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あなたが神の子なのですか

2024年9月1日

マルコによる福音書 第14章53-65節
川崎 公平

主日礼拝

 

■9月最初の日曜日、この日を多くの教会では〈振起日〉と呼びます。私自身が生まれ育った教会にはこういう暦はなかったのですが、よい習慣だと思います。その少なくともひとつの意味は、「信仰を奮い起こす日」ということでしょう。夏の暑さで身も心も萎えそうになっているところで、秋に向かってもう一度、「よし、頑張るぞ!」と自らを奮い起こすことも悪いことではないだろうと思いますが、本当に大事なことはむしろそうではなくて、神が私どもの信仰を奮い起こしてくださると言うべきだろうと思います。〈振起日〉という特別な日に、むしろこのことをはっきりとわきまえたいと思うのです。神が私どもの信仰を起こし、また支えていてくださるのでなければ、私どもの信仰なんてものは一日ももたない。その神の恵みを鮮やかに告げる預言者の言葉を先ほど読みました。

私を求めなかった者に私は尋ね出され
私を探さなかった者に見いだされた。
私の名を呼ばなかった国民に
「私はここにいる、私はここにいる」と言った。
(イザヤ書第65章1節)

神を求めなかった私どもが、しかし今、神を見いだしております。神の名を呼ぼうともしなかった私どもが、今神を呼んでいるのは、「わたしはここにいる、わたしがここにいる」と、神が私どもを呼んでくださったからでしかありません。

そのような神のみわざを、また今朝新しく見せていただくことができました。ひとりの、比較的高齢の方の信仰告白式をすることができたのであります。幼い頃に教会に出会い、イエス・キリストのみ声を聴き、けれども青年期、壮年期は仕事に夢中で礼拝からはすっかり離れていた者が、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」という神の声に導かれるようにして、年を重ねてから改めて自覚的に信仰を言い表し、教会の生活を再開されるということは、決して珍しい話ではありません。そして、そのようなときにも私どもが思い知らされることは、自分で自分の信仰を奮い起こすことなんかできないということです。私どもの信仰を起こしてくださるのは、神である。

私を求めなかった者に私は尋ね出され
私を探さなかった者に見いだされた。
私の名を呼ばなかった国民に
「私はここにいる、私はここにいる」と言った。

■この振起日の礼拝のために、いつものように、マルコによる福音書の続きを読みました。しかしもしかすると、今日読んだ箇所は、どちらかと言えば退屈な印象を抱かれた方が多かったかもしれません。ここで主イエスは、悪意を持った人びとの無茶苦茶な裁判によって死刑の判決を受けておられる。その結果、殴られたり侮辱されたり、それはもちろん痛ましいことだけれども、たとえばこのような箇所をご自分の愛誦聖句にしておられる方はあまりいないだろうと思います。何だか自分とは関係ない、遠い世界で起こっていることのようにしか読めないという感想があったとしても、不思議ではありません。

ところが、マルコによる福音書を研究する学者たちは、この箇所はこの福音書全体の中でも非常に大切なところである、ここに福音書のクライマックスがあるとさえ言います。そのクライマックスの頂点の頂点がどこにあるかというと、62節の「私がそれである」という主の言葉です。もう少し別の訳し方をすると、「わたしだ」という言葉です。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」という大祭司の問いに答えて、「そうだ、わたしだ」。「わたしが、メシアである」。そう言われるのです。

ちょうど2年前の9月の最初の日曜日から、マルコによる福音書を礼拝で読み続けてきました。この福音書を読みながら、皆さんも時々気になったことがあるかもしれません。主イエスというお方は、どういうわけか、ご自身の正体を徹底して隠そうとされました。少なくとも、ご自分の口で、自分がメシアであるとか、キリストであるとか、神の子であるなどと明言されることは決してありませんでした。病人を癒したり、死んだ人を生き返らせたり、目覚ましい奇跡をなさることがあっても、主がほとんど必ず念を押されたことは、このことについては誰にもしゃべってはいけないよ、ということでした。第8章においては、主イエスの弟子のペトロが、主イエスに向かって、「あなたこそキリストです」と信仰を言い表します。むしろその場面こそが福音書のクライマックスではないかと言えそうですし、事実そういう面もあるのかもしれませんが、ところがそこでも主イエスは、このことは誰にも口外するなと言われました。なぜでしょうか。ご自分が、いかなる意味における救い主であるか、そのことを大切になさったからでしょう。ただ単に、奇跡を行って人を喜ばせるだけの救い主であろうとはなさらなかったからでしょう。石をパンに変えるだけの救い主にはならないということは、主が最初から思い定めておられたことでした。ところがその主イエスが、今ここで初めて、ご自分がメシアである、救い主であることを明言されるのです。

そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。
「私がそれである。
あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り
天の雲に乗って来るのを見る」(61、62節)。

「私がそれである」。つまり、「わたしが、メシアである」。そのひと言によって、主イエスの死刑が決まってしまうのですが、主は深い思いを込めて、ただ一度だけ、この瞬間に、ご自身のことをはっきりと証しされました。「わたしだ」。「わたしが、あなたの神なのだ」。

■この62節の「私がそれである」という言葉は、原文のギリシア語をそのまま発音すると、「エゴー・エイミegō eimi」という言葉です。英語で言えば ”I am” と直訳することができますが、英語の ”I am” よりも「わたしが」という意味合いが強く出ている表現です。「わたしだ」。「わたしがここにいる」。それは、新約聖書だけでなく、旧約・新約全聖書を通して、神がご自身の存在を表すための、特別に大切な表現となりました。

先週の日曜日は夏休みをいただいて、鎌倉から離れていたのですが、「おや、こんな偶然が」と思いながら、先週の柳沼先生の説教を原稿で読みました。「エゴー・エイミ」というこの言葉をめぐって、既に先週柳沼先生が説教してくださいました。どういうわけかそのとき弟子たちは、主イエスとは別れて、自分たちだけで小さな舟に乗って湖に漕ぎ出したけれども、逆風のために漕ぎ悩み、やがて夜は更け、あたりは真っ暗、いったい自分たちはどっちに進めばよいのか、夜が明けるまでこのまま湖の上をさまよい続けなければならないかという不安の中にあったというのです。きっと私どもも、この弟子たちの気持ちがよくわかると思います。短いようで長い人生ですから……いったい自分はどこにいるんだろう。こんなところで何をやっているんだろう。どっちに進めばいいのかすらわからないのに、いつまでこの舟を漕ぎ続けなければならないんだろう。きっとそういう教会の経験が、この弟子たちの物語には重ね合わせられているのだろうと思います。ところがそのような弟子たちのところに主が湖の上を歩いて、近づいてくださって、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」。そこでも主イエスは、「私だ」、「エゴー・エイミ」と言われました。

不思議なことに、と言うべきだと思いますが、あの弟子たちは舟の上で、神に祈ろうなどはちっとも考えませんでした。それは別に、不思議でも何でもないのかもしれません。われわれ自身の生活のことを考えれば、よくわかるからです。いつも主イエスと寝食を共にしている弟子たちが12人も舟の上に乗っているのですから、ひとりくらい、「神よ、主イエスよ、助けてください」と祈る人はいなかったのかと思うのですが、誰ひとり、ちっともそんなことは考えませんでした。主イエスご自身が近づいてくださってもなお、「出たあ、お化けだ」としか言わなかったというのです。まさしく、イザヤ書の語る通りです。

私を求めなかった者に私は尋ね出され
私を探さなかった者に見いだされた。
私の名を呼ばなかった国民に
「私はここにいる、私はここにいる」と言った。

「エゴー・エイミ」。「わたしだ」。しかも今日読んだマルコ福音書の記事においては、「あなたがメシアなのか。あなたが、わたしたちの救い主なのですか」という大祭司の問いに答えて、「わたしだ」と、そう言われたのです。神ご自身にほかならないお方が、「わたしだ」「わたしが、あなたの神だ」と、そのひと言を伝えるために、私どものところに来てくださいました。その「わたしだ」という主の言葉に励まされて、私どもも信仰を新しく奮い立たせていただくのです。

■けれども問題は、この福音書のクライマックスにおいて、信仰なんかひとつも生まれなかったということです。むしろこの主イエスの発言がきっかけとなって、〈人間が神を裁く〉という恐ろしい出来事が、決定的になってしまいました。

先ほど、説教の始めの方で、もしかすると今日読んだ福音書の記事は、退屈な印象を持った人のほうが多いかもしれないと申しました。それはそうだろうと思います。主イエスを裁くために、次々と偽証をする者が現れたとか、ところがどうもそれがうまくいかなかったとか、話としてはおもしろいけれども、だからどうした。そういう印象が生まれたとしても不思議ではありません。ところが、それこそ不思議なことですが、むしろ福音書は、「主イエスは、裁かれたのだ」ということを思いのほか丁寧に伝えます。だから第15章にももう一度、今度はピラトというローマの総督のもとでの裁判の様子がまた丁寧に伝えられるし、先ほど唱えました使徒信条においてもわざわざ「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と言い添えるのです。主イエスの受難というのは、たとえば十字架という刑罰がどれほど残酷であったとか、そういう話はほとんどまったく出てこないので、そうではなくて、「主イエスは、裁かれたのだ」。人間が、どれほど神を嫌ったか。神の子イエスを憎んだか。偽証する者を何人用意してでも、この男を裁きたい。死刑にしたい。福音書が丁寧に伝えることは、そのことであります。

しかしそう考えてまいりますと、主イエスを裁いたのはユダヤの最高法院やローマ帝国の権力だけではありません。ペトロが三度繰り返して、「あんな人のこと、知るもんか」と言ったのも、小さな裁きの出来事でしょう。主イエスが十字架につけられたとき、福音書は決して、主イエスの体のどこからどのように血が流れたとか、一切そんな話はしないのですが、周りに立つ人びとがどんなに主イエスを憎んだか。どんなにひどい悪口を言ったか。そのようにして、〈人間が神を裁く〉という出来事が起こったことを、福音書は丁寧に伝えるのです。主イエスは、私どもによって裁かれたのです。そこに主イエスの苦しみの中心がありました。

けれども主イエスは、人びとの裁きの言葉を聴きながら、ずっと黙っておられました。61節にも、「イエスは黙り続け、何もお答えにならなかった」と書いてあります。「おい、どうなんだ。お前にとって不利な証言が続いているけれども、何か言い分はないのか」と促されても、ひと言もお答えにならなかった。第15章5節にも、同じ趣旨の描写があります。ピラトによる裁判の席においても、やはり同じように主イエスを陥れようとする証言が続いたというのですが、「しかし、ピラトが不思議に思うほどに、イエスはもう何もお答えにならなかった」と書いてあります。

そのような主イエスの沈黙を破る、ただひとつの発言が、「わたしだ」という、あの言葉だったということは、不思議な神の恵みであります。裁かれ、罪に定められ、あるいは罵られ、あるいは嘲られ、なお黙っておられる主イエスのお姿から、あのイザヤ書の言葉が響き出しているかのようです。

私を求めなかった者に私は尋ね出され
私を探さなかった者に見いだされた。
私の名を呼ばなかった国民に
「私はここにいる、私はここにいる」と言った。

■そのような主のお姿が、たとえば65節には、このように描写されております。「そして、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちもイエスを平手で打った」。いったい、人間は、ここまで残酷になれるものなのでしょうか。この人たちは、知らずに神ご自身を憎んでいたのですが、そうです、人間の神に対する憎しみというのは、ここまで深いと言わなければなりません。

ここに「目隠しをしてこぶしで殴りつけ」と書いてあります。ただ、この翻訳にはひとこと注を付けたい。正確に訳すと、「彼の顔を覆い隠して」という表現です。すいか割りのときにするような目隠しを想像すると、少し違うかもしれません。目を隠したのではなく、顔をぐるっと覆い隠した。大きな布で、主イエスのお顔全体をぐるぐる巻きにしたのかもしれませんし、あるいは袋のようなものを、頭からずぼっとかぶせたのかもしれません。その袋の上から、主イエスの顔をこぶしでガンと殴りつけて、「だーれだ」。「言い当ててみろ」。

皆さんは、主イエスのお顔を想像したことはあるでしょうか。そのお姿を、想像したことはあるでしょうか。その優しいお顔を、その優しいまなざしを、想像したことがきっとあるだろうと思います。しかし、ところで皆さんは、顔全体を布だか袋で覆い隠されたイエスさまの姿を想像したことはあるでしょうか。主イエスを裁くとか、主イエスを殴るとか、主イエスの顔に覆いをかぶせるとか、遠い世界の話のようで、案外近い話なのではないかと思います。仕事が忙しいから信仰を捨てるというのも、ひとつの裁きでしょう。かつてあんなに愛していた主イエスのお顔に覆いをかぶせて、「しばらくはあなたの顔を見ている暇はありません」。「今は忙しいので」。「今は必要がないので」。「もう興味がないので」。そのような私どもの本性が、まことに強烈な仕方で現れたのが、65節の叙述なのではないかと思います。けれども主イエスは、顔を覆われ、げんこつで殴られて、「言い当ててみろ」と言われたときに、もちろん誰が殴ったか言い当てるくらい朝飯前だろうと思います。だがしかし、「言い当ててみろ」と言ったときに、もしも主イエスから、「お前だな」と、面と向かってそんなことを言われたら、私どもは立ちすくむほかないかもしれません。しかしもちろん主イエスは、「お前だ」とは言われませんでした。ただ沈黙を貫かれました。いや、ただひと言、「エゴー・エイミ」、「わたしだ」と言われたのであります。

私を求めなかった者に私は尋ね出され
私を探さなかった者に見いだされた。
私の名を呼ばなかった国民に
「私はここにいる、私はここにいる」と言った。

なぜ主イエスは、遂にここに至るまで、ご自分の正体を明かされなかったのでしょうか。「われこそは神の子である」と、なぜ明言されなかったのでしょうか。理由は非常に単純なことで、それは主イエスが言っても仕方がないことだからです。仕方がないというのはつまり、主イエスご自身が「わたしがあなたの神だ」とおっしゃったって、われわれは容易に信じないでしょう。事実、この福音書のクライマックスにおいて、誰も信じようとはしなかったのです。むしろ人びとはますます頑なになり、その顔を覆い隠して……けれどもまさしくそのところにおいて、「私はここにいる、私はここにいる」との神の呼び声が聞こえてくるのであれば、私どもはそれに答えないわけにはいかないのです。「あなたこそキリストです。あなたこそ、わたしの神です」と、そう言わなければならないのは私ども自身です。そこに信仰が生まれるのです。

今朝、新しく信仰告白式をした兄弟が起こされたことをも共に喜びながら、私どもも主イエスのみ前に膝をかがめ、「あなたこそわたしの主、わたしの神」と、信仰を新しく奮い起こしたいと願います。「私はここにいる、私はここにいる」と、主のみ声ははっきりと聞こえているのですから、これに励まされて、今共に主の食卓を囲みたいと願います。お祈りをいたします。

 

主イエス・キリストの父なる御神、今もあなたのみ子のみ声が聞こえます。「わたしだ」、「わたしはここにいる」と、私どもの罪に取り囲まれて、なお心を込めて呼びかけてくださるみ子イエスの声に答えて、今私どもも、あなたに対する愛と信仰を奮い起こすことができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン