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幸い

2024年8月11日

マタイによる福音書 第5章1-4節
柳沼 大輝

夕礼拝

「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである その人たちは慰められる。」(マタイ5:3~4)

この御言葉は、ある日、主イエスが山に登られて、弟子たちに向けてお語りになった言葉であります。この第5章から第7章まで続く一連の教えはよく「山上の説教」と呼ばれます。その主イエスの教えの冒頭をいま、共にお聴きいたしました。

「心の貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは言います。ここで「心」と訳されている言葉は、普段、私たちがイメージするような「気持ち」や「感情」といったものを指しているわけではありません。ここで「心」と訳されている言葉は「魂」(ギリシャ語でプネウマ)を意味する言葉であります。

つまり、心の貧しい人々とは、魂が空っぽの人、生きていても何の喜びもない、自分の力では、いま、自分が生きている意味を見出すことのできない、そういった人生に深い空しさを抱えて生きる人々を指した言葉でありました。

続けて、主イエスは「悲しむ人々は、幸いである」と言います。いま、悲しい、寂しい、辛いと、涙を流している人々は、幸いであると、主イエスは語るのです。

本日は、お読みいたしませんでしたが、その後もこのような「〇〇な人々は、幸いである」という言葉が合計で9回も繰り返されます。ここでそのすべてをさらうことはいたしませんが、いま、見た2つの言葉からも主イエスがここでお語りになっていることは実に非常識であり、おかしなことを語っているように思われます。

空しさを抱えて生きる人々が幸いであるはずがありません。涙を流して悲しんでいる人々が幸いであるはずがありません。そんなことは私たちだって、今日まで必死に自分の人生を生きてきたなかで、身に染みて痛感させられてきたはずであります。

これまで自分の力で頑張ってきたことがまるで無駄であったかのように思えたら、それは空しいでしょう。一瞬にして大切なものを失ったり、病いや老いによって、今まで当たり前にできていたことができなくなったりしたら、それは泣きたいくらいに悲しいでしょう。そんなふうに悲しみや苦しみを一つひとつ数え上げていったとしたら、きっときりがありません。

この現代社会のなかでそれなりに頑張って必死に生きていこうとしたら「自分は幸せです」なんてそう簡単には言えないのではあります。

それでは、ここで主イエスがお語りになった言葉は、いま、苦悩を抱えて生きる私たちへの単なる同情に過ぎないのでしょうか。所詮、聖書の御言葉は、現実をしっかりと捉えていないただの戯言に過ぎないのでしょうか。

いいえ、けっしてそうではありません。主イエスは、私たちが抱える空しさや寂しさ、恥や後悔を痛いほどわかったうえで宣言されるのであります。「心の貧しい人々は、幸いである」。「悲しむ人々は、幸いである」。

それでは、何故、主イエスはこのように証言することができるのでしょうか。それはこの主イエスがお語りになった言葉の背後にある大切な言葉が隠されているからであります。その言葉は「私があなたと共にいるから」という言葉です。

本日、聴いているマタイによる福音書は、その第1章で主イエスの誕生を次のような預言者の言葉を通して語りました。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(1:23)

そして最後の第28章では、次のような印象深い物語を描きます。主イエスは十字架につけられ、死んで葬られた後、三日目に復活して、山に登られ、弟子たちと再会されます。そこで主イエスは主の復活を信じることができず、疑い、怯える弟子たちに向かってこのようにお語りになりました。

「あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)

「私はあなたがたと共にいる」この言葉は、福音記者マタイがその福音書のはじめから終わりまで主イエスのみわざやお語りになった言葉、いわば、福音、喜びの知らせを読者に語り伝えるうえでとりわけ大切にしたテーマでありました。そして、この言葉は、主イエスが弟子たちにお語りになった言葉の背後にいつも隠されている主の真実でありました。

主イエスは言うのです。「心の貧しい人々は、幸いである。何故なら私がその者たちと共にいるから」。「悲しむ人々も、幸いである。何故なら私がその者たちと共にいて慰めるから」。

傍から見たら、何も状況は変化していないかもしれません。問題は何も解決していないかもしれない。空しい現実や悲しい出来事はたしかにいまもここにある。けれども主イエスが共にいてくださるなら、私たちはそれでもなお大いに喜ぶことができるのであります。涙を拭いて、もう一度、そこから立ち上がらせていただけるのであります。

「私はあなたと共にいる」この主イエスの言葉は、その当時の弟子たちだけに向けて語られた言葉ではありません。いまを生きる私たちに向けてもたしかに語られている主の御言葉であります。「もう人生の空しさに恐れ、怯えなくていい。悲しみに涙しなくていい。私があなたと共にいるから。」

しかし、残念ながら、私たちは、目で見ることができないから、手で触れて確かめることができないから、そう簡単に主イエスが共にいてくださるなんて信じることができない。

むしろ私たちは空しさに襲われたら、悲しみに心を奪われたら、誰もこの苦しみを理解してくれない。誰も自分の気持ちを分かってくれない。そうやって、自分はまるで一人ぼっちだと思い込んでしまうのではないでしょうか。

それでは、私たちはどうしたら、主が共にいてくださるという主の真実に目を開くことができるのでしょうか。答えは実にシンプルであります。孤独のなかで主を見失いそうになったら、何度だって、立ち止まり、聖書の御言葉に聴けばいいのです。互いに祈りを合わせればいいのです。

神の言葉に聴き、祈りを合わせるとき、そこに、復活の主は生きて働いてくださいます。主イエスは、弟子たちに教会の姿についてお語りになったとき、このように言われました。

「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」(18:20)

いま、こうして主に招かれて、共に讃美を捧げ、祈りを捧げ、神の言葉に聴き、礼拝を捧げるとき、復活の主は、たしかに私たちと共にいてくださるのであります。いまここに主が生きて、私たちの救いのために働いてくださるのであります。

だから私たちは、もはや悲しまなくていい。泣かなくてもいい。主イエスは、いまもたしかに私たちに語りかけています。「あなたの空しさも寂しさも、その涙も、自分ではどうしても赦すことのできない、その恥も後悔も私は全部、知っている。そのために私は十字架にかかったのだ。そのために私は死から復活したのだ。だからあなたは幸いだ。誰がなんと言おうとも、いま、自分ではそのように思えなくてもあなたは幸いな者」。

本日の箇所で山に登られる前、群衆のことをじっと見つめられたように、主イエスはいま、私たちのことも見ていてくださっている。だから、私たちも主の御もとに集まって唯々主イエスを見つめたい。主イエスの言葉に耳を澄ませたい。主イエスは世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださる。

そして、この真実は、この礼拝が終わり、たとえあなたが物理的に一人になったとしても変わらないのであります。それは教会の仲間たちが主イエスの名によって、祈りでつながっているからです。

あなたのためにも教会の仲間たちが祈っています。私も朝起きる度に皆さんの名前を見ながら祈ります。いま、悲しんでいる者、泣いている者の傍らに主が伴っていてくだいますように。その涙を拭い、慰めを与えてくださいますようにと祈っています。

あなたはけっして一人でありません。教会の仲間たちが、そして何より主イエスが共にいてくださいます。だから、私たちはたとえ空しさに心を押しつぶされそうになったとしても、悲しみに涙が溢れそうになったとしても、それでもなお幸いなのです。

この幸いはたとえ死であっても、病いであっても、恐れであっても、挫折であっても、いかなるものであっても、奪い去ることはできないのであります。今週もこの主の幸いに生かされる人生を共に喜んで歩んでいきたいと願います。

 

インマヌエルの主イエス・キリストの父なる御神、
私たちはいつも悲しみや苦しみに心を奪われ、自分は不幸だと思ってしまいます。
けれども主が私たちと共にいてくださる。大丈夫だと言ってくださる。だから私は幸いです。
この幸いがいまも後も永遠に
私たち一人ひとりのうえに豊かにありますように。
主の御名によって祈ります。アーメン