見失った羊
ルカによる福音書 第15章1-7節
柳沼 大輝

夕礼拝
本日は有名な「見失った羊」のたとえからともにみことばに聴きます。このたとえはルカによる福音書第15章に記されている「無くした銀貨」のたとえ、「いなくなった息子」のたとえと並んで三つの繋がった一連のたとえのなかのはじめに置かれている聖書の記事です。
主イエスは、これら一連のたとえをある明確な場面設定のなかで人々に語られました。その背景が、先ほどお読みした1~3節に記されています。
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」と文句を言った。そこで、イエスは次のたとえを話された。
ここに登場する徴税人や罪人とは、言ってしまえば、本来、あるべき神の御もとから遠く離れて、ユダヤ人共同体において除外され、自分たちが生活している社会からその存在が消えそうになっている者たちでありました。彼らの置かれていた状況がいかに惨憺たるものであったか、簡単に言えば、彼らがどれだけ仲間から忌み嫌われていたか、このファリサイ派や律法学者たちの言動から容易に伺い知ることができます。
しかし、そのような彼らの悲惨な状態は、何も理不尽に、彼らに対して圧し掛かっていたわけではありませんでした。徴税人や罪人たちにはこのようにユダヤ人たちから嫌われ、仲間外れにされても仕方がない理由があったのです。なぜなら、彼らは、同胞であるユダヤ人たちのことを今までたくさん裏切ってきた者たちであったからです。
ここで言われている罪人が具体的にどのような罪を犯していたかはわかりません。しかしもう一方の徴税人たちに関しては、当時、イスラエルを支配していたローマ帝国の管理下で、規定以上の税金をユダヤ人たちから取り立て、その差額で自らの私服を肥やしていた者たちでありました。当然、宗教的にも、神から離れ、罪に汚れた存在として見なされていました。
そんなユダヤ人たちを裏切り、罪を犯し、邪な生き方をしている罪人たちが、あるとき主イエスのもとに近寄って来たのです。しかも自分は神の子であると宣言している主イエスが彼らを受け入れて、ともに食事をしているではありませんか。
聖書に定められた律法をすべて守り、自分は「正しい者」であると自負していたファリサイ派や律法学者たちにとって、この状況はまったくと言っていいほど面白くありません。そこで、彼らは主イエスに対して「どうしてそんな奴らを受け入れるのだ」、「どうしてそんな奴らと仲良くするのだ」と文句を言い出しました。このように人々の怒りと憎しみが複雑に入り混じった状況のなかで、主イエスはこの「見失った羊」のたとえを人々に語られたのであります。
このたとえのなかに登場する、見失った羊は徴税人や罪人たち、残りの九十九匹の羊は主イエスに文句を言ったファリサイ派や律法学者たち、羊飼いは父なる神をそれぞれ意味しています。非常にわかりやすく、理解しやすいように思えるたとえ話です。しかしこのたとえを聴いていく上で、私たちは一つ、注意しなければならないことがあります。それは、私たちはこのたとえを聴くとき、ついついこの群れから迷い出てしまった一匹の羊の方に焦点を当て、このたとえを理解しようとしてしまってはいないかということです。
私たちは、自分もこの迷い出てしまった一匹の羊に違いない、そのように感じて、迷い出た一匹の羊の方にばかり感情移入をしてこのたとえのなかに自分の立ち位置を見出そうとします。
もちろん、そのような聖書の読み方が間違っているというわけではありません。羊飼いである神から離れて迷い出てしまった一匹の羊に自分を当てはめてみるということは、言うならば、このたとえの正しい理解の仕方です。
しかしこのたとえのなかには一匹の羊がどのようにしてその群れから迷い出てしまったのか、迷い出た羊がその後、どのような迷いの道を歩んでいったのかといったことは一切、記されていません。よく聖書の絵本などで描かれるような一匹の羊が奇麗な蝶々を追いかけて群れの中からはぐれていってしまった、そういったロマンチックな描写は一切、記されていないのです。むしろ、このたとえはその一匹の羊を捜し歩く羊飼いの方につねに焦点が当てられています。つまりこのたとえの中心は迷い出た羊にあるのではなく、その一匹の羊を捜し歩く羊飼いの方にあるのです。
ルカによる福音書に記されるこのたとえでは、4節で「その一匹を見失ったとすれば」と独特な表現が使われています。マタイによる福音書第18章にも「並行記事」といってこのたとえと似たような記述があるのですが、そこでは、この4節にあたる箇所において「その一匹が迷い出たとすれば」(18:12)という言葉が使われています。いわばマタイは羊の方に焦点を当て、一匹の羊が群れの中から「迷い出てしまった」という事実に思いを向けるのです。
一方、ルカが使用しているこの「見失った」という言葉、捉え方によっては、羊を「見失って」しまった羊飼いの側にその問題の過失や責任があるのではないか、羊飼いの不注意のせいで羊が逃げてしまったのではないかとも読める表現であります。しかしこの「見失った」という言葉は本来、「迷い出た」ということだけではなく、「破壊する」、「死ぬ」、「殺す」といった厳しい意味を持つ言葉なのです。つまり「見失った羊」とは、「死の危機」の只中にある羊、このまま羊飼いに見つけ出されなければ、命が失われて「死んでしまう」かもしれない、そういった危機的な状況に置かれている羊なのであります。
はじめに徴税人や罪人たちのことを「社会からその存在が消えそうになっている者たち」であると表現しました。まさにそのように見失った羊とは、自らの存在が消えかかってしまっている者たちのことを指している言葉であります。このたとえのなかでは、その存在が消えそうになっている見失った一匹の羊のことを見つけ出すまで、必死になって捜し歩く羊飼いの姿、父なる神の愛の姿が、話の中心として描かれているのです。
2011年の3・11からもうすぐ14年の月日が経とうとしています。関東圏にいて、直接的に被災はせずとも、皆さんそれぞれにテレビの報道などで被災地の様子を目撃されたのではないでしょうか。私は当時、ネットニュースの記事で目にした一枚の写真をいまも忘れることができません。その写真には、津波で真っさらになった海辺の街のなかを茶色く汚れたピンクの靴を抱きしめて、泣きながら大声をあげて、必死になって娘を捜し回る一人の母親の姿が写されていました。ただ、娘に生きていてほしい、ただそれだけを願って、必死になって一人の娘のことを捜し回る母親の姿。この母親は誰に止められようとも、娘が見つかるまで決して諦らめようとはしなかったでありましょう。見つからなかったら仕方がないと割り切ることはできず、途中で諦めることはできず、たとえ泥にまみれ、ボロボロになってでも愛する娘のことを最後まで捜し回ったでありましょう。
この母親が、最終的に娘を無事に見つけ出すことができたかどうかはわかりません。しかしこの母親の姿はすべてを投げ出してでも、見失った一匹の羊のことを捜し回る羊飼いの姿、父なる神の姿を思わせます。百匹の羊を持っているのだから、たとえそのうちのたった一匹の羊を失ったとしても、そこまで大きな問題ではないのではないか、大きな損失ではないのではないか、通常の私たちの価値観であれば、そのように感じてしまいます。しかし羊飼いにとっては決してそうではないのです。その一匹が羊飼いである神様にとってはかけがえのない一匹なのです。その一匹の羊に生きていてほしい、神様はそう祈り願っているのです。
だから、その一匹を見失ったとすれば、その見失った、死にかけている一匹の羊のために残りの九十九匹の羊を野原に残してでも、その見失った羊を見つけ出すまで捜し歩かないだろうか、もちろん、捜すに決まっているよね!その答えを前提として、主イエスは百匹の羊を持っている羊飼いにファリサイ派や律法学者たち、そして、この私たちをも重ね合わせて、いったいあなたならどうするのか、あなたならその一匹を必死になって捜し歩かないのかと、そう投げかけるのであります。
続く、5節の冒頭には「そして、見つけたら」とあります。ここで「そして」という言葉が使われているのには大きな意味があります。直前の4節で見たように羊飼いが必死になって捜し歩いてくれたからこそ、その結果として見失った羊が見つかったわけです。文語訳聖書では、この「そして」というところを「遂に」と訳し、「遂に見出せば」としています。この「遂に」が示しているように、最後まで羊飼いが諦めずに捜し歩いてくれたからこそ見つけ出された一匹の羊がここに生きているわけです。そこまで必死になって、捜し回ったからこそ見失った羊を見つけ出したとき、ああ、あなたが生きていてくれて本当によかったと、そう心から喜んで、羊飼いは羊を担いで、6節にあるように家に帰った後、友人や近所の者たちを皆、呼び集めて一緒になって喜ぼうとするわけであります。
その喜びは、計り知れない。だから一人だけではなく、皆でその喜びを分かち合いたいのです。ここにまさに今日の教会の姿が描かれています。誰かが救われて洗礼を受けたら、その喜びを教会の皆で分かち合います。そのように見失われていた誰かが見つけ出されるということはそれほどに大きな喜びがあるのです。皆を呼んで喜ばずにはいられないのです。
その喜びの背後には当然、その人のために最後まで諦めずに捜し歩いてくださった神様の存在があります。そしてそこには最後までその人を見つけ出そう、救い出そうとその一人のために動き回ってくださった神様の愛が証しされています。
しかしここで一つ疑問が生じます。続く、7節には「このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」とあります。ここで「一人の罪人が悔い改めるなら」と言われている、この「悔い改めた一人の罪人」とは、見失った一匹の羊のことであります。それではこの見失った羊はいったいどこで悔い改めているというのでありましょうか。すでに見てきたようにこのたとえのなかには、迷い出た羊の行動や心情が一切、記されていません。この羊が悔い改めている描写などはどこにもないのであります。けれどもある言葉が、間接的にではありますが、その羊の悔い改めの姿を描き出しています。それが5節にある「その羊を担いで」という言葉です。
聖書協会共同訳では、省略して「担いで」とだけ訳していますが、直訳では「肩に乗せて」と訳せる言葉です。この見つけ出された羊は羊飼いに縄で縛られて無理やり連れていかれたわけでも、羊飼いと一緒になって歩いて群れの中に帰ったわけでもありません。羊飼いの「肩に乗せられて」、「担がれて」家に帰ったのです。
小さい頃、親に肩車などをしてもらった経験のある方ならおわかりかもしれませんが、誰かの肩に担がれるとき、その担がれる人は、自分の力を抜いて、担いでくれる人に自らの重心を任せなければなりません。少しでも担がれる人が自分で動こうとして、変に力を入れてしまったならば、たちまち体制が崩れて、担がれている人は、担いでくれている人の肩から転げ落ちてしまいます。
悔い改める、それは羊飼いの肩に乗せられて、家に帰ったあの羊のように、自分の力を手放して、私を担いで歩んでくださる羊飼いである主なる神に自らの身をすべて委ねるということです。
「見失った羊」とは、いわば「自分は自分のもの」であると信じている存在であるとも言えるかもしれません。自分の人生は自分で責任を取らなくてはならない。結局は、自分が自分で決断して正しい生き方を選び取っていかなくてはならない。そのために誰かと競い合って、奪い合って、社会のなかでしっかりと自分の立ち位置というものを見出していかなければならない。
「自主性」と言えば、聞こえはいいかもしれませんが、私たちには、限界がある、弱さがある。当然、自分で選択した道が間違っているときだってある。誰かに負けて、自分の無力さを思い知らされ、挫折することだってある。そんないままでたしかな人生の基盤だと信じていたものが粉々に砕け散ったとき、あの罪人たちのように、私たちも周りの人たちを裏切って、人を傷つけて、最後、自分自身さえ壊してしまうことがあるのではないでしょうか。自分を愛することができず、自分を嫌い、他人を疑い、自己嫌悪の闇に吞み込まれていってしまうことがあるのではないか。そうやって、気づけば自分の存在が消えそうになっている、自分で自分の存在を消そうとしている。
そのような「死の危機」の只中に置かれている「見失った羊」であるはずの悲惨な私が皆さんの人生の歩みのなかにもたしかにいたのではないでしょうか。あるいはいまもどこかに身を潜めているのではないでしょうか。
しかしこの世界には、そんな失われた私たちを見つけ出すまで、最後まで、諦めないで捜し回る羊飼いがたしかにいるのであります。その羊飼いである神はあなたの名前を呼んで、声を上げて、あなたに生きていてほしいと、そう祈っている。十字架で自らの血を流し、苦しまれ、そこで自らの命を投げ出してまで、見失ったあなたを見つけ出し、その闇の中からあなたを救い出そうとしてくださっている。そんな愛に溢れた羊飼いである主がここに生きて働いているのであります。
そして、ついにあなたが見つけ出されたとき、羊飼いは言う。「恐れることはない。あなたは私の大切な羊だ。あなたは私のもの。何故なら私があなたを贖ったから」、「あなたが生きていて本当によかった」と。そう言って、自らの肩に乗せ、救われた者たちの家である教会にあなたを招き入れようとしてくださっている。
神に見つけ出され、救われた者たちは、もはや、自分は自分のものではない。私たちは神の羊です。神のものです。だからもう一人で自分の力だけに頼って、とにかく必死に人生を歩まなくてもよい。力んでいた肩の力を抜いて、自らの力を手放して、羊飼いである神に私たちの人生をただ委ねていけばよい。そのとき、私たちの心に不思議と感謝と喜びの涙が溢れ流れるでありましょう。
「このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」。私たちは誰もが悔い改める一人の罪人、見失われた一匹の羊でありました。かつては九十九人の正しい人、ファリサイ派や律法学者たちのように自分で自らを「正しい者」であると信じて、自分は悔い改める必要なんてないと、そう勝手に自負していました。しかしいまは見失われた自分を神に見出され、生きる意味を与えられ、十字架と復活の救いによって教会に生きる者とされました。さきに救われた者たちは、神に私を見つけ出されたときのその喜びを、救いの喜びを、まだ見つけ出されていない者たちに対して、証ししていかなければなりません。しっかりと伝えていかなければなりません。それが教会に委ねられている伝道のわざであります。
まだ見つけ出されていない、救いを受け取っていない方は、ぜひ少しでも自分がいま握り締めている力を手放してみてください。その開いた掌のなかにあなたを見つけ出すまで、諦めず、あなたの名前を呼んで、捜し歩いてくださった主なる神の愛が注がれることでありましょう。その愛を信じて、主の御手に我が身を委ねるとき、心に平安が与えられ、大きな喜びが天に響き渡ります。
私の羊飼いである主よ、いま私たちをその御手でたしかに捕らえてください。自分の力にのみ頼り、傷つきさまよい迷う私たちにあなたが主のいのちをお与えください。私たちは信じます。あなたの言葉に委ねます。ここに大きな喜びがあります。私たちの救いがあります。いま、私の心を支配する不安や恐れも、涙も痛みも、そのすべてをあなたに委ねます。私はあなたのもの、あなたの羊です。あなたの御声に聴き従い、あなたについて行きます。この祈り、主の御名によって、御前にお捧げいたします。アーメン