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人の期待に添わぬ救い主

2024年5月5日

マルコによる福音書 第12章35−37節
川崎 公平

主日礼拝

■先週の月曜日、かつて長い間この教会の牧師であった、加藤常昭先生の葬儀をしました。鎌倉雪ノ下教会の教会員だけでも200名近い方が参列してくださり、しかしまたそれだけに、どうしても葬儀に参列できなかったことが心残りになっている方も少なくないだろうと思います。日本の教会全体にとってもたいへん大きな存在であり続けた先生ですが、しかし何と言ってもこの教師を通していちばん大きな恩恵を受けたのは、私ども鎌倉雪ノ下教会であるに違いありません。加藤先生を通して与えられたその〈恩恵〉を、しかし先週月曜日の葬儀ではただひとつのことに集中して語らせていただいたつもりです。それは、「主イエスを愛する」ということです。私自身、加藤先生から学んだことというのは山ほどあるように思う一方で、本当に大事なことは、実は結局ただひとつのことに集中しているのであって、それが「主イエスに対する愛」である。なぜそこまではっきり言い切れるかというと、これにはちょっとした裏話があります。

『慰めとしての教会に生きる』という、おそらく加藤先生の最後の著書となった書物が昨年のクリスマスに刊行されました。この書物の冒頭に、一昨年の7月に東村山教会で加藤先生が語られた説教があります。その説教の中で加藤先生がおっしゃることは、おそらくこれが自分の地上における最後の説教になるだろう(実際には、そのあとまた別の教会で説教なさっているのですが!)。自分はもう目も見えなくなった。原稿を書くことも聖書を読むこともできない。皆さんの顔も見えない。もちろん座ったまま説教するしかない。そう言いながら、ペトロの手紙一第1章8節を説かれました。

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。

これが自分の最愛の聖句である。いつか自分の葬儀が鎌倉雪ノ下教会で行われる時には、川崎牧師がこの言葉を説教するはずだけれども、その聖書の言葉を、今自分の言葉で説き明かしたい。そう言って、こんなことまで言われます。

ちょっと妙な言い方ですが、私が自分の葬りの説教をここでまずやっておく、というふうに考えることもできますし、あるいは別の言葉で言えば、……皆さんに残す遺言の言葉になる、と言ってもよいかと思います。

そういう説教の中で、加藤先生自身、主イエスに対する愛だけをひたすらに語られました。それ以外のことは、何ひとつお語りになりませんでした。たとえば、こういうことを言われます。

本当に私は主イエスが好きで、変な言い方ですけれども、まるで恋人を愛するように主イエスが好きだったと言ってもいいと思います。ですから映画のなかで……主イエスの足が見えるだけでも、主イエスの手が映し出されるだけでもドキドキした。顔を上げられないような、心が燃える思いがして、まともにじっと画面を見る勇気がなかったことが何度もある。

どうでしょうか。「ええ? そこまで?(笑)」という感想も生まれるかもしれませんが、たとえそうであったとしても、このような教師の心によってこの鎌倉雪ノ下教会が導かれ、形作られてきたことを否定することはできないと思うのです。

私どもの信仰というのは、〈キリスト教〉ではありません。私どもは、キリスト教という宗教を信じているわけではないのです。私の説教の原稿をいくらさかのぼっても、そして加藤先生の説教全集をいくら読み返してみても、「キリスト教」という言葉はほとんど一度も出てこないはずです。まあ、厳密にはたった今「キリスト教」という言葉を使ったわけですが、もし私が珍しく「キリスト教」という言葉を使った場合は、必ず否定的な意味です。私どもはキリスト教を信じているのではない。主イエス・キリストを愛しているのです。このお方に愛されたからです。それがすべてです。それ以外に死に勝つ道はないからです。しかしまたそれは、必ずしもそれほど単純な話では終わらないのです。

■今日の説教の題を、「人の期待に沿わぬ救い主」としました。もちろん、主イエス・キリストご自身のことを、このように称してみせたのです。私どもが今心から愛する主イエス・キリストは、「人の期待に沿わぬ救い主」である。だからこのお方は、十字架につけられたのです。十字架というのは当時の処刑の方法の中でも最も残酷なものであったと言われます。人びとに歓迎されるような救い主であったならば、十字架なんて手段で殺されることはなかったでしょう。「人の期待に沿わぬ救い主」であったから、だからこそ十字架につけられた主イエス・キリストを、私どもは愛して、今このように教会を作っているのです。これはなかなか単純な話ではありません。

先週の月曜日、加藤常昭先生の葬儀を終えて、いまだその興奮冷めやらぬときに、教会堂の前でこの説教題をじっと見つめているふたりの比較的若い女性たちの姿を見つけました。「あっ、あの人たち、来週の説教題を見てる……」。明らかにふたりとも、微妙なうすら笑いを浮かべているように、少なくとも私にはそう見えました。「人の期待に沿わぬ救い主」。「はあ? 何それ?」という顔をしていた若い女性ふたり組の顔を、(先ほどとは別の意味で)まともに見ることができない自分の心の弱さを思いました。「うーん、そうなんだよなあ、われわれ教会が人びとに紹介したいと願っているイエスさまって、『人の期待に沿わぬ救い主』なんだよなあ。それにしても、ちょっとこの説教題はまずかったかなあ」。何だか肩身が狭いような、でもイエスさまの気持ちが少しわかったような気がしました。「もうちょっと、世の人の期待に沿うような説教題にすればよかったかなあ」。けれどもそれは、主イエスに対してものすごく申し訳ない考えであることに気づきました。「イエスさま、申し訳ありません」。悔い改めつつ、今朝は「人の期待に沿わぬ救い主」、イエス・キリストの話をさせていただきたいと思うのです。

■それでようやく、今日読んだ福音書の記事を読んでいきたいと思うのですが、ここで主イエスははっきりと問いかけておられます。はっきりとした疑問を呈しておられます。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。それはつまり明らかに、「それはおかしい」と言っておられるのです。

メシアとは、要するに救い主です。原文のギリシア語では「キリスト(より正確には「クリストス」)」と書いてありますから、「メシア」ではなくて「キリスト」と訳したほうがよかったかもしれません。神がいつか必ず救い主、メシアを送ってくださる。そのメシアはダビデの子孫から生まれるのだ、という人びとの期待があったし、事実またその根拠となる旧約聖書の言葉もありました。ダビデというのは、主イエスが地上におられた時代から言えば千年くらい昔の英雄です。ダビデが王であった時代、イスラエルは後にも先にも例を見ないほどの繁栄を見せた。その英雄ダビデ王の子孫から、必ずメシアが出てくるはずだ。この神の約束が、千年の時を超えて、ユダヤの人びとの心の支えであり続けました。いやむしろ、この神の約束以外に、何の支えもなかったというのが、彼らの現実であったのです。

このようなメシア待望の思いがある中で、たとえば先月読んだところですが、第12章の13節以下に、ローマ皇帝に税金を納めてよいでしょうか、悪いでしょうか、という議論がありました。神の遣わしてくださるメシアが来られたならば、もうローマ皇帝などに税金を納めなくてもよい。徴税人の脅しに怯える必要もなくなる。そういう日が、今はまだでも、必ずその日が来るのだ。それが当時の人びとにとって、どんなに切実なことを意味したか。そういう時代の中に、もしかしたらこのお方がメシアではないかと噂されるイエスという人が現れたとき、ところがそのイエスがよりにもよって徴税人たちと楽しく食事をされるようなお方であったというのは、人びとの神経を逆なでするようなことでしかなかったし、だからこそ特にファリサイ派、律法学者と呼ばれるような人びとは、主イエスに対する敵意をむき出しにしながら、「メシアはダビデの子だ」。もしダビデの子が登場なさったら、徴税人たちよ、お前らなんかどうなっても知らないぞ。そしてイエスよ、お前も「徴税人の友」とか呼ばれているらしいな。お前なんか、なあ、ダビデの子がいらっしゃったら、ただではすまないからな。

そのような人びとの敵意の中で――ここで決して忘れてはならないことですが、この翌々日には主イエスは捕らえられ、裁かれ、そして殺されるのです――主イエスは言われるのです。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」。それは率直に言い換えると、「あなたがたは、わたしのような救い主を欲しがってはいないんだね」という、主イエスの深い悲しみを言い表した問いかけでしかありませんでした。「わたしは、あなたがたの期待している救い主ではないんだね」。だからこそ、主イエスはほどなくして十字架につけられたのです。

今日読んだ福音書の記事が語る事柄は、言ってみればそれだけのことであります。「人の期待に沿わぬ救い主」であります。それだけのことですけれども、これは考えれば考えるほど、不思議なことだと思います。「人の期待に沿わぬ救い主」だからこそ十字架につけられたこのお方こそ、私どもの真実の救い主であり、だからこそ今はこのお方を愛して生きる教会の存在というのは……考えれば考えるほど、不思議なものがあると思います。

■ひとつ誤解のないように申しますと、「メシアはダビデの子だ」という、そのこと自体が間違っているわけではありません。それは旧約聖書の伝える確かな神の約束ですし、新約聖書の最初の言葉は、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」であります。主の父親とされたヨセフのところに天使が訪れたときにも、「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい」と言いましたし、ルカによる福音書のクリスマス物語で天使たちが救い主の誕生を羊飼いたちに告げたときも、「今日ダビデの町に(つまり、ダビデの子孫として)、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と言ったのです。

それなのにここで主イエスが、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言われたのは、「メシアはダビデの子ではない」という意味ではないようです。そこで少しややこしい話になりますが、「どうして律法学者たちは」の「どうして」という疑問詞は、英語で言えば “why” ではなく“how” にあたる言葉が使われています。「なんでそんなことを言うんだ」ということではなくて、「どういう意味で、どのような仕方で、メシアはダビデの子なのか」。メシアはダビデの子だと律法学者たちは言う。それはよろしい。しかし問題は、どういう意味でダビデの子だと言うのか。千年前のダビデの時代のような繁栄を期待しようというのか。英雄が欲しいのか。繁栄が欲しいのか。徴税人なんか皆殺しにしてほしいのか。「メシアがダビデの子であるとは、そういう意味なのか」。しかしそうであるならば、ダビデ自身がこう言っていることについてはどう考えるのか、と言って、詩編第110篇を引用されるのです。

「ダビデ自身が聖霊を受けて、こう言っている。
『主は、私の主に言われた。
「私の右に座れ
私があなたの敵を
あなたの足台とするときまで」』」(36節)。
このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。

「主は、私の主に言われた」と書いてあります。聖書って、本当に難しいですね……。最初の「主」は「主なる神」のことです。その次の「私の主」というのが、神の遣わすメシアのことで、つまりダビデはここでメシアのことを主と呼んでいるではないか。ダビデ自身、本当の救いは自分のような者によっては実現されないということを、よく知っていたのではないか。むしろ、自分の孫の、孫の、そのまた孫の、ずっと先にいる人を指差して、「あなたこそ、わたしの主」と呼ばなければならない。そのような救い主を、ダビデ自身が待ち望んでいたのではないか。

■このような主イエスの議論は、どうもわかりにくい印象を残すかもしれません。けれども、こういうところにいちばん大切なことが秘められていると思うのです。率直に、ダビデという人がどういう王であったか、聖書をよく読めばよいのです。その上で、たとえば仮の話でもよいのです、ダビデにインタビューしてみればいいのです。「ダビデさま、メシアはあなたの子孫から生まれるそうですね。きっと王さまにそっくりなんでしょうね」。きっとダビデは顔を真っ赤にして答えるだろうと、私は思います。「とんでもない、そんな、あり得ません。わたしこそが、そのメシアに救っていただかなければならない罪人なのです」。

ダビデについて、いちばん有名な話があります。サムエル記下の第11章、第12章であります。あるときダビデが、自分の王宮の屋上を散歩していたというのですが……聖書というのは、こういうことを驚くほど丁寧に、また露骨に書くと思います。ダビデのお城の屋上から、たまたまきれいな女性が裸で水浴びをしていたのを見て、男として我慢ができなくなりました。それで、王としての特権をいかんなく発動させて、それでいろいろありまして、この女性を妊娠させてしまいます。その悪事が各方面にばれたらたいへんなことになる、下手をしたら国が傾くかもしれないと思って、その女性の夫に罠をかけて、戦争のいちばん激しい場所で殺してしまいます。もしも、皆さんの教会の牧師が、ここでダビデが二重、三重に犯した罪のひとつでも犯したことが明るみに出たら、まず赦されることはないだろうと思います。ところがダビデは、ある意味で神に赦されて、なお王位にあることを許されます。その罪人のかしらでしかないダビデの子孫にこそ、主イエス・キリストはお生まれになりました。

ダビデ自身は、よくわかっていたと思います。「メシアはダビデの子だ」。いかなる意味で、そう言われるのか。ダビデは、自分にそっくりな英雄が現れて、国を立て直してくれるなどとは、夢にも思わなかったでしょう。むしろダビデが罪人であったから、だからこそその罪人の血筋の中に、神のメシアは生まれなければなりませんでした。その救い主の現われを、ダビデ自身、呻くように待ち望みつつ、「主よ、わたしの主よ、わたしの救い主よ」と、詩編第110篇を歌ったのであります。

■この救い主ご自身が、今私どもの前にも立ってくださり、今も問いかけておられるのです。「メシアはダビデの子だと言われる。それはどういう意味か」。問われるままに、私どもはなおこの福音書を、最後まで読み進めなければなりません。この翌々日には、ゲツセマネの園で徹夜の祈りをされます。苦しみ悶えながら、祈られたというのです。いったい主は、何に苦しんでおられたのでしょうか。そう言えば、あのダビデだって、自分の罪を預言者ナタンに指摘されたとき、地にひれ伏して、真っ青になって祈りをしただろうと思います。苦しみ悶えながら、冷や汗をダラダラ流しながら、このまま死んだほうがましではないかと思うほどの苦しみを、ダビデは味わったと思います。罪を犯すとは、私どもが罪人であるとは、そういうことなのです。

ところが主イエスのゲツセマネの祈りの苦しみは、ダビデの苦しみにどれだけ輪をかけて大きかったことでしょうか。ただ死ぬのが怖いとか、十字架は痛そうだとか、そんなレベルの苦しみではないのです。ダビデを始めとするすべての人間の罪の責任を、たったひとりでひっかぶって、人に裁かれ、人から責められるだけではありません、神に裁かれ、神に見捨てられる恐怖の中で祈っておられる救い主。もちろんご自身は、何も罪を犯していないにもかかわらず、であります。このお方を指差して、私どもは、「あなたこそメシア、わたしの救い主です」と呼ばなければならないのです。

■先週の加藤先生の葬儀で、こんな話をしました。もう6年前のことになりますが、加藤先生が心臓の大きな手術をしなければならなくなって、私も病室にお見舞いに行きました。久しぶりの再会でしたし、あの先生は鎌倉雪ノ下教会の話になるといくらでも話が尽きないので、楽しい時間を過ごしたのも事実ですが、明らかに怖がっておられました。死ぬのが怖い。それで別れ際に、ほとんど涙ぐみながら、「み言葉を読んでくださいますか」と言われて、私は迂闊にも何の用意もなかったのですが、迷いつつルカによる福音書第12章の主イエスの言葉を読みました。

「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるな」(4節)。

ひと言、ひと言が心に刺さるようでした。「友人であるあなたがたに言っておく」。「あなたはわたしの友だ。わたしがあなたの友なのだから、恐れるな」。み言葉を読み、加藤先生と、おそらくそのとき初めて手を握り合って祈りました。「主イエスよ、あなたはわたしの友です」。加藤先生は手をぶるぶる震わせながら、そして小さな声を震わせながら、「イエスさま、イエスさま」と主の名を呼び続けておられました。私にとって加藤先生は、いつまでたっても〈先生〉でしかないのですが、このとき初めて、その祈りの秘密に触れたと思いました。本当は触れてはいけない、加藤先生の密室の祈りを覗き見てしまったような思いがしました。この人は、幼子なんだ。そう思いました。ところがその幼子に、主が語りかけてくださるのです。「わたしはあなたの友だ。だから、恐れるな」。

葬儀のあと、何人もの方から同じことを言われました。「あの加藤先生の病室での祈り、イエスさまにそっくりですね」。「イエスさまのゲツセマネの祈りを思い出しました。わざと重ねたんですか」と質問してくださった方もありました。ゲツセマネの祈りを意識したことは確かです。そして人から言われて、改めてその不思議さに心を打たれました。死を恐れて、何よりも神に見捨てられるという恐れの中で、「イエスさま、イエスさま」と声を震わせながら祈る病人の祈りは、確かに主イエスのゲツセマネの祈りに重なるかもしれません。けれどもそれは、ああいう偉大な教師は祈りにおいてもイエスさまに似てくるんだ、という話ではありません。むしろ話はまったく逆で、神が人となってくださったのです。イエス・キリストこそ私どものただひとりの救い主であって、このお方が私どもに似てくださったのです。加藤先生にも似てくださったのです。たとえ死の陰の谷を歩むとも、このまま自分は神に見捨てられるんじゃないかと絶望するときにも、主イエスが私どもに似てくださったことを思うとき、何よりもこのお方が私ども罪人の恐れるべき恐れをすべてひとりで担いきってくださったことを思うとき、私どもは死に勝つことができます。このお方が、お甦りになったからです。このお方を、私どもは愛するのです。お祈りをいたします。

 

あなたに愛された罪人の幸いを思います。ダビデの子としてお生まれになった主イエスよ、あなたは私どもの兄弟となってくださいました。何の罪も犯しておられないのに、罪人のすべての責任を十字架の上で担いきってくださいました。私どもの期待に沿わない救い主であられましたが、まさにそこにこそ、私どもの罪を認めることができますように。今、悔い改めつつ、新しくあなたの前に顔を上げつつ、聖餐を祝います。あなたに愛された者として、あなたを愛する者として、新しく立つことができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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