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自分らしさってなんだ?

2025年11月9日

マタイによる福音書 第25章14-30節
柳沼 大輝

主日礼拝

 

 

本日の説教題を「自分らしさってなんだ?」と付けました。ここで改めて、皆さんに問います。自分らしさっていったい何でしょうか。多くの者が自分らしさは人と比べるものではない。あなたに与えられている特性、強みが自分らしさなのだと答えるでありましょう。実際、書店に行けば、そのような書名の本は平積みにされていますし、一世代前には「ナンバーワンよりオンリーワン」だと歌った曲が一世を風靡しました。

しかしどうでしょうか。そういった意見がある一方で「そんなのは所詮、綺麗ごとに過ぎない」と言う者たちがいます。「オンリーワン、それは素晴らしい」。けれど、それだけじゃやっていけいけないだろう。この厳しい競争社会のなかでは生きていけないだろうと言うのです。そんな甘いことを言っていたらすぐに周りに追い越されていってしまう。だから、ナンバーワンじゃなきゃ駄目なのだ。少しでも、上を目指さなくちゃ駄目なのだ。そういって焦燥感を煽るような声が、私たちの周りには溢れかえっています。

これらの声は冷たく厳しいように聞こえます。しかし私たちのなかにもこのように誰かと自分を比べて、ナンバーワンとはいかなくとも少しでも自分の方ができる存在でありたいという思いはあるでしょう。「人と自分を比べなくていい。あなたは大切な存在なのだ。もうすでにオンリーワンなのだ。そのままで素晴らしいのだ」なんて誰かに言われたら、そのときは一時的に安心するかもしれませんが、いざ社会に出たら、その言葉だけでは、到底、生きていくことなどできないのであります。私たちはまったく人と自分を比べずに生きていくことなどできません。たとえ意識していなかったとしても私たちは絶えず他者との比較のなかで生きているのです。

それでは、そのような他者と自分を比べながら生きる社会のなかにあって、私たちの自分らしさとは何でありましょうか。本日はそのことを聖書の御言葉から、共に聴きたいのであります。

ある日、主イエスは、弟子たちに向かって次のようなたとえをお話になられました。「天の国」のたとえです。ある金持ちの主人が旅に出るとき、三人の僕たちを呼んで、それぞれの力に応じて、自分の財産をお預けになりました。ある者には、五タラントン、ある者には、二タラントン、もう一人の者には一タラントンを託して、旅に出たのであります。

そこで、五タラントンを預かった者は、それを持って行って商売をして、主人が帰るまでにあと五タラントンを儲けました。それから、二タラントンを預けられた者もやはり商売をして、さらに新しく二タラントンを儲けました。

しかし一タラントンを預けられた者はどうか。彼は、出て行って商売はしませんでした。それを土の中に隠しておいたのであります。そして主人が帰って来たときに、それをそのままあなたから預かったお金はここにあります、と言って示したというのです。そうすると、主人は激しく怒って、彼をこの屋敷から暗闇のなかへ追放したと言うのであります。そして主人はただ土の中に埋めるくらいなら、どうして銀行に預けなかったのか、とこう言うのです。そうすれば、少しでも利子が付いたではないかと。つまり主人は多少なりとも預けられたお金を働かせることを、この僕に期待したのであります。

ここで主人と言われているのは、神様であって、僕とは私たち人間のことを指しています。つまり、神は私たち一人ひとりにそれぞれの力に応じて自分の財産であるはずの「タラントン」を預けてくださっている。「タラントン」というのは当時のお金の単位でありますが、日本円に換算しますと、一タラントンはおおよそ10億円であります。それほどの大金を、教会の言葉で言えば「賜物」を、神は私たち一人ひとりに預けてくださっている。それを恐れずにもちいなさいと言っている。このことがこのたとえが語ろうとしている一つのメッセージであります。

ある聖書の解説書は、この箇所についてさらにこのように言っています。この最後の僕は、前の二人の僕と自分を比べたのではないかと言うのです。二タラントンを預けられた者と比べたら、自分のタラントンはその半分ではないか、五タラントンを預けられた者と比べたら、自分の一タラントンなど取るに足らないではないか、意味などないではないかと思って、この僕は自分に預けられている一タラントンを、その賜物をすねて土の中に埋めてしまったと言うのです。つまり、人と自分を比べる必要などない。この一タラントンを預けられた者には、その者にしかできない働きがあったのではないか。それこそ、オンリーワンの働きがあるのではないと言うのであります。

もちろん、この解説書が言わんとしていることは、間違いないでありましょう。それほど大きくズレてはいないでしょう。しかし主イエスがこのたとえを通して、私たちに伝えたいメッセージはこれだけなのでしょうか。

少し考えたら、誰もが感じることでありますが、この一タラントンを預けられた僕に他の二人と自分を比べるな、と言ったって、それは比べるに決まっているでありましょう。それがむしろ同じ主人に仕える近しい者同士であったならば、尚更であります。どうしてあいつはあんなにたくさん任されているのに自分はこれだけしか与えられていないのだろう、自分はあいつより駄目なのか、自分の存在は意味がないのかと思ったって、そうやってひがんだって、すねたって、そんなの仕方がないではありませんか。

この「タラントンのたとえ」を昨年の教会学校の夏期学校の主題としました。教会学校では、毎年、その夏期学校の準備のなかで主題聖句である聖書の箇所の学びをします。そこで昨年の学びのなかである方がこのように言いました。

「この主人はどうしてこの三人の僕に同じだけのタラントンをお預けにならなかったのだろう。それか一目、見てすぐにその額の違いが分かってしまわないように、それぞれに何か違う、別のものをお預けになったらよかったのに。そうすればこの一タラントンを預けられた者だって喜んでそれを使っただろうに。私たちだってもっと素直にこの御言葉に聴くことができるのに」。

たしかにそれぞれの力に応じて、何か別のものを預けていれば、最後の僕も、そこで預けられた「賜物」を十分にもちいて働くことができたかもしれません。それにこの箇所の並行記事である、ルカによる福音書第19章11節以下に記される「ムナのたとえ」では、主人は僕たちそれぞれに同じ額のお金、一ムナを預けられています。

それではどうしてこの「タラントンのたとえ」では、そうではないのでしょうか。わざわざ違う額のお金を、そしてすぐに額を比較できるような同じ単位のお金をお預けになったのでしょうか。

それは、主イエスが私たち人間は他者と自分を比べなくては生きていけないということを重々承知していたからではないでしょうか。いくら私たちが他者と比べることのできない何か特別なものを祈り願ったとしても、いま、私たちの手にあるものは、どれこれも、他者と比較可能なものばかりであります。「健康」や「知性」、「経済力」や「環境」、それらのものを人と比べては、自分は運がない、あの人より恵まれていないと嘆いたり、悲しくなったり、それこそ、不公平だとすねたりするのではないでしょうか。

そのような人間の現実を知ったうえで、主イエスはこのたとえを弟子たちに向かってお語りになるのであります。その意味では一タラントンを預けられたこの僕がはまってしまった落とし穴は、他者と自分のタラントンを比べたということだけではどうもないようであります。ここでこの僕がしてしまった間違いはいったい何か。それは自分にこの一タラントンを預けてくださっている「主人」がどのようなお方であるかということを見誤ったということであります。

僕は、主人に言います。

「ご主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出て行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」(24-25節)。

ここで言われている「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」という表現は、当時、民衆からなかば強引に、無理やり税金を取り立てていた「徴税人」に向けて使われた言葉だと言われています。つまりこの僕は、自分の主人をそのような方として理解したのであります。他者とその者を比較し、この者はどれだけお金を出すことができるのかと評価するような方として、お金を払う力がなければ、生きる意味などない存在であると判断するような方として、まるでその者の能力でその者の価値をはかるような、その者の行動ですべてをジャッチするような方として、この僕は自分の主人のことを理解していたのであります。

もしそうであるならば、主人から一タラントンを預けられたとき、この僕がどれだけ恐ろしかったか想像することができるでありましょう。このお金はけっして減らしてはいけない。もし減らしてしまったならば、お前は使えない存在だと言われてしまう。価値がない存在だと見捨てられてしまう。それに人の価値をその者の能力で評価するような主人から自分は他の二人よりも少ないタラントンしか預けられていないと知ったならば、自分は所詮、主人に信用されていないと、あてにされていないと、そのように感じたってしょうがないでありましょう。だから彼は臆病になって、悲しくなって、そのお金を土の中に埋めて隠したのであります。

しかし僕たちに自分の財産であるタラントンをお預けになった主人の思いは、徴税人のように冷たく厳しいものであったのでしょうか。先ほど、すでに述べたようにこの主人は神であります。その神が僕である人間に向ける思いは、その眼差しは、人をその能力で評価するような冷たい心ではありません。神が人間に向けられる心、それは他でもない「愛」であります。

私が神学生のときの話です。私はときに他人と自分を比べてはどこかで臆病になっていました。私は生まれつき弱視で目がよく見えません。普段はそのことについて、それほど気にするといったことはないのですが、何か作業をするとき、周りの人よりもできないことがあるとき、ふと周りと自分を比べて、悲しくなることがあります。どうしてあの人は自分よりも多くのものを与えられているだろう。逆にどうして自分にはそれが与えられていないのだろう。自分は人より能力がない、価値がない存在であると、それこそすねて臆病になっていました。

よく「弱さ」や「傷」、ときに「病」、あるいは「障碍」さえもその人の持つ個性なのだ、強みなのだ、オンリーワンの特性なのだと言う人がいます。しかし私にはそんな言葉は、所詮、綺麗ごとにしか聞こえませんでした。それは弱さを知らない強い人が言っている言葉だと思っていました。その弱さによって、その人がどれだけ苦しんでいるか、いや苦しんできたか分からない、そのような無神経な人が言っている言葉だと思っていました。そうやって悶々としながら、どうして自分にはあの人と同じような力が与えられていないのだろうか、自分らしさっていったい何か、その答えをずっと探し続けていました。

そんなとき、参加したある神学生たちの集会で次の聖書の箇所が読まれました。

「私たちは、神が私たちに抱いておられる愛を知り、信じています。神は愛です。愛の内にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」(ヨハネ一4:16)。

この神の言葉を聴いたとき、不思議と涙が溢れて止まりませんでした。自分はずっと神というお方を誤解していたのだと、気づかされました。神は、人間を何ができるか、できないかで評価されるような方ではない。そのために「賜物」を私たち一人ひとりに預けてくださるような方ではない。神は愛なのだ。神はただ愛をもって、この「弱さ」も、この「傷」も、この「痛み」さえ与えてくださっているのだ。この「苦しみ」も主はすべて知ってくださっているのだ。その神の愛を知ったとき、もはや自分の抱える「弱さ」は単なる「弱さ」ではなくなりました。そこに現わされる「神の業」を見ることができるようにされていきました。

主イエスが弟子たちに向けてこの「タラントンのたとえ」をお語りなった場面はどこか。それはエルサレムに入城し、いよいよ、十字架の死へと向かわれていくその途上であります。

本日の箇所の少し前にはこうあります。

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように」(20:28)。

私たちに自分の財産であるはずの「タラントン」を預けてくださる主人は、創造主なる神はこの世を愛し、人間を愛し、その者たちのために御子を遣わし、十字架でその御子の命さえ、惜しまず指し出してくださる愛の主であります。自ら、暗闇への道を歩み、そこで神に見捨てられる絶望を、その苦しみ(27:45-46)を、弱さを、身をもって味わってくださった神の子であります。

その「愛」そのものでしかない主人が僕たちに向ける思いはその者が何をしたか、できなかったかですべてを評価するような冷たい心ではないでありましょう。その主人である神が私たち人間に向けられる思いはただ一つであります。その命をもちいて精一杯、喜んで生きてほしい。そのために私は自らの命をもってあなたを贖ったのだ。あなたの罪を赦したのだ。だからあなたは生きよ。このことが、このたとえを通して、私たち人間に伝えたい主イエスのメッセージであります。

たとえのなかで主人は、最後の僕が預けられた一タラントンを一切もちいずに土の中に埋めて隠しておいたことを知って、激しく怒りました。しかしこの怒りの奥には、同時に主人の悲しみもあったのではないかと思うのです。どうして自分のことを信頼してくれないのだ。どうしてあなたに預けたこの大切なタラントンをもちいようとしないのだ。私のあなたへの愛を、あなたはどうして分かってくれないのだ。そのような神の深い悲しみがあったと思うのであります。

いま私たちに託されているこの「命」も、この「時間」も、この「人生」もそのすべてがイエス・キリストの十字架の赦しと復活の希望によって与えられている、いや、預けられている「賜物」であります。ときにそれを他者と比べて、相手のことを羨んだり、自分に与えられているものは、ほんの僅かしかないと悲しんだり、すねたりすることがあるかもしれません。しかしあなたにその「命」を与えるために主イエスは十字架で死んでくださったのです。そのようにして御子が自らの命を捧げてまで、愛をもって、与えてくださったその「賜物」を、人生という「賜物」を隠して、台無しにしてはいけないでありましょう。

主はあなたを生かすために自らの命を捨ててくださいました。その神の愛を知るとき、もはや私の人生は自分のものではなく、神に預けられている人生であるということに気づかされていきます。そこには人の目から見たら、けっして強さとは言えない弱さも、痛みも、ときには、重荷も含まれているでしょう。しかしそれらを背負って生きていくときに、主は必ず、それらを祝福し、良いものとしてもちいてくださるのです。すべて無駄だったということはけっしてないのです。

その神から預けられた「タラントン」を精一杯にこの地上の生涯においてもちいていくとき、主は、そうです。私たちにも語りかけてくださるでありましょう。「よくやった。良い忠実な僕だ」。「忠実」というのは、主に向かって心をまっすぐに向けて、主に信頼して生きていくということであります。私たちはそのように主に喜ばれる忠実な僕として、幸いな僕として生きていくことができるのです。主の十字架を見上げ、神の愛を知り、主に信頼し、喜んで歩んでいく。主を愛し、主が再び来られる日を待ち望み、信じて誠実に生きていく。そこでこそ、私たちはけっして揺らぐことのない、まことの「自分らしさ」を見出すことができるのであります。そういう人生に、私たちは今日も招かれ、生かされているのです。だから何も恐れる必要はありません。神の愛に抱かれて、またここから「安心して」この世へとそれぞれに遣わされて参りましょう。

 

 救い主なる主イエス・キリストの父なる御神、私たちは他者と自分を比べては弱さを覚えて、臆病になります。しかしあなたは愛ですから、私たちはもう恐れません。あなたの強さに信頼して生きる喜びをもって、いまあなたを愛し、あなたの御名を賛美いたします。ここに私たちのまことの喜びがあります。その喜びに今日も共々に生かされて、ここからまたそれぞれにあなたによって与えられた信仰の旅路を歩みます。どうか主よ、一人ひとりのその一足一足の歩みを守り導いてください。この心からの願い、主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン

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