友のために命を捨つ
ヨハネによる福音書 第15章9-17節
嶋貫 佐地子

主日礼拝
「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。」(15:12-14)
少し、長くお読みいたしましたが、主イエスが弟子たちへの別れの言葉の中で、たくさんの愛の言葉を与えてくださいました。その中でも、たいへんに心に残る言葉をお読みいたしました。主イエスが私どものことを「友」と、呼んでくださいました。「あなたがたは私の友である。」
この言葉はたいへんに多くの人たちを慰め、そして励ましてまいりました。いや自分もそうだという方も、ここにはたくさんいらっしゃるのではないかと思います。
主イエスはわが「友」。
そんな、畏れ多い。もったいないと、私どもは考えてしまいます。でも、主イエスのほうはそうはお考えにならないで「私はあなたがたを友と呼んだ」(15:15)とも言ってくださいました。
友というのは、あの、一緒にブランコに乗ったり、夕方おそくまで、遊び疲れるほど遊んだり、思春期になれば、何でも打ち明け合い、いわば肩を並べる存在であって、お互いに知らないことはないくらいに、なにかを言わなくても何を考えているかわかる。そういう存在がいたら、それはまさしく友ですし、でもそういう存在がいなくたって、主イエスのほうは、あなたは「私の友」だと言われる。私どもの「主」であるお方が、そうして「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない」(15:15)、なぜなら「僕は主人がしていることを知らないからである」と言ってくださいました。
僕というのは、主人が何をしているか知りませんし、主人が何を考えているか、僕のほうから尋ねることも許されません。でも主イエスは、私はあなたがたに「父から聞いたことをすべて知らせたから」(15:15)と、そう言ってくださいました。
主イエスがある意味、打ち明けてくださって、父から聞いたことをすべて、私どもに知らせてくださって。もう僕のように何にも知らないというのではなく、もっと近くで、「友」として、あなたがたは、私が打ち明けたことを「もう知っている」と。「私の友」は、もう知っている。
そしてそれはどういう友か、というと…、と主イエスが話してくださいました。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。
そのことを、十字架を目の前にして、主イエスが言ってくださいました。そうして実際に、命を捨ててくださいました。最大の愛をもって、友でいてくださいました。
でもそればかりでなく、主イエスはあなたがたも、そのような愛に生きることができるのだと言ってくださいました。「互いに」、お互いにあなたがたもそうやって生きることができる。
この「友のために」と、主が言われました時に、ほんとうはその前に、訳されておりませんが、「人が」と、言われています。「人が、友のために」というと「誰かが」ということになって、「誰かが、友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と主イエスが言われて。それはもちろん、御自身のことを言われたのですけれども、主イエスが「よい羊飼い」の話をされた時にも、「私は羊のために命を捨てる」(10:11,15,17,18)と、何度もおっしゃいました。
でもそれを主イエスが「人が」とわざわざ言ってくださって、「人が」、「誰かが」と、主イエスが私どもをそこに入れてくださって、私どももそのような似たような愛に生きることができると、召してくださっている。
愛するということを、軽々しく言うことはできません。そんなことはよくわかっているのが、私どもだと思います。よくわかっていながら、でも本当はよくわかっていないかもしれません。愛せない。ということが起こります。これが、愛なのかわからない。愛しているのかわからない。でも、ここで重要なのは、主イエスがこう言われていることです。
「私があなたがたを任命したのである」(15:16)。
主イエスが愛のために、
「私が」あなたがたを「任命した」。
「私の友として」あなたがたを任命した。
これは困ったなと。これは単に「友だちになれ」ということじゃなく、なんとなく子どもの頃に、土手の上から誰かが降りてきて「友だちになれ」と言われてガっと捕まえられて、ついてこい。というんじゃなく、そうじゃなくて、「任命」。神である主の任命なのです。もう一方的にそうなったのです。主が「私はあなたがたを友と呼んだ」と言われた時点で、もうそうなっている。とするとそれには使命があるわけです。
ついてこい、ってことかもしれません。
ただし、この先はついてこれない。十字架にはあなたがたはついてこれない。
けれども、
この愛に生きるように、この愛が実を結ぶようにと、私が、あなたがたを、私の「友」として、任命した。私どもは主がそこに行かれるのを、そこに向かってゆかれるのを見ながら、愛とは、こうやって愛するんだと、言われているみたいなのです。
私のことで申し訳ないですけれども、主イエスが「友」と言われたことを、思い出す場面があります。私が子どものころでしたけれど、もう何年も長いあいだのように思われるほど、つらい日々がありました。兄から、いじめられていたと、言葉にすると強いですが、本人はきっと今はそうだったか?と言うと思いますし、今はとても仲がいいと笑って言えますが、でも当時の私にしたら、毎日がつらかったのです。今考えますと、兄にも理由があって、大好きな父が亡くなって、母も毎日働きづめで、兄もつらかったと思います。でもあっち行けとか怒られたりとかでしたが、そんなことがつら過ぎて、誰にも相談できませんでした。自分は憎まれているんじゃないかと思いました。誰かに憎まれるということは耐え難いことですが、それが兄だったので、とても悲しくなり、その毎日が小さな世界のすべてに思われました。
そしてある日の夕方に、家に一人でいる時に、ふと考えたんです。「もし自分が死んだらどうなるだろう。」
それはほんとうにこんなことを言ってはなんですが、兄のことを思ったんです。兄のためには、自分はいないほうがいいんじゃないかって。そのほうが兄は幸せなんじゃないかって、本気で思い、それで自分のお葬式を想像してみました。お葬式にはいろんな人が来ていて、母もいて、でもそうしたら、その一番奥で、小さな兄が泣いていたんです。ひじに顔をあてて泣いていたんです。
そのときに、ハッとなりました。怖くなりました。怖くなったというのは、自分がまさかの仕返しみたいなことを考えたことです。それも自分の命を使って。たぶん初めて、罪というものを知った瞬間だったと思います。
そうしたら、そのときに、イエスさまが
隣にいるのがわかりました。
ただ黙って。隣にいてくださいました。
夕方、肩を並べて、隣にいてくださいました。
私はじっと、黙っているしかありませんでした。
でも、その長い間、イエスさまは友でした。
何もスピリチュアルな特異な経験をしたという話ではなく、主イエスが共におられるというのが、そのときにわかりました。愛せない。本当は愛せない。自分のことも愛せない。そういう自分に、主イエスが私という罪の隣にいて、神様の前に、いっしょにいてくださいました。
「友のために命を捨つ」。というのは、
あれがその友だと思います。
真の友は、正してくれる人です。神様との間を正してくれる人です。
そして「友」とされた者は、
この友の献身を知っている。何において、自分が「友」とされたかを知っている。
だからここで言われているのは、その主イエスの愛についてであって、その主イエスの愛が、私どもを愛に定めています。
主イエスの「任命」というのは、そういうご自分の愛に立ってのことであって、主イエスの任命なのですから、この主イエスが共にいて、力を与えてくださいます。だから私どもは愛せる者になるのであって、主イエスがぶどうの木のところで「あなたがたは私を離れては何もできない」(15:5)と、言われたとおり、この愛にとどまっていればいいんだ。ここから離れなきゃいいんだ。
「友のために命を捨てる」。その「捨てる」というのは、ほんとうは「置く」という意味です。自分の命を「置く」のです。どこに置くのでしょう。
主イエスがご自分の命を十字架に置かれた。
その愛に、自分を置く。
置き続ける。
そういう意味で、自分を「捨てる」のです。
そして不思議にもそれと同じ言葉で、主イエスが「任命した」と言われているのです。「捨てる」というのと「任命する」というのはじつは同じ言葉なんですね。それで主イエスが「任命した」。主イエスが私どもを「置かれた」。どこに「置かれた」のでしょうか。それはもちろんご自分の「友」というところに、「私の友」というところに私どもを置いてくださって、これは私の友だと言いながら、そしてそのままで、主イエスが私どもを、遣わされるのではないでしょうか。私どもをそれぞれの「場所」へと遣わして、「この人は私の友だ」と、くっついて離れない「私の友」だと、主がそこに「置いて」くださる。この愛にとどまったままで、この愛から離れないで、「あなたがたが行って実を結ぶように」(15:16)と、主イエスが祈って、そこに「置いて」くださっているのです。
もろい人間の愛ですけれど、弱い人間同士の愛ですけれど、そこに
この友の愛があるのです。
本日は洗礼入会式が行われました。洗礼を受けるということは、主イエスの「友」になること。あの雫がつたったとき、主イエスから「私の友」、と呼ばれること。「私の友」と「任命」されることです。
生涯、主イエスの「友」として、このお方の愛の中にいて、イエスさまならどうなさるかな?と、こんなとき、イエスさまならどうなさるかな?と、真の友のお声を聴きながら、喜んで前に進みたいと思います。
天の父なる神様
「私の友」と呼んでくださる主の「友」で、ずっといさせてください。
主の御名によって祈ります。 アーメン









