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神よ、あなたの正しさとは

2025年6月1日

ローマの信徒への手紙 第3章21-26節
川崎 公平

主日礼拝

 

■伝道者パウロが、このローマの信徒への手紙を書いたとき、「しかし今や」と第3章21節から書き始めたとき、パウロは万感の思いを込めて、この言葉を書いたのではないかと思います。

しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。

「現された」というのはつまり、それまでなかったものが現れた。厳密に言えばあったけれども、それまで隠されていたものが、突如姿を現した。神の義が、この世界に突入してきたと言うのです。「しかし今や」、新しい時代が始まったのだ。今はもう、昔とは違うのだ。しかし、何がどう新しくなったのでしょうか。「神の義が、神の正しさが、現されました」とパウロは言います。いきなりここでつまずく人が多数であるかもしれません。何だ、それは。「神の義、神の正しさ」っていったい何だ。パウロはしかし、ここからこの手紙のすべてを用いて、この〈神の義の現れ〉を説き明かそうとするのです。すべての人よ、これを見なさい、これを聴きなさい、と言うのです。

率直に申しまして、聖書の難しさの中でもいちばん難しいところが、ここにあるかもしれません。「神の義」と言われても、それをたとえば「神の正しさ」と言い換えてみても結局同じでしょう。そんなこと言われても、どうもぴんと来ない、というのが正直なところであるかもしれませんが、本当はそんなことはないと思います。むしろすべての人が、飢え渇くように求めているのが「神の義」、「神の正しさ」なのであって、これさえ満たされればほかのものは何もいらない、というほどのものだと思います。

主イエス・キリストは、〈山上の説教〉と呼ばれる説教の中で、「義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる」(マタイによる福音書第5章6節)と言われました。私どもも、いろんなことに飢え渇いております。食べ物がない、お金がない、生活が苦しい、という飢え渇きだってもちろんあるでしょう。一度でも貧乏を経験したことがある人なら、それがどんなにつらいことか、わかるはずです。けれども私どもがいちばんつらい経験をするのは、義に飢え渇くときです。何の罪もない人が血を流し、涙を流し、悪い者が大手を振って歩いているような世界の中で、ことに自分自身がその悪の犠牲者になるときに、私どもの祈りは最も深くなると思います。神さま、本当にいるんですか。いるなら、助けてくださいよ。神よ、どうか、あなたの正しさを現してください。

■主イエスははっきりと、「義に飢え渇く人々は、幸いである/その人たちは満たされる」と明言なさいました。必ず、満たされる。わたしがここにいるからだ。それをパウロはここで、「イエス・キリストの真実」と呼ぶのです。

しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません(21、22節)。

今は、昔とは違います。神の義は、既に現されています。主イエス・キリストがおいでになったからです。「イエス・キリストの真実によって」と書いてあります。このお方は真実な方ですから、「そこには何の差別もありません」。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」。そこには、本当に、何の差別もありません。世界でいちばん大きな人にも、いちばん小さな人にも、世界でいちばん悪い人にも、差別なく与えられる神の義です。「義に飢え渇く人々は、必ず、満たされる」のです。

そのためにおいでになったのが、主イエス・キリストというお方です。「神の義が現された」ということと、「主イエス・キリストがおいでになった」ということは、まったく同じ意味です。このお方によって、差別なく与えられる神の正しさについて、主イエスはあるところでこのように表現なさいました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書第2章17節)。

主イエス・キリストによって現された神の正しさとは、このような正しさでありました。神は正しい方ですから、正しい人だけが招かれるのだろう、という人間の考えは、神には通用しません。正しい人ももちろん招かれるけれども、実は罪人だって大丈夫なんです、という話でもないのです。正しい人は招かれない。なぜかと言うと、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人」だからです。神に招かれるのは、罪人だけです。今この礼拝堂にいらっしゃる皆さんの中にも、正しいのに招かれた人はひとりもいません。もしも万が一、正しい人がこの礼拝に出ているとしたら、それは招待状ももらっていないのに、勝手に忍び込んだだけの人です。主イエス・キリストは、罪人しかお招きになりません。正しい人は、主イエスに招かれていないのです。

それは差別ではないか、という反論があるかもしれません。神の義は差別なく、すべての人に与えられるのではないか、22節にそう書いてあるじゃないか、それなのになぜ「招かれるのは、罪人だけだ」と言われるのか、という反論に対しては、既に先週の礼拝で読んだ第3章9節以下で答えが出ております。

すでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない」。

ここで「ユダヤ人もギリシア人も皆」と言われるのは、要するに、すべての人が差別なく、ということです。すべての人が、差別なく罪の下にある。そのすべての罪人が、差別なく主イエス・キリストのもとに招かれるのです。ここに、まったく新しい神の正しさが現されたのです。

■教会の教え、あるいは聖書の教えの中で、いちばんわかりにくいことが、このあたりにあるかもしれません。「正しい者はいない。一人もいない」。私どもは皆等しく罪人であると教えられるのですが、それがわからないと、特に私のように牧師をやっている人間は、よく文句を言われます。「罪って何ですか」。「なぜわたしが罪人だと言われなければなりませんか」。

ただ、私どもは自分の罪はわからなくても、他人の罪はよくわかるものです。「ああ、この人、本当に罪深いなあ」。そこで、今試しに、誰でもいいので、それぞれに思いつくままに、いちばん罪深い人のことを思い出していただけますでしょうか。身近な人でも、遠い外国の政治家でも、誰でもいいのです。「どうしてあの人は、あんなに罪深いんだろう」と、皆さんが今思い浮かべている人というのは、きっと、「自分は正しい。わたしは悪くない」という確信を持っている人ではないでしょうか。人間というのは、「わたしは悪くない」という確信があればあるほど、罪深くなるものです。そしてもうひとつ、今皆さんに思い浮かべていただいたいちばん罪深い人というのは、おそらく自分以外の誰かであったのではないでしょうか。決して、自分自身のことを罪深い人間の筆頭者としては思い起こさないのではないでしょうか。少なくとも私はそうです。私どもは皆どこかで、程度の差こそあれ、自分の正しさに確信を持っているのです。その自分の正しさというのが、いちばんたちが悪いのです。問題は、どこかの遠い国の政治家でもなく、身近な隣人でもなく、皆さん自身、ひとりひとりが、そういう意味でのいちばんたちの悪い〈正しい人〉である、ということなのです。これは、決して他人の話にはならない。〈わたし自身〉の話なのです。

そんな私どもの正しさに、真っ向から立ち向かうように、神の義が現れたのです。「イエス・キリストの真実によって」、神の正しさが、私どもに真っ向から立ち向かってくるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではない。あなたを招くために、わたしは来たのだ」。このキリストの真実には、何の差別もありません。このお方は、決して人を差別されませんでした。

この何の差別もない神の正しさを、しかし人びとは理解しませんでした。だから、主イエスは十字架につけられたのです。この手紙を書いたパウロだって、もともとはキリストとその教会を叩き潰すことに自分の人生をかけるほどであったのです。なぜかというと、主イエス・キリストの正しさというのは、人間の正義感に真っ向から逆らう義であるからです。

私どもは、神の義を求めます。義に飢え渇いているのです。それで、私どもは必死になって祈るのです。おそらくは、世界中の人が、同じことを祈り、願っているのではないでしょうか。「神よ、どうか悪い者を滅ぼしてください。何の罪もない正しい者だけを救ってください」。そういう私どもの祈り、願いによって造られているこの世界が、今現に、地獄の様相を呈しているのです。どうして、そうなってしまうのでしょうか。

■そこでもうひとつ、問題の急所となることは、突然妙なところに話が飛ぶようですが、パウロはここで改めて〈律法〉の話を始めます。今日読んだ21節には、「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました」と言います。律法から離れないといけない。離れると言っても、律法そのものが悪いという話ではありません。だからわざわざ、「律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて」と言うのです。このことについて誤解があってはいけないと、パウロはよほど慎重に考えたのでしょう、ここから先、パウロは律法についてずいぶん丁寧な議論をします。たとえば第7章の12節では、「実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです」と念を押しています。律法そのものは悪くないのです。けれども今は、律法から離れないといけない。

なぜかと言うと、その理由が既に第3章20節にこう書いてあります。「なぜなら、律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。28節でもこう言います。「なぜなら、私たちは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」。このことについて、それこそ大きな誤解があるかもしれません。先週の礼拝でも同じことをお話ししましたが、「律法を行うことによっては、誰一人神の前で義とされない」というのは、律法の難しい決まりごとを完璧に守ることは人間にはできない、という話ではありません。律法を守ること自体は、それほど難しいことではありません。この手紙を書いたパウロは、ある別の手紙の中でかつての自分をふりかえって、「律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした」と言い切っています(フィリピの信徒への手紙第3章6節)。わたしは律法を完璧に守った。完璧に守れる。それが問題なのだ。なぜかというと、律法は差別を教えるからです。

律法を完璧に守ったパウロが何を考えていたかというと、自分は誰よりも完璧に律法を守った。自分は正しい人間だ。あの連中もこの連中もだらしない。そのように、差別することによって自分を支えたのです。しかし私どもだって、至るところで同じことをするでしょう。それで優越感に浸ったり、劣等感にさいなまれたりするのです。その差別の意識が、人間をどんなにだめにしてしまうことか。小さな子どもにも差別の心はあります。むしろ幼い子どもこそ、それを露骨に、また残酷な形で表すことがあるでしょう。学校でしばしば問題になるいじめなんてものは、その差別の心の最たる現れであります。しかし、主イエスは誰のことをも差別なさらない。このお方は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られたからです。

■先日発行された雪ノ下通信の牧師室だよりに、ひと月前に亡くなった母のことについて書きました。一面では非常に厳しい母親でした。今振り返っても、あそこまで厳しくする必要があったかな、と思わないでもありません。「勉強しなさい」などと言われたことは、ただの一度もありません。学校のテストで100点を取ってもほめられたことはありません。0点を取ったことはありませんが、どんなにひどい点数を取っても、そのことで怒られたことはありません。小学3年生のときに、算数のテストで30点を取りました。さすがにまずいと思って、それを隠しました。しばらくして見つかりました。泣くほど怒られました。30点が悪いんじゃない。なぜ、それを隠したか。30点なら悪い子、100点ならいい子、というような育て方をした覚えはない。だからこそ、30点という自分の点数を隠す子どもが自分の子どもだなんて恥ずかしい、とまで言われました。今になって思えば、母なりの仕方で、「イエスさまは、正しい人を招くために来たんじゃない」ということを、「イエスさまの愛には、何の差別もない」ということを、ささやかに証ししてくれたのだと思います。

パウロもまた、差別なき神の義に出会いました。律法による義、正しい人だけを招く人間の義しか知らなかったパウロが、キリストの真実による神の義に打ち倒されるということが起こりました。パウロは、文字通り打ち倒されたのです。本当に地面にたたきつけられて、三日間目が見えなくなるということまで起こりました。けれどもそのパウロの目を、神が再び開いてくださいました。「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた、イエス・キリストの真実が、パウロの目にもはっきりと見えるようになりました。

私どもの正しさも、神に打ち倒していただかなければなりません。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではない。あなたを招くために、わたしは来たのだ」と、主イエスはわたしのためにも語りかけてくださるのですから、その主イエスの真実に対しては、信仰によってお応えするほかありません。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません」。

■そこで最後に、もうひとつ問題になることは、このような神の正しさを、どうやって自分のものとするか、ということです。神の義が、どのような手続きで私どものものになるのか、実はそれがまた論争の種になりました。現在私どもが使っている聖書協会共同訳という翻訳は、その点で、たいへん画期的な翻訳を試みてくれました。「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」とあります。ところが以前用いていた新共同訳、あるいはその前の口語訳では、「イエス・キリストを信じる〔信仰〕」と訳されました。これまでの聖書翻訳の伝統からすれば、圧倒的に新共同訳、口語訳のほうが優勢であったのです。優勢とか劣勢とか、言い方がおかしいかもしれませんが、とにかく聖書翻訳の数の多数決で言えば、「キリストを信じる信仰によって」と訳すほうがずっと多いのです。けれども特に近年、「イエス・キリストの真実によって」と理解する聖書学者のほうが多くなってきました。それは語学的に言ってもそうだろうと思いますし、内容の点から考えても、聖書協会共同訳の理解のほうが正しいと私は思います。

「イエス・キリストが真実でいてくださる」のか、それとも「わたしたちがキリストを信じる」のか。もちろんどちらにしても、私どもはイエス・キリストを信じるのです。既に22節でも、「神の義は……信じる者すべてに現されたのです」と言われるのですから、それは当然です。けれども問題は、私どもは信仰においても、また新しい差別を始めることがあるのです。「信仰によってのみ義とされる」と、決まり文句のように私どもの教会は言います。私どもの信仰の大先輩であるマルティン・ルターという人は、このローマの信徒への手紙の言葉を旗印として教会の改革を果たしました。その点で、ルターが間違っていたとは誰も考えない。けれどもその信仰というものを、わたしが神に救っていただく条件のように考え始めると、たちまち話がおかしくなります。わたしの信仰はいい信仰か、悪い信仰か、正しい信仰か、でたらめな信仰か。同じ基準で他人の信仰まで裁きます。そうしたら、すべてが台無しになります。信じるとは、そのような差別をやめることです。

主イエスが私のところにも来てくださったのは、何か私に見どころがあったからではありません。「健康な人に医者はいらない。医者が必要なのは、病人だ」と、主イエスは私のためにもそう言われました。「君、このままじゃ死ぬよ。だからわたしが君のところに来たんだ」。罪というどうしようもない難病にかかっていた私だったから、主イエスのお招きを受けたのです。癒やしていただいたのです。救っていただいたのです。そのように救われた罪人が、俺はこのお医者さんに診てもらった偉い病人なんだ、といばっていたら、それは誰だっておかしいと思うでしょう。だからこそパウロは、「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです」と言うのです。私どもの支えは、キリストの真実だけです。もちろん、このお方の真実のすばらしさに気づいたら、私どももこのお方を信じるほかないのです。

このあと、聖餐と呼ばれる主の食卓を祝います。いつもお願いしている通り、この聖餐を取ることが許されるのは、洗礼を受けた人だけです。まだ洗礼を受けておられない方は、聖餐を受けることができません。この食卓に招かれるのは、罪人だけだからです。正しい人は、ひとりも招かれていない。差別をしているわけではありません。主イエスは、絶対に人を差別なさらない。すべての人が、洗礼を受けるようにと招かれています。「わたしは罪人を招くために来た。あなたを招くために来たのだ」と言われた主イエス・キリストの真実を信じて、その招きに応えて、一日も早く洗礼を受けていただきたい。私どもの罪がどんなに深くても、このお方の真実に揺らぐところはひとつもないからです。お祈りをいたします。

 

私どものために、あなたのみ子イエスが来てくださいました。すべての人に、あなたの正しさが現れました。ただ招かれた者として、ただ赦された者としてみ前に立ち、この聖餐の食卓の喜びをしっかりと味わわせてください。その喜びがまた、私どもの日々の生活をいちばん深いところから支える力となりますように。真実なる救い主、主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。アーメン

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