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最も大切な神の言葉

2024年4月28日

マルコによる福音書 第12章28-34節
川崎 公平

主日礼拝

■主イエスの地上での最後の一週間、受難週と呼ばれる日々の歩みを、マルコによる福音書に従って読み進めています。主が十字架につけられるまで僅か三日というそのときに、ひとりの律法学者が主イエスにお目にかかることができました。〈最も大切な神の言葉〉について語り合うことができました。愛について、語り合うことができたのであります。この主イエスと律法学者との対話は、言葉数としてはたいへん短いものですが、永遠に語り継がれるべき重みを持つものとなりました。既に皆さんも聖書朗読をお聞きになって、たいへん豊かな思いを呼び起こされたことだろうと思います。もしも今日、生まれて初めて聖書を開いたという方がおられたとしても、この言葉は忘れがたい内容を含んでいると思います。この聖書の言葉、神の言葉が、皆さんひとりひとりの生活をすみずみまで支配し、導く力となりますようにと、心より祝福を祈ります。

■ここで主イエスが律法学者と語り合ってくださった言葉が、私どもにとって永遠の価値を持つものとなった、そのひとつの理由は、最後に主がこう言ってくださったことによります。

イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた(34節)。

この律法学者は、神の国に帰って来ることができました。主イエスが、それを迎えてくださいました。「よく帰って来た。あなたは神の国から遠くない。入口の前まで来ている」。私どもも、この主イエスの言葉を聞かせていただくために、ここにいるのではないでしょうか。ここにおられる皆さんひとりひとりが、ここでマルコが伝える律法学者と主イエスとの対話に招かれています。「あなたも、神の国から遠くない」。主イエスから、そう言っていただくための礼拝でなかったら、そもそも何のための礼拝だろうかと思うのです。

ルカによる福音書が伝える、いなくなった息子の譬え、あるいは放蕩息子の譬えと呼ばれる有名な主イエスの譬え話があります。父親のもとにいたふたりの息子のうち、弟の方が父親の遺産の生前贈与を受けるや否や、家を飛び出して行って、そこにも明確に書いてあることは、この弟息子が「遠い国に旅立った」ということです。神の国から遠く離れてしまった。けれども、すぐに財産を使い果たし、そこにちょうどひどい飢饉が起こり、餓え死にしそうになって、悔い改めて父の家に帰るのですが、そこにまた印象深い表現が出てきます。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。「まだ遠く離れていたのに」、けれども父親が走り寄ってこの放蕩息子を抱き寄せたとき、既にこの息子は神の国から遠くはなかったのです。そしてあの律法学者もまた、もう遠く離れたところにはおりませんでした。「あなたは、神の国から遠くない」。

「神の国」と訳されていますが、国と言ってもどこかに国境線のようなものがあって、ここから向こうは神の領土、こっち側は違う、という話ではありません。直訳すればむしろ「神の支配」です。神の愛がすべてを支配するところ、それが神の国です。たとえば、いなくなっていた息子が、まだ遠く離れていたのに、「走り寄って首を抱き、接吻した」。これが、神の国です。
ご一緒にマルコによる福音書を読み続けながら、特に最近、皆さんもお気づきだと思います。最近というのは具体的には第11章以降ということですが、たいへん緊迫したやりとりが続くのです。主イエスに対する憎しみと殺意を持った人びとが次々と現れて、次々と険しい対話が続く。それで、今日読んだところでも、「彼らの議論を聞いていた律法学者の一人が進み出」、などと聞いただけで、そらきた、またイエスさまを殺そうとするやつが出てきた、などと誤解しかねないわけですが、ここは違います。主イエスはここで、万感の思いを込めて、「あなたは神の国から遠くない」。そうおっしゃったのだと思います。「そうだ、あなたは神の国から遠くない。そのことを告げるために、私はここに来たのだ」。

マルコによる福音書が最初から語り続けてきたこともまた、「神の国は近づいた」という、このことであったのです。主イエスが公の場に現れて伝道を開始された、その第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた」。「神の国は、もう遠くないのだ」。だから、「悔い改めて」。どんなに遠くからでもいい、神のもとに帰りなさい。「悔い改めて、福音を信じなさい」。

■この律法学者は、帰ることができました。いかなる意味で、帰って来たのでしょうか。この律法学者は、どのような意味で、神の国の近くまで帰って来ることができたのでしょうか。今日読んだ聖書の記事が伝えることは、非常にシンプルです。この律法学者は、愛がわかったのです。最も大切な、神の愛の言葉を聞き、そのすばらしさに同意することができたのです。
「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」という律法学者の問いに対して、主イエスは明確にお答えになりました。「聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。そして「隣人を自分のように愛しなさい」。そうしたら、この律法学者は「先生、おっしゃるとおりです」と答えたと書いてあるのですが、ここは少し原文のギリシア語のニュアンスも紹介したくなるところです。「おっしゃるとおりです」というのは、「あなたが言われたことは本当です」というような長い文章ではありません。私なりに直訳すると、「先生、すばらしいです」。たったふたつの単語です。「先生、すばらしいです」。私は想像するのですが、この律法学者は、目を輝かせながら、主イエスにこう答えたのではないかと思います。

何がすばらしいのでしょうか。これにこういう言葉が続きます。「『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは、本当です」。本当にそうなんですね、私にはただひとりの神さまが、いらっしゃるんですね。先生、すばらしいです!

そのただひとりの神が、こう言われるのです。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。考えてもみてください、このような命令が与えられているということ自体、それこそすばらしいことではないでしょうか。「聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である」。わたしがあなたの神、ただひとりのあなたの神なのだから、わたし以外に、あなたの帰る場所はないのだから、だからあなたは、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」、あなたの全存在を傾けて、わたしを愛するのだ。そう言われる神の言葉の中に、既にどんなに深い神の愛が溢れていることでしょうか。この律法学者は、そのことに心を打たれたのだと思います。「先生、すばらしいです。『神は唯一である。ほかに神はない』。本当に、そうなのですね」。そうであれば、われわれもまた、目を輝かせ、心躍るように、ただひとりの神の前に立ち、このお方を愛するほかないのです。

■この事実を思い起こすための、日曜日の朝の礼拝です。私どもはいつも、主の日の礼拝において、神の愛を知ります。私が、私どもが、既に神を愛する者として生かされていることを知ります。しかもそこで私どもが同時に知ることは、私どもがその神の愛から「遠く離れていた」という、単純な事実でもあります。

いつも私どもは礼拝の最初に、十戒を唱えます。礼拝の最初に十戒を唱える意味というのは、実はそれほど単純ではありません。古い教会員の方は逆にほとんどお持ちでないかもしれませんが、十戒と主の祈りと使徒信条が書いてある緑色の小さな紙があります。そこに短く十戒についての説明がありますが、これが実はたいへんよくできておりまして、十戒なんかとうの昔に暗唱してしまったという方も、折に触れてこの紙に書いてある説明を読み返してみるとよいと思います。ついでに申しますと、教会の礼拝の歴史について調べてみると、十戒を唱える伝統の教会と、ここで主イエスが語られた、神を愛し、隣人を愛しなさいという、このふたつの愛の戒めを唱える教会とがあります。十戒を唱えても、愛のふたつの戒めを唱えてもよいとする教派もあると聞きます。十戒も主イエスのふたつの愛の戒めも、本質的には同じことだと考えるからです。それにしても、なぜ礼拝の始めにそういうことをするか、ひとつの単純な理由は、この神の戒めによって自分の生活を吟味するということです。神を愛するすばらしさ、自分を愛するように隣人を愛するすばらしさを知ると共に、そこから「遠く離れていた」自分の生活が、神の言葉の光の中で明るみに出されるということが、まさにこの礼拝の中で起こります。

外国の話ですが、スコットランドの改革派の教会の礼拝で、十戒を唱えながら、ひとつの戒めを唱えるごとに、「キリエ・エレイソン」と祈るところがあるそうです。「主よ、憐れんでください」という意味のギリシア語です。正確にはこう祈るのです。「キリエ・エレイソン、主よ、憐れんでください。私どもの心を傾け、あなたの戒めを守れるようにしてください」。十戒ですから、十回この祈りをくり返すのです。特に私が興味深く思ったことは、「私どもの心を傾けてください」という、この祈りです。わたしの心は、間違った方向に傾いてしまっていますから、どうかわたしの心の傾きを、あなたが正しい向きに変えてください。あなたを愛し、隣人を愛することができるように、心の傾きをあなたが新しくしてください。「キリエ・エレイソン、主よ、憐れんでください」。そのような祈りにおいて、私どもは既に神のもとに帰り始めているのだと思います。

「私どもの心を傾けてください」というこの祈りから、もうひとつ私のような者がすぐに思い起こすのは、ハイデルベルク信仰問答という既に古典になっている信仰の書物のことです。この信仰問答においても、やはりその最初のところで、主イエスの語られたふたつの愛の戒めが大切な意味を持ちます。ハイデルベルク信仰問答の第一部、「人間のみじめさについて」と題される部分の最初のところで、「あなたの主である神を愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい」。神のすべての言葉はこのように要約される。そこで信仰問答は重ねて問います。あなたはそれを守ることができますか。「いいえ、できません」。なぜかと言うと、「わたしは生まれつき、神と隣り人とを憎む傾向にあるからです」と答えるのです。驚くべき発言です。ついでに申しますと、ここにもまた「傾き」という意味のドイツ語が出てきます。「わたしは生まれつき、神と隣人を憎むように、心が傾いている」。そこに、人間のみじめさの根本原因があると言うのです。

繰り返しますが、これは本当に驚くべき発言で、もしかすると特に現代においてはあまり流行らない教えであるかもしれません。いやいや、そんな、いくら何でも、そこまで言わなくてもいいんじゃないか。自分だって自分なりに、神を愛し、人を愛してきたつもりだ。憎しみだけが自分の人生を支配してきたとは思わない。そう思うのですけれども、そういう私どもが、人生のいろんな場面で、いろんな経験をし、ことにいろんな人に出会いながら、ふと自分の心の根本的な傾きに気づくことがあるかもしれません。自分のいちばん深いところにある心の傾き、神の国には到底ふさわしくないような、みじめな心の傾きに自分自身気づかされる典型的な場面は、どちらかと言えば、神を愛するか、愛さないかということよりも、隣人を自分のように愛するか、そうでないか、ということであると思います。私どもはどうしても、すべての隣人を愛することができないのです。自分を愛するようには愛することはできないのです。少なくとも、そう思っているのです。しかし、どうしてそうなってしまうのでしょうか。

■マルコによる福音書の説教の準備をする際に、いろんな人の書物を参考にするわけですが、毎週必ず省略せずに読むのは、横浜指路教会のホームページに掲載されている藤掛順一牧師の説教です。毎回たいへん勉強になるのですが、この箇所の説教については、「勉強」なんて言葉がまったくふさわしくないと思うほどの感銘を受けました。少し丁寧に紹介させていただきたいと思います。

まず藤掛牧師が前提とされることは、神を愛するという第一の戒めと、隣人を自分のように愛するという第二の戒めは、ふたつでありながらひとつのものだ、ということです。もともとあの律法学者は、「すべての戒めの中で、いちばん大切なのは何ですか」と尋ねているわけですから、主イエスがそれに対してふたつの戒めを挙げられたのは、実はそれが真実の意味ではひとつの事柄だからでしょう。隣人愛は実践しているけれども神を愛するとか言われてもよくわからないとか、神を愛するのは喜んでするけど隣人はちょっと無理とか、それはもともと愛でも何でもないのだ。そう言って、藤掛先生はこのように考察するのです。

目に見えない神様への愛には思い込みが生じ易く、自分は神様を愛しているつもりでも、実は自分が勝手に造り上げた神様の姿を愛しているだけかもしれません。それは結局自分自身を愛しているに過ぎないわけです。目に見える隣人との間ではそうはいきません。その人が隣人をどう愛しているかは、その人の神様への愛が本物かどうかを見分ける印であると言うことができるのです。

隣人への愛が、神への愛の真偽を確かめるしるしとなるというのは、なかなか厳しい言葉ですが、おそらくこの背後にあるのは、ヨハネの手紙一の第4章20節です。

「神を愛している」と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。

そこでさらに藤掛先生はこう言われます。われわれは、目に見える隣人を愛さないといけない。

その場合の隣人とは、自分の好きな人、好意を持っている人ではあり得ません。もともと好きな人を愛するのは、自分の思いの通りにしているだけですから、それは神様への愛の印とはなりません。神様への愛の印となるのは、自分にとって好ましくない人、好意を持てない、敵対関係にある人、つまり自然にはとうてい愛することのできない人を愛することです。……従って、隣人を愛することは、好きになるとか一緒にいて楽しいということではなくて、相手を赦すことです。赦すことこそ愛することだと言うことができます。

ここまでは説明抜きによくおわかりいただけると思います。もともと好きな人を、好きなように愛するだけなら、それは実は自分が勝手に思い描いているだけの偶像の神を愛することと同じだ。結局は自分の罪を愛することにしかなっていない。そうではなくて、「目に見える隣人を愛する」とは、目に見える隣人の欠点を赦すことだ。しかし、私が特に感銘を受けた、というよりもほとんど言葉を失うほどの衝撃を受けたのは、そのあとです。

「自分自身を愛するように」隣人を愛しなさいと教えられているのもそのことと関係しています。「自分を愛するように」は「自分を赦しているように」と言い換えることができます。私たちは、自分のことは基本的に赦しているのではないでしょうか。それなのに人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまうのです。

ああ、本当にそうだ、と思わされました。私どもは、人が見ていないと思えば、いくらでもでたらめなことをするものです。それでもいろんな理由をつけて自分を赦すのです。そのくせ人に対しては、ほんの僅かなことでも「赦せない」と騒ぐのです。
ところがさらに深刻な問題は、私どもはしばしば、自分自身のことをも赦せなくなることがあります。そのことについても、もちろん藤掛牧師は気付いておられます。そこでこう言われるのです。「自分で自分が赦せない、自分が自分であることを受け入れられない、言い換えれば喜べない、という思いが私たちの心を支配してしまうことがあります。そうなると、人のことも赦せなくなり、受け入れられなくなり、喜べなくなります」。まさしくここに、ハイデルベルク信仰問答の語る〈人間のみじめさ〉が浮き彫りになるのではないでしょうか。けれども主イエスは、そういう私どもを愛し、どんなことがあっても私どもを赦し、受け入れてくださるのだから、あなたも同じようにあなたの隣人を赦しなさい、愛しなさい。
このような主イエスの戒めの前で、自ずとひとつの祈りが生まれてくるだろうと思うのです。「キリエ・エレイソン、主よ、憐れんでください。私どもの心を傾け、あなたの戒めを守れるようにしてください」。

■時あたかも受難週であります。主が十字架につけられるまで、あと僅か三日。主イエスご自身の周りにも、神と隣人とを憎む憎しみが渦巻いていました。目に見えない神が、人間イエスという目に見える姿で現れたとき、遂に人間はこのお方に対して、考えられないほどの憎しみをむき出しにしたのであります。マルコによる福音書第11章、第12章と、主イエスの前に次から次へと、罪人の憎しみがぶつかってくる中で、ところが思いがけずひとりの律法学者が主イエスの前に立って、言いました。「あらゆる戒めの中で、どれが第一でしょうか」。先生、わたしは、神の言葉を聞きたいのです。最も大切な神の言葉を、教えていただきたいのです。主イエスはそれに答えて、ご自身のすべてを注ぎ出すように言われました。

「聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。
「隣人を自分のように愛しなさい」。

「先生、すばらしいです。本当に、わたしには、ただひとりの神がいてくださるのですね」。それに答えて主は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。「遠くないけれども、あと一歩だ」と読む人もいます。むしろその方が自然かもしれません。そうであれば、その「あと一歩」とは、目の前におられる主イエスを愛することでしょう。わたしの罪のために十字架につけられたお方を愛するのです。そのお方が、今も私どもの前におられる。私どもの礼拝を、今受けていてくださることを、忘れることはできません。そうしたら、私どもはますます熱心に、「キリエ・エレイソン、主よ、憐れんでください」と祈らないわけにはいかないし、まさにそこで最後の一歩を踏み出して、「主イエスよ、わたしはあなたを愛しております」と、大胆に申し上げることが許されているのです。今ここに造られている神の支配、神の国に共に立つことができていることを、私どもの喜びとし、光栄としたいと願います。お祈りをいたします。

 

私どものただひとりの主である御神、今私どもの耳にも、み子イエスのみ声が響きます。「あなたのすべてを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と、そこまで言われたら、私どももあなたを愛さないわけにはいきません。あなたに愛され、赦されている自分自身を愛し、赦すことができますように。同じようにあなたに愛され、赦されている隣人を赦し、受け入れることができますように。そのような教会を、あなたのご支配の現れる場所として、み前におささげすることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン

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