なぜ死は恐ろしいのか
ローマの信徒への手紙 第5章12-21節
川崎 公平

主日礼拝
■あと2か月ほどでクリスマスを迎えます。今年も何人かの方がクリスマスに向けて洗礼を受ける準備をしています。12月7日の定例長老会で試問会、その翌週14日に洗礼入会式、さらにその翌週21日がクリスマスの礼拝、というスケジュールになりますが、どうも12月7日以外の日にも試問会をしないといけない。ところが11月中、どうしても臨時の長老会を開く時間がありません。それで結局、早くも11月の最初の日曜日に、まず1名の方の試問会をすることになりました。
牧師の生活にはいろいろうれしいことがあるものですが、何と言ってもいちばんうれしい出来事は、洗礼に導かれる人が、自分の目の前に現れることです。それまで聖書の話を聞いても、牧師の話を聞いてもちんぷんかんぷんだった人の心が、いつの間にか開かれて、少しずつ、少しずつわかってくる、ということもありますが、実は案外そういう人ばかりではなくて、ある日突然、一気に扉が開かれるということも、わりとよくあります。
信仰に導かれる、その道筋は、人それぞれです。ひとりひとり、必ず異なります。自分自身のことをふりかえってみても、おそらく私とまったく同じ道筋で信仰に導かれた人というのは、ひとりもいないだろうなと容易に想像することができます。ひとりひとり、必ずその道筋は異なる。しかしまた、必ず共通していることがあります。ひとりのお方と出会うということです。先ほど、ローマの信徒への手紙第5章12節以下を読みました。「一人の人」という表現が繰り返されることにお気づきになったと思います。特にここで大切な意味を持つのは、「一人の人イエス・キリスト」という、この表現が繰り返されることです。
私どもの信仰は、このひとりの人にかかっています。「一人の人イエス・キリスト」。まだ洗礼を受けておられなくても、なんとなく礼拝に出続けている方は少なくありません。いつかは洗礼を、と考えないわけでもないけれども、今のままでも特段の不都合もないし、だいたい洗礼を受けるためには、あの試問会とかいう恐ろしい関門を突破しないといけない。試問会についてそんな恐ろしい誤解を広めたのは、いったい誰ですかと問いただしたい思いもないわけではありませんが、確かに「問われる」ということは、緊張することです。何も問われない試問会というのは考えられませんし、何も問われないまま、逆に言えば問いに対して何も答えることなく洗礼を受けるということは考えられません。しかし何を問われるのでしょうか。「ひとりの人、イエス・キリスト」、このひとりの人に対して、あなたはどういう態度を取るのか。あなたはこの人を何者だと言うのか。いやむしろ、主イエスご自身が問われるのです。洗礼を志願するひとりひとりに、お尋ねになるのです。「あなたはわたしを、何者だと言うのか」。問われたら、答えないわけにはいきません。そして実は、そのひとつの問い以外には、何も問われない。もちろん実際の試問会ではほかにもいろいろ聞かれることがあるでしょうけれども、本質的なことではありません。本質的な問いはただひとつ、「ひとりの人、イエス・キリスト」、このひとりの人を、あなたは信じるか。
■そのひとりの方、イエス・キリストに出会う道筋は、きっと人それぞれでありましょう。そこで今朝はひとつ、異例のことですが、私自身の話をさせていただきたいと思います。私は、生まれる前から教会に通っていたような人間でした。きっと皆さんの中にも似たような条件の中で育たれた方があるだろうと思います。赤ちゃんの時から教会のいろんな人に抱っこされて、やがて抱っこされなくなってからも、小・中・高、休むことなく教会に通い続けた。中学や高校になると来なくなる人も多いのですが、私にはそんな時期はなかった。などと言うと偉そうに聞こえますが、その内実は極めていい加減で、日曜日以外の日に自分から聖書を開いたことは、一度もありませんでした。ええ、家に帰れば本当に一度も、聖書なんか読んだことも、開いたことすらありません。
ところが高校3年生の夏、どういう風の吹き回しか、神を信じたいと思い立ち、生まれて初めて、自分の意志で聖書を開いてみました。旧約聖書は骨が折れるということを知っていましたから、新約聖書から読み始めた。マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書と読み進めて……うんうん、子どもの頃からこんな聖書の話、何度も聞いたなあ。その中で、私にとって、決定的な意味を持つ聖書の言葉に出会いました。ルカによる福音書第23章に、こういう記事があります。主イエスと共に、ふたりの犯罪人が一緒に十字架につけられた。そのひとりは、主イエスをののしり続けた。お前、救い主らしいじゃないか。それなら自分自身とわれわれを救ってみろ。そうしたら、もうひとりの犯罪人が、十字架につけられたまま、それをたしなめるのです。われわれは、自分のしたことの報いを受けているだけではないか。けれども、この方は、何も悪いことをしてはいない。そして、イエスさまに言うのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。主イエスはお答えになりました。「よく言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。
私の祈りが、こんなところに書いてあったのかと思いました。「イエスよ、わたしを思い出してください」。少し恥ずかしいことですが、それからしばらく、何年も、この箇所を読むたびに目頭が熱くなるという現象が続きました。ほかにも読むべき聖書の言葉はたくさんあったはずですけれども、とにかく当時の私にとっては、この記事が特別な意味を持ちました。「イエスよ、わたしを思い出してください」。
この言葉に出会って……より正確に言い直せば、ひとりの方イエス・キリストに出会って、ようやく聖書がわかり始めました。それまで呪文のようにしか聞こえなかった牧師の説教がわかり始めました。そしてもうひとつ、教会を見る目が変わりました。一般的に言っても、教会というのは、清く正しくまじめな人たちが集まる場所だというイメージがあるでしょう。しかし、本当はそうじゃない。教会とは、罪人の集まりなのだ。主イエスに思い出していただいている、罪人の集まりであります。「イエスよ、わたしを思い出してください」。私も、そのように祈らせていただきたい。そのように祈る、この教会の仲間にさせていただきたい。そうして、私も教会に生きる決心をし、信仰を言い表しました。
■私と同じように信仰に導かれた人はひとりもいないと思います。ひとりひとり、その人だけの、特別な神との出会いがあるはずです。けれどもまた、すべての信仰者に共通するはずのことがあります。ひとりの人、イエス・キリストに出会うということです。すべてはそこにかかっています。
聖書が難しいと、よく言われます。聖書は難しくて、ひとりで読んでもよくわからないから、牧師の説教を聴く。するとよくわかるようになるかというと、案外そうでもなくて、逆にますますわからなくなる。よくそういう感想を聞きます。説教が難しいというのは、たいていの場合、聴き手の責任ではなくて語り手の責任、つまり牧師のほうに問題があることが多いので、今言ったような感想は本当に耳が痛いのですが、なぜ説教がわからないか。なぜ聖書が難しく感じられるのか。ひとつこういう反省をしてみてもよいかもしれません。聖書というのは、ひとりの人、イエス・キリストを証しするものです。したがって聖書を説く説教も、別にキリスト教の話をしているのではないし、キリスト教的な生活の仕方について教えるのでもありません、私はここで、ひとりの人、イエス・キリストの話だけをする。その説教がどうも難しくてわからない。なぜ自分にはわからないのだろうか。果たしてわたしは、ひとりの人、イエス・キリストときちんと出会っているかな。このお方ときちんと向き合っているかな。たとえば、あのもうひとりの犯罪人ほどには、真剣にイエスさまと向き合っていないんじゃないか。だから聖書がわからないんじゃないか。一度、そういう反省をしてみてもよいかもしれません。
■もう少し具体的に考えてみます。今朝はローマの信徒への手紙第5章12節以下を読みました。特にこの箇所は、いったい何を言いたいんだか、ちんぷんかんぷんだ、という感想が生まれ易い箇所であったかもしれません。しかしひとつの主題は明らかで、それは「支配」ということです。「誰が支配者なのか」ということです。最初のところに、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです」と書いてあります。そこからこの聖書の言葉が説き起こしていくのは、「誰が支配者なのか」ということなのです。最初の段落の終わり近くに「死は支配しました」(14節)とあります。それと同じ表現が、三度繰り返されます。その次の段落は15節から17節、そしてその次は18節から21節、三つの段落で繰り返されることは、「死は支配しました」(14節)、「その一人を通して死が支配するようになったとすれば」(17節)、「こうして、罪が死によって支配したように」(21節)ということです。
わかったような、わからないような言葉です。死が支配している。この世界を支配しているのは、罪と死の力であって、誰もこれに逆らうことはできない。そう言われたら、わからないでもないのです。そして人によっては、その罪と死の支配が自分自身の生活の中でどのように表れているか、どのように表れていたか、自分の生活を反省したりするかもしれません。テレビや新聞で見聞きした出来事を、このような聖書の言葉を通して理解しようと努めるかもしれません。どうしてこんなひどいことが起こるんだろう。どうしてあんな悲惨な戦争が続くんだろう。聖書の言う通りじゃないか。死が支配しているんだ。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、すべての人に死が及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(12節)。本当にその通りだ。
けれども、そこからもう一歩踏み込んで、たとえば、あのもうひとりの犯罪人の立場に立って、この聖書の言葉を読んでみると、また違った印象があるかもしれません。あのもうひとりの犯罪人は、十字架につけられているのです。ほかの誰の責任でもない。自分が罪に負けたのです。自分が死に負けたのです。そして、ここは大切なところですから声を大にして言いたいと思いますが、この犯罪人が十字架につけられたというのは、たまたまそういう個人的な経験をした人がいた、というように捉えてはならないことだと思います。そういう読み方では、聖書はわからない。ひとりの人のプライヴェートな出来事ではないのです。言ってみれば、人間の代表が、世界の代表が、あそこで十字架につけられたのです。罪に負けた人間の代表、死の支配に完全に捕らえられてしまっている私どもの代表が、十字架につけられているのです。けれども、彼は決してひとりぼっちではありませんでした。その隣りに、神の子イエスがおられる。私の隣りにも、十字架につけられたイエス・キリストがおられるのです。
そのお方に呼びかけて、この犯罪人は言うのです。「イエスよ、御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。私がそう言うのです。あなたが、そう言わなければなりません。「イエスよ、わたしを思い出してください」。もちろん、主イエスは思い出してくださる。それどころか、「あなたは今日」、明日とかあさってとか、いつかきっと、というのではありません、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」。
そこで起こっている出来事を、たとえば15節ではこのように言い表しているのです。「しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです」。
■「死が支配している」という表現が、14節、17節、21節に繰り返されると申しました。ここで「支配する」と訳される言葉には、「王」という言葉が含まれます。王として支配する。死がこの世界の王になっている、と言うのです。そう言われれば、確かにそうだな、と納得する面があると思います。悲しいかな、信仰なんかなくたって、「死の力が世界の王である」と言われると、確かにそうだと納得したくなる現実があるのです。けれどもそこでパウロは、その現実の中で、「もうひとりの人」を見つめようと言うのです。15節。
しかし、恵みの賜物は過ちの場合とは異なります。一人の過ちによって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人に満ち溢れたのです。
死が支配している。確かにそうだ。けれども、そうであれば「なおさら」、神の恵みは満ち溢れるのではないですか。「なおさら」という同じ言葉が、17節でも繰り返されます。「一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう」。死が支配するようになった。そうであればなおさら、イエス・キリストの恵みの支配は満ち溢れるんだ。
少し前に紹介した、ある説教者の表現を借りるなら、ここでパウロは、自分の信仰をぶつけるように語っていると思います。罪が支配している。死が支配している。われわれは皆そのことを知っている。だからこそ、なおさら、ますます、キリストの恵みは満ち溢れるんだ。命が支配するんだ。死よりも、罪よりも、恵みのほうがずっと強いんだ。「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」。「なおさら」「なおさら」「なおいっそう」と言葉を重ねながら、パウロは自分の言葉の貧しさにもどかしささえ感じながら、これでもか、これでもか、と言葉を重ねたのではないかと思います。理屈から導かれた言葉ではありません。パウロ自身の実存を傾けた発言です。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」。わたしのために、満ち溢れたのだ。「イエスよ、わたしを思い出してください」。
■今日何度も紹介している言葉ですが、主イエスと共に十字架につけられた犯罪人は、こう申しました。「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」。ここに「御国」という言葉が出てきます。この言葉の背後にもやはり「王」という言葉があります。「王国」ということです。イエスよ、あなたこそ王、世界の支配者。そのあなたが王としておいでになるときには、と言うのです。けれども、そのことを信じ抜くということは、そんなに容易なことではありません。死が支配しているかに見える世界にあって、「イエスよ、あなたこそ王です」と言ったって、何をそんなお花畑みたいなことを、と笑われるのが関の山です。
実は昔から、ここでイエスと共に十字架につけられた犯罪人というのは、たとえば政治犯とか革命家とか、そういう種類の犯罪で捕まった人ではないかという解釈があります。つまり、十字架という極刑に処されるということは、こそ泥とか酔っ払いのけんかとか、そんなレベルの話ではない、それなりの犯罪であったに違いない、ということです。自分の正義感だけを信じて、暴れまわったのかもしれません。自分の正義を貫くためなら、女子どもが犠牲になったってやむを得ないと、そんなことまで考えたかもしれません。この世界の罪の支配に腹を立てて、自分なりに精一杯の抵抗をして、実はただ死の力に支配されていただけだ。罪に負けただけだ。その当然の報いが、この十字架だ。しかし、イエスよ、あなたこそ真実の支配者。そのあなたが、もう一度確かなご支配のうちに御国においでになるときには、わたしを思い出してください。わたしは、あなたを王と認めておりますから。
そうしたら、この犯罪人が予想していなかった答えが返ってきました。「あなたは今日、わたしと一緒に、楽園にいるだろう」。まさしくそのような信仰を、パウロはこの手紙の第5章17節で、このように言い表したのではないかと思います。
一人の過ちによって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう。
ここはよく読んでいただきたいのですが、ここには「イエスが支配する」とは書いてありません。「命が支配する」とか「恵みが支配する」とか、そういうことでもなくて、「恵みと義の賜物とを豊かに受けている人たちは、一人の人イエス・キリストを通して、命にあって支配するでしょう」。回りくどい表現ですが、要するに、わたしたちが支配者になると、そう言っているのです。私どもが忘れていることではないかと思います。死が支配するのではない。私たちが、支配する。死に勝つのです。それほどの力を神からいただいて、今私どもはここに生かされているのです。
威張り散らしながら、わたしは支配者だ、などとうそぶくことはできません。私どもはどこまで行っても、主イエスと共に十字架につけられた罪人でしかありません。「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」。その罪人の隣りに、イエスがおられる。そうであれば、私どもも死に勝てるのです。死を正面から見つめながら、もうわたしは死を恐れない。もうあなたはわたしを支配することはできない。今からは、わたしがあなたを支配するのだから、そのことをよく覚えておきなさい。主イエスが共にいてくださるならば、私どももそう言えるようになるのです。
今、自分自身のためにも、そしてまたこの世界のためにも、望みを新しくしたいと思います。祈りを新しくしたいと思います。どうしたって罪のほうが強いとしか見えないこの世界にあって、「イエスよ、わたしを思い出してください。イエスよ、この世界をお見捨てにならないでください」と、もしも私どもがその祈りを捨てたら、この世界には、本当に、絶望しか残らないと思うのです。今、共にいてくださるイエスを信じて、祈りをひとつに集めたいと願います。
罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。主イエス・キリストの父なる御神、溢れる恵みを信じさせてください。私どものために十字架につけられたイエスこそ、真実の王、真実の支配者と、その信仰に深く立ちつつ、この世界のためにも、新しい望みに立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン









