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上を向いて歩こう

2024年12月8日

ルカによる福音書 第2章8-16節
柳沼 大輝

クリスマス夕礼拝

 

子どもの頃、父親に連れられて田舎の真っ暗な山道を父と一緒になって歩いたことがあります。辺り一面、真っ暗闇です。私は、暗闇のなか、進むべき方向をしっかりと捉えるために、周りに気を配りながら道を進みました。しかし、進むたびに木の枝にぶつかったり、木の根っこに引っかかったりして、私は上手に前に進むことができず、何度もその場で足を取られ、転びそうになりました。

そんな私の様子を見かねてか、父は、私にこのように言いました。「そんな周りばかり見ていないで、上を見てごらん」。父に言われるままに上を見てみると、そこには満天の星空が広がっていました。星が輝いて、進むべき方向を明るく照ら出していました。私はその星の光に導かれるように、父に手を握られ、「大丈夫。こっちだ。こっちだ」と手を引かれながら、真っ暗な山のなかを一歩一歩、前に進むことができました。

本日の聖書の物語には、羊飼いたちが登場します。彼らも暗闇のなかにいます。町から外れた、光が届かない真っ暗な荒れ野で彼らは夜通し、羊の群れの番をしていました。しかし彼らが置かれていたのは、物理的な暗闇だけではありません。羊飼いは当時、経済的に貧しい職業でありました。さらに羊飼いは旧約聖書に記された律法において神を礼拝すべき日とされている安息日にも関わらず、羊の世話をしなければならないことから、罪に汚れた職業だとされてきました。それゆえ、彼らは仲間たちから差別され、虐げられて、いつも町の外に追いやられていました。

彼らは、仲間たちからことあるごとに言われてきたことでしょう。「お前は罪に汚れている」。「お前たちに価値なんかない」。「お前らなんか誰からも愛されていない」。そうやって愛のない言葉をたくさん浴びせられてきたことでしょう。そのたびに彼らは何度も感じてきたはずであります。「自分たちはいらないのだ」。「こんな私はここにいちゃいけないのだ」。

そんな仲間たちから蔑まれ、脇に追いやられ、人々から忘れられていたような羊飼いたちが夜通し羊の群れの番をしていたとき、突然、天から光が差し込んできて、周りを照らしました。彼らは最初、その光景を見て、非常に恐れたとあります。その光によって、自分たちの罪が明らかにされて、私たちはいまにも神によって滅ぼされてしまうと思ったのでしょう。しかし、天使が知らせた救い主の誕生を告げる神の言葉を聴いたとき、彼らは心を上げて天を見上げました。

「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(2:10-11)

彼らは天使からこの神の言葉を聞いたとき、まさか「こんな自分たちのところに」という戸惑いを抱いたことでしょう。今まで神から離れた生活を送ってきた自分たちに、仲間から虐げられて、ずっと暗闇のなかで孤独に生きてきた自分たちに、まさかこんな喜びの知らせが告げられるなんてあり得ない。こんな喜び、自分たちには関係がない。そう思ったことでしょう。

けれども、そこには彼らの心をぎゅっと引き付けるある言葉がありました。それは「あなたがたのために」。「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という言葉であります。他の誰でもない「あなたのために」救い主、主メシアがこの世にお生まれになった。

羊飼いたちは、このときここで天使が言っている「救い主、主メシア」とはいったい誰か。どのような存在であるのか。きっとその意味を完全には理解することができなかったでしょう。しかし「あなたがたのために」この言葉が彼らの心をしっかりと捉えました。「私も神に救われていいのだ」。「私も神に愛されているのだ」。このときの羊飼いたちの喜びときたら、どれほど大きかったでしょうか。「私たちは神に見捨てられていなかった」。「神は私たちのことをずっと見ていてくださった」。その真実を知ったとき、彼らは、どれだけ嬉しかったでしょうか。天使が告げたこの喜びの知らせが深い闇に囚われていた彼らの心を天に向けさせました。そしてこの喜びが彼らの歩みを前に前に、救い主である主イエスに向かって前進させました。

私たちが生きているこの世界にも深い暗闇があります。国と国との争いは絶えない。誰かの命が平気で奪われていく。誰かが笑っているその陰で涙を流している者たちがいる。いまも寒空の下でその存在が忘れ去られそうになっている者たちが、今日を生き抜こうと、自分を犠牲にしながら必死にいまを生きている。

それだけではないはずであります。私たちのなかに目を向けてみても、そこにもやはり暗く深い闇があるでしょう。自分を愛することができない闇。自分に価値があると思えない闇。こんな自分なんていらない…。そのようにあなたを支配している深い闇が、あなた自身のなかにもあるのではないでしょうか。

そんな世界の闇を、自分のなかの闇を見つめるとき、私たちはいろんなものにぶつかります。いろんなものに傷ついて苦しんで、こんな暗闇のなかに救いなんてあるはずがないと、人生を歩みながら、何度も諦めて、挫折して、挫けそうになります。

だから、私たちも闇のなかで転びそうになったら、いま私たちに語りかける神の言葉を聴くのです。その言葉が私たちの心を高く上げさせる。私たちの目を周りにある闇にではなく、その闇にまことの光を与える、天におられる神に向けさせる。

「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

この言葉は何も羊飼いたちだけに向けられた神の言葉ではありません。天使はこう言っています。「私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる」と。そうです。この喜びの知らせは私たちすべての者のために語られている神の言葉であります。

神の言葉は証言しています。クリスマスの夜、他の誰でもないあなたのために救い主がお生まれになったと。私たちも羊飼いたちのようにまさかこんな自分のために救い主が生まれたなんて信じられない、あり得ないと思うかもしれない。救い主と言われてもよくわからない、理解できない、主イエスの誕生は、この救いの出来事は自分にとって何の関係もない出来事であると感じるかもしれない。

しかし他でもないあなたのために主イエスはこの世界に来てくださったのです。この揺るぎない主の真実が羊飼いたちを闇のなかから立ち上がらせました。彼らは天を見上げながら、天の賛美に支えられながら、主イエスに向かって、前に前に進んでいきます。

主イエスは、他でもないあなたを深い闇のなかから救い出すために、乳飲み子という弱く小さな人の子の姿を取ってこの世に生まれて来てくださいました。そして他でもないあなたにここに生きていてほしい、その愛ゆえに主は十字架にかかり血を流し、痛みに叫び、自らの命を差し出してくださったというのです。これが主の知らせてくださった救いの出来事であります。

天使が告げた神の言葉、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。ここで言われている「今日」は2000年前、あのダビデの町で完結し、閉じられた「今日」ではありません。

救い主がお生まれになった「今日」は私たちがこのようにして主の御前に招かれて、共に喜び祝い、賛美し、主を礼拝している「今日」というこの日にたしかにつながっています。「今日」、このときも主の救いの出来事がまさに起こっている。「今日」も私たちに神の言葉が語られている。天の賛美が響いている。ここに「天の栄光」があります。「地にある平和」があります。

だから「今日」、私たちは恐れずに天を見上げます。天におられる主の栄光を仰ぎ見ながら、神の言葉に聴きます。この神の言葉が私たちの闇にまことの光を与えて、進むべき方向を照らし出してくださる。そして主イエスが「大丈夫。こっちだ。こっちだ」と言って、私の手を引いて共に歩んでくださる。

私たちを取り囲む闇はいまだに深く、この世界を、私のことを支配しているように感じるかもしれない。その深い闇が、いまにもこの世界を、私たちのことを吞み込んでいってしまいそうに思うかもしれない。

しかしその深い闇を照らすまことの光がここにあります。だから私たちは上を向いて歩こう。神の言葉を聴いて、主を見つめよう。本日、お読みいたしませんでしたが、乳飲み子である救い主を探し当てた羊飼いたちは主を賛美しながらまた自分たちの持ち場に帰って行きました。神を礼拝することを知らなかった者たちが主を賛美し、礼拝する者に変えられました。

私たちも「今日」、心を天に向けて、神の言葉に聴き、主と出会いました。主を礼拝しました。私たちも主を賛美しながら、ここからまた救いの道を主と共に歩んで行こう。主がここにいる。「今日」も私の手を引いてくださっている。大丈夫、もう何も恐れることはないのであります。主はあなたに語りかける。「あなたはここにいていい」。「あなたはここに生きていていい」。

「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。ここに私たちの救いがあります。

 

まことの光なる主よ。私は天を見上げます。どうかとこしえの光であられるあなたが、この暗闇のなかに来てください。この暗闇のなかに神の言葉を語りかけてください。私は待ち望みます。すべての者に与えられるあなたの大きな救いの喜びを。アーメン