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ただ一つの方向

2024年3月17日

ヨハネによる福音書 第12章11-21節
嶋貫 佐地子

主日礼拝

 

「自分のもとに引き寄せよう。」

主イエスが言われた珠玉のお言葉です。

「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」(12:32)

「自分のもとに」と、主は言われたのです。

これを「マーベラス・マグネット」と言った人がいたそうです。マーベラス、驚くべき不思議な。マグネット、不思議な磁石。

それを教えてくださったのはかつてこの教会の牧師であった加藤常昭先生です。加藤先生が、それを説教や本の中で紹介されました。マーベラス・マグネット。教会の方で、今でもその説教を覚えていると言われた方がおりましたけれども、私もその一人です。そしてその説教や本の中でもう一つ、先生がご自分の経験を紹介されました。ドイツのある教会に行ったとき、礼拝堂の中に入って驚いた。と言われています。

「その教会堂に入ったとき、思いがけなくすぐに目についたのは、一つの主の十字架像であった。その両手は十字架に釘づけられてはおらず、前の方にひとを抱え込むように差し伸べられていた。この彫刻の作家の名前は不詳、しかしその木彫りは、中世に特にこの地域に見られた、ヨハネ福音書の御言葉、『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』と言われた、主イエスの言葉に対する、信仰を表したものであった。」

主のこの言葉への信仰が満ちていた街があった。あの時代の、悲しみ苦しみの中で、人々が見上げた十字架。
「主の腕は、釘づけられてはいない。」
「それが動くのが見えた。」そういう信仰です。

それを説教としてここで聴いた時、この礼拝堂もまた、主の腕の中にあるようでした。そしてそれは、私どもだけではなく、地上のすべても、今戦場となっているところも、「釘づけられてはいない主の腕」が、差し伸べられている。そのお姿が見えるようでした。

でもその彫刻が表したように。主イエスがそうなさるのは、十字架の上からでした。
私どもを引き寄せるためには、それは十字架の上からでなければ、ならなかったのです。

これを、ひとつの方向とみることができます。方向は上です。

私どもの人生とか生活というのは、横に向かっていて、私どもの周りの、関係とか、つながりとか、今見渡しても、そうだ自分の周りにはこういう人がいて、こう言う人が自分を助けてくれていて、またこういう人が自分を必要としてくれていて、と思います。それに、今どこにいるとか、これからどこに行こうとしているとか、そういうことも横への広がりに思われるのです。でもそうではなくて、ある時、「上へ」という。それまで私どもにはなかった方向がやってきて。「上へ」という、神様の意志がはっきりと起こり。そしてその手前に十字架があったのです。

実際の十字架は、この地上からほんの2、3メートル上にあっただけと思われるのですが、でも、それはもっと高い上を指していました。神様の「栄光」のところです。十字架は栄光でした。

このことを、主が言われたのは受難週に入ってすぐのことでした。エルサレムに入られた、主イエスの周りにはほんとうにたくさんの人がいました。その時に主イエスが、「時が来た」と言われました。

「人の子が栄光を受ける時が来た」(12:23)。

主が十字架のことをそう言われたのです。

「私は地から上げられる時」と主は言われましたけれども、「私は地から上げられる時」というのも「ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(12:33)とあるとおりに。「上げられる」とは十字架の上のことで。そしてそれはご自身が「栄光を受ける時」であった。

どうして栄光なのだろうと思います。十字架の上なのに。十字架は極刑なのに。罪人として辱められて、そこから死に降る、そういうところですのに、なぜそれが栄光なのだろう?

でも、そこでなされたことは、「神の栄光の現れ」そのものでした。神が神であることが、そこでほんとうに現されたからです。
救うのは私である。ということが、そこでほんとうに現されたからです。

それでたくさんの人が、主を信じるようになったからです。世界中の人が神様のところに帰るようになるからです。その「栄光の現れ」から、その場所から、主はご自分のもとに引き寄せる、と約束してくださいました。

 

私は教会の方が言われた言葉で、忘れられない言葉があります。教会のあるご婦人のご自宅に、ご病気のご主人を訪ねた時のことでした。その教会の方はもちろん洗礼を受けておられますけれども、夫であるご夫君は洗礼を受けておられない。
そしてその妻が、夫の目の前で、私に言われました。「ずっと考えていることがあります。最近ずっと夫のことを考えています。夜中にも目が覚めて眠れないのです。するとずっと考えているのです。この人、どこへ行っちゃうのかなぁ。」

この人、死んじゃったら、どこへ行くのかな。

どこへ行っちゃうのかな。自分はわかります。自分は、どこへ行くのかわかる。だけど、この人は、どこへ行っちゃうんだろう。切実でした。そうやって目に涙を溜められました。それをご夫君はじっと、一点を見つめて聞いておられました。私はその方の、妻の、夫への愛の告白だと思いました。それを妻は、神様に、お願いしておられるように思われました。この人は、どこへ行っちゃうのでしょう?お願いします。神様。
その妻に対して、ご夫君が、「明日から、聖書を読むから」と答えられました。

自分はどこへ行くのだろう。身にしみました。

でも、その方のためにも主は十字架におつきになりました。そして「引き寄せよう」と言ってくださいました。だから信じろと、その時、妻を通して、主が愛する夫へ、言ってくださったのだと思うのです。

でも主がこの言葉を言われた時、主イエスのお心が騒がれた、ということがありました。主が言われたのです。

「今、私は心騒ぐ。」(12:27)

「時が来た」ことをおわかりになった主イエスが「今、私は心騒ぐ」と言われました。十字架の「時が来た」。

「何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(12:27-28)

このことは何の犠牲もなくなされたのではありませんでした。たやすくなされたのではありませんでした。主イエスが心を騒がせておられる。
主イエスが弱っておられる。十字架を避けたい。死にたくない。父よ、私をこの時から救ってください。でもそれは、ほんとうは、私どもが祈る祈りでした。

そしてこの「心騒ぐ」と、主が、言われたお言葉を思いますと、主イエスがそうなられたのは、ヨハネ福音書ではほかに2つ。一つは、弟のラザロが死んで、姉のマリアと人々が泣き崩れた時。それと、ユダが裏切ろうとする時。

その時に、主が同じように心騒がれた。

人が死に呑み込まれた時と、愛する者が裏切る時。人が、死に負けそうになる時と、
愛する者が、罪の闇の中に入って行っちゃう時。その時に、心が動いて仕方ない。
心が騒いで仕方がない。

このあと、主イエスが「光のあるうちに歩け」(12:35) 言われます。「闇に捕らえられることのないように光のあるうちに歩け」。そして言われました。「闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわからない。」
自分が、どこへ行くのかわからない。
自分でわからないのです。死んだら、どこに行くのかわからない。自分でもわからない。誰かを、心の中で裁いている時も、自分が、どこに行くのかわからない。そういう者は闇に捕まる。
だけど、それらを主がご自分の中に入れました。心の中に入れられました。よくおわかりだった。

人の心を自分の中に入れるなんて、人には絶対できません。人の心をそのまま受け取るなんて人にはできません。だけどこの方は違います。それらをぜんぶ受け取って。十字架に持ってゆく。

その心が動いてならない。だから、その心は言う。「まさに私はこの時のために来たのだ。」

あなたをそこから引き寄せる。

あなたが罪に死なないため。あなたが永遠に死なないため。あなたが神のところで命を得るために。「まさに私はこの時のために来たのだ。」「父よ、御名の栄光を現してください。」

すると天から、父なる神様が応えられました。

「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」(12:28)

父なる神様は沈黙なさいませんでした。御子主イエスの血がささげられる時、父なる神様が、そして重要な方向を指すときに、神様は黙っておられませんでした。「栄光を現そう。」上へ。

それは主イエスのただ一つの方向だったのです。

そして主は言われたのです。
「私が上げられるとき」、私は引き寄せよう。
自分のもとに!

この教会で昔、夏期学校で山中湖に行ったとき、こんなことがありました。私は中学生の担当で、確かその時は、男の子が2人と女の子が4人だったと思います。山中湖の湖のほとりで、ベンチがいくつかしつらえてあるところで、そのクラスだけで分級をしました。

でも湖面がきらきら輝いて、あまりに気持ちがよかったものですから、「いい天気だねー」とか言いながら、男の子は木に登ったりしていて、「やめなさい」と言ったり。そのうち私があんまり何もしないでのんびりしていたものですから、男の子がにやにやしながら、「先生、分級しなくていいんですか?」と笑っていました。

そうして、のどかな時を過ごしていましたけれども、ふと、一人の男の子が、イエスさまの十字架の話をし始めました。とても残酷なことを申しますけれども。彼は言いました。「あのとき、釘を打たれたじゃないですか。でもあれは、ほんとうは手のひらじゃなくて、手首だったらしいです。手のひらだと骨の間を通って釘が抜けてしまうから。」
それを聞いてみんな黙りました。
彼はどこかで聞いたのでしょう。その時の彼を思いますと。ほんとうに他愛もなく、聞きかじったことを言っただけなのです。でも、私はその時に、あの彫刻のことを思い出しました。そして話しました。
「ある教会に、こんな彫刻があって、……
十字架につけられたままのイエスさまが、その手を前の方に差し出して、私たちを抱き寄せようと、まるで釘が打たれてないみたいに。動いているように見えるって。」

彼には申し訳なかったですけれども、彼もバツが悪かったと思うのですけれども、ごめんね、私もバツが悪かった。みんなバツが悪かった。だけどそんな私たちを、主が、上から、被さるようにして。十字架の上から、私たちをご自分のもとに抱き寄せようと、腕を伸ばしてる。それで一言、最後に、私がみんなに言いました。
これはイエスさまの。

ゆるし。

夏期学校のそんな分級になりました。
マーベラス・マグネット。
それを信じたいです。
私どもの行くところは、ただ一つ。
そこだけなのです。

 

天の父なる神様
そのお心に、そのお気持ちの中に、今、入ってゆきます。
どうぞそれを喜んでください。主の御名によって祈ります。アーメン