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神に従う喜び

2025年1月26日

ローマの信徒への手紙 第1章1-7節
川崎 公平

主日礼拝

 

■新年最初の礼拝から、伝道者パウロの書きましたローマの信徒への手紙を読み始めて、今日で3回目、いまだに最初の挨拶のところを読み続けています。なかなか先に進まないなあ、と思っておられる方もあるかもしれませんが、たとえば私がいちばんよく参照している竹森満佐一牧師の説教集では、第1章1節から7節について8回の説教をしています。手紙の冒頭の挨拶の言葉ですが、それだけの中身のある挨拶であるという理解があるわけです。別に竹森先生と張り合っているつもりもないのですが、来週は次の段落に進む予定です。

聖書を丁寧に読むのも結構ですが、しかしあまりにもゆっくりすぎると、自分がいったい何を読んでいるのかを忘れてしまうかもしれません。私どもが今読んでいるのは、手紙であります。特にこのローマの信徒への手紙は、少し特殊な事情の中で書かれました。その特殊な事情というのは、この手紙を書いたパウロは、まだローマの教会を訪ねたことがないということです。考えてみれば不思議なことかもしれません。まだ会ったことのない人から手紙をもらったことがあるでしょうか。下手をすると、「なんか、知らない人から、すごい長い手紙が来た」と、怪しまれてしまうかもしれません。

そこで大切なことは、最初の挨拶であります。何の前置きもなく、いきなり本題に入るわけにはいきませんし、「皆さまにおかれましては、ますますご健勝のことと存じます」なんて言われたって、「いや、お前、誰だよ」ということにしかならないでしょう。そこでパウロが当然最初に明らかにしなければならなかったことは、自分は何者か、ということです。パウロとローマの教会が、どういう関係にあるのか、ということです。「なぜわたしが今、あなたがたに手紙を書くか。わたしとあなたがたを結び付けているものは何か」。それを明らかにするための挨拶は、自ずと丁寧にならざるを得ませんでした。わたしとあなたがたを結び付けているのは、ただイエス・キリストの恵みだけだ。キリストの福音だけだ。そのことを、手紙を書き始める大前提として、まず丁寧に書かないわけにはいきませんでした。

しかし考えてみますと、これは手紙に限ったことではないだろうと思います。それはたとえば、こう言い換えてもいいので、なぜ私が今、ここに立っているのでしょうか。なぜ皆さんは、今私の話を聴いておられるのでしょうか。私と皆さんを結び付けているものは、いったい何でしょうか。思えば、私がこの教会の牧師になって、いつの間にか15年が過ぎようとしています。そりゃ年もとるわけだと、しみじみ思います。長くなればなるほど、うっかりするとこの牧師がこの教会にいるのは当たり前のように感じてしまうかもしれません。しかし本当は絶えず新しく問わなければならないことだと思います。なぜ私はここに立っているんだろう。私はここで、誰に、何を、話しているんだろう。皆さんもいつも新しく問い直さないといけない。なぜ私たちは、この人の話を聴いているんだろう。私と皆さんを結び付けるもの、それはただキリストの恵みだけであります。お互いがどれだけよく知っているか、気が合うか、話が合うか、あるいはどんなに違っているか、問題はそういうことではないので、教会を結ぶもの、それはただキリストの恵みだけだ。それをパウロは5節の最後のところで、「恵みを受けて使徒とされました」と言うのです。「私たちは、この方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。恵みを受けた使徒として、私は今、あなたがたに手紙を書く。そう言うのです。

■「恵みを受けて使徒とされました」とありますが、この翻訳は原文のニュアンスを少しぼんやりさせてしまっているかもしれません。「私たちは、この方により(つまり、主イエス・キリストを通して)恵みと、使徒の務めを受けました」という文章です。パウロがキリストからいただいたもの、それは〈恵み〉と〈使徒職〉である。しかもパウロは、ふたつのものをいただいたとは考えなかったと思います。パウロにとっては、神の恵みを受けるということと、使徒の務めをいただくことは、ひとつのことでした。

パウロという人は、何度もお話ししておりますように、かつてはいちばん残酷な教会の迫害者でした。キリスト教会に属する者を捕らえ、あるいは殺し、そんなパウロの前にキリストご自身が立ちはだかってくださいました。「わたしはキリストから恵みをいただいた。その恵みとは、使徒の務めをいただくことであった」ということは、パウロには本当によくわかったに違いありません。

使徒というのは、今ではかなり限定された職務を表す言葉になっていますが、もともとは単純な意味の言葉で、「遣わされた者」を意味します。誰がわたしを遣わすのか。誰のところに遣わされるのか。何のために遣わされるのか。パウロはこの手紙の冒頭で、そのことを明らかにすることによって、自分とローマの教会の結びつきを確かめようとするのです。

今私が皆さんの前に立っているのも、まったく同じ事情によります。私がここに立ちたいと思ったから、ここに立っているのではありません。私はここで説教したいんです、なんてことを言い始めるようになったら、そんな牧師はすぐにでも辞めなければなりません。神に遣わされた者として、私は今ここに立つ。そして、もしそうであるならば、皆さんだって、川﨑先生の話を聴きたいからこの教会に来ています、というわけにはいかないのです。この牧師の話が好きだから来る。この牧師が嫌いだから来ない。人間の好き嫌いによって教会のつながりが造られるとしたら、こんなに頼りないことはないでしょう。そうではなくて、恵みを受けて、神に遣わされた者が、ただキリストの恵みだけを語る。それを聴く。教会が教会として立つ道は、そこにしかありません。

■そこで大切な意味を持つのが、もうひとつの「恵み」という、この言葉です。先ほど申しましたように、パウロにとって、恵みを受けることと使徒の務めを受けることとは、ひとつのことでした。先ほど、「私は神に遣わされた者として、今ここに立つ」などと申しましたが、その言葉だけを抜き出したら、とんでもなく傲慢な印象を与えるかもしれません。けれどもパウロはここで決して傲慢になんかなっていない。むしろ改めて謙遜にならざるを得なかっただろうと思います。自分はただ、恵みを受けただけだ。偉いから使徒になったんじゃない。むしろ、使徒として用いられるにはいちばん遠いところで騒ぎまわっていたのに、ただ、恵みを受けただけだ。

しかし考えてみますと、「恵み」という日本語にはいいニュアンスと悪いニュアンスがあるかもしれません。たとえば「あの人は才能に恵まれた人だ」という言い方をすることがあるでしょう。もしそうだとすると、「恵みを受けて使徒とされた」ということも、「いやー、あの先生は本当に才能に恵まれていてすごい」とか、「どうも今の牧師は才能に恵まれているとは言い難い」とか、そういう話になりかねません。しかしまた他方で「恵み」という日本語には別のニュアンスもあって、たとえば衣食住に事欠く人が、人にいろいろ恵んでもらって、何とか命をつないでいる、という意味にも使われるでしょう。聖書が用いる「恵み」という言葉は、圧倒的に後者の意味に近いだろうと思います。

そこでまた同じ話に戻るわけですが、私がここに立っているのも、私が人前で話をする才能に恵まれているからではありません。人よりもいっぱい勉強したからここに立っているのではないのです。ただ、恵みを受けたのです。もしキリストの恵みがなかったら、どこで野垂れ死んでいたかわからないような人間が、だからこそ今ここで語り得ることも、キリストの恵み以外には何もありません。私自身、本当にパウロと同じように、ただ恵みによって救われたのだし、今皆さんがこの教会に生かされているのも、同じキリストの恵みに捕らえられたからでしかありません。6節に書いてある通り、「あなたがたも異邦人の中にあって、召されてイエス・キリストのものとなったのです」。「召されて」というのは「呼ばれて」ということです。キリストに呼ばれた。何の取り柄もなかったのに、ただ恵みによってキリストに招かれ、キリストのものとされた。このキリストの恵みによってのみ、パウロとローマの教会との間にも橋がかかり、そこからこの手紙による対話が始まるのです。

■教会の交わり、あるいは教会のつながり、と言ったほうがよいかもしれません、それを造るのは、ただキリストの恵みだけです。仲がいいとか気が合うとか話が合うとか、そんなことで教会が作られることはない。当たり前のことのようですが、とても大切なことです。

私どもの教会では、毎年6月に新入会員オリエンテーションという集まりをしています。その1年の間に洗礼入会、転入会など、新しくこの教会の交わりに加わった方たちを集めて、歓迎会のような、オリエンテーションのようなことをします。昔は毎年2月にしていたのですが、よく考えてみると2月というのは明らかにいちばん風邪とかインフルエンザとか流行る時期ですから、コロナ禍を経て3年ぶりに、というタイミングで6月に変えました。

その3年ぶりにした昨年度の新入会員オリエンテーションで、こういう質問をした方がいました。教会に来るのは本当に楽しくて、今は教会なしに自分の人生は考えられないと思うのだけれども、どうしても教会で生活しているといろんなトラブルが起こる。気が合わない、意見が合わない、そもそも人間として相性が合わないんじゃないか。どうしたらいいですか。そこで私はこういう話をしました。そうですね、きっと教会でのトラブルというのは、完全に解決することは、一生ないでしょうね。私どもの悩みというのは、もちろんいろんな悩みがあるのでしょうけれども、何と言ってもいちばん深刻なことは人間関係だろうと思います。どうしてあの人は話が通じないんだろう。どうしてあの人はあんなひどいことをするんだろう。世間一般ではそういう悩みが絶えないけれども、教会に行けばそんな悩みから解放されるかと思ったら、ちっともそんなことはなくて、何だかむしろ教会に来るようになって余計人間関係の悩みが深くなったような気がする。きっと、そういうことがあるだろうと思うのです。なぜかと言うと、教会ほどいろんな人間が集まる場所はほとんどないからです。年齢も性別も性格も、学歴も職歴も全然違う。教会にでも来なかったら、一生触れ合うはずのない人間がここで一緒に生活しているのですから、教会で起こる人間関係のトラブルというのは、本来あってはならない不幸な事故ではありません。むしろそれは、教会の必然であると言わなければなりません。

■そのことをもう少し深く考えるために、ローマの信徒への手紙の第14章1節以下を読んでみたいと思います。そのところを読みますと、なぜパウロがローマの教会に宛てて手紙を書かなければならなかったか、その具体的な事情を窺い知ることができます。

信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです(第14章1-3節)。

「なぜ急に野菜の話になるんだろう」と思われるかもしれませんが、問題の肝心な部分は理解できるだろうと思います。「何を食べてもよい」とか、「弱い人は野菜だけを食べている」というのは、宗教的な理由でそうしている、という話です。5節にはまた別の話題が出てきて、「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」というのも、やはり宗教的な話です。「何を食べてもよいと信じている人」と「野菜だけを食べている人」と、もしかしたら教会にでも来ない限り、一生お付き合いをする機会もなかったかもしれません。ところが教会には、すべての人が招かれていますから、だからこの全然違うふたりが変にぶつかり合うことになってしまったのです。そこでパウロは言うのです。「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」。トラブル回避の処世術ではありません。なぜこのふたりが同じ教会に生きているのか、そのことをよく考えなさい、という話です。「食べる人は、食べない人を軽んじてはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてもなりません。神がその人を受け入れてくださったのです」。ただ恵みによって、神がその人を受け入れてくださったのです。それが唯一の理由です。それが教会を造るただひとつの絆です。ただ恵みによって、神が受け入れてくださった。そのことをまた4節では、たいへん印象深い言葉で教えてくれます。

他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人次第です。しかし、召し使いは立つでしょう。主がその人を立たせることがおできになるからです。

食べる者も食べない者も、ただキリストの恵みによって召されたのです。それをここでは、「他人の召し使いを裁くな」と言います。あなたが裁こうとしているその人は、他人の召し使いなんですよ。神に仕える召し使いなんですよ。だから第14章の6節では、「食べる人は主のために食べます。神に感謝しているからです。また、食べない人も主のために食べません。神に感謝しているからです」と言うのです。食べる人は、食べることによって主に仕えているのだ。食べない人は、食べないことによって主にお仕えしているのだ。だから、自分と違う人を裁くな。

もしも私どもの教会が、このような意味で本当に一緒に生きることができたら、それはこの世界に対して、どんなに大きな証しになるだろうかと思うのです。今私どもの世界が直面している大きな悩みは、端的に言って、一緒に生きることができないということです。アメリカ大統領の就任に際して、米国聖公会の司教が語った説教が話題になっています。「一致」(unity)という言葉の繰り返しが、非常に印象的であったと思います。「神が助けてくださるなら、この国(アメリカ合衆国)は一致して生きることができるはずだ」と言います。「私たちは不完全な人間だけれども、だからこそ神の助けを祈り求めなければならない」と、そう言うのです。けれどもこの司教の祈りが、明らかに前途多難であることにも皆気づいているのです。

どうしたら一緒に生きることができるのでしょうか。どうしたら橋がかかるのでしょうか。私どもの教会にひとつできることがあるとしたら、ただキリストの恵みによってのみ、ひとつになって生きる教会をおささげすることです。この教会を、主イエスがそう呼んでくださったように、世の光、地の塩として信じ抜くことです。いや、わざわざ遠くにある聖書箇所を持ってくる必要もありません、7節の言葉で言えば、「神に愛され、聖なる者として召された」ものとして、この教会を信じ抜くことです。私どもは、神に愛され、聖なる者として召されたのですから、お互いにただ恵みを受けてここに生かされているのですから、そんな私どもがひとりひとり、小さな使徒として、神に遣わされた者として、だからこそ他人の召し使いを裁くことなく生きるができたら、ただそれだけで、大きな証しの力を持つと、私はそう信じております。けれどもそのためには、ただ仲良くしましょうなどと呼びかけたって駄目です。クリスチャンなんだから仲良くしましょうなんて言ったって、現実問題、何の助けにもならないでしょう。私どもがすべきことは、キリストの福音を聴くことであります。

■そのために、もうひとつ最後に、大切なことがあります。もう一度5節に戻ります。「私たちは、この方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。ここに「信仰による従順」という言葉があります。パウロはここで、信じるとは従順になることだと言っております。この信仰の従順に、すべての異邦人を導かないといけない。そのために、わたしは恵みを受けて使徒とされたのだと言うのですが、この従順ということこそ、いちばん現代人が聞きたがらないことであるかもしれません。考えてもみてください、教会の牧師が口を開けば、従順になりなさい、従順になりなさいなんて言っていたら、あっという間に人気がなくなるだろうと思います。もちろんその従順とは、神に対する従順であります。けれども現代人が好む福音は、従順ではなくて、自由であろうと思います。だがしかし、おのおのが自由に生きている、自由に生きようとしている、そのひとりひとりが罪の奴隷になっていたら、その自由は本当に人を生かす自由にはならないのです。この手紙の第6章16節に、こういう言葉があります。

知らないのですか。あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる。つまり、罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従う奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。

「あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その人の奴隷となる」。当たり前のことです。けれども問題は、誰の奴隷になるかです。罪の奴隷になって死に至るのか、神の奴隷になって義に至るのか。

従順、従順と牧師が言えば、きっと反論があるでしょう。神に従わない自由もあるのではないか。神を信じない自由もあるのではないか。ところがここでパウロがはっきりと言っていることは、それは自由でも何でもない。罪の奴隷になっているだけだ。神の従順な召し使いになる以外に、人間が人間らしく生きる道はないのです。そして、私どもが神への従順を学んだとき、この教会がそのような信仰の従順を学び得たとき、「他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか」という言葉の意味もよくわかるようになるはずです。

「他人の召し使いを裁くあなたは、一体何者ですか」。耳が痛いです。その痛さを、きちんと痛がることが大切だと思うのです。なぜわれわれは、神に愛されている隣人を愛することができないのでしょうか。なぜ他人の召し使い、つまり神に仕えている他者を、わたしが裁いてしまうのでしょうか。私ども人間の根本的な問題は、まさにそこにあるのであって、すべての人が王さまになりたがっているのです。他人の召し使いだろうが何だろうがお構いなしに、皆互いに相手を服従させたがっている。けれどもそのような世界に向かって、パウロは自分自身を、恵みを受けた使徒として差し出していくのです。「わたしは、すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。すべての人が、神への従順へと導かれないといけない。そのことによって初めて、7節の終わりにあるように、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように」という、この祈りが現実のものとなるのです。

「恵みと平和があなたがたにありますように」。本物の恵みと平和が、この世界を覆い尽くしますように。偽りの恵みと平和を追い求めてばかりいるこの世界であり、私ども自身の生活であると思うのです。罪の奴隷になって、偽りの恵みと平和を追い求め、その結果自分の隣人がどんなに傷ついているか、気づくことができません。ましてそのために神がどんなに傷ついているか、考えようともしないのです。そんな世界が救われるただひとつの道を、パウロは心を込めて示してくれます。キリストの恵みをいただいて、神に従順にさせていただこう。それ以外に、人間が人間として生きる道はないではないか。今私どもが、真実の恵みと平安に立つことができるように、世界がその望みに目を開くことができるように、なお許される限り、この祈りと礼拝の生活に励みたいと願います。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、私どもも、あなたの恵みを受けました。召されてイエス・キリストのものとされました。真実の恵みと平和の中に導かれました。性懲りもなく、他人の召し使いを裁きたがる私どもを、どうか憐れんでください。あなたに従順に従う喜びの中で、隣人と共に生きる望みを新しく見出し、またそれをこの世界にあって、あなたが生きておられる証しとすることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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