分が「命の泉である」(14節)とさえ、言われている通りであります。

にもかかわらず、主イエスは一杯の水をこの女から求めます。それは主イエスが交わりを求めておられるからです。一人の罪人と、ここで出会うことを求められるからです。主イエスは一杯の水を、小さな献身を受け取ることを求められる。

交わりというのは何か、私たちは考えるわけでありますが、交わりというのは一方から他方に何かを与えるだけで成り立つものではありません。与え、与えられて、交わりというものは成り立っています。あるいは、捧げ、捧げられて、人と人との出会いは深まっていきます。私たちはそれを交わりと言います。

この交わりは、私たちが毎週ここで捧げる礼拝においても起きていることであります。私たちは礼拝において神に感謝を捧げます。賛美をします。捧げものをします。神は私たちにすべてを与えてくださる方です。罪人を救うために独り子をさえ与えてくださる方です。その神が私たちの応答を、小さな献身をこよなく喜んでくださる。そのことを私たちは礼拝において知らされているのです。そしてそういう意味で、礼拝において、私たちは神と出会っていきます。神との交わりの中に生かされていきます。

主イエスは13、14節でこの女に対して、こう言われました。

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る』」。

「決して渇かない、永遠の命に至る水」と書かれています。これは人を永遠に生かすということです。これはこの救い主であるイエス・キリストという方こそ、人に永遠の命を与える方だということを言っています。しかしイエス・キリストが永遠の命を与えるということの意味は、主イエスとの出会いというものが人に永遠の命を与える、永遠の命、そのものだということを言っているのではないかと思うのです。命の泉というのは、何かをもらうというのではなくて、主イエスとこの女がここで出会う、この出会いそのものが永遠の命ではないかと思うのであります。

ヨハネの手紙一第1章にこんな言葉があります。「私たちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせるのは、あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。あなたがたにこの手紙を書き送るのは、いろいろなことが書かれているこの手紙を読んで、最終的には、私たちの交わりにあずかるようになるためだ。そして、その交わりとは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であると言います。

この手紙を書いたヨハネは「交わり」を「救い」の一つのかたちと見ています。いや、救いの内実というふうに見ています。「御父と御子イエス・キリストとの交わり」を救いの内実と見ています。

イエス・キリストによって私たちが救われるということは、罪人が「御父と御子イエス・キリストとの交わり」に生かされることであります。救われて、なにかいいものがもらえた、なにかいいことばかりが起こるようになった、それが救いではありません。救われていたって、なお苦しみや痛みはあるのです。尽きない不安や怒りはなお心に込み上げてくるのです。それでも、救われて、神との交わりに入れられた、それが、私たちが神に救われているということであります。

旧約聖書の中にヤコブという人が出てきます。彼は兄エサウと大喧嘩をし、命からがら自分の家を離れ、叔父ラバンの家へと旅をします。この時、彼は不安だったと思うのです。向かうのは叔父の家ですが、行き先への不安もあったでしょう。危険な旅への不安もあったでしょう。そして何より兄の怒りというものが自分に向かってきているという不安もあったと思うのであります。そんな頼りない気持ちで彼は一晩の宿りをします。そこで、彼は夢を見ました。天から階段が据えられていて、その階段を神の使いたちが昇り降りしている夢です。それが彼を再出発させる出来事となりました。自分とはなんてつまらない人間だろうと思っている彼のところに天から階段が届いたのです。その階段を神の使いたちが昇り降りしている。この表現は非常に面白いと思います。神の側から使いが降りて来ているだけじゃない。ヤコブの側からも神の方に、昇っていくのです。そして昇り降りしています。私はここに神とヤコブとの交わりを見ることができると思います。ヤコブがここで体験したこと、それは、神様がおられるということではなくて、神様と出会うということでありました。出会うということは神から彼が聴くということであり、彼の側から、神に語りかけることでありました。そうやって、彼は神と出会いました。だから、いろいろなことがあるかもしれない。これから何が起こるかわからない。それでも彼はこの現実によって生きていくのです。彼はそこで神から何か素晴らしいものを与えられたわけではない。これがあれば安心だというものをもらって喜んで出発したわけではない。むしろ、何も持っていない。目が覚めても、何も変わっていない。同じです。けれども彼は変わっているのです。それは彼が天とつながれているということです。この孤独な彼は天とつながって、そして、神の使いは昇り降りしている。彼の声は向こうに届くし、神の声も彼は聴くことができる。それが、彼を生かすのです。同じ現実の中を生かすのです。その現実に、恵みに、神との交わりに、私たちはいまこの「礼拝」において生かされております。

さて、この女が「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」(15節)と言ったとき、主イエスは女に言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)。すると女は答える。「私には夫はいません」(17節)。主イエスは言われる。「『夫はいません』というのは、もっともだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ」(17-18節)。

この神との対話によって、この女は自分の素性というのを明らかにされていきます。自分がどういう人間であるか、どういうところで生きている人間であるかということを、主イエスと出会うことのなかで、もう一度、確認させられていきます。あるがままの姿を、主イエスはここで照らすわけです。この女には五人の夫があった。今一緒に住んでいるのは夫ではない。夫ではない男と一緒に今、生活をしている。そういうかたちで、いわばこの女の状況が明らかにされます。

私は、先ほど、交わりが救いだと言いました。神との交わりというものが、即ち、救いだと言いました。しかしそれは、神と交わるということが、ただ楽しいとか、愉快だとか、そういうことではありません。そこで自分が照らされるということを避けることはできません。自分が今心に秘めている怒りも後悔も恐れも不安もすべて照らされるのです。そこで自分はどこに立っている人間であるのか、ありのままのこの私の姿が明らかにされるのです。罪人としての自分の姿というものがそこにあらわされる。神と交わるということはそういうことでもあります。

そういうふうに考えますと、礼拝というものは本当にしんどいことかもしれません。自分が絶えず照らされる。照らされて、自分の罪が神の前にあきらかにされる。そこではどんな言い訳も通用しません。しかしそこで終わらないのであります。罪に塗れた自分がどうにか立ち直ろうと頑張って変わることができなくても、神が私たちを変えてくださる。神と出会って、自分自身を知らされ、十字架の前に悔い改めさせられ、変えられていく。そうやって自分が打ち砕かれていく。そこで神との出会いの喜びというものは深められていくのであります。

先ほどのヤコブの話ですが、彼は叔父ラバンのもとで何年か一所懸命に働き、そこで財産を得て、妻を得て、自分の故郷に帰って来ます。彼は、自分の故郷が向こうにある川のそばのヤボクの渡しというところに来た時に、決心がつかないのです。兄のもとに帰る決心がつかないのです。そこで彼は、まず兄に贈り物をおくり、妻たちを先に渡らせて、自分は後からその川を渡ろうとします。しかしどんなに入念に準備しても、自分が騙した兄が怖くて仕方ないのです。そこで彼は一晩、そのヤボクの渡しで夜を過ごすことになりました。その時、神の人が現れて、ヤコブはその男と格闘したと書いてあります。ここにもヤコブと神との出会いというものがあります。彼は、必死に神と格闘した。そうです。彼は自分の不安に勝てない。どんなに用心深いヤコブでも、つまり、あらゆる段取りを整えて、自分の不安を取り除くために頭を働かせていろいろやってみても、本当の意味では取り除くことができない。人間の中にある深い不安、罪というものはどんなに上手くやったって本当の意味では取りのけることはできない。彼は神と格闘してどうなったか。「股関節が外れた」と書いてあります。それでも「祝福してくださるまでは放しません」と言って、ヤコブは神の祝福の約束を得たと書いてあります。股関節を外された、それはいわば、自分の自我が砕かれることを意味しています。彼は自分の不安に勝てなくて、神と格闘したのですが、そのなかで自分の思いが砕かれていく経験をしたのです。

私たちが神と出会う、神と出会っていくということもまさに同じです。神と出会っていくということは、自分自身が次第に打ち砕かれていくことであります。ヤコブはそこで股関節を取られて、はじめて安らぎを得ることができました。つまり、自分が砕かれていくことによって、彼は、はじめて安らぎを得ることができたのです。そして彼は、その朝、川を渡りました。私たちが礼拝をするということもまさにこういうことであります。

主イエスと出会った女も、何度も自分で変わろうとしたことでしょう。しかし変われなかった。自分の不安を、罪を取り除くことはできなかった。そんな彼女は主イエスと出会って、打ち砕かれて、変えられました。主イエスは女に言います。「女よ、私を信じなさい」(21節)。

主イエスは礼拝についてこう言いました。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」。神が霊であるというのは、神が聖霊をもって、私たち一人一人に臨まれる、近くにいてくださるということです。私たちはこの礼拝という場所でその恵みにあずかります。この場所で神と出会い、交わり、打ち砕かれ、変えられていく。神の証し人とされていく。主は今このとき、あなたに語りかけます。「私を信じなさい」。その声に応える。これこそ、私たちが捧げる「まことの礼拝」であります。

 

 主よ、今朝もあなたにまたここで出会うことがゆるされました恵みに感謝いたします。主よ、私をあなたの愛に生きる者に変えてください。この祈り、主の御名によって御前に捧げます。アーメン

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