一度死んだはずの命ならば
ローマの信徒への手紙 第6章1-14節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙の第6章1節から14節までを読むのは、今朝が3回目になります。この箇所について説教するのは今日で最後にして、来週の礼拝では15節以下に進みたいと思っているのですが、既に1節から14節までを二度説教しながら、実はまだ、ここでいちばん難しい問題を十分に取り上げていないという反省があります。その難しい問題というのは――1節から14節まで、いろんなところを糸口にすることができると思うのですが――たとえば最後の14節にこう書いてあります。
罪があなたがたを支配することはありません。
ここはなるべく正直になりたいと思います。皆さんは、このような聖書の言葉を、どのように受け止めておられるでしょうか。「罪があなたがたを支配することはありません」。そうです、私たちはもう罪に支配されておりません。自信を持ってそのように言えるような生活を、実際にしておられるでしょうか。いろんなところを糸口にすることができると申しましたが、ほかにもたとえば2節。「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」。そうです、私たちはもう罪の中に生きることはできません。事実、罪の中に生きてはおりません。胸を張ってそう言えるか。
このような確信の根拠となるのは、わたしたちが洗礼を受けているということです。この洗礼ということが、第6章の大きな主題です。洗礼を受けた私どもは、皆このように言えるようになる、はずなのですが……たとえば6節。「私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、――つまり今申しましたように、洗礼を受けることによって、「私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられた」ということが、事実起こったわけですが――罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています」。あるいは11節。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい」。あなたがたは既にそういう存在になっているのだから、そう考えなさい、などと言われても、現実にはそうなっていないじゃないか。洗礼を受ける前も、受けた後も、自分は相も変わらず罪の奴隷のままじゃないか。
聖書の言葉と、われわれの生活の現実とが、あまりにもかけ離れているように思えてならないのです。そこで私どもが選ぶひとつの選択肢は、そのあたりのことを何となくごまかしながら生活するということです。そして私どもには、ごまかすためのもってこいの口実があって、それは、「キリストの十字架によって、ただ神の恵みによって、すべての罪が赦されている」ということです。もちろん、この神の恵みを疑う必要はありません。どんな罪も赦されるのです。どんな深刻な罪でも、赦されない罪はひとつもない。もちろん、そうなのですけれども、問題は、1節以下にこう書いてあります。
では、何と言うべきでしょうか。恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。決してそうではない。
これも、もちろん、その通りなのです。私どもに神の恵みが与えられた目的は、われわれが罪にとどまるためだ、なんて、そんなことは考えられない。考えられないのですけれども、しかし実際には、現実としては、神の恵みの上にあぐらをかきながら、罪の誘惑に負け続けているのが私どもの生活の実情ではないかと思うのです。
うまくごまかしながら信仰生活をするというのは、決して健全な話ではありません。いったいどうすればよいのでしょうか。
■そこで、今朝特に心を集めたいと思うのは、12節以下です。
ですから、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい。
この12節、13節で初めて現れる大切な主題は、「体」ということです。それがまた「五体」と言い換えられます。私どもが生きているこの体、そのひとつひとつの部分が問われるのです。「あなたがたの体を」、「あなたがたの五体を」、それをどうするのか。罪に献げるのか、神に献げるのか。
言うまでもないことですが、私どもの罪の問題は、体に限ったことではありません。私どもはむしろ、まず心の中で罪を犯すのです。けれどもその罪が具体的な働きをするためには、やはり私どもの体が、私どもの五体が必要なのです。考えてみれば十戒が戒める殺しも姦淫も盗みも偽証も、私どもの体のどこかの部分を使わなければできません。繰り返しますが、私どもはまず心の中で罪を犯す。それはそうです。だがしかし、その罪がさらに具体的な力を持つために、私どもの体が用いられるということを、真面目に考えないなら、それはやはり嘘だと思うのです。
「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げ」るのか。それとも「自分の五体を義のための道具として神に献げ」るのか。あなたの体は、どっちなんだ。
興味深いことに、ここで「道具」と訳されている言葉は、多くの場合「武器」という意味を持ちます。かつて用いられた口語訳という翻訳でも「武器」と訳されました。言葉の広い意味としては「道具」でいいのですが、この言葉は多くの場合、戦いの文脈で用いられる。そうしたら当然「武器」という意味になるのです。私の意見としては、ここはやはり「武器」と訳したほうが文脈にも合うのではないかと思います。つまりここでは、神と罪とが武器を用いて戦いをしているのです。
ここでひとつ注を付けると、ここで言う〈罪〉とは、あれやこれやの悪いことをすることではありません。〈罪〉というのは、もっと大きな存在です。そしてもっと人格的な存在です。たとえば〈悪魔〉とか〈サタン〉とか言い換えればわかりやすいかもしれません。悪魔が、あるいは罪の力が神に対して戦いを挑む。そのときに当然武器を使うのです。罪が利用する武器っていったい何だ。それがあなたの体だ。悪魔の力が発揮されるいちばん有効な武器、それがあなたの五体なんだ。あなたの頭が、あなたの目が、あなたの口が、あなたの手足が、「不義のための武器として」、悪魔に献げられる。罪に献げられる。いや、そんなことは絶対にあってはいけないんだ。だから、第6章の最初でこう言うのです。
恵みが増すようにと、罪にとどまるべきだろうか。決してそうではない。
私どもの犯すどんな罪も、赦されるのです。どんなに深刻な罪であっても、キリストの十字架によって赦され得ない罪はひとつもない。なぜ神は、そこまでなさったのでしょうか。私どもの体を救うためでしかないのです。私どもの五体が救われたのです。そうであるならば、「神に救われたあなたの体を、これからもどんどん、罪のための武器として使っていただきなさい」なんて、そんな話があるか。あなたの体が、救われたんだ。あなたの体を、神は救ってくださったんだ。そのことを、よく考えなければならないと思うのです。
今、神の前で、自分の体のことをじーっと顧みながら、いろんなことを思うのです。12節には、「体の欲望」という表現がありました。いろんな欲望があるでしょう。「体の欲望」とだけ言われると、いわゆる肉欲、性欲という話にもなりそうですが、もちろんそれも含まれるでしょうが、もっと広い話です。見たい、聞きたい、話したい。覗き見たい、真相を知りたい、悪口を言いたい……そうやって、私どもの体のいろいろな部分が罪を犯します。食べたい、飲みたい、手柄を立てたい、でも怠けたい、休みたい、殴りたい、張り倒したい。そうやって、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」。それは、あなたが罪を犯しているというよりも、罪の力があなたの体を武器にして、暴れ回っているだけだ。
■ところが、私どもが既に数えきれないほど教えられていることは、そんな私どもを救うために、主イエス・キリストが十字架につけられたということです。このお方は、ただ心の中で苦しみをお受けになったのではありません。このお方の体が、このお方の五体のすべてが、十字架につけられたのです。私どもの体のすべてが、救われるためです。それを具体的に表すのが、洗礼という出来事です。
私たちは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活についても同じ状態になるでしょう。私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています(4~6節)。
既に洗礼を受けた今、私どもはもう一度、自分の体を見つめ直さなければなりません。わたしのこの体を、この手足を、目を、耳を、口を、頭を、今さら罪に献げるなんて、そんなことは考えられないのです。罪に献げないで、どうするのでしょうか。これからは、なるべく罪を犯さないように頑張りなさい、という話でもないのです。自分ひとりで頑張ったって、たかが知れています。せいぜい新しいファリサイ派がもうひとり生まれるだけです。そうではなくて、あなたの体を、神に献げるのだ。ここに、私どもの新しい生活が作られます。この体をどうするのか。わたしの目を、耳を、口を、手足を、誰のために用いるのか。わたしの体は、誰のものなのか。
もちろん、私どもはこれからも罪の誘惑に負けることがあるでしょう。ええ、いくらでもあるでしょう。それは正直に言って、悲しいほどだと言わなければなりません。けれども、いやだからこそ、いつでも立ち帰られなければならない場所はひとつしかないので、「神は、この体を救ってくださったのだ」。そうすると、今ここに生きている自分の体の意味が変わってきます。そのことを、よく考えなさい。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい」(11節)。そのことを、よく考えてごらんなさい。あなたの体は、誰のものなのか。あなたは、誰のために生きるのか。何のために生きるのか。そのことを、よく考えてごらんなさい。そこからすべてが始まるのです。
■ハイデルベルク信仰問答という、たいへん麗しい信仰の書物があります。この信仰問答は三部構成になっていて、第一部は「人間のみじめさについて」。罪の奴隷になっていた人間が、どんなにみじめなところに落ち込んでいたか。第二部は「人間の救いについて」。そんな人間を、神がどんなに確かな仕方で救ってくださったか。そして第三部のタイトルが「感謝について」。神に救われた私どもの生活、神が私どもに与えてくださった新しい生活は、〈感謝〉の生活である。私は思うのですが、この信仰問答が〈感謝〉というひと言で私どもの生活を言い表してくれたことは、けだし金言だと思います。金にもまさる貴い表現だと思います。今朝の説教も、結局は〈感謝〉というこのひと言を心に刻んでいただければ、それだけで十分かもしれないと思うほどです。
感謝というのは、言い換えれば、もうわたしはひとりで生きるのではない、ということです。感謝には、必ず相手がいます。この体を救ってくださった、神を相手にする生活です。しかし考えてみますと、罪から救われた人間の新しい生活について、別の表現を使ってみることだって、あるいは可能であったかもしれません。「再出発」とか、「立ち直り」とか、「犯罪者の更生」とか、けれども問題は、実際にはそんなことはできないということです。ひとりで立ち直るのではありません。ひとりで再出発するのではありません。これからは、神に対する感謝の生活をする。そもそも、人間の悲惨というのは、この感謝の相手を見失ったところに始まるのです。
先ほど創世記第3章の最初の部分を読みました。多くの人が、この不思議な聖書の物語を思い起こします。最初の人アダムとエバが(もっとも新しい聖書協会共同訳は、アダムという人名をほぼ完全に消してしまったのですが)、最初の罪を犯した。しかしこの話は、特に現代人にとって、と言ってもよいと思いますが、決してわかりやすい話ではないと思います。蛇にそそのかされて、「これだけは食べてはいけない」と言われていた木の実を食べた。そうやって神に背いた。それで人間は死を招いたのだ、すべての人間にこのアダムの原罪が受け継がれているのだと教えられるのですが、そんなこと言われても困る、というのが常識的な感想だと思います。
悪魔が、蛇の姿で女を誘惑したというのですが、何と言って罪に誘ったかというと、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となる」。ここがまずわかりにくい。特に現代人にとってわかりにくいと思います。神のように善悪を知るようになって、何が悪いのでしょうか。むしろすばらしいことではないでしょうか。けれども今、私どもの生活の有様を静かに顧みてみると、このいかにも古代人らしい、おとぎ話でしかないような物語が、無限の深みを持っていることに気づかされます。人間が罪を犯した、その最初の罪は、善悪の判断をするようになったことだ。ただしその善悪の判断は、神の支配を退けることによってする善悪の判断です。神に代わって、俺が善悪の判断をするんだ。その最初に、蛇の誘惑があったのです。「あなたは神の支配がなくても生きていけるんですよ。あなたが神になればいいじゃないですか。あなたが善悪を判断すればいいじゃないですか。この木の実を食べたら、それができるようになりますよ」。それで今に至るまで、それぞれの人が、その人だけの善悪の判断をして、またそれぞれの国が、その国だけの善悪の判断をして、その結果、流れるべきでない血が流れ続けています。死ぬべきでない命が殺されています。
神の支配を退けた人間は、神にも悪魔にも支配されない、自主独立の人間になるのではありません。わたしは罪の支配も受けない、神の支配も受けない、自分のことは自分で判断するんだ。本当は現代人に限らず、アダムとエバ以来、すべての人間がそういう生き方を選び取ってきてしまっているのですが、しかし本当は、神の奴隷にも罪の奴隷にもならないなんてことはできないのです。神の支配を退けたら、ただちに罪の奴隷になるしかない。
■パウロは、そういう人間のみじめさをよく知っていたと思います。だからこそパウロは決して、「もう罪を犯さないようにしなさい」とは言わないのです。自分ひとりで罪を犯さないように頑張ったって、そうはいきません。せいぜい新しいファリサイ派がもうひとり生まれるだけです。そうではなくて、「神に帰れ」。「あなたの体を、死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい」。そのパウロの言葉は、創世記第3章9節で、神が最初の人に呼びかけられた、あの悲しいほどの言葉と重なるものがあるかもしれません。「どこにいるのか」。「人よ、あなたはどこにいるのか」。わたしがあなたを救う。あなたの体を、わたしが救う。だから、帰っておいで。「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げなさい」。
「人よ、あなたはどこにいるのか」。その神の心は、主イエス・キリストというお方を通して、私どもに決定的に示されました。神は、私どもを愛しておられるのです。私どものこの体を、神はどうしてもお救いになりたかったのです。その神の心を受け取ることができたら、そこに必ず生まれる、私どもの感謝の生活です。その感謝の中で、もう一度最初に読んだ14節に戻ることができます。「罪があなたがたを支配することはありません」。もちろん、私どもはこれからも、無数の罪を犯し続けることでしょう。それでも、いつも神の呼び声を聞いているならば、「人よ、あなたはどこにいるのか」と呼びかけてくださる神の声に答えることができるなら、もう私どもは「罪がわたしの支配者です」とは言えなくなるのです。「神よ、わたしの支配者は罪ではありません。あなたこそ、わたしの主です」。私どもにできることは、僅かであるかもしれません。それでも私どもは、神に愛されているので、私どもは神を愛しているので、だからこそまた神に感謝しているので、その感謝に根ざす生活を新しく始めないわけにはいかないのです。
2025年が終わり、また新しい年が始まろうとしています。新年の抱負なんてことを言ってみたって、どうせ三日坊主だろうというのが、正直なところかもしれません。けれども今、自分自身の体を見つめながら、この体を神が救ってくださったのだ、このわたしの体が神に愛されているのだと確信することができるなら、ひと言「感謝」と、新しい生活の志を神の前に献げることができると思います。皆さんひとりひとりの新しい歩みの上に、心より祝福を祈ります。お祈りをいたします。
日々罪を犯し続ける毎日です。聖書の言葉を読みながら、むしろかえって絶望しそうになります。だからこそ、あなたの声を明確に聴き取ることができますように。「人よ、あなたはどこにいるのか」と、あなたの愛の呼び声に、今確かな思いでお答えすることができますように。私どもの全身全霊を、あなたに対する感謝の道具として、献げさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン







