インマヌエル
ルツ記 第1章6-22節
柳沼 大輝
主日礼拝
皆さんはいままでの人生のなかで自分がしてきたことがまるですべて無駄であったかのように思えるような経験をされたことはあるでしょうか。あんなに必死に頑張ってきたのに、あんなに努力してここまでやってきたのに結局、何の意味もなかった。そのように自らの人生の空しさを嘆きたくなるような瞬間を経験されたことはあるでしょうか。
私たちが生きている社会には、そのように自らの人生に生きる喜びを見出せず、激しい空しさに襲われている人々が少なくありません。いくら頑張ったって、そのぶんだけ報われるわけじゃない。かえってあんなに努力したのに上手くいかないことの方が多いものであります。人生でできることは、生の虚しさに耐えながら「なにか」の到来を待ち続けるのを頑張ることだけしかない。事実、遥か昔から、そういったことを題材にした戯曲や小説が多く存在します。
このように私たちはときに行き詰まり、自分の人生に深い空しさを覚えるときがあります。人生に挫折し、いままで自分がしてきたことはいったい何だったのだろうかと感じるときがあります。誰の人生にも自分が生きてきた日々を嘆かざるを得ない大きな苦しみに襲われる瞬間が訪れることがあるのであります。
本日、皆さんと共に御言葉に聴こうしている、旧約聖書「ルツ記」に登場するナオミという一人の女性もまた大きな苦しみのなかにありました。このナオミが生きていたのは士師という指導者たちがイスラエルを治めていた時代であります。それはちょうどイスラエルの転換期、あの有名なダビデ王が王様としてイスラエルを統一する少し前の時代であります。その時代は隣国との争いや民族同士の軋轢、混乱が絶えない不安定な時代でありました。そのような激動の時代にナオミはベツレヘムという小さな町で夫エリメレクと息子二人の四人家族で平穏に暮らしておりました。
しかしある年、彼らの平和な日常に影がかかります。ベツレヘム近郊を激しい飢饉が襲ったのです。そこでナオミたち家族は食物を求めて、おそらく二人の乳飲み子を背負い、最低限の家財道具を持って、モアブという異国の地へと旅をします。ベツレヘムからモアブまでは少なく見積もっても、100キロ以上の道のりであります。現在のように道がきれいに整備されているわけではありません。山や坂が多い。それとは反対に緑は少ない。そんな過酷な道のりを彼らは歩いて旅をしました。何日も何日も旅を続けて、彼らはようやく目的の地であるモアブの野へとたどり着きました。
けれどもその喜びもつかの間、そこで夫エリメレクが亡くなります。その後、息子二人はそれぞれモアブ出身の女性オルパとルツと結婚しましたが、それから10年後、彼らも次々とまるで父親の跡を追うかのようにして子孫を残すことなく、その地で亡くなります。家を継ぐ跡取りも与えられず、血のつながった最愛の家族も自分一人を残して、次々と亡くなっていく。ナオミはこのとき何を感じて、何を考えたのでありましょうか。きっとこうでないかと思うのであります。
私は子どもたちのために慣れ親しんだ生まれ故郷さえ捨てたのに。あんなにつらい旅をして、こんなに遠くまでやってきたのに。あのときは頼れる知り合いだって一人もいなかった、不安で仕方のなかった異国の地でこんなにも必死になって、女手ひとつで子育てをして、二人の息子を立派に育て上げ、夫エリメレクの血筋を絶やさないためによかれと思って、息子たちの嫁を探して、それぞれ結婚させて、こんなに苦労を重ねて、なんとかここまでやってきたのに…。
結果、私の努力はすべて無駄になってしまった。私はいったい何のためにここまでやってきたのだろうか。結局、私の人生には何の意味もなかったじゃないか。今年こそは、今年こそはと毎年、期待していた家の跡を継ぐはずの孫も与えられなかった。愛する家族は私一人を残して、みんな私より先に逝ってしまった。どうせ、神は私のことなど助けてくれない。目を留めてくれない。神は私のことなど見捨ててしまったのだ。私はどうせ一人ぼっちなのだと、ナオミは感じたことでありましょう。
ナオミはこのとき誰にも言えない大きな苦しみに襲われたのであります。「ルツ記」の冒頭、第1章1~5節のこの短い箇所にナオミという一人の女性が経験した壮絶な人生の苦悩が描かれております。
そこで本日の箇所になります。失意のもと、ナオミは、故郷であるベツレヘムに一人で帰ることを決意します。彼女は自分の後を追ってついてこようとする息子たちの嫁オルパとルツをそれぞれの母の家に帰るようにと諭します。彼女たちには、自分のように不幸な目に遭ってほしくないと思ったのでありましょう。12節にあるように、自分はもう二人の夫になるような新しい子どもを産むことはできない。だから早く自分の家に帰って、新しい夫を見つけて、その人の子どもを産んで、その者たちと幸せな家庭を築いてほしいと、そう心から願ったのでありましょう。あなたたちは私のように不幸になってはいけない。つらいのは、もう私だけで十分であると、ナオミはこのときそのように考えたのであります。
しかし、ルツだけはナオミの命令に一向に従おうとしませんでした。ルツはナオミに向かって言います。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰るなど そんなひどいことをさせないでください。あなたが行かれる所に私は行き あなたがとどまる所に私はとどまります。あなたの民は私の民 あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に そこに葬られたいのです。死に別れでなく、私があなたと別れるならば 主が幾重にも私を罰してくださいますように。」(1:16~17)
ルツは最後まで諦めずにナオミに抱きついて、すがりつきました。ナオミがいくら悲しみに暮れて、ルツに背を向けて一人になろうとしても、ルツだけは彼女のことをけっして見捨てようとはしませんでした。ルツはナオミのことを一人にはさせない。彼女のもとから離れようとしない。彼女は、どこまでもナオミと共にいようとします。ここにルツのナオミへの深い愛情が示されております。
そうして彼女たちは二人でナオミの生まれ故郷であるベツレヘムへと帰ることにしました。10年前、家族四人で幸せな生活を求めて歩んだ道を、今度は、たった二人きりで、また何日も何日もかけて一足一足、その重たい一歩を踏みしめながら、ゆっくりと歩いて帰っていきます。
しかし故郷であるベツレヘムに帰ってもなお、ナオミの心は一向に晴れることはありませんでした。彼女の人生はまるで暗闇、どん底でありました。このとき、ナオミの心は激しい空しさに支配されておりました。19節後半、10年ぶりのナオミの帰国に周りの人々は「騒ぎ出し」とあります。これは何も突然のナオミの帰郷に人々が「驚いた」ということだけを言っているのではありません。この「騒ぎ出し」という言葉は「喜びが湧き返る」という意味の動詞であります。つまり、町中の人々が喜んで、久しぶりに帰ってきた彼女たちを迎え入れたのであります。「ナオミよく帰って来たね」、「よく無事に戻って来たね」。しかしナオミは彼らに向かって次のように赤裸々な思いをぶつけます。
「ナオミと呼ばずにマラと呼んでください。全能者が私をひどく苦しめたのです。私は満ち足りて出かけて行ったのに 主は私を身一つで帰らせたのです。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主は私を痛めつけ 全能者は私に災いを下されたのです。」(1:20~21)
ナオミとは「快い」という意味の言葉であり、マラとは「苦い」という意味の言葉であります。ナオミは言うのです。「私のことをけっして快いなどと呼ばないでくれ。私の人生はそんなよいものじゃない。苦いのです。私の人生は苦しいのです」と。
このとき、彼女の人生には、まるで生きる喜びなどありませんでした。彼女の心のなかにあるのは、ただ神への激しい怒りと不満でありました。「神様、どうしてあなたは私をこんなにも苦しめるのですか。どうしてこんなにも私のことを痛めつけるのですか」。
けれども、驚くべきことにその後、ナオミの人生は、大きく揺れ動いていきます。ある日、ルツがその日の食物を求めて、大麦の帆がたなびく畑に出かけていくと、そこは偶然にも夫エリメレクの親戚であるボアズという人の畑でありました。ボアズは、いま二人が置かれている厳しい境遇を聞いて、ナオミとルツのことをひどく気にかけます。そこで彼はルツが誰にも邪魔されることなく、思う存分、自分の畑で落ち穂を拾うことができるようにと図らいます。そして最後には、ボアズはルツと結婚し、ナオミとルツの二人のことを一生涯、支え続けたのでありました。
ボアズと結婚した後、ルツは身ごもって、男の子を産みます。半ば、諦めていた夫エリメレクの家を継ぐ者が与えられたのです。「ルツ記」の終盤第4章14節において男の子の孫が与えられたナオミに対して、人々はこう語りかけます。
「主はたたえられますように。今日、主はあなたのため、家を絶やさぬ責任のある親戚を与えられました。」
この言葉は、以前の新共同訳聖書では、次のように訳されました。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました」。この言葉に証言されているように、神様はけっしてナオミのことを見捨ててなどおられませんでした。神様は不思議な配剤によって、その救いのご計画に従って、このとき、ナオミのためにたしかな慈しみを示してくださったのであります。
ナオミの人生には、何度も心挫けそうになるような大きな苦しみがあったかもしれません。不安があったかもしれません。痛みがあったかもしれません。そうです。神の助けなど、そんなもの、心から信じることができないときがあったかもしれない。むしろ自分の苦しみなど誰も理解してくれない。自分はまるで一人ぼっちだと周りの優しさを素直に受け止めることができず、神の救いを疑ってしまうことだってあったかもしれない。神は自分を悩ませ、不幸にしている、苦しめ、痛めつけているとそう神に嘆くしかない現実があったかもしれない。いや、事実、そこには神に嘆かざるを得ないような苦しい不幸な現実がありました。
しかしそこで終わらない。神の大きな救いのご計画のなかで、彼女の人生はたしかに導かれ、支えられていたのであります。彼女はけっして一人ではなかった。主がいつもナオミと共にいてくださった。
そして、聖書は物語るのであります。彼女に与えられた孫であるオべドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれ、やがてそこから救い主イエス・キリストが誕生します。
私たちの人生にも、ナオミと同じようにやはり生きていくなかで大きな苦しみのときがあります。不安なとき、痛みのときがあります。神様のことを心から憎みたくなるような瞬間だって、もしかしたらもうすでに何度も経験してきたかもしれない。
ずっと寄り添って歩んできた、愛するあの人を、大切な家族を先に天に送らなければならないとき、病や老いによって段々と体が思うように動かなくなっていくとき、一瞬にしてすべてを奪い去っていく恐ろしい自然災害を目の当たりするとき、そのようにあなたが一生懸命に努力して、頑張って、いままで必死になって積み上げてきたものが目の前で無残にも崩れ去っていくとき、私たちは、激しい空しさに襲われて、神様なんて捨てて、いっそ一人になりたいと願う。
そんなとき、私たちは誰にもこの悲しみを慰められたくない、ほっといてほしいと感じる。いつかの自分が想像していたようには上手くいかない不幸な現実を目の前にして、どうして、どうしてと嘆き続けて、悲しみばかりに目をやって、私たちはついつい自分の殻のなかに一人閉じこもる。もうこれ以上、傷つきたくないから、苦しみたくないから。そうやって隣人との関係を遮断して、神様からそっと目を背ける。この状態がもしかしたら一番、楽なのかもしれない。これ以上、期待を裏切られたり、傷ついたりしなくて済むのかもしれない。
けれども、聖書はそれではいけないと私たちに語りかけます。聖書は、それを神様が造った人間の本来の生き方ではない、あなたはそうであってはいけないと言う。それは「的を外れた」生き方である、つまり「罪」に捕らわれた空しい生き方であると、聖書は、私たちに教えるのであります。
神様はそんな罪の縄目に絡み取られて、神様に背を向けて、神様から遠く離れようとしている、自らの悲しみにばかり目をやって勝手に絶望して、自分のなかに一人閉じこもって、暗闇のなかで空しく生きようとしている、そんなどうしようもなく悲惨な私たちのことを諦めたりなどしない。絶対に見捨てない。ルツが一人になろうとするナオミのことを一人残して、自分の家に帰ることを固く拒み、最後まで、ナオミに抱きついてすがりついたように、主イエスは、どこまでもあなたにすがりつく。たとえあなたがどんなに神様に背を向けて一人になろうとしても、一人ぼっちで暗闇のなかを孤独に歩もうとしても、主イエスは、絶対にあなたのことを一人にはさせない。
ダビデの子孫として、幼女マリアから生まれ「イエス」と名付けられた一人の幼な子は、預言者の言葉を通して、次のように言われました。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
私たちの神であられる主イエス・キリストは、私たちを罪の縄目から解き放つために、私たちが一人孤独に喘ぎ嘆く、暗闇の世界にまことの光として来てくださいました。そしてこの預言者の言葉が証言する通り、主は、今日も変わることなく空しさに怯える私たちと共におられます。この主の真実がまさにいま私たちが味わい見る「クリスマス」の出来事であります。
主は人の子としてこの地上に生まれ、今日もたしかにここに、この礼拝の場に臨んで、私たちと共におられる。いまこのとき、たとえあなたがそれを信じることができなくとも、主は私たちと共にここに生きていてくださる。そして私たちの人生の一歩一歩を深い憐れみでもって、守り導いてくださる。救いのご計画のなかで、まるで空しく、無駄であったかのように思えるあなたの人生の一歩を、主イエスが必ず「喜び」の一歩へと変えてくださる。
今日、洗礼をお受けになられた三名の方々もまさにそうなのであります。きっとそれぞれにいままでの人生の歩みのなかでときに苦しい日々があったでありましょう。もしかしたら、涙を流したくなるような辛い過去だってあったかもしれない。それでも主が救いのご計画のなかであなたと共にいてくださって、その辛い痛みや目を背けたくなるような自分の愚かさ、醜さ、過ち、恥さえもちいて「今日」というこの「喜び」の日にたしかに導いてくださった。
先ほど、取り上げた「ルツ記」第4章14節の言葉、「家を絶やさぬ責任のある人」という言葉は原語から直訳をすると「贖う者」という意味になります。ナオミにとっての「贖う者」は親戚のボアズでありました。私たちはここに私たちにとっての「贖う者」の希望を見ることができます。神があなたを見捨てることなく、あなたのために「贖う者」を与えてくださった。そうです。主イエス・キリストはまさに弱く小さな人の子の姿を取って、この世に生まれ、十字架と復活の御業によって、民を罪から救い、人々に新しい命を賜り、生きる喜び、まことの希望を与え、どこまでもあなたにすがりついてくださる神であります。
たとえあなたが神から離れて一人になろうとしても、主はあなたのことを見捨てない。けっしてあなたを一人にはしておかれない。“インマヌエル” 神は私たちと共におられる。だから大丈夫、もう恐れなくていいのであります。来るはずのない「なにか」を待ち望んで、空しさに一人で耐えて、自分の人生を嘆かなくていい。私たちが待ち望むのはただお一人、救い主イエス・キリストであります。
主はたしかにこの世に来てくださいました。たとえあなたが苦しみに嘆き、生きる意味を見失いかけていたとしても、主はあなたと共にここにおられる。主はここにあなたのために生きて働いておられる。だから主の十字架を仰ぎ見て、神様の救いのご計画に信頼し、今日も主と共に歩んでいこう。ここに私たちにとっての「贖い主」なる主イエス・キリストの真実、私たちの生きる喜びが、まことの希望があるのであります。
今日、アドベントクランツの三本目のろうそくに火が灯りました。来週はいよいよ主のご降誕を喜び祝うクリスマスであります。主を待ち望むこのアドベントの日々、「主よ、あなたこそ、私の神。私たちはあなたの民である」、この揺るがないたしかな信仰を人生という長い「旅路」の道標として一歩一歩、主の御手にひかれて、共に前へ前へと進んでいきたい。
クリスマスの主であられ、インマヌエルの主であられるイエス・キリストの父なる御神、
私たちの人生には、苦しみのときがあります。不安なときがあります。痛みのときがあります。
いっそあなたを捨てて一人になりたいと願うときがあります。
そんなとき、あなたが私たちの手を握り、すがりついてくださることを感謝いたします。
私たちも、どうかその御手を握り返し、主の御手に私の人生を委ねることができますように。
あなたの御手にすがりつくことができますように。
私たちにいまあなたにのみ信頼する勇気をお与えください。
今日も変わらず、あなたが私たちと共にいてくださる主であることを信じます。
この願いと感謝、私たちの救い主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げいたします。
アーメン