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最初に感謝すべきこと

2025年2月2日

ローマの信徒への手紙 第1章8-17節
川崎 公平

主日礼拝

 

■ローマの信徒への手紙第1章の1節から7節までを、先月一か月かけて読みました。それは手紙の最初の挨拶の部分であって、いよいよ8節から手紙の本題が始まると読むことができます。そこでパウロは、何を書き始めようとするのでしょうか。ここで聖書の学者たちが指摘することは、8節の初めにある「初めに」という言葉です。「第一に」という言葉なのですが、ふつうに考えるとこの言葉は「第二に」「第三に」という番号が予想される表現なのに、その第二、第三がどこにもないのです。「第一番目のことはこれです!」と書き始めて、ついつい筆が滑り過ぎて、第二、第三のことを書くのを忘れたのでしょうか。そうかもしれませんが、むしろこれは第二も第三もない、「これだけだ」ということだろうと思います。とにかく最初に、これだけは言っておかなければならない。私は、本当に神さまに感謝しているのだ。何を感謝しているかというと、「あなたがたの信仰が世界中に語り伝えられているからです」。私が第一に言いたいことはこれだ。そして、結局、これだけなんだ。そう言うのです。

ある説教者が、こういうことを言っていて、なるほど本当にそうだと思わされたことがあります。人間の値打ちは、その人が誰に何を感謝して生きているか、そのことによって測られる、と言うのです。人の値打ちを計るときに、たとえばその人の才能とか能力とか、頭の良し悪し、性格の良し悪し、顔の良し悪しなんて言うと、そんなばかなと思われるかもしれませんが、現実にはその人の見目形で人間の値打ちを測ろうとする心の動きは、少なくとも日本中に満ち満ちていると思います。ところがこの人は、人間の値打ちは、その人が正しく感謝しているか、そのことによって測られると言うのです。その人が、何を感謝しているか。誰に感謝して生きているか。皆さんは、何を感謝して生きておられるでしょうか。考えてみると、私どもはけっこういろんなものにこだわって、しばしば実につまらない物事にこだわって、本当は感謝すべきことが山ほど与えられているのに、ちっとものその生活が感謝の生活にならない。そのために、自分自身の値打ちを自分でだめにしていることがあるのではないかと思うのです。

■ところがここでパウロが、「結局、これだけなんだ」と言っている感謝の内容は、いささかわれわれの意表を突くものがあるかもしれません。「あなたがたの信仰が世界中に語り伝えられているからです」。私が神に感謝していることは、結局、このことだけだ。第二も第三もない。このことだけを、私は神に感謝しているのだ。

「あなたがたの信仰が世界中に語り伝えられているからです」と言います。どうも言い方が大げさすぎるようです。ローマという町が、当時の世界の中心だったから、そこにある教会も世界最大級のすばらしい教会になっていて、世界中の教会がローマの教会を模範にしよう、目標にしよう、追いつき追い越せとやっていた、ということではなさそうです。当時のローマの教会の信仰が特別に立派だったという証拠はどこにもないし、むしろその反証のほうがたくさんあるのです。反証というのはつまり、ローマの教会にもいろいろ問題があったらしい。先週も引用した箇所ですが、この手紙の第14章にこういう言葉があります。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです(1-3節)。

それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか(10節)。

いきなり野菜とか言われてもわけがわからないのですが、宗教的な意味で、これを食べていいか悪いか、という問題があったらしいのです。そこで深刻な問題になったことは、そういう食事のことをめぐって、互いに裁き合い、教会の交わりがうまくいかなくなっていたらしい。「食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです」。その人を教会に受け入れてくださり、今生かしていてくださるのは神だ。そのようにして造られたローマの教会であり、この鎌倉雪ノ下教会でもあるのです。驚くべき恵みです。驚くべき奇跡です。これ以上感謝すべきことはないし、これしか感謝すべきことはないと言ってもよいのです。パウロにとっては、そこに教会があること、それ自体が、神に感謝せずにおれないことでした。

■先週の月曜日から木曜日まで、説教塾の説教者リトリートという集まりに出かけてきました。10年くらい前から、毎年説教塾がこの季節に試みている集会に、今回私は初めて参加しました。夏休みでもないのに、こんなに長く教会を留守にするのは何年ぶりだろうかと思いましたが、とてもよいリトリートの時となりました。リトリートっていったい何だ、と思われるかもしれません。この集会の案内にこんな文章がありました。

リトリートRetreatとは「撤退」を意味する軍隊用語としても使われる言葉。戦闘の旗色が思わしくないとき、兵士たちが傷つき疲れ果てているとき、戦場に退却ラッパが鳴り響き、最前線から退きます。ほうぼうで戦い続ける兵士たちは、いったん退却して共に集い、傷の手当をし、栄養と休息をとり、全体の俯瞰を得て作戦を練り直し、再び局地戦に散っていきます。

リトリートとは「撤退」という意味だと言われます。こういうことを強調しすぎると、妙な心配を呼び起こしてしまうかもしれません。「川﨑先生、4日間も撤退しなければならないほど具合が悪いんですか」。確かに一方では、自分にもそういう時間が必要だったかな、と思わないでもありませんが、今年初めてリトリートに参加することになった直接のきっかけは、説教塾の人たちが『使徒言行録を読もう』という私の書物をリトリートのテキストにしようという企画を立ててくださったからです。4日間、本当に朝から晩まで、使徒言行録を徹底的に読もう。さすがに疲れ果てましたが、密度の高い、恵み豊かな時間を過ごすことができました。

使徒言行録もまた、教会の悩みと喜びを赤裸々に伝えます。そのリトリートに集まるのは基本的に牧師だけですが、だからこそ率直に教会の悩みが語られます。そういう牧師たちを慰める使徒言行録のみ言葉もまた、教会の悩みを隠そうとはしないし、教会の弱さを隠そうともしないし、けれどもまたそれ以上に、確信をもって教会に与えられた喜びを伝えてくれます。教会に生きるということは、本当にすばらしいことだ。

そのリトリートの中で、私はこういう発言をしました。理想の教会なんてものは、地上のどこにも存在しない。使徒言行録も、決して理想の教会の姿を書いてなんかいない。そこで私が思わず話したことは、鎌倉雪ノ下教会のことです。私が鎌倉の教会に来る前、私は鎌倉雪ノ下教会について全く無知ではありませんでした。なぜかと言うと、かつてこの教会の牧師であった加藤常昭先生の書物を、わりと熱心に読んでいたからです。私だけではないでしょう、加藤常昭先生の文章を通して、鎌倉雪ノ下教会のことがそれこそ日本中に語り伝えられて、大げさでも何でもなく全国の教会が、鎌倉雪ノ下教会のような教会を目指そう、という思いに駆られたことは、動かしがたい事実だと思います。ところが、私が鎌倉に来て気づいたことは、「何だ、ふつうの教会じゃないか」。加藤先生の書物だけ読んでいたら、どんなにすばらしい教会かと思っていたけれども、まんまと騙された、とは思いませんでした。別に加藤先生が嘘を書いたわけではありません。臭いものには蓋をして、鎌倉雪ノ下教会の良いところだけを感謝しながらそれを本に書いたということでもないのです。加藤先生は、教会を信じていたんだ。そのことが、よくわかりました。

「我は、聖なる公同の教会を信じる」と、先ほど使徒信条の中で唱えました。パウロも、同じだったと思うのです。使徒言行録を書いたルカも同じだったと思うのです。教会を信じた。理想の教会を思い描いて、それを信じたのではありません。現実の教会を、そのまま、これは神の教会である、聖なる教会であると信じた。ローマの教会に対しても、お世辞を言ったのではありません。理想を押し付けたのでもありません。そこに教会が生きている。神のみわざ以外の何ものでもない。「神がその人を受け入れてくださったのです」。そうであれば、感謝以外の心が生まれるわけがないのです。

■パウロは、そのような意味で教会を信じていたから、だからこそ、「あなたがたに会いたい、ローマの教会に行きたい」と、そう言うのです。なぜならば、パウロにとって、神の恵みをいただく道は、教会に会う以外にひとつも存在しなかったからです。

私が御子の福音を宣べ伝えながら心から仕えている神が証ししてくださることですが、私は、あなたがたのことを絶えず思い起こし、祈るときにはいつも、神の御心によって、あなたがたのところに行く道が開かれるようにと願っています。あなたがたに会いたいと切に望むのは、霊の賜物をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたいからです(9-11節)。

ただここで、何かしっくりこないものを感じる方があるかもしれません。たった今、ローマの教会よ、あなたがたの信仰はすばらしいとほめたばかりなのです。あなたがたの信仰のすばらしさを知らない人は、世界中どこをさがしてもいない。そこまで言っておきながら、11節では「あなたがたに会いたいと切に望むのは、霊の賜物をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたいからです」と言います。ローマの教会の信仰は十分立派なんだから、これ以上わざわざパウロが行って力づける必要があるか。余計なおせっかいだということにもなりかねません。

しかしそれは逆の側からも似たようなことが言えるので、12節では「というよりも」と言い換えた上で、「あなたがたのところで、お互いに持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです」。いったい、パウロほどの大伝道者が、ほかの人の信仰によって励ましてもらう必要があったのでしょうか。そういう屁理屈を言う人がいたとしたら、その人はまだ「教会を信じる」ということがどういうことか、よくわかっていないと言わなければなりません。

「わたしは、聖なる公同の教会を信じます」。そう言ったあとで、使徒信条はさらに続けます。「聖徒の交わりを、わたしは信じます」。教会とは〈聖徒の交わり〉です。私どもがここに集まっているのは、集まっていたほうがいろいろ便利だとか、キリスト教の布教のためにはみんなの力を合わせたほうがずっと有利だとか、そんな理由によるのではありません。私どもが信じていることは、今ここに聖なる人びとの交わりが造られているということです。その〈聖徒の交わり〉の中には、どんなに小さな人も、人を励ます力を持たないほど小さな人はいないし、またどんなに大きく見える人も、人から励ましてもらう必要がないほどに大きな人はおりません。

したがって、パウロがここでローマの教会の人たちに会いたい、神がどうにかしてその道を開いてくださるようにと言っているのは、たまには別の先生の話を聴いてみるのもいいよ、というようなことではありません。何と言っても俺が世界でいちばんの説教者なんだから、一度でいいから俺の話を聴け、ということではないのです。神の恵みを互いに分かち合い、与え合うことによってしか、私どもの信仰生活は成り立たないのです。それが「聖徒の交わり」という言葉の意味です。

〈聖徒の交わり〉と私どもの日本語では言いますが、実は使徒信条がもともと書かれたラテン語では、別の訳し方も可能です。私どもはふだん「聖なる人びとの交わり」と理解するわけですが、「聖なる事物」と読むこともできます。その場合は、「聖なる事物を共有すること」と理解することになります。私どもは、神の恵みをひとりでいただくことはできません。ひとり占めすることはできません。分け合うことによって、初めて意味を持つものを、私どもはいただいている。何と言っても、15節、そして16節、17節の表現で言えば、福音をいただいている。よい知らせをいただいている。それを互いに分かち合い、与え合いながら、そこに聖なる人びとの交わりが生まれます。それを私どもは、「聖なる公同の教会、すなわち聖徒の交わり、聖なるものの分かち合いを信じます」と言っているのです。

■加藤常昭先生の時代から、ほとんど鎌倉雪ノ下教会の標語のように定着した言葉のひとつに、〈慰めの共同体〉という言葉があります。教会は、慰めの共同体である。この教会の中には、誰のことも慰めることができないほど小さな人間はひとりもいないし、誰かから慰めてもらう必要がないほど大きな人間もひとりもいない。だがしかし、牧師が高いところから大きな声でそんなことを言ってみても、「そんなこと言ってもねえ……」という声が、既にあちこちから聞こえてくるような気がします。〈慰めの共同体〉だって? じゃあどうしてこんなことが起こるんだ。誰のせいだ。そういうときに、臭いものに蓋をして、「いやいや、鎌倉雪ノ下教会はすばらしい教会なんだ、日本中にその名が知れ渡っているんだ」と強弁してみたって、これほど無意味なことはないでしょう。大切なことは、教会を信じることであります。真実の慰めをいただく道は、教会に生きる以外にない。そのことを信じる。その中心に立つのは、誰かが誰かを慰める、ということではありません。少なくともそれが第一のことにはなりません。神からいただく慰めを、一緒にいただく。それこそ聖なるものを、共有するのです。そこに、慰めの交わりが造られます。その教会を、信じるのです。

パウロは、まさしく〈教会を信じる〉という一点に立ちながら、第12章に至って具体的に教会の生活を描いてみせます。たとえば、第12章4節以下であります。

一つの体の中に多くの部分があっても、みな同じ働きをしているわけではありません。それと同じように、私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです。私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。

その神から与えられた恵みによって、賜物によって、互いを生かす交わりを造ろう。そのような言葉の流れの中で、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(15節)というあの有名な言葉も記されるのです。単なる格言ではありません。倫理道徳の教えではありません。教会に与えられた恵みを描いているのです。「喜ぶ者と共に喜びなさい」。神からいただく恵みを共に喜ぶなら、きっとそうすることができるでしょう。「泣く者と共に泣きなさい」。一緒に絶望の中に落ち込みなさい、という意味ではありません。神に慰めていただかなくても大丈夫な人なんかひとりもいないのですから、あなたも含めて、すべての人は神に慰めていただかなければならないのですから、「泣く人と共に、あなたも一緒に、神の慰めの中に立ちなさい」。もしここに、そのような慰めの共同体が生きているなら、(先週もほとんど同じ表現を使わせていただきましたが)この世界にあって、どんなに大きな証しになるだろうかと思うのです。

ローマの信徒への手紙とあわせて、創世記第4章の伝えるカインとアベルの物語を読みました。何度読んでも、私どもの心を暗くするものがあると思います。これが決しておとぎ話でも何でもなく、世界の現実だと気づかされるからです。カインとは、私のことだと、気づかされるからです。弟アベルが神の恵みをいただいて喜んでいたとき、カインはそれを一緒に喜ぶことができませんでした。そうであれば、逆にアベルが悲しんでいたなら、決して共に悲しむこともできなかったでしょう。そんなカインがアベルを打ち殺したあと、神はカインにお尋ねになりました。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」。私どもも問われていると思います。あなたの弟は、どこにいるのか。あなたの母親は、どこにいるのか。あなたの夫は、どこにいるのか。あなたの隣人は、どこにいるのか。「知りません。私はあの人の番人ですか」。そういう私どもの心に、真っ向から立ち向かうように、神の言葉が語られる。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」。そのためにも、まず第一に大切なことは、教会を信じることです。既にいただいている福音を信じることです。神の慰めを、分かち合う道を見出すことであります。その最初に立つのが、パウロが最初にしていること、すなわち感謝です。教会を、感謝するのです。

■〈聖徒の交わり〉という使徒信条の言葉は、しばしばこれが聖餐そのものを意味すると理解されました。その理解に立って使徒信条を言い直すと、「我は聖なる公同の教会、そして聖餐を信じます」ということになります。なぜ急にここで聖餐が出てくるかというと、ここで私どもがいただくパンと杯こそ、互いに分かち合うべき聖なる恵みであるからです。今、私どものために死んでくださったお方の愛を共に分かち合いながら、まさにそのことによって、ひとつの教会を造らせていただきます。喜びを分かち合い、悲しみを分かち合い、何よりもその中で神の慰めを分かち合いながら、私どもをこの教会に生かしてくださるのは神であると、そのことを信じさせていただきたい。そのことを、まず第一に感謝させていただきたい。それができたら、第二、第三のものは何もいらないのです。お祈りをいたします。

 

喜びの中でも、悲しみの中でも、他者を忘れる私どもです。そんな私どもが、ただあなたの恵みによってのみ救われて、ひとつの教会を造らせていただいています。神が、わたしを受け入れてくださったのです。あの人もこの人も、神よ、あなたが受け入れてくださったのです。まず第一に、そのことを真実に感謝する者とさせてください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン

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