誰の声を聴いて生きるのか
ローマの信徒への手紙 第6章15−23節
川崎 公平

主日礼拝
■私どもが今なお大切にしている古典的な信仰の書物のひとつに、ハイデルベルク信仰問答というのがあります。とりわけその最初の問いと答えは、大げさでも何でもなく、暗誦するに足るものであると思います。新しい年を迎えて、最初の主の日の礼拝に、改めてこの信仰問答の言葉を心に刻みたいと思いました。
問1 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。
わたしには、ただひとつの慰めがある。それ以外の慰めもたくさんあるように見えるけれども、実はそれらはすべて偽物の慰めでしかない。「生きている時も、死ぬ時も」、わたしの慰めであり続ける事柄は、実はひとつしかない。それは何かというと……
答 わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命の保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、して下さるのであります。
長い答えを、一気に読みました。ここで第一に言われることは、「わたしは誰のものか」ということです。「わたしは、誰の所有か」。わたしの体も、わたしの魂も、もうわたし自身の所有物ではない。イエス・キリストの所有である。それが、わたしのただひとつの慰めである。しかもそれは、わたしがわたし自身を「はい、これ、あげまーす」と言ってイエスさまのものにしてあげた、というのではなくて、もともとわたしは悪魔の虜であった。そこからキリストはわたしを救い出してくださった。「その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さ」ったのだ、と言います。
「貴き御血潮」というのは、もう少し日常的な日本語に訳せば、「高価な血」、「値段の高い血」ということです。主イエスが十字架につけられて、そこで流された血の値段は、本当に高かった。そりゃあイエスさまの血ですから、高価であるには違いない。それにしてもイエスさまの血に値段がつくとはどういうことだろうか。イエスさまの血の値段そのものというよりも、私どもを悪魔の手から買い戻すための値段が高かったということです。神からご覧になって、私どもの値段が、それだけ高かったのだ。そうして主イエス・キリストの所有とされた私どもです。
新年最初の礼拝ですから、このあと聖餐を祝います。主イエス・キリストの体、そして血であると信じて、私どもはこの食卓にあずかります。「主イエス・キリストの貴き御血潮」を味わいながら、しかし私どもは、ただイエスさまの貴さだけを味わうのではありません。そこまでして救っていただかなければならなかった、わたし自身の貴さを知るのです。神がお計りになる、私どもの値打ちであります。それは、主イエス・キリストの血によって支払う以外に道がなかったのです。
そんな私どもを、もちろん主は、今も大切に守っていてくださる。「天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります」。髪の毛一本といえども、というのは強烈な表現です。もとより主イエスご自身がそうおっしゃったのです。マタイによる福音書第10章29節以下には、厳密には信仰問答の言葉とは少しずれるのですが、こう書いてあります。
二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
天の父のみ心でなければ地に落ちることはないと言われたのは、髪の毛ではなく雀です。それに畳みかけるように、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」。もちろん、そこで何より大切なことは、その髪の毛がたとえ全部落ちてしまったとしても、それどころか思いがけない死の出来事に襲われることがあったとしても、「実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります」。
そのことを知っている今は、わたしの人生そのものが変わりました。まったく新しくなりました。「この後は、主のために生きる」と、この信仰問答は言います。わたしの体も魂も、もう自分のものではない。イエス・キリストのものである。そうであれば、今から後わたしは、わたしのために生きるのではない。もちろん悪魔のために生きることもない。「わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることのできるように、して下さる」。自分でそうするとも言わないのです。聖霊がそうさせてくださる。
■このハイデルベルク信仰問答のひとつの特長は、聖書的であるということです。そんなの当たり前だろうと思われるかもしれませんが、同じ時代の他の信仰問答と比べても、この特長は際立っています。信仰問答の、ひとつひとつの言葉の背後にある聖書の箇所を、丁寧に教えてくれます。今読みました問1の、その最初に挙げられる聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一第6章の19節です。20節まで続けて読みます。
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
知らないのですか。あなたがたの体には、特別なことが起こっているんですよ。かつてのあなたがたの体とは、違うんですよ。もうあなた自身のものではないのです。あなたがたの体は神の神殿なのです。最初からそうだったというのではありません。あなたがたの体が聖霊の宿られる神殿となるために、そのためにここにも「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」と言われます。代価というのはつまり、ハイデルベルク信仰問答が言うところの「キリストの貴き御血潮」のことです。そこまでしていただいたあなたがたの体なのだから、そのあなたの体をもって「神の栄光を現しなさい」と言うのです。
私は思うのですが、これは、人間についての、考えられる限り最高の表現です。「あなたがたの体が、神殿なんだ」。この手紙を受け取ったコリントの教会の人たちが、考えられる限り最高の生活をしていたから、そう言うのではありません。むしろ話はまったく逆で、コリントの教会の人たちが、考えられる限り最低の生活をしていたから、だからこそパウロは、このような手紙を書き送らなければなりませんでした。
今朝の礼拝のために読んだのはローマの信徒への手紙第6章であって、ハイデルベルク信仰問答でもコリントの信徒への手紙一でもないのですが、あとでちゃんとロマ書の話につながりますので、もう少し我慢して聞いてください。先ほどコリントの信徒への手紙一の第6章19節以下を読みました。その段落の最初から読むと、12節にこう書いてあります。
私には、すべてのことが許されています。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私には、すべてのことが許されています。しかし、私は何事にも支配されはしません。
「何だ、これは」という印象の言葉かもしれませんが、要するに当時のコリントの教会の中に、「何をやったっていいんだ、どんなでたらめをやっても許されるんだ」という主張があったらしいのです。「私には、すべてのことが許されています」。確かにそうかもしれない。けれども、それだけで済むでしょうか? すべてのことが益になるわけではありませんよ。「私には、すべてのことが許されています」。本当に、そうでしょうか? 何やってもいい、何をやっても許される、俺は自由なんだ、と言いながら、実はいつの間にか、何か変なものの奴隷になってはいませんか。わたしパウロは、何事にも支配されていませんよ。あなたがたはどうですか。そう言って、少し飛ばしますが、15節以下にはこう書いてあります。
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのですか。私がキリストの体の一部を取って、娼婦の体の一部にしたりするでしょうか。決してそんなことはない。娼婦と交わる者は、その女と一つの体となる、ということを知らないのですか。
何をやってもいいんだ。「私には、すべてのことが許されています」。そう言って、たいへん嫌な話で恐縮ですが、平気で女の体を買う教会員がいたらしいのです。それと似たような話が第5章から始まっていて、第5章の1節からいきなりこういうことを書きます。
現に聞くところによると、あなたがたの間に淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人にさえ見られないもので、ある人が父の妻と一緒になっているとのことです。
そういう教会に対して、「いい加減にしろ」とだけ怒鳴りつけるのは、そんなに難しいことではありません。ところがパウロがここで言うことは、それとはずいぶん違います。「知らないのですか。あなたがたの体は、特別なんですよ。神からご覧になると、既にあなたの体は、あなた自身のものではなくて、神のものなのだから。神の宿ってくださる神殿なんだから。だから、あなたの体で神の栄光を現しなさい」。「わたしのただひとつの慰めは――わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」。その慰めの中に立ちなさい。
■今朝の礼拝のために、ローマの信徒への手紙第6章15節以下を読みました。最初の15節にこうあります。
では、どうなのか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう、ということになるのでしょうか。決してそうではない。
話としては同じことです。「私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから」、だから、何をやったっていいんだ。すべてのことが許されているんだ。だから、どんどん罪を犯そう、ということになるのでしょうか、とんでもない、と言うのです。同じような問答形式の文章が、第6章1節以下にも出てきました。「では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。決してそうではない」。これは、落ち着いて考えてみれば、子どもの屁理屈のようなばかばかしい話ですが、なぜことさらにこんなことを書かなければならなかったのか。ある人たちの推測によれば、パウロがこのローマの信徒への手紙を書いたのは、コリントに滞在している時期ではなかったか、と言われます。いわゆるパウロの第三回伝道旅行の途上、コリントには1年半滞在したと言われます。ちょうどそのころ、パウロはこのローマの信徒への手紙を書いた。以前からコリントの教会については相談を受けていて、それで既に何年か前にあのような手紙をコリントの教会に宛てて書いたわけですが、今改めてコリントの町で生活してみて、そのひどさに驚いたのかもしれません。「わたしたちは、神の恵みを受けたのだから」、そのことをはきちがえると、どんなにひどいことになるか、そのことを目の当たりにしながら、それがローマの信徒への手紙の筆遣いにも反映しているのではないかと言われるのです。
繰り返しますが、この言葉だけ取り出せば、子どもの屁理屈のような話です。「神はすべての罪を赦してくださるんだから、何をやったっていいんだ、どんどん罪を犯そう」。誰がそんなことを考えるか、と思うのですが、正直に自分の生活をふり返ってみますと、私にもそういう心の動きがないわけではないと思います。それは、実際に自分が罪を犯したときです。「神よ、わたしを試みに遭わせず、言い換えればわたしを誘惑に遭わせず、悪より救い出したまえ」と、一応口ではそう祈るのですが、そうは言っても罪の誘惑は強いので、しばらく前の説教でも同じことを申しましたが、私どもは実は罪の誘惑に負けたいのです。悪より救い出されたくないことが、いくらでもあるのです。だからこそ誘惑なのです。しかもその罪の誘惑に、さらにたちの悪い誘惑が加わって、それが、「まあ、いいや。神さまはどんな罪も赦してくださるし。聖書にもそう書いてあるし」。それが、わたしのただひとつの慰めです、という話になっていないか。「どうせ赦されるんだから、わたしたちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう」。それがわたしの慰めになっていないか。もちろんそれは、歪んだ慰めでしかありません。
しかし、何がどう歪んでいるのでしょうか。わたしの体が誰のものか。もっと言えば、わたしのこの体のために、神が何をしてくださったか。今神が、このわたしの体を、どのように扱っていてくださるか。そのことを真剣に考えたら、「私たちは律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯そう」だなんて、そんなことは考えられるはずもないのです。
■そこで、続けて16節ではこう言います。
知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
これは、あれかこれかの二者択一であって、それ以外の選択肢はない。罪の奴隷になって死に至るか、神の奴隷になって義に至るか、「どちらかなのです」。しかし多くの人は、特に現代人は、そうは考えないかもしれません。わたしは罪の奴隷になんかならない。だからと言って、神を信じなさい、イエス・キリストを信じなさいと強要されても困る。キリストを信じない自由だってあるでしょうが。違いますか。
ここに、「従う」という言葉が何度か繰り返されます。新約聖書のギリシア語には、ひと口に「従う」と言っても実はいくつかの表現があるのですが、ここで使われている表現をもう少し丁寧に解きほぐすと「下に立って聴く」ということです。「聴く」という動詞の前に、「下に」という前置詞が付いています。上に立って、ふんぞり返って、部下の報告を聞く、子どもの言い訳を聞くというのではなくて、下に立って聞く。ひざまずいて聞く。罪の前にひざまずくのですか、それとも神の言うことをひざまずいて聞くのですか。自分はどちらでもない、自分のことは自分で決めるんだ、と考える人は、言い換えれば、自分自身にひざまずいて、自分の声に従って生きているということになる。
けれども、そこには本当の救いはないということを、いちばん切実に思い知らされるひとつの場面が、私どもが死ぬときだと思います。「生きている時も、のみならず死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。もちろん生きているときにも問われる。しかしまた、死に際して改めて究極的に問われる。わたしは誰のものなんだろうか。わたしの体は、わたしの魂は、いったい誰のものなんだろうか。毎日の生活で、そのことが問われます。罪に仕える奴隷となって、罪の前にひざまずいて、その言葉に従うのか、神の前にひざまずいてその言葉に聞き従うのか。結局、自分は自分の力で生きるのだと考えるのか。それで最後は、ひとりで死ぬのだ、と考えるのか。それが死の床において、最終的な問いとなるのです。
■しかもここでパウロは、あなたはどちらを選びますか、Aですか、Bですか、などという話をしているのではありません。私どもに選択権はありません。
しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです(17、18節)。
考えてみれば、話は奴隷であります。奴隷に就職先を選ぶ自由なんかあるわけないのです。新約聖書が書かれた当時、奴隷という存在が社会を成り立たせるための、言ってみれば必要不可欠のインフラでしたから、特に当時の人にとってはよくわかる話だったかもしれません。どうしてこんな悪い主人に当たってしまったんだろう。隣の家の主人は優しそうでいいなあ。あっちに行きたいな、と思ったって、ただ思うだけではだめです。もしそれが叶うとすれば、別の主人がお金を払って買い取ってくれるしかありません。17節で、「しかし、神に感謝すべきことに」と言っているのは、そういうことです。けれどもそれは、私どもだって同じことだろうと思います。もう罪の奴隷はいやだなあ。神の奴隷に転職しようか。よし、やってみようと思ったって、ただ思うだけではだめです。わたしのただひとつの慰めは、「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」。自分でそうしようと決めてそうなったわけじゃない。そのために、「主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払って下さ」ったのだ。それをここでは、「しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが」、今は違う、と言うのです。
年が改まり、その最初の1月1日からいきなり、大切な教会の仲間の逝去のお知らせをしなければなりませんでした。どう取り繕ったって、つらいものはつらい。だからこそ、ただひとつの慰めの中に立たなければならないと思うのです。
先ほど読んだ17節に、少しわかりにくい表現がありました。「しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが」、その罪の奴隷からどのように自由にされたかと言うと、「伝えられた教えの基準に心から聞き従って」と書いてあります。「伝えられた教えの基準」というのは、たとえば聖書も信仰問答もそれにあたります。ただ、説教の最後の最後にまたややこしい話をするのは恐縮なのですが、「伝えられた教えの基準」という翻訳には疑問があります。むしろ原文をきちんと翻訳すると、「教えの基準の中へと、あなたがたが引き渡された。それにあなたがたは今心から聞き従っているのだ」。わたしたちに教えの基準が伝えられるのではありません。話は逆で、「わたしたちが、教えの基準の中へと引き渡された」のです。罪の奴隷であったわたしたちを神がぐっと捕まえて、「あなたはそんなところにいちゃだめだ。こっちへ来い。この教えの中に入れ」。そうやって「引き渡された、教えの基準」という言い方は、いかにも堅苦しいのですが、それがたとえば、ハイデルベルク信仰問答の教えるただひとつの慰めです。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。あなたには、ただひとつの慰めがあるんだから、ほかの慰めはないんだから、この慰めの中に入れ。ここから出ては駄目だ。
今、神の手によって引き渡されて、ただひとつの慰めの中に立ちます。既に召されたあの姉妹も、同じ慰めの中に立たせていただいたのです。祈ります。
私どもの真実の救い主、イエス・キリストの父なる御神。私どもの真実の慰めは、ひとつしかありません。生きる時も、死ぬ時も、私どもはあなたのものです。喜びの日にも、悲しみの日にも、この慰めのもとにひざまずき、これに聞き従う者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン








