小さな子どもたちよ、大きなわざを
ヨハネによる福音書 第14章1-14節
嶋貫 佐地子

主日礼拝
主イエスの別れの説教を読み始めております。最後の晩餐の席で、主イエスが、弟子たちに向けて語られた、渾身の説教であります。
それを語り終えられるのは何章か先ということになりますけれども、その主イエスの語り始めをみますと、ほんとうに主イエスが温かい。こういう言い方をしていいかわかりませんけれども、主イエスが、お優しい。弟子たちに対して、ほんとうにお優しいと感じられます。
弟子たちはこの時、とても震えていました。ある人は、弟子たちが動揺するのは当然だと言いました。ヨハネによる福音書は、この時を特別に、「夜であった」(13:30)と、記しています。外は夜であった。外は暗闇で、光に対する、世の攻撃は凄まじい。しかし弟子たちはこれから、その世との激しい戦いに出て行かなくてはならない。しかも、そこに主イエスはおられないのです。どんなに動揺したか。けれども「この食卓は光だった」と言いました。この食卓は光だった。
主イエスの言葉は光だった。でもその言葉というのは、ただの感傷的な、別れの言葉とか、遺言というのではなくて「引継ぎ」でした。主イエスの業を、弟子たちが引き継いでゆくための、そして教会がそれを受け継いでゆくための、主イエスの渾身の言葉です。
そうしたらその呼びかけも、こういう呼びかけになりました。「子たちよ」。と言われました。この前の第13章になりますけれども、33節で主イエスが弟子たちをそう呼ばれたのです。
「子たちよ」。「子どもたちよ」。
この呼びかけは付属の第21章を抜かしますと、ヨハネ福音書ではここにしか出てこない、そういう特別な呼びかけです。そうしますと一層、主イエスが弟子たちと別れなければならないという時に、しかもこの「子ども」というのは「小さな子ども」を指しますので、そうすると主イエスがそこにいる弟子たちに向かって、それから、それは将来の、ここにいる私どもに向かっても、と言っていいと思います。こう呼びかけらました。「小さな子どもたちよ」。
ほんとうに「小さな子どもたちよ」。
そうして深い愛情をもって、この説教を始められました。その初めには「心を騒がせるな」(14:1)と言ってくださいましたし、今日の辺りでも、弟子たちの問いに主イエスが一つひとつお答えになります。まず弟子のペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」(13:36)と問いますと、主は「あなたは今ついて来ることはできないが、後でついてくることになる」(13:36)と、約束してくださいました。また、トマスが「主よ、どこへ行かれるのか、〔その道が〕私たちにはわかりません。」(14:5)と言うと、トマス、私が道だ。と言ってくださいます。「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)。私が、あなたがたが辿ってゆく、父へのただ一つの道なんだと。
それから、今度はフィリポが「主よ、私たちに御父をお示しください」(14:8)と言いますと、これは主イエスが、あなたがたはもう父を知っており、もうすでにあなたがたは「父を見たのだ」(14:7)、と言われましたので、それでフィリポは、いや、でも、待ってください。主よ、あなたはそう言われますけれども、私たちには神が見えない。と言ったのです。私たちには神が見えません。あなたが言われている、父、というお方が、私たちには見えないのです、と、言ったのです。
でもそうすると、主は驚かれるんですね。
私どもも主イエスをがっかりさせることがありますけれども、でもこの時ばかりは、主イエスが驚かれた。それで「フィリポ」と言われます。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか」(14:9)。
こんなことを主に言わせてしまいますけれども、でもこんなことを言ってもらえる。たとえば私ならば「さちこ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか。」こういう時には皆様もご自分のお名前を入れてくださってもいいと思うのですけれども、「あなたは、こんなに長く私と一緒にいるのに、私がわかっていないのか」と、ちゃんと叱ってくださいますし、それからびっくりしてくださる。なぜびっくりされるかというと、いや、そんなはずはない、と。
あなたは私を見ただろ。と言われます。あなたは私を見たはずだ。それで「私を見た者は、父を見たのだ」(14:9)と言ってくださる。神様が見えない、と、どこにいらっしゃるんですか、と嘆く私どもに、いや、あなたは私を見たのだから、だからもう、父を見たのだと言ってくださる。この福音書の第1章で言われている通りに「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)。主イエスが私どもにとって、そうでいてくださる。ただ一人の、神の啓示者である方が、あなたは私を見た。だからあなたは「父を見たのだ」と言ってくださる。だから、私が言う言葉や、私がすることは、私の内におられる父がなさっているのだから、「私が〔そう〕言うのを信じなさい」(14:11)。と言われますが、……だけどね、と。
そうしたら主イエスが譲ってくださるんです。主イエスが百歩譲ってくださって、そうだね。でも「もしそれを信じないなら」、もし私のいう「言葉」が信じられないなら、「業そのものによって信じなさい」(14:11)と言われる。もしあなたがそれを信じないなら、そうしたら、柔らかく、私が行った業を信じたらいい、と言ってくださる。弟子たちは、これまでずいぶん、主イエスがなさった奇跡を見てきましたけれども、だったらそれを信じたらいい。業を信じたらいい、とおっしゃる。
でも主イエスが言われたのはそれだけではなくて、こうも言ってくださったのです。よく言っておく。「私を信じる者は、私が行う業を行うだろう。そればかりか、もっと大きなことを行うであろう。私が父のもとに行くからである」(14:12)。
あなたがたは「私が行う業を」行うようになるんだと。私どもはそういうことを聞きますと、びっくりして、まさかこんな自分が、そんなことはできないと思ってしまいますが、でも、主イエスは、そんなことはない。そればかりか、あなたがたは、私が地上にいた時よりも、もっと、ずっと、大きなことをするようになるんだ。世界中に、それは広がってゆくんだと言われて。その幻を主はもうごらんになっているかのように大きいね、と嬉しそうに語っておられる。
そして、ほんとうにそのとおりになったのです。世界中に教会ができました。小さくて弱くて、震えていた弟子たちが、みんな伝道しに行って、洗礼を授けて行って、そしてみんな、殉教してゆきました。ペトロは、ローマで主イエスと同じように十字架にかけられたと言われています。トマスもまた、インドに赴いて、そこで異教徒により、迫害されて殉教したと言われています。フィリポは聖書にありますように、エチオピアの宦官が馬車に乗っている時に、走って行って、聖書の言葉がわかりますか?と言って御言葉を説き明かしました(使徒8:26-40)。それからサマリアやギリシャなどで伝道して、多くの病人や足の不自由な人を癒やし、その説教には人々がこぞって耳を傾けた(使徒8:6)と聖書に伝えられています。そのフィリポもまた同じように、87歳で十字架にかけられて、命を献げたと言われています。みんな変えられたのです。みんな実力以上のことをしたのです。どうしてそんなことができたのでしょうか。自分の力ではなかったからです。自分ではなかったからです。
信仰生活に入りますと、同じように経験します。自分の力ではない。私が私ではない、私が私でなくなる、そんな経験をしてゆきます。皆様もそうだと思いますが、どうして自分の言葉で、誰かが主イエスを信じるようになるのか、さっぱりわからない。どうして自分のしたことが、こんなに誰かを勇気づけるのか、ほんとうにわからない。けれども、そこで私どもは神を見ます。見たこともない神を見るのです。自分のほんとうに小さな言葉で、自分のほんとうに小さな業で、神の大きな業を見るのです。
振り返ってみますと、ペトロが主イエスから、あなたは、今はついてくることはできないと、言われますけれども、その時にペトロが「主よ、なぜ今すぐついて行くことができないのですか」(13:37)と言いました。どうして、私の思い通りにならないのですか。
トマスは自分の理屈に合わないことは信じませんでした。どうしてその道が、私にわかるでしょう。どうして自分に、信じさせてくれないんですか。フィリポに至っては、私たちに御父をお示しください。「そうすれば満足します」(14:8)と言いました。そうすれば満足します。私の満足だったんです。
私どももいつもどこかで、そう思っています。自分の思い通りにしたい。自分を満足させたい、自分を守りたい、自分を立てたい。主を愛しているのに。けれども、自分を離れることができない。どうしても離れられない。
そうしたら、神が砕かれたのです。「私」という人間を、十字架で。
主の十字架で、「私」は砕かれたのです。
その主が、私の中で、見えます。その主が、私の中にいてくださるのです。
このあと、主イエスが聖霊の話をなさいます。聖霊なる神、真理の霊です。そのお方が、それをしてくださいます。そのお方が教会を引き継がれます。主イエスが「私が父のもとへ行くから」(14:12)と言われたのは、そのためです。主の代わりに、そのお方が来て、私の中に、私どもの中に主がいるようにしてくださる。
聖霊なる方は、どんなに弱くてだめな自分でも、どんなに自分が病気でも、病人でも、体に障りのある者も、どんな境遇の者でも、惜しみなく、主の力を与えてくださいます。だから私どもも、弟子たちが、自分が自分でなくなったように、「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と言われるように、主が私の内にいてくださって、主が、その御業を、大きく、もっと大きく、行ってくださいます。
そのとき主イエスが「私の名によって願うことを何でもかなえてあげよう」(14:13)と、「私がかなえてあげよう」(14:14)と、言ってくださいましたけれども、そうしたら、もはや私どもは、私のしたいことや、私の満足はもう願わないでしょう。私の願いではなく、ただ主よ、あなたの願い通りに、私がなりますように、と、祈るばかりです。
ミシェル・クオストというフランスの詩人がおります。敬虔なカトリックの司祭ですが、プロテスタント的であると言われている人です。その詩は祈りになっていて、その一篇の一部をお読みします。
「ひとりでいることはつらいことです
みんなのまえに、ひとりぼっちで
世界の中に、ひとりぼっちで
苦しみと死と罪のまえに、ひとりぼっちで立つことは
主よ、つらいことです。」すると主が応えられます。
「子よ、何を言う、きみはひとりぼっちじゃあない
わたしがきみといっしょにいるじゃあないか
わたしはきみだ ……〔中略〕
わたしには、きみが要るのだ。わたしの祝福をおくりつづけるために、きみの手が要る
わたしが語りつづけるために、きみの口が要る
わたしが苦しみつづけるために、きみの体が要る
わたしが愛しつづけるために、きみの心が要る
わたしの救いを広めるために、きみ自身が要る
だから、子よ、わたしといっしょにいてくれ。」すると詩人が応えます。
「主よ、わたしは今ここにいます
わたしの体も、わたしの心も
わたしの魂も、みんなここにあります
願わくはそれらを、世界のはてまでとどくように
それらが世をになって立つほどに、大きく強くしてください
世をつつんで、しかも自分本位にならないように清めてください
願わくは、わたしが人々とあなたの出会いの場になり
しかもかりそめの出会いの場以上になりませんように
すべてのもの、すべての人が、あなたに向かっているゆえに
自己の中に終わりをもつ 道になることがありませんように。」『神に聴くすべを知っているなら』
こんな祈りに、私どもも身を寄せながら、主が、それを聴いて、主がそれに応えてくださるでしょう。
「小さな子どもたちよ」、
ほんとうに「小さな子どもたちよ」、大きな業を。
それを「私が」(14:14)、かなえてあげよう。