品格の人
ローマの信徒への手紙 第5章1-11節
川崎 公平

主日礼拝
このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを知っているからです。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(1-5節)。
たいへん力強い言葉です。無数の人びとを励ましてきた言葉です。しかしまた、あまりにも力強すぎて、かえって私どもを当惑させる言葉になるかもしれません。
ひとつ、この聖書の言葉を読んで心を捕らえられることは、ここに「品格」という言葉が出てくることです。なぜ特にこの言葉が気になるかというと、これまでの日本の聖書翻訳の歴史においては、ほとんどの場合「練達」と訳されてきたからです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というかつての名文を、今なおすらすらと暗誦できる人は決して少なくないでしょう。皆さんは、「品格」と「練達」と、どちらが好きですか、と質問なんかしてみても、あまり意味はないだろうと思います。品格にしても、練達にしても、言葉としては立派なのですが、立派すぎて、どうも自分のこととしてこの言葉を受け取ることができない。きっとそういう印象があるだろうと思います。
今日の説教の題を「品格の人」といたしました。また特に今回は、教会堂の前に掲示された説教題の字が、それこそ立派で、迫力があって、その前を通る人たちの姿を観察するのが、ちょっとおもしろかったです。「品格の人」という立派な字の前で、目もくれずに通り過ぎる人というのは、あまりいませんね。何だろう、これは、と看板をじろじろ見てくださる人のほうがずっと多い。ただ、こういうことはただおもしろがっているわけにもいかないので、「品格の人」、いったいそれは、どういう人のことだろう。この教会に出入りしている人たちは、いったいどんな立派な顔をしているんだろう。その教会の代表者としては、若干気後れしないわけでもありません。ならば、「品格の人」という立派な文字を「練達の人」と書き換えたら気後れせずに済むのかと言えば、別にそんなこともないのです。「品格の人」、「練達の人」、いったいそれは、どんな人のことだろう。もちろんこの手紙を書いたパウロは、わたしたちは皆そうなんだ、わたしたちは皆「品格の人」になるのだと信じて、この手紙を書きました。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとしています。なぜならば、わたしたちは知っているからです。苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを、わたしたちは知っているからです」。私どもも、この言葉がわからないでもないのです。自分のことはひとまず脇において、一般的な話としてはわかるのです。「苦難が忍耐を、忍耐が品格を」。「艱難汝を玉にす」などと申します。一方では、きっとそうなのでしょう。苦労は人間を大きく成長させます。苦労したことのない人は、馬鹿にされるのであります。けれども、私どもはもうひとつの現実を知っております。苦難が忍耐を生み、その忍耐の度が過ぎた場合、忍耐はいつしか無気力を生み、艱難が人間を玉にするどころか、その人の人間そのものがつぶれてしまうことだって、いくらでもあるのです。苦難の中で、遂に忍耐できずに、つぶれてしまった人のことを、私どもはたくさん知っています。いや、自分がそうだ。あるいは、自分がかつてそうだった。この聖書の言葉を、悲しい思いで、絶望的な思いで読まなければならない人というのは、いくらでもいるだろうと思うのです。
私自身、この「品格の人」という自分でつけた説教の題に、押しつぶされそうな思いにならなかったわけでもありません。自分に品格なんてあるのかな。それだけに、この手紙を書いたパウロの確信は、私どもを驚かせます。「わたしたちは、知っています」と言い切っています。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを、わたしたちは知っています。この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。
■皆さんの中で、どのくらいの割合の方が読んでくださったかなと思いますが……この教会に、聖書通読会という、集会でもないし団体でもないのですが、とにかくそういう名称の運動体があります。5年前の10月から始まって、毎年1年をかけて皆で聖書を通読してきました。この9月をもっていったん休会としますが、その先のことはよくわかりません。その聖書通読会で、昨年の10月から1年間、毎月2回、1日と15日に、いろんな方にご自分の愛誦聖句・愛唱讃美歌について語っていただきました。語ると言ってもどこかに集まってお話を聞くのではなくて、聖書通読会のライングループに原稿用紙2枚分くらいの文章を投稿していただいたということです。そのシリーズの最終回として、私も先週15日に、自分の愛唱讃美歌についての文章を書かせていただきました。愛唱讃美歌と言われても、無数にあるので正直なところかなり困ったのですが、今日の礼拝の最後に歌う304番について書きました。間違いなく私の愛唱讃美歌のひとつです。
この讃美歌を作ったのは、作詞も作曲も同じ人、17世紀のドイツのゲオルク・ノイマルクという人です。私どもの讃美歌にも1640年という数字がきちんと書いてありますが、その当時、30年戦争という、ヨーロッパ中を巻き込んだ、たいへん悲惨な戦いがありました。この戦争のために、特にドイツの人口は半分に減ったとさえ言われますから、ちょっと私ども日本人には想像しにくいほどのものがあるかもしれません。このノイマルクという人は、戦火を逃れて旅をしているところで強盗に襲われ、かろうじて命はとりとめたけれども、全財産を失い、しかも旅先ですから、ほとんど身寄りもない。けれども、思いがけないところから助けを得て、そこで生まれた讃美歌です。
1.真実(まこと)なるみかみを たのめるもののみ
岩の上に家をば 建てしひとのごと、
なやみのときにも 動くことなからん。
この讃美歌の背後にあるのは、詩編第55篇23節であるとされます。「あなたの重荷を主に委ねよ」。この言葉をまったく理解できない人というのはいないと思います。誰にでも重荷があるからです。ノイマルクと同じような経験をなさった方は、ここにはいらっしゃらないかもしれませんが、いや、もしかしたら、いらっしゃるかもしれません。つらい。苦しい。死んでしまいたい。ところがそこに、神の声が聞こえる。「あなたの重荷を主に委ねよ。主が、あなたを支えてくださる」。あなたには、重荷があるね。わたしは知っているよ。その重荷を、わたしに委ねなさい。あなたを支えるのは、あなたじゃない。わたしが、あなたを支える。「あなたの重荷を主に委ねよ」。そうすれば、岩の上に建てられた家のように、悩みのときにも倒れることはないと歌います。その上で、この讃美歌は第2節でこう歌うのです。
2.あさごとにかなしみ 夜ごとに泣くとも、
みちからによらでは すべてはかいなく、
うれいとなげきを むなしく増すのみ。
こんな重荷がある。あんな重荷もある。その重荷に耐えかねて、涙を流すということが、たとえば皆さんひとりひとりの生活の中でも、起こるかもしれません。昨日も泣いたばかりだ、本当は今ここで泣きたいんだ、という人だっているかもしれない。ところがこの讃美歌は、驚くほどそっけないことを言います。「毎朝悲しみ、毎晩泣いたって、神さまの力に頼ることを知らなければ、その涙には何の意味もない。その涙は、うれいと嘆きを、むなしく増やすだけだ」。泣いている人を突き放そうというのではないのです。「あなたの重荷を主に委ねよ」。神は、あなたを助けたいんだから、ひとりで泣かないでください。
この神の助けを知っているから、この神の声を聴いているから、だからパウロはこう言うのです。「苦難が忍耐を生み、忍耐が品格を、品格が希望を生むことを、わたしたちは知っています! この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。神の愛がわたしにも注がれているから、だからこそ、その神の愛の中で造られていく品格です。その品格というのは、ひとりで耐えている人間の姿ではありません。どんな悲しいことがあっても、悟りを開いた者のように心を動かさず、涙ひとつ見せない人のことを言っているのではないのです。
「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」。神に愛された人の品格というのは、泣いていたって、嘆いていたって、時に叫ぶようなことがあったって、いやむしろそのような時にこそ、鮮やかに表れてくるものだと思います。「この人は、ひとりで泣いているんじゃない。神の愛が、この人に注がれているんだ。神の愛の中で、この人は涙を流しているんだ」。そのような品格であります。
■ここで「品格」と訳され、あるいはかつて「練達」と訳された言葉は、もともとは興味深い言葉で、「試験をして、吟味して、本物であることを証明する」という意味の言葉に由来します。「合格・本物だ、ということを証明する」。たとえば金属が火によって精錬されて、本物か、まがい物か、そのことを吟味するというときにも、この言葉が使われます。ここではその名詞形ですから、「合格」とか「保証」という意味になります。
苦難の中で、どうしたって忍耐しなければならないところで、その人の人間そのものが試されます。「試練」という言葉がありますが、まさしく私どもは試練の中で、試され、練られるのです。自分という人間そのものが試されてしまうのです。いったい、自分というのがどういう人間なのか。自分は、人間として合格なのか、それとも不合格なのか。こういうことを考え始めると、悲しくなってきます。少なくとも私はそうです。思いがけない試練の中で、どうして自分はあんなことをしてしまったんだろう、どうしてあんなみっともない姿を見せてしまったんだろう、どうしてあそこまで余裕を失ってしまったんだろう。あれが自分の本当の姿なのだろうか、と、ふと悲しい思いに誘われることが、たくさんあるのではないでしょうか。そしてそういうときに、先ほど申しましたように、ぐっとひとりで涙をこらえ、やがて悟りを開き、どんなことがあっても心を動かさず、泣いたり叫んだり、そんなことは絶対にしない、俺はどんなことがあっても涙を見せないのだ、という形で、自分自身の品格を・練達を造り上げていこうとすることも、あるかもしれません。
けれども、ここで聖書が教える品格は、そのようなものではありません。神の愛の中で造られていく品格です。そのことについて、竹森満佐一という説教者が説き明かしている言葉を、どうしてもここでそのまま紹介したくなりました。こう言うのです。
すでに読んでまいりましたように、忍耐から生まれた練達は、単なる人間の心の訓練された姿ではありませんでした。それは、もっともすばやく神に依り頼む魂のことでありました。それは……実に、神の愛によってはぐくまれて来たものであったのです。神の愛が注がれなかったら、どんな患難も忍耐も練達もおおよそ無意味でありました。しかし、もしも、神の愛が裏付けになっているのなら、こんなに確実なことはないのであります。
今私どもも、確信を持って言うことができます。「品格の人、それはわたしのことです。わたしたちのことです」。竹森先生の言われる通り、自分で自分の心を訓練するのではないのです。神の愛に裏付けられて、「もっともすばやく神に依り頼む魂」を、既にいただいているのです。「もっともすばやく神に依り頼む魂」、本当にいい言葉ですね。しかしまた、厳しい言葉でもあるかもしれません。ひとりで泣いている人に、あるいはひとりで涙をこらえている人に、「なぜそんなところに立っているんだ。なぜひとりで立とうとするんだ。なぜもっと早く、もっと素早く、神により頼まないのか」。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ているのだから」。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのだから」、その神の愛の中に立ち続けなさい。そこに造られる品格を、竹森満佐一という説教者は、「もっともすばやく神に依り頼む魂のことである」と言うのです。
■この竹森満佐一先生のロマ書の講解説教集があります。たくさんの説教集をお出しになった先生ですが、中でもロマ書の説教集がいちばんすぐれていると思います。この説教集の中で、竹森先生は第5章1節から11節について3回の説教をしているのですが、その3回の説教の中で2度も同じ表現を使っています。「パウロは、自分の信仰を、ぶつけるように書いている」と言うのです。自分の信仰をぶつけるように。「わたしは、わたしたちは、神に愛されているのだ」。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています」。その信仰をぶつけるように、たとえばここでは、「なぜ、もっとすばやく神に依り頼まないのか」と言うのです。わたしたちは神に愛されているのだから、苦難は必ず忍耐を生む。わたしたちは神に愛されているのだから、その忍耐は必ず品格を生む。わたしたちは神に愛されているのだから、その品格は、必ず希望を生む。その希望が失望に終わることは、絶対にない。なぜかと言えば、わたしたちは神に愛されているから。自分の信仰をぶつけるように、言い換えれば、自分自身をさらけ出すようにして言うのです。「わたしを見てください。これが、神に愛された人間の品格です!」
その品格の人は、あるいは泣いているかもしれません。あるいは苦しんでいるかもしれません。いつ終わるか知れない忍耐の中に立ち続けることがあるかもしれません。けれども、その悲しむ魂が、もっともすばやく神により頼んでいるのであれば、それはこの世界にあって、特別な品格の香りを漂わせるものだと思います。わかる人にはわかるものだと思います。「この人は、ひとりで苦しんでいるんじゃない。神の愛の中で、この人は苦しんでいるんだ」。
臆することなく、この世界に向かっても、私どもの信仰をぶつけていきたいと思います。「わたしたちは、品格の人です。神に愛されて、わたしたちはこのように生きているのです」。そんな私どもの言葉を、私どもの品格を、この世界は待っています。神の愛を必要としているこの世界なのです。私どもの品格は、その神の愛が本物であることの証明にほかなりません。今、新たな思いで、品格の共同体・教会をみ前におささげしたいと、心から願います。お祈りをいたします。
神さま、ありがとうございます。あなたのみ言葉を聴きました。私たちは信仰によって義とされたのですから、私たちの主イエス・キリストによって、神よ、あなたとの間に平和を得ているのですから、あなたの愛が私どもの心にも注がれているのですから、そのあなたの愛を、私どもの命そのものとさせてください。家路につきます。家族、隣人たちのところに出かけて行きます。いつどこに行くときにも、どんな涙を流すときにも、あなたの愛が私どもを守り、あなたの平和が私どもを覆い包んでいることを、私どもの望みとし、確信とすることができますように。ひとりで泣いている人のところに、どうか私どもが、あなたの恵みを運んでいくことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン










