見よ、あなたの王が
マタイによる福音書 第2章1-12節
マタイによる福音書 第21章1-11節
川崎 公平

クリスマス讃美礼拝
■聖書の言葉をふたつ読みました。ひとつはたいへん典型的な、有名なクリスマスの物語と、もうひとつは、「なんで、こんな話を読むんだろう」とお感じになったかもしれません。しかしこのような物語を書いたマタイという人は、このふたつの話はひとつの話である。ひとりのお方のひとつの物語であると信じて書いたと思います。
最初の物語は、東の国の博士たちが星に導かれて幼子イエスに出会い、これを礼拝したという話です。こういう話を聞きながら、懐かしい思いに誘われる人も少なくないと思います。子どもの頃、クリスマスの劇で博士の役をやらされたな。こういうせりふを口にした記憶のある方も、あるいはいらっしゃるかもしれません。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。
長い旅をしてきた東の国の博士たちが、遂にエルサレムという大きな都に着いた。そこで開口一番尋ねたことは、このことでした。「あなたがたの王はどこにおられますか」。考えてみると博士たちはずいぶん不思議な旅をしたものだと思いますが、なぜ博士たちがこのような旅をしたのか、その動機はただひとつ、「王に会いたい。わたしたちの王に拝謁したい」ということであったのです。
博士たちは遂に幼子イエスに出会い、黄金、乳香、没薬を献げてこれを礼拝し、喜びに溢れて、そしてまた自分たちの国へ帰って行きました。しかしよく考えてみると、そこで話が終わるはずはない。もしこの幼子が本当に王であるならば、それだけで話が終わるわけはないのです。そのあと、どうなったんだろう。そこで、第21章です。博士たちの拝んだ幼子イエスが、30年以上たって、大人になって、今度はイエスさまご本人が都エルサレムを訪ねます。小さなろばに乗って、そのろばの調達の仕方もたいへん興味深いのですが、ここでその話を延々としている時間はありません。神さまが計画通りに事を進められたということでしょう。神は計画通りに何をなさったのでしょう。こう書いてあります。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
へりくだって、ろばに乗り
荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(5節)。
「見よ、あなたの王が、あなたのところにおいでになったのだ」と書いてあります。あの博士たちが拝んだ王が、今はこのように、あなたのところに来られたのだ。それを見て、最後のところにこう書いてあります。
イエスがエルサレムに入られると、都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ。群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った(10、11節)。
「イエスがエルサレムに入られると、都中の人が騒いだ」というのです。「一体、これはどういう人だ」。かつて同じ都に東の国の博士たちが現れて、「新しい王さまはどこにお生まれになりましたか」と言ったときにも、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた」と書いてあります。のみならず、「エルサレムの人々も皆、同様であった」と書いてあります。そしていよいよそのお方、主イエスご本人がエルサレムに入られると、再び都中の人が、「一体、これはどういう人だ」と言って騒いだ、というのです。
■なぜ騒ぎになったのでしょうか。東の国の博士たちがエルサレムに着いたとき、なぜヘロデ王は不安を抱いたのでしょうか。エルサレムの人々も皆、同じように不安を抱いたというのですが、しかし誰よりも新しい王の誕生の知らせに怯えたのは、ヘロデ王であったと思います。なぜかと言うと、自分が王だったからです。それなのに、新しい王が生まれたと聞かされて、ヘロデはひどく不安になり、また非常に恐れ……それこそこのヘロデについては話の続きがありまして、遂にヘロデは新しい王の存在を許すことができず、ベツレヘムとその周辺に住む2歳以下の男の子を皆殺しにしました。村中に、母親たちの叫び声が満ちました。いくら何でも頭がおかしいとしか言いようがないのですが、しかしよく考えてみれば、同じくらい追い詰められたかのように見える権力者の姿を私どもの周りに見つけることは難しくないし、いみじくも聖書が注意深く書いているように、不安を抱いたのは、エルサレムの人々も皆、同様であった。実はヘロデだけではなかったんで、私どもひとりひとりにも、ヘロデ的な何かがありはしないかと、そのことを聖書は問いかけているのではないかと思います。
■しかし本当は、ヘロデは何も怖がる必要なんかなかったのです。小さな村のはずれに、小さな赤ちゃんが生まれただけです。このお方は、宮殿に生まれたのでもない。お城に生まれたのでもない。先ほど歌った讃美歌103番の最後にも、「まぶね」という言葉が出てきました。クリスマスの讃美歌を歌っていると、この「まぶね」という言葉が頻繁に出てくるわけですが、まぶねっていったい何だ。「馬の槽(ふね)」と書いて、家畜の餌箱のことです。このお方は、神のみ旨に従って、馬小屋にお生まれになった。まぶねに産み落とされた。その神のみ旨をなおはっきりさせているのが、先ほど読みました第21章の5節です。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
へりくだって、ろばに乗り
荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(5節)。
「見よ、あなたのために、こういう王がおいでになったのだ」。「へりくだって、ろばに乗り」。王なのに、戦車に乗るのでもない、サラブレッドのような大きな馬に乗るわけでもない。何の武器も持っていない。誰のことも傷つけない、もちろん誰のことも殺さない。そのことをはっきりさせるために、ろばにお乗りになったのです。「そんな王さまが何の役に立ちますか」。「そんな王さまが、有事の際に何の役に立ちますか」と人は言うかもしれません。そして事実、人びとはこのイエスを、まさしくこのエルサレムで、十字架につけて殺してしまいます。「こんな王が何の役に立つか」。ところが神は、このイエスを死人の中から復活させられました。そして私どもはもう一度、このお方の前で、神に対する態度を問われなければならないのです。「見よ、あなたの王が、ここにおいでになったのだ」。
■実を言うと、主イエスはそのご生涯の中でただの一度も、「わたしは王だ」とはおっしゃいませんでした。「わたしが王なのだから、わたしを拝め」と言われたことは一度もない。けれどもこのお方が繰り返し口になさったことは、「神の国」という表現です。「神の国は来た」。それは、聖書の元の言葉をもう少し丁寧に訳せば、「神の王国が来た」、神があなたの王としておいでになったのだ。
先ほど、ご一緒に〈主の祈り〉という祈りをご一緒に祈りました。主イエス・キリストが、祈るときにはこう言いなさいと教えてくださった祈りの中で、「み国が来ますように」と言われます。「神よ、あなたの王としてのご支配が来ますように」ということです。「神よ、あなたこそ王です」、そういう祈りをあなたはしなさい、と主イエスは私どもに教えてくださいました。けれども、それが実は私どもにはいちばん難しい祈りなのです。
ある牧師が、主の祈りというのは、われわれにとっていちばん祈りにくい祈りだと言いました。われわれ人間の本能に、真っ向から逆らってくるような祈りだ。もしも、仮に、こういう祈りをイエスさまが教えてくださっていたら、もっとなじみやすかっただろう。そう言って、主の祈りをこう言い換えていくのです。
わたしの名を憶えてください。
わたしの縄張りが大きくなりますように。
わたしの願いが実現しますように。
ヘロデだけではないのです。どこぞの悪そうな独裁者のことだけを考えていたら、本当のことはわかりません。わたしの話です。神のご支配がここに来ることよりも、私の縄張りが広がることの方が大事です。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえと祈るよりも、自分の願いの実現することをのみ願うような私どもだからこそ、自分に罪を犯したあの人のこと、この人のことは一生忘れないくせに、「神よ、わたしの罪を赦してください」という祈りが、なかなか本当のものにならないのです。
けれども、本当は、私どもも気づいているのです。「わたしの名誉が、わたしの縄張りが」、それは確かに私どものほんねであるかもしれないけれども、それは決して、人間が人間らしく生きる道ではない。人間が人間ではなく、化け物になる道でしかない。ヘロデというのは、そういう化け物のような人間の代表者でしかなかったのですが、そんな人間のために、そんな私どものためにお生まれになったイエス・キリストを、東の国の博士たちはひれ伏して拝みました。「あなたこそ、わたしたちの王」。
もし私どもがあの博士たちのように、このお方を礼拝する生活を始めることができれば、きっと私どもも化け物ではなく、まともな人間になることができると思います。ぜひ皆さんもご一緒に、王イエス・キリストのご支配のもとに立つことがおできになりますように。お祈りをいたします。
主イエスよ、あなたこそわたしの王、私どものまことの王です。今、心から悔い改めて、あなたのご支配を受け入れる者とさせてください。わたしの名誉が、わたしの縄張りが、わたしの願いが、と言いながら、いつの間にか人間が人間でなくなってしまっているこの世界の有様を、あなたは今どのようにご覧になっていることでしょうか。あの東の国の博士たちは、その意味で、この世界の望みであると思います。同じところに、共に立たせてください。感謝し、主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン






