空しい生活から信仰生活へ
ペトロの手紙一 第1章17-19節
近藤 勝彦(東京神学大学名誉教授)

主日伝道礼拝
人間は自分で自分を変えることができるでしょうか。自分や自分の生活を変えられないで、悩んでいる人もいるでしょう。信仰を求めて救いに入れられるという中には、「生き方が変えられる」ことも含まれています。今朝の聖書箇所では主イエス・キリストを信じる者に、「あなたがたは先祖伝来の空しい生活から贖われた」と語っています。キリスト者は、信仰のなかったかつての生活の「むなしさ」から解放されて、意味のある人生、希望と喜びのある人生に変えられた人だと言うのです。今朝はこの「生き方が変えられる」ということに注意を向けたいと思います。
「空しい生活」から「贖われた」と言われています。「贖われた」と言う言葉には、「身代金」という言葉が含まれています。身代金が支払われて人生が変えられたというのです。身代金が支払われて解放される話は、聖書の時代では「奴隷」が自由にされる様子でよく知られていました。古代社会には返済不能な借金によって奴隷に身を落とした人や、戦争で捕虜になって奴隷になった人がいました。そういう奴隷の状態から解放されるためには金や銀で身代金を払う必要があったわけです。この奴隷状態からの「贖い」を例として、神の救いとは何かが理解されました。
それは、「先祖伝来のむなしい生活から贖われた」と言われます。「先祖伝来の生活」というのは、本来の言葉としては、高貴な名誉ある生活を意味しました。それは誇らしいでした。しかし主イエス・キリストを知る信仰によって価値の逆転が起きました。先祖伝来の生活が元来はどんなに価値ある、高貴な生活だったとしても、それは主イエス・キリストを知らなかったわけです。主にあって神を信じていませんでした。それで実は、「空しい」生活ではなかったか、そこから解放されなければならない生活だった、というのです。
主イエス・キリストの十字架による贖いとそこに現われた神の愛、そして主イエスの復活に示された神の力、それらを信じて生きるとき、先祖伝来を誇りとする価値観は変えられ、新しい命に生きる素晴らしさを知ったわけです。かつての生活の「空しさ」に気付きます。かつては成功と思われていたことが、本当は意味のない空しい生活だったと分かります。「空しい生活」という言葉には、「誤った生活」という意味もあり、さらには「ばかばかしい生活」という意味に近いと言われます。わたしたちの中にも、名誉ある高貴な生活と思っていたけど、実は「ばかばかしい生活」だと気付くことがあるのではないでしょうか。主イエスの救いにあずかるとき、そういう大転換が起きます。
「贖い」は身代金を払って解放すると言いました。「贖い」には筋のとおった手順が必要で、払われるべき相応のものが払われなければ本当の救いになりません。奴隷状態からの自由になるといっても、「逃亡奴隷」では、逃げてはきたが、もし見つかったらもとの奴隷に戻されます。ひやひやしながら隠れて生活する。それは本当の自由ではありません。不安にさいなまれる日々では救いになりません。根拠ある堂々たる救いが必要なのです。
ですから「金や銀のような朽ち果てるものにはよらず」と言われるわけです。主イエスによる「贖い」は、「金や銀のような朽ち果てるもの」でなく、「傷も染みもない小羊のようなキリストの尊い血による」と語られます。かつての「空しい生活」も、そこに巻き込まれていれば、わたしたち自身にも責任があります。そのとき主イエスは、道理に即し、踏まえるべき手順をきちんと踏まえ、それも遥かに越えた値を払って、それ以上ない確かな、堂々たる救いを遂行してくださったわけです。傷も染みもない、そして朽ち果てることのないキリストの尊い血が支払われたのは、そのためだと言われます。尊い血は、主の命そのものです。キリストの命が代償として支払われ、わたしたちはそれまでの空しい生活から贖い出され、新しい人生に変えられました。
「贖う」というのは、「身代金」を払うことだと言いましたが、このことを主イエスが自ら語られたことがあります。それは、主イエスがわたしが来たのは仕えられるためでなく、「仕えるため」に来たと言われたときです(マルコ10・45)。そして「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われました。ゴルゴタの丘の十字架に命をかけたのは、わたしたちの身代金として命を献げ、わたしたちに仕えてくださったというのです。
自分の信仰生活を語るのは恐縮ですが、わたしは高校2年生の時に洗礼を受けました。もう65年も前のことです。神様を信じてというより、信じたくて、洗礼を受けました。「神の愛」というのは言葉で知ってはいましたが、身をもっては分からなかったと思います。神学生時代にも、ひょとすると牧師になった当初も確信は薄かったように思います。それが以前にましてはっきりと分かった経験をしたのは、牧師になって、それも暫く経って、地方の教会の修養会などで奉仕する頃になって、ある時、主イエス・キリストによって「仕えられている」ということに深く気付いた時がありました。主イエス・キリストが「しもべのように仕えてくださる」、そういうこととして主の十字架を受け取りました。それには御子をさえ惜しむことなく死に渡された父なる神(ロマ8・30)がおられます。「神の愛」が具体的な内容をもって身近なものになりました。その神の愛が、空しくばかばかしい生活から、わたしたちを解き放ち、神と共に生きる喜びの人生に生かしてくださると知らされました。
キリストの尊い命の代償を伴いながら、主キリストに仕えられることで、キリスト者の人生は新しく始まります。そしてその内容が、17節に記されています。「あなたがたは、人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼んでいる」。この文章は、「父よ、と呼んでいる」が先頭にあります。ですから、「父よ」とあなたがたは神を呼んでいる。それがキリスト者の新しい生活です。しかも公平に裁かれる神にそう呼び掛けていると言うのです。「父よと呼ぶ」ことは、本来、主イエス・キリストがなさったことで、私たちもそう呼べるのは、主イエス・キリストの尊い血による贖いに基づいてです。キリストに仕えられながら、父よと呼びます。主イエスと共にあって、また主の霊である聖霊を受けて、神を「父よ」と呼びます。主イエスが神を「アッバ」と呼んだのは、父と子の一般的な関係で呼んだのではありません。「アッバ」は、きわめて親密な父への呼びかけで、主イエス以外の誰もこの呼びかけで神を呼んだ人はいなかったと言われます。神は主イエスのこの上なく親密な慈愛の父で、イエス・キリストがその尊い血によって贖いを果たされたのは、私たちをその神の子とし、主イエスと同じ呼びかけで、親しく「父よ」と呼ぶことができようにしてくださったのです。この主イエス・キリストによる神の愛からは、何ものも引き離せません。死も命も、現在のものも将来のものも、引き離すことはできないと言われます。
その父である神は、神として「公平に裁く方」でいらっしゃいます。「公平に」という言葉は「顔」という言葉と否定語の「無」という言葉が合わされた言葉で、顔によらない、顔が効かないということです。神の御前で顔パスは利きません。つまり例外なしに裁く方です。信仰のない人は信仰のない人として裁かれますが、信仰のある者も信仰のある者、主の贖いを受けた者として裁かれるのです。
だからキリスト者は、「神を畏れて生活する」と言われます。これがキリスト者の「新しい生活」です。主イエスの尊い血による贖いを受け、罪を赦された者として、「父よ」と神に呼びかけ、赦された者だけが懐く神への畏れをもって、神の御前に生きます。神以外の何ものも恐れず、ただ神のみに畏敬をもってです。詩編130編に「主よ、あなたが過ちに目を留めるなら、わが主よ、誰が耐えられましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあります。あなたが畏れられるために」(3節以下)と謳われていました。罪を赦された者こそが神を深く畏れ敬うのです。主イエスによる贖いがなかったら、公平に例外なく裁かれる神はただ恐怖するほかはないでしょう。神に対して平安に生きることができません。神が共にいてくださることを喜べないでしょう。しかし主の尊い血によって贖われ、主イエスに仕えられて、罪を赦された者が知る畏れは、震えおののく恐怖ではなく、畏敬の中で神への信頼を持ちます。神と共にある安心と喜びがあります。神の愛から何ものによっても引き離されない確かさがあります。罪赦されて知る神への畏敬の中で、信仰は真面目にされ、神が共にいてくださることを喜び、生きる勇気も湧くのではないでしょうか。









