私たちの誇りと喜び
ローマの信徒への手紙 第5章1-11節
川崎 公平

主日礼拝
■ローマの信徒への手紙第5章の1節から11節までを読みました。きっと誰もが感じることだろうと思いますが、この手紙を書いたパウロは、自分に与えられた喜びを爆発させるように物語っています。先週の礼拝でも紹介したことですが、竹森満佐一という説教者がこの箇所について説教しながら、「ここでパウロは、自分の信仰をぶつけるように書いている」と言いました。一方で聖書の語る福音というのは、筋が通ったものです。理屈の通らない話は、本当の救いにはならないのです。けれども、少なくともここでは、理屈を重ねていくというよりも、自分の中からあふれ出る喜びを、ぶつけるように、歌い上げるように語っています。
その喜びの中核に立つひとつの言葉が「誇り」であります。この段落の最後の11節に、「それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています」とありますし、既に2節にも3節にも同じ「誇り」という言葉が出てきます。「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています」。私には、私たちには、誇りがある。その誇りは、結局のところ、神さまだけだ。私たちの誇りは、私たちが誇るのは、神さまだけだ。そう言うのです。
今日の説教の題を「私たちの誇りと喜び」といたしました。「誇り」という言葉は何度も出てきますが、「喜び」という言葉はどこにもないようです。けれどもかつては「喜び」と訳されたものです。文語訳でも、そのあとの口語訳でも「神を喜ぶ」と訳されました。「神を喜ぶ」のと、「神を誇りとする」のと、どちらがいいでしょう、と聞かれても困るかもしれませんが、聖書のもとのギリシア語を辞書で引くと、何と言ってもまず「誇る」という意味が最初に書いてあります。そして、実は、あまりいい意味の言葉ではありません。ギリシア語の話なんかしなくたってなんとなくわかることで、日本語でも「誇る」という言葉は、「おごり高ぶる」、「思い上がる」、「自慢する」というように、必ずしもいい意味を持ちません。
そういう意味の「誇る」という言葉が、しかしまた「喜ぶ」と訳されることもあり得るというのは、不思議なことだと思いますが、よく考えてみると、本当はそんなに不思議なことでもないかもしれません。私どもの生活を冷静に振り返ってみても、誇りと喜びは、深く重なっています。品のない話で恐縮ですが、お金を喜ぶ人は、自分がお金持ちであることを誇りとするでしょう。自分が美人であることを喜んでいる人は、その美貌がまたその人の誇りになるのです。何かのはずみでそのお金が失われたり、年を取って美貌が損なわれたりしたら、喜びも誇りも損なわれるのです。
人間は、誇りがなければ生きていけないと申します。誇りと言って悪ければ、尊厳とか自尊心とか言い換えてみてもいいかもしれませんが、ここはやはり正直に、はっきりと「誇り」と言いましょう。「私の誇りは、これだ」。堂々と、そう言えることがなければ、人間は人間として生きていくこともできない。これは、本当にそうだと思います。しかし問題は、その人が何を喜んでいるのか。何を誇りとしているのか。パウロは「私の誇りは、神さまだけだ」と言うのです。
■「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです」。パウロは、この言葉を、万感を込めて書き記したと思います。自分の信仰をぶつけるように「私の誇りは、神さまだけだ。私の喜びも、神さまだけだ」。そう書いたと思うのです。
ローマの信徒への手紙は、伝道者パウロの最後の手紙であると言われます。もちろん、そのように意図して書いたわけではありません。「これが最後の手紙だから」と、特別に気合を入れて書いたわけでもない。もしパウロがもっと長生きしていたら、もっとたくさんの手紙を書いていたかもしれません。しかしそれにしても、ある程度の年数を信仰者として、伝道者として生きてきた上で、この手紙を書いたのであります。これまでの神の導きに感謝しながら、「私の誇りは、神さまだけだ」と、いつの間にかそのように証言できるようになった自分自身に驚きながら、この言葉を書いたと思います。
思えば、パウロほど誇り高い人間も、なかなかいなかったかもしれません。ローマの信徒への手紙はパウロの最後の手紙だと申しましたが、もしかしたら、もうひとつフィリピの信徒への手紙のほうがさらに新しい、最後の手紙であったかもしれません。その第3章4節以下に、パウロはこういうことを書いています。
とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。
よくわからない言葉がたくさん出てきたような気もしますが、その主旨はよくおわかりになると思います。パウロには、たくさんの誇りがありました。誰よりもたくさんの誇りがありました。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」。「これがあるから、わたしはわたしなんだ」。ところがその誇りが、神の手によって全部取られるということが起こりました。「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに」、かつて自分が誇りとしていたすべてのものが、一気に全部、屑になった。全部の誇りを奪われて、一切の尊厳を奪われて、廃人のようになったということではありません。いちばん大事な誇りだけが残りました。いちばん大事な喜びだけが残りました。「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに」とあります。私の誇りは、キリストだけだ。私の誇りは、神さまだけだ。
■このことと関連して、もうひとつこの段落における大切な主題は、「平和」ということです。まず1節に、「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています」と言います。私たちは神に義とされている。「義とされる」というのはちょっとわかりにくい表現ですが、それを言い換えて、「神との間に平和を得ている」と言います。神さまとの関係が平和の関係になっているから、何も争っていない、何もぎくしゃくしていないから、だから私は神を誇りとすることができている。この「神との間の平和」ということがひとつの主題となって、それがずっと続いていきます。たとえば9節では「キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」と言いますし、その次の10節では、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」とまで言います。私たちは、神の敵であった。神の怒りを招くような存在でしかなかった。ところがそんな私どもが和解させていただいて、神との間に平和を得ている、と言うのです。
「敵」だとか、「神の怒り」だとか、ずいぶん強烈な言葉です。そんなにわかりやすい話ではないかもしれません。神の敵って、いったい何だ。誰のことを言っているんだ。自分は、神さまと争った覚えなんかないので、敵とか和解とか言われても、身に覚えがないと、そう思われるかもしれません。けれどもここでパウロは、誰かほかの人を裁こうとして、こういう言葉を使ったのではありません。自分の話をしている。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で……」とやっていた自分は、結局神の敵でしかなかったのだ。そんな自分が、ただキリストの死によって、神と和解させていただいて、「私の誇りは、神さまだけだ」。このパウロの思いが、おわかりになるでしょうか。
■たいへん個人的な話をすることをお許しいただきたいと思いますが、私は最初に行っていた大学を卒業してすぐに神学校に行きました。その最初の大学の4年生の、11月の下旬までは、そのまま大学院に進むつもりで準備をしていました。今となっては言うのも恥ずかしいのですが、学者になりたかったんですね。そのあたりのことは、伝道開始100年の記念誌にも少し書きましたから、読んでくだされば幸いです。言語学とか、主にギリシア語を勉強していました。まあまあ勉強はできるほうだったと思いますが、いつも不安がありました。こんなことやってて、食いっぱぐれないかな。そんな悩みは、実は恥ずかしいことだとわかっていますから、誰にも相談できない。
そんな折に、大学4年生の11月の下旬に、当時出席していた教会の修養会がありました。当時東京神学大学の学長であった松永希久夫先生がいらっしゃって、その修養会の講演も心に残るものがありましたが、修養会のあとに、思いがけず松永先生から声をかけられました。「やあ、きみが川﨑くんか。ギリシア語をやっているんだって?」そう問われたとき、実は自分は、神の前に説明しにくいことをしているのだと思いました。「きみ、ギリシア語やってんだ。それで、いったい、きみは何をやっているんだ?」自分の中にあった漠然とした不安は、神を無視して生きる者の孤独でしかない。
義とされていない人間というのは、いや、正確に言えば既に義とされている、既に救われてはいるのだけれども、そのことを無視している。軽んじている。したがってそのために神との間に平和を得ていない人間というのは、どうしたってこういう類の不安の中に立つほかないのです。そして私は、少なくとも自分にとっては、学問の道は虚栄の道でしかないことが、実は最初からよくわかっていましたから、「もう一度、初心に帰ろう」。それで一週間祈って、牧師になろう、大学院に行くのはやめて、東京神学大学を受験しよう、ということは今日の話とは何の関係もないので、省略したいと思います。
■今の話は伝道開始100年記念誌にも書いたのですが、記念誌に書かなかった話があります。そんなことがあって、でも神学校に行こうなんてことはまだ誰にも言っていなかったときに、同じ教会の先輩にいきなり声をかけられて、「公平、なんか最近、顔つきが変わったね」。自分でもよくわかりました。「ああ、やっぱりそうか。顔つきが変わったか」。そのことを指摘されて、うれしかったというよりは、むしろその夜は眠れないくらい……傷ついたというのとも少し違う、なんだか泣きたくなりました。いったいこれまで、どんな顔して生きてきたんだろう。神との間に平和を得ている人間は、そういう顔つきになるでしょう。神の敵になっている人間は、やはりそういう顔つきになってしまうのです。そういうものだと思います。
先週から何度もご登場いただいている竹森満佐一先生ですが、別の説教の中でこういうことを言っておられます。人間というのは、何を希望しているか、何を望んでいるか、何を欲しがっているか、そのことによって生活が定まるものだ、と言うのです。「望むものによって、生活が定められることは分かりにくい、としても、何を欲するか、ということで人が変わる、人相までも変わる、ということなら、よく分かるはずであります。お金だけが欲しい人は、そういう顔付きになってしまうでありましょう。野心家は、それらしい顔付きになるにちがいありません。もしそうであるならば、望むものが変われば、生活も変わるはずであります」。この竹森満佐一という説教者は、ときどき、さらりと怖いことを言うな、と思います。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で」とやっている人間は、そういう顔つきになるでしょう。けれどもそんなパウロが、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに」、「今は、神を誇りとしています。私の誇りは、神さまだけです」。それもきっと顔つきに現れるでしょう。それをきっと4節では、「品格」という言葉で言い表しているのでしょう。
先週の礼拝では、特に3節から5節までを読みました。「そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。神を信じていたって、神に愛されていたって、苦しいことはいくらでも起こります。けれども、どんな苦難があったって、どんな忍耐を強いられることがあったって、神に愛されている人間は、独特の品格を持っているものだと思います。それこそ、また品のない話で恐縮ですが、どんな苦難があったって、その背後に10億円の預金通帳があれば、忍耐することができる、かもしれない。けれどもそういう人の忍耐から生まれる品格は、10億円に守られているような品格にしかならないでしょう。
パウロという人は、ある意味では10億円どころか、もっともっと価値があると思っていたものを、全部神さまに取られた。けれども、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに」、すべてが屑になりました。「私の誇りは、神さまだけです」。神に愛されている人間は、またそれなりの顔つきになるのであります。神に愛された人間の品格を宿す顔つきです。9月7日の説教で(それを先週配布した「雪ノ下通信」にも載せました)、神に愛された者の〈余裕〉という話をいたしましたが、そのことを思い起こしていただいてもよいと思います。神に愛されている者の余裕。神に愛されている者の品格。神に愛されている者の顔つきを、ここでパウロは、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」と言うのです。平和を得た者の顔つきであります。
■このような平和を得させるために、キリストは死んでくださった。私たちのために死んでくださったのだと、6節以下で丁寧に言葉を重ねていきます。
キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
ここではまだ「神の敵」という強烈な言葉は出てきません。「私たちがまだ弱かった頃」と、まだ比較的柔らかい表現で、パウロは読み手の心を引き込もうとしているのかもしれません。「あなたは、神の敵だ」なんて言われても困るという人も、「私たちはまだ弱かったんだ」と言われれば、なんとなくわかるんです。たとえばこのような言葉を読んでも、私は自分の幼稚だった時代を思い出します。確かに自分は弱かったと思います。弱いくせにやたらと強がって、でもそれは本当に弱かったのです。今日何度も引用しているフィリピの信徒への手紙第3章ですが、何年か前にこの場所で説教したことがありました。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人で」、どうだ、すごいだろう、とやっているパウロという人間は、「要するに、手すりがないと立てない人間だったのだ」と説き明かしたことがありました。私の誇りは、これと、これと、あれと、いや、まだまだたくさんあるぞ、とやっている人間は、実は手すりがないと歩くこともできない、弱い人間なんだ。きっと、私もそうだったのだろうと思います。大学生の頃も毎週教会には通っていましたが、月曜日から大学の授業が始まれば、もう神さまなんか信じちゃいないんです。だから弱いくせに強がったんです。強がっている人間というのは、実はただ手すりにしがみついているだけで、いちばんこわがりなんです。神との間に、平和を得ていないからです。ところがそんな不敬虔な者のために、キリストは死んでくださったではないか。そのことをよく考えてごらんなさい。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません(7節)。
よく考えてごらんなさい。あの人は正しい人だから、一から十まで完璧な人だから、だからあの人のためなら命も惜しくないなんて、誰もそんなこと考えませんよ。でも、善い人のためなら。あの人はわたしに善いことをしてくれたから、わたしの命の恩人だから、あの人のためなら死んでもいい、ということならあるかもしれない。ところが、よく考えてみてください。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです(8、9節)。
ここでは、「私たちが弱かった頃」とか、「不敬虔な者」とか、そういう生易しい表現は消えます。そりゃあ弱かったんだろう。そりゃあ不敬虔だったんだろう。ところがここでパウロは言うのです。本当はそんなこと言ってられないよ。あの頃は若かったんだとか、そんなの言い訳にならないよ。それは、あなたが罪人だということなんだ。はっきり言えば、あなたは神の怒りを招くような、神の敵でしかなかったんだ。ところがキリストは、敵でしかなかった私どもを愛して、命を捨ててくださったんだ。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
■主イエスは十字架につけられたとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、「神さま、見捨てないでください」と、悲痛な叫びを上げながら息を引き取られました。それはまさしく、キリストが神の敵として死なれたということです。神の敵だから、キリストは神に見捨てられたのです。どうしてそんなことが、と思うのですが、本当は私どもがその死を死ななければならなかったからです。
私どもは、日ごろさんざん神を無視して生きているくせに、ちょっと不幸なことがあったりすると、「神さまなんかいないんだ、神さまはわたしを見捨てたんだ」と、たいへん傲慢なことを申します。自分の方からは好きなだけ神を無視しているくせに、「神がわたしを見捨てるなんて、そんな」と、筋の通らないことをわれわれは考えるのですが、キリストが私どものために死んでくださったと聖書が言うのは、まさしくその私どもに代わって、神の敵としての立場を甘んじて受けてくださったということなのです。その上で、最後に10節以下でこう言います。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです(10、11節)。
「私の誇りは、私たちの誇りは、神さまだけだ」。その誇りというのは、傲慢、自慢とは無縁です。キリストの死によって和解させていただいた人間の誇りは、また特別な品格を生み、顔つきまで変わるかもしれません。「私は、この神を誇る。この神を喜ぶ」。ほかの何を誇ることができなくても、いやむしろ、他のいろんな手すりを捨てさせていただいて、私どもはこの誇りに生きる。それだけで、人間はすこやかに生きることができるのです。この品格の共同体、喜びと誇りの共同体・教会を、今新しく神のみ手にお返ししたいと心から願います。お祈りをいたします。
主イエス・キリストの父なる御神、今、私どもは、あなたのみ言葉を聴きました。私どもの喜びと誇りは、神さま、あなただけです。今そのように言うことができるようになるために、あなたの確かなみわざがありました。み子キリストの犠牲がありました。悔い改めつつ、捨てるべきものを捨てさせていただきながら、あなたの与えてくださる誇りと喜びに立つ者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン










