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私は歌おう、ぶどう畑の愛の歌を

2024年3月31日

マルコによる福音書 第12章1-12節
川崎 公平

主日礼拝

■私どもの救い主、イエス・キリストは、お甦りになりました。十字架につけられ、殺されたお方が、復活なさったのです。このことは、少しでも教会に通い続けていれば、いやでも繰り返し教えられることです。しかし何万回教えられても、不思議なことだと思います。なぜ神のひとり子が殺されなければならなかったのでしょうか。すべては神のみ旨だと言えば、それまでなのかもしれませんが、なぜ神は、復活という出来事を起こさなければならなかったのでしょうか。

今朝はイースター、復活の祝いの日曜日であります。ですが、いつも通り、マルコによる福音書の続きを読みました。主イエスがひとつの譬え話をお語りになった。ぶどう園の主人と、そのぶどう園で働いていた農夫たちの物語であります。これを、言ってみればたまたま、復活の祝いの日に読むことになったわけですが、なぜ主イエスが十字架につけられなければならなかったか、そしてなぜ復活されなければならなかったか、そのことをこんなにはっきりと教えてくれる聖書の言葉は、ほかに見つからないのではないかとさえ思います。主がこの譬え話を語られたのは、十字架につけられるその三日前のことであります。そこで主イエスは、なぜご自分が殺されなければならないか、そしてなぜご自分が復活しなければならないのか、その理由を、神のぶどう園の物語に託して語っておられるのです。

■話の筋書きとしては、何も複雑なことはありません。ある人が、ぶどう園を造って、これを農夫たちに貸したというのです。それが何を譬えているのか、いろいろ難しいことを考え始めると案外長い話をしなければならない面もあるのですが、単純に考えれば、神が人間にこの世界を与えてくださったということでしょう。神のぶどう園、すなわちこの世界が、実り豊かなものになるように、神が人間にその管理をお委ねになったということでしょう。しかもそのことについて、「ある人がぶどう園を造り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを建て、これを農夫たちに貸して旅に出た」と、ずいぶん丁寧に書いてあります。このように準備万端、主人がぶどう園の設備を整えてくれたからこそ、このぶどう園が失敗するなんてことは考えられない。必ず豊かな実りが約束されているような、立派なぶどう園を主人は用意してくださったし、だからこそそこで働く農夫たちは、たいへん気持ちよく働くことができたと思います。そして実際、豊かな収穫を喜ぶことができたようなのです。

ところが問題はそのあとです。主人の使いの者がひょっこりやって来て、「収穫をご主人さまに渡してください」。ところがこの農夫たちは、自分たちが手にした豊かな収穫が、本当は主人の所有物であるということを知ってか、知らずか、「農夫たちはこの僕を捕まえて袋叩きにし、何も持たせないで帰した」。一度だけではありません。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。さらに、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された」。よく考えてみますと、「ちょっと待って、いい加減そのあたりで、何かおかしいと気づけよ」と言いたくなりますが、どういうわけかこのぶどう園の主人は懲りることなく、最後には、「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう。これはわたしの跡取りだから」と言うのです。ところがこれを見た農夫たちはむしろ、これは千載一遇のチャンスだ、これは跡取りだから、こいつさえ殺せばこのぶどう園も収穫も丸ごと俺たちのものだ、と言って、「息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出した」。「さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか」と言われるのです。

■さて、ここまでこの話を読んできて、どうでしょうか。確かに話としてはわかりやすいのです。ぶどう園の主人が収穫を渡せと言うのは当然のことですし、けれどもそれに対して農夫たちが自分たちの手で収穫したものを、いくら相手が主人であっても渡したくないというのも、気持ちとしてはわかるのです。しかしそれにしたって、主人が次々に送ってくる僕を殴ったり殺したり、それはいくら何でもやりすぎだし、もうひとつ非常に不思議なことは、どうしてこの主人はここまで頭が悪いんだろうか。ふたり目か三人目くらいで、いい加減気づけよ。その意味では、この譬え話はどうも現実離れしている、話としてリアリティがなさすぎるという感想もあり得るかもしれません。

けれども、なぜ主イエスがこのようなあり得ない話を創作しなければならなかったというと、事実として、こういうあり得ないことが起こったからです。あり得ないことというのはつまり、神のひとり子、イエス・キリストが最後に遣わされてきたのに、人びとはこれを殺してしまったということです。つまり主イエスはここで、最後に殺されたひとり息子の姿に託して、ご自身の十字架の意味を語っておられるのです。

なぜ、主イエスは十字架につけられたのでしょうか。何も難しい話はありません。「このぶどう園の収穫は神のものだから、神に返しなさい」。そういうことを言ったがために、このお方は、逆に殺されてしまったというのです。それが十字架の意味です。

■先ほど、何人も使いの者を送り続けたぶどう園の主人は、少し頭が悪いんじゃないかと、いささか穏当でないことを申しましたが、穏当でなくても何でも、本当にその通りだと私は思うのです。このぶどう園の主人は、はっきり言えば神は、人間の知恵では測りがたいほど、馬鹿正直なお方だと思うのです。ここで一応の説明をしておくと、最初に何人も遣わされた僕たちというのは、旧約聖書に出てくる預言者たちのことを指しているのでしょう。あるいは、主イエスに先立ってこの世に現れた洗礼者ヨハネ、マルコによる福音書では第6章に伝えられていることですが、領主ヘロデによって首をはねられた洗礼者ヨハネのことも考えられているのでしょう。

最後に遣わされた息子は、そういう使いの者たちのたどった運命を全部知っているのです。そうであれば、この息子の気持ちだって、平穏なものではなかっただろうと思います。この息子の父親は、「わたしの息子ならだいじょうぶだろう」と言うのですが、当の息子からすると、やっぱりどう考えても嫌な予感しかしないのです。これまでたくさんの僕たちがひどい目に遭っている。そうであれば、自分が同じところに行って、自分だけは歓迎されるという保障はどこにもありません。けれどもこの息子は、父親のことを愛しておりましたから、お父さんが行けと言うなら、このお父さんの言うことならどんなことがあっても従いたいと思うから、もしかしたら、いや、きっと自分も殺されるに違いないと承知の上で、今このように私どものためにも、このような譬え話を語ってくださるのです。

この譬え話をされた三日後には、主イエスご自身、十字架につけられ、そしてお甦りになるのです。そのことを思うと、この譬え話はとても悲しい、とても恐ろしい、しかしまた、無限の望みを与えてくれる話であると言わなければなりません。主は、お甦りになったのです。この悪い農夫たちは、神のひとり子を殺したのに、殺すことができませんでした。その復活という出来事の意味を、もう一度よく考えなければならないと思うのです。

■ここで主イエスが問いかけておられることは、非常に単純なことで、「このぶどう園は誰のものか」ということです。「神のものは、神に返せ」と言われるのです。私どもの生活も、私どもの命そのものが、神からお預かりしているものです。その神からお預かりしたものを、私物化することは許されないし、無責任に扱うこともしてはならないのです。

私が鎌倉雪ノ下教会に来て、14年が過ぎました。今日は鎌倉に来て15回目のイースター。明日4月1日から、15年目に入ります。14年間、感謝すべきことも多いのですが、苦しいこともなかったわけではありません。「何を大げさな、40歳を過ぎた男が何も苦しいことがない方がおかしい」という見方もあるかもしれませんが、やっぱり苦しいものは苦しいのです。そして、苦しい、苦しいと言いながら、数えきれないほどの罪を犯してしまったと思います。私が牧師として犯す最大の罪は――もちろんいろんな罪を犯すわけですし、本当にいちばん深い自分の罪の話というのは、むしろ誰にも話すわけにはいかないという面もあるかもしれませんが――結局私のような人間が犯す罪の最大のものは、神のぶどう園を私物化する罪だと思います。これは自分のぶどう園だ。自分が収穫するんだ。このぶどう園の最高責任者は俺だ。……これ以上罪深いことはないし、人間としてこんなに苦しいこともないだろうと思うのです。

皆さんの生活も、ひとりひとり本当にさまざまだろうと思います。皆ひとりひとり、その人だけの人生を与えられています。誰も代わってくれません。誰も責任を取ってくれません。その人だけの人生です。そしてそれは、神からお預かりしたものです。ところがそういう生活の中で、いつも私どもが深刻な罪に誘われることは、「自分の人生は自分のものだ」と思い込むことだと思います。その自分のぶどう畑を少しでも豊かなものにしよう、自分の収穫を誰にも奪われまいと、毎日肩肘張りながら、その深いところには恐れがあり、思い煩いがあり、優越感があったり劣等感があったり、自分を責めたり他人のせいにしたりしながら、自分のぶどう園を一所懸命守ろうとしているのではないかと思います。けれどもそれは、いちばん苦しいことだし、いちばん罪深いことだと思うのです。国と国との戦争だって、結局はこういうところに根本的な原因があるに違いありません。これは俺のものだ。いや、俺のものだ。いや違う、俺たちのものだとやり合っているのでしょう。この世界の主人である神からご覧になったら、こんな愚かな話はないし、こんなに苦しいこともほかにないだろうと思うのです。

人生において、苦労があっちゃいけないとか、そんな無茶苦茶なことを言うつもりはないのです。どんな人生にだって苦労はつきものです。パウロはコロサイの教会に宛てた手紙の中で、「今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており」、その苦しみが何の苦しみであるかというと、「キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています」(コロサイの信徒への手紙第1章24節)と言っています。そうであれば、牧師たる人間が、何も苦労を知らないというのは噓でしかないでしょう。けれども問題は、その苦労が神のぶどう園のために働く忠実な農夫の苦労ではなくて、そうではなくて「神なんかいない」とうそぶくところに生まれる恐れや、思い煩いや、優越感や劣等感に満たされてしまうということなのです。

ところが、そんな私どものところに神のひとり子がおいでになって、何と言われるかというと、「神のものは、神に返しなさい」。「世界は神のものなのだから、神に返しなさい」。「あなたの人生だって、神のものなのだから、神に返しなさい」。そんなことを言われたら、誰だって戸惑うかもしれない。けれども本当は、こんなにすばらしい自由解放の知らせはほかにないだろうと思うのです。神からお預かりしている人生だということを知ることは、本当に自由になることです。何も恐れることはない。何も思い煩うこともない。このぶどう園は、神さまのものなんだから……。しかもそこで私どもは、無責任になることはありません。むしろ、このぶどう園は神さまからお預かりしているのだということをわきまえるときにこそ、私どもは本当に責任ある生き方ができるし、まさにそこでこそ、私どもは人間としての本領を発揮することができると思うのです。

■けれども、この農夫たちはそのことを見事に忘れました。このぶどう園は自分たちのものだと思い込んで、何を考えたかというと、「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ」。はたから見ると、この農夫たちの言っていることは無茶苦茶なのです。息子を殺せばぶどう園は全部自分たちのものになるなんて、落ち着いて考えてみればそんな道理が通るはずがないのに、なぜこんな馬鹿なことを考えたのかというと、「神なんかいない」と思ったからです。そして私ども自身、神なんかいないと、幾たびこういう馬鹿なことを考えることでしょうか。神なんかいない、自分のぶどう園は自分のものだ。そう言っていろんなものを恐れたり、思い煩ったり、「14年間苦しかった」などと言って失笑を買ったり……。けれどもそういうときに、大切なことを忘れてはいないでしょうか。私の人生、私の財産、私の家族、私の仕事。あるいは、私の教会。それが本当は誰のものか。誰のものをお預かりしているのか。それを忘れるとき、私どもは、預言者を殺したことなんかないと思うかもしれませんが、神の言葉をいくらでも殺しているでしょう。神の言葉を聞いても聞かなかったことにするのです。そこに、主イエス・キリストの十字架が立ちました。

なぜ主イエスが十字架につけられたかというと、この譬え話を読めば実に明瞭であります。「神のものは神に返せ」と、そうおっしゃったから、けれども農夫たちはこれを受け入れなかったから、これ以上考えられないほど残酷な方法で、神のひとり子を殺した。神の言葉を殺した。神の思いを殺したのです。ところが神は、この主イエスを死人の中から復活させられました。それは、この農夫たちの罪に対する、神の答えであります。

私どもの犯す罪の最大のものは、「自分のものは自分のものだ」と言い張ることだと思います。ところがそういう私どもの罪に対して、神はキリストの復活というしかたで、徹底的に戦われたのです。私どもの罪に対して、神は復活という方法で、決定的な勝利を収めてくださったのです。そうであれば、私どももまた、この復活という出来事に対して、きちんとお答えしなければならないと思うのです。

■復活については、今日読んだ10節以下で、詩編第118篇を引用しながらこのように語っておられます。

聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで
私たちの目には不思議なこと』」。(10~11節)

「家を建てる者の捨てた石」とあります。家を建てる専門家たちが、この石は何の役にも立たないと言って、主イエスを捨てたのです。神がいると邪魔だ。神の言葉も邪魔だ。神を殺して、思い切り自分たちのやりたいことをやろう。ところが、捨てたはずの石が立ちました。殺したはずの神の子が復活されたのです。「これは、主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと」だと言うのですが、いちばん不思議なことは、9節と10節がうまくつながらないことかもしれません。つまり、9節でははっきりとこう言っておられるのです。「さて、ぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」。そうであるならば、それに続けて、「そうだ、お前たちは最後には皆殺しだ」という話になってしかるべきでしょうが、事実としてそんな出来事は起こっておりません。起こった出来事は、農夫たちが殺されることではなくて、キリストの復活であります。主は既にここでも、人びとの殺意に気づきながら、その殺意の向こう側に射している甦りの光を見ておられます。「家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで/私たちの目には不思議なこと」。この不思議な主のみわざが、私どもの罪を打ち砕く。そこに、悔い改めが生まれないわけにはいかないのであります。

■今朝の説教の前半の方で、このぶどう園の主人は馬鹿正直に過ぎるのではないかと、どうも穏当でない表現を用いました。しかし事実、そうだと思うのです。ご自分の僕がどんなにたくさん殴られ、侮辱され、殺されても、このぶどう園の主人は、それでも懲りずに、愛するひとり子をお与えになったほどに、この世を愛されたのです。この農夫たちのどんなに愚かな罪に直面させられても、この農夫たちとのつながりを、最後の最後まで断ち切ることはなさらなかったのです。ところが農夫たちは……いや、ここはもうはっきり言わなければならないでしょう、私どもは、遂に最後に送られてきた神のひとり子を、十字架につけて殺した。ところが神は、御子イエスを死人の中からお甦らせになった。それはなぜかと言うと、もう一度申します、神はこの農夫たち、つまり私どもとのつながりを、どんなことがあっても断ち切ることがおできにならなかったからなのです。そこで私どもも、あの詩編の言葉を、感謝と悔い改めを込めて歌わないわけにはいかないでしょう。

『家を建てる者の捨てた石
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで
私たちの目には不思議なこと』」。

復活という出来事に込められた神の深い思いを、今私どもも確かな思いで受け止め直したいと願います。そこに生まれる感謝と悔い改めの祈りを、今思いをひとつに、み前にささげたいと思うのです。お祈りをいたします。

 

今、私どもも、お甦りになったお方の前に立ちます。あの農夫たちの罪がどんなにしぶといものであっても、最後に勝つのはあなたの愛であることを心に刻みつつ、今悔い改めて、もう一度あなたのぶどう園に戻って行くことができますように。すべてはあなたのものです。感謝して、主のみ名によって祈り願います。アーメン