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天から声をかけられたら

2024年3月10日

マルコによる福音書 第11章27-33節
川崎 公平

主日礼拝

■マルコによる福音書を礼拝の中で読み続けて、今朝第11章を読み終えます。この第11章というのは、マルコ福音書においてひとつの山となるところで、この章から受難週と呼ばれる一週間の出来事が始まるのです。主イエスが都エルサレムにお入りになり、その週の金曜日には十字架につけられ、けれども翌週の日曜日の朝にはお甦りになります。

その受難週の叙述の中で、ひとつマルコ福音書において特徴的なのは、きちんと日の刻みを記しているということです。第11章の1節以下で、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムにお入りになる。それが日曜日のことと考えられます。11節には「すでに夕方になったので」とあり、12節では「翌日」、ここからが月曜日。実がひとつもなっていないいちじくの木を枯れさせ、枯れていたのが判明したのは20節の「朝早く」、つまり火曜日の朝早くであったわけですが、もうひとつ月曜日になさった大切なことが、神殿で商売をしていた人たちを皆追い出すということでした。〈宮きよめ〉とも呼ばれる、たいへん激しいことをなさった。そのあと20節に「朝早く」とありますように、ここから火曜日が始まります。実は火曜日の分がいちばん長くて、第13章の終わりまで続きます。その火曜日に、主イエスはたいへん長い話を神殿でなさいます。たいへん険悪な論争もしなければなりません。なぜかというと、既に殺意が生まれていたからです。

18節には、「祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った」と書いてあります。彼らの殺意が、しかもはっきりとした殺人計画になったのが月曜日であった。それが僅か数日のうちに十字架という形で実現してしまうのですが、その「祭司長たち、律法学者たち」が、ここ火曜日に、さらに深い殺意をもって主イエスに尋ねるのです。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」。「このようなこと」というのはつまり、前日の月曜日に神殿で大暴れしたことを指しているのでしょう。「祈りの家を強盗の巣にするな」と、たいへん厳しいことをおっしゃったのです。にもかかわらず、と言ってよいと思いますけれども、今日読んだ27節には、「イエスが神殿の境内を歩いておられると」とあります。何気ない文章ですが、この「神殿の境内を歩いて」いるということが、彼らには我慢ならなかったのです。「おい、お前、何をそんな涼しい顔で歩いているんだ。昨日あれだけのことをしておきながら、よく平気な顔でここを歩けるな」。そう言って、国の偉い人たちが主イエスを取り囲んだというのです。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」。

■そこから始まったひとつの論争を、今朝は福音書から読んだのですが、ここまで私の話をお聞きになって、どうでしょうか。あるいは先ほど聖書朗読をお聞きになって、どういう感想をお持ちになったでしょうか。何だか今日の聖書の話はつまらなそうだ。川﨑牧師はいったいどういう話をするんだろう。牧師の話が始まってもう5分すぎた。ほーら、やっぱり説教もつまらない。なんか眠いな、という感想が生まれてもやむを得ないかもしれません。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」とか言われても、なぜ急にそんな奇妙な話になるのか見当もつかないし、でもとにかくイエスさまは完全に彼らを論破してしまわれたらしい。論敵たちは、「わかりません」といって逃げるしかなかった。「さすが、イエスさま。でも、それがどうした?」という話にしかならないかもしれません。

しかしそこで考えていただきたいのですが、これはわれわれにとっては退屈な、しかも何だか奇妙な議論でしかないかもしれない。けれどもこの議論をしかけた祭司長、律法学者、長老たちにとっては、退屈だなんてとんでもない、はらわたが煮えくり返るような思いで主イエスの言葉を聞いたに違いないのです。「こいつは、絶対に、殺す」。それほどの激しい思いを込めて、28節でこう言ったのです。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」。

なぜそこまで思い詰めたのでしょうか。先ほど、説教が退屈とか眠いとか何とか、逆に寝にくくなる話をしましたが、実はこの話も私としては大切だからしているつもりなんで、もう少し突っ込んで聞きにくいことを聞きますが、なぜ説教を聴いていると退屈するのでしょうか。自分とは関係ない話だと思うから、退屈するんでしょう。けれどもそうではなくて、「あ、今自分の話をされている」と思ったら、退屈なんかできないのです。そしてここに出て来る祭司長、律法学者、長老たちは、もちろん退屈なんかできませんでした。このナザレのイエスという男のやること、なすこと、語ること、すべてが自分たちに直接関係がある。しかも深刻な利害関係がある、それどころか、自分たちの生活を守るためには、この男を絶対に生かしておくわけにはいかない。それで、既に生まれていた殺意がますます煮えくり返るようなことになりました。

しかし問題は私どもです。私どもはここで、直接は語りかけられていないのでしょうか。もしもここで主イエスが、さしあたり私どもとは直接関係のない話をしておられるのだとすれば、主イエスと神殿の偉い人たちとの論争を脇から眺めて、余裕をもってその会話を聞いていられるかもしれませんし、興味がなければ寝てればいいのです。けれども……いや、もちろん別に、皆さんのはらわたが煮えくり返るようにと願っているわけではありません。しかし、もう一度申します、それならば、主イエスはここで、私どもに直接語りかけてはおられないのでしょうか。

■今日は第11章の最後の部分を読みました。けれども、今日の礼拝の準備をしながら、聖書をここで区切ってしまうことが本当に正しかったか、今でも少し迷っているところがあります。第11章、第12章と章が区切れていますからますますわかりにくいのですが、本当はこの第11章の最後で句切らずに、第12章の最初の部分も続けて読むべきであったかもしれません。ここは、本当は切ることができないのです。第11章33節で、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」と主イエスがおっしゃって、それで踵を返して立ち去った、ということならそれでよいのですが、実際には彼らとの対話は終わっていないのです。すぐに第12章で、同じ人たちに、同じ場所で、同じ場面で、そしておそらく同じ趣旨の話をたとえ話で話されたのです。

そこで主イエスが語られた譬え話は、たいへんわかりやすい話です。ある人がぶどう園を作って、しばらくの間農夫たちに作業をまかせて、長い旅に出たというのです。それでぶどうの収穫のタイミングに合わせて使いの者を送って、「ぶどうの収穫を渡してくれ」と言わせたのですが、農夫たちはその主人の使いの者を袋叩きにして、何も持たせないで帰らせたというのですが、この悪い農夫たちは、そのときまさしく第11章28節のように言ったのかもしれません。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」。「はあ? 収穫を渡せ、だと? お前、誰だ? 冗談じゃない。とっとと帰れ!」

それで主人は、もうひとりの使いを送った。また農夫たちにいじめられて帰って来た。また使いを送った。今度は殺されて帰って来なかった。そういうことを繰り返したのちに、主人が考えたことは、よし、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」。そう思って、つまり神が御子イエス・キリストを送ってみたところ、農夫たちはやっぱり何も理解せずに、この息子を殺してしまったというのです。

こんなひどい話はありません。どう考えてもおかしいのですが、よく考えてみますと、私どももこの農夫たちの気持ちがわからないでもないのです。このぶどう園というのは何をたとえているのか、難しい議論を始めるといろいろ考えなければならないことも多いのですが、たとえばこの世界のことだと考えることができるでしょう。神がこの世界をお造りになった。実り豊かな収穫が約束されているような、実にすばらしい世界を神が造ってくださって、それをわれわれ人間にゆだねてくださった。そしてわれわれも、その世界を少しでもよいものにするために、一所懸命働くのです。私どもひとりひとりの人生も、このぶどう園にたとえられるような面があるだろうと思います。神からお預かりしているこの人生なのです。それを実り豊かなものにしようと、幸せを求めて、喜びを求めて、実際にはさまざまな苦労も悲しみも絶えないのですけれども、一所懸命生きているのです。ところがそういう生活をしている私どものところに、突然誰かがやってきて、あなたの生活はあなたのものではありませんよ、あなたは神のものなんだから、全部神に返しなさい、と言われたら、私どもも祭司長、律法学者、長老たちと同じように言うかもしれません。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」。この世界はわれわれ人間のもの。この生活もわたしのもの、わたしのお金も、わたしの仕事も、わたしの家族も、自分の大切なもの、あれもこれも、全部自分のものなんで、「収穫を返せ」って、お前、誰だ。「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」。

それで、ここに出てくる祭司長、律法学者、長老たちは、殺意を深め、謀略を巡らせ、遂に神のひとり子を殺してしまいました。そこで、もう一度先ほどの問いを繰り返さなければなりません。これが、私どもの物語になるのでしょうか。このたとえ話を、他人事のように読むのか、つまり正面から読むのではなくて、ちょっと脇に立って、いささかの余裕をもって、あるいは退屈しながら読むのか、それとも、自分自身の話として読むのか。もしこれが私ども自身の話だとするならば、いったいどこがどのように重なるのでしょうか。

■今日読んだ第11章の最後の場面で、ひとつ非常にわかりにくいのは、29節から突然奇妙な話が始まるところです。つまり、最初の27節で、主イエスが神殿の境内を闊歩しておられる。それを見て、祭司長、律法学者、長老たちが青筋を立てながら、「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」。その気持ちはわかる。ところが急に話が難しくなるのは、それに対する主イエスの返答なのです。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたがたに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」(29~30節)。

なぜ主イエスは唐突に、ヨハネの洗礼の話なんかを始められたのでしょうか。ひとつ明らかなことは、これに対してユダヤの偉い人たちは完全に論破されてしまったということです。「これは難問だぞ。『ヨハネの洗礼は、間違いなく天からのものだ』と言えば、『ではなぜヨハネを信じなかったか』ということになるだろう。しかし、『ヨハネの洗礼は人からのものだ、神のわざとは何の関係もない』などと言ったら、群衆が黙っちゃいないだろう。そうしたらわれわれの命も危ない」。それで結局、「いや、ちょっとわかりません」と逃げるしかありませんでした。けれどもこのやりとりを読んで、さすがイエスさま、論破王だ、と理解するだけでは、もちろんまったく不十分です。

「ヨハネの洗礼は、天からのものか、人からのものか」というのは、言い換えれば非常に単純な話であって、「あなたがたは、そもそも天を信じているのか。そもそも、あなたがたは本当に神を信じているのか」。ところがそれに対するユダヤの偉い人たちの態度は、「群衆が怖い」とか、「われわれの立場が」とか、実は彼らがひとつも天のことなんか考えていなかったことを、はからずも暴露してしまいました。それに対して主イエスがはっきりと言われることは、「神のものは神に返せ」ということでしかなかったのです。

なぜここで、ヨハネの洗礼の話が出てくるのでしょうか。ヨハネが人びとに洗礼を勧めながら、ひたすらに語り続けたことは、「悔い改めなさい」ということでした。「悔い改めなさい」。聖書の教える悔い改めとは、自分のしたあれやこれやの悪いことを反省したり、後悔したりすることではありません。聖書の元の言葉に帰って理解するならば、「向きを変える」ということです。考えてみますと、あのぶどう園の農夫たちだって、もともとそんな悪いことをしていたわけではないのです。神さまから任されたぶどう園のために、一所懸命働いて、苦労もあったけれども見事な収穫を見て、「いやあ、すばらしい。われわれもなかなか捨てたものではないね」。けれどもこの農夫たちは、いつの間にか天の存在を忘れました。このぶどう園の持ち主が神であることを、見事に忘れました。それが、聖書の語る罪です。あれやこれやの悪いことをすることではないのです。神を神としないことです。ところが洗礼者ヨハネが告げたことは、「悔い改めなさい」、神に向かって向きを変えなさい。あなたは神のものなのだから、このぶどう園も、この世界も、すべては神のものなのだから。そのことを明らかにするために、主イエス・キリストは私どものところにおいでになったのです。

■ハイデルベルク信仰問答という、古典的な信仰の書物があります。500年近く昔に書かれたものですが、今なお価値を失っておりません。この信仰問答の中で、何と言っても決定的な意味を持つのは最初の文章で、「生きるときも、死ぬときも、あなたの唯一の慰めは何ですか」と尋ねるのです。あなたには、ただひとつの慰めが与えられているはずだ。生きるときだけではない、死に際しても、あなたを支えるただひとつの慰め、それは何ですかと問うて、「わたしの唯一の慰めは、生きるときも、それどころか死ぬときにも、死を越えて、わたし自身がもはや自分自身のものではなく、主イエス・キリストの所有であることです」と答えます。わたしはわたしのものではない。わたしの人生、わたしの大事なあれやこれや、わたしの命さえも、もうわたしのものではない。イエス・キリストのものだ。たとえば、この信仰問答が言うように、死に際して、そのことを思い出すことができれば、どんなに幸せかと思いますけれども、他方から言えばやっぱりいやなのです。生きるために、自分の生活を作る。自分の城を作る。その自分の城の中には、神といえども入って来てほしくはないのです。ここに出てくる神の神殿を守っていた人たちだって、まさにそうだったと思うのです。ここは自分の城だと思い込んでいたところに、突然見知らぬ人がやって来て、もしもし、ここはあなたの家ではないですよ、わたしの家ですよ。そんな人が現れたら、誰だってうろたえるだろうと思います。けれども、その見知らぬ人というのが、本当に神ご自身であるならば、やっぱり、こんなにありがたいことはないのです。

先週、ひとりの教会の仲間の葬りをしました。ずいぶん昔にこの教会で洗礼をお受けになりましたが、その後別の土地に移られて、数年前にもう一度この教会に戻って来たという方ですから、ご存じない方も多いかもしれません。この方の人生においてひとつたいへんつらかったことは、40歳代のときに思いがけない交通事故に遭われたことでした。そのとき既にこの教会の礼拝、また諸集会に出て、加藤常昭・さゆり両先生の言葉に耳を傾けておられたのですが、ご自身には何の責任もない事故に遭って、生涯癒えることのない体の不自由に耐えなければなりませんでした。「わたしは神を恨みました」と、あるところにはっきりと書いておられます。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないかと、「神を恨んだ」。自分は何も悪くないのに。それをご自分で、〈罪〉と呼んでおられます。「その罪の中で、初めてわたしは神に出会ったのだ」と書いておられます。「わたしはわたしのものではない。わたしの体も、わたしの命も、わたしの人生も、わたしのものではない。わたしのすべては、イエスさまのものだ」。

そういう導きを与えられた、この方の愛誦の聖句は、マタイによる福音書第6章の主イエス・キリストの言葉でした。「何を食べようか、何を飲もうかと、なぜあなたの命のことで思い煩うのか。なぜあなたの体のことで思い煩うのか」。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。命が大切とか、体が大切とか、当たり前のことが書いてあります。何よりも大切な自分の体です。その自分の体が損なわれたことで、この方がどれほど思い煩ったからといって、誰がそれを責めることができるでしょうか。ところが主イエス・キリストが「自分の体のことで思い煩うな」と戒めてくださるのは、「それは、あなたの心配することじゃないよ」。あなたの命、あなたの体、それはわたしのものなんだから、あなたが心配することじゃない。「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか」と主イエスは言われました。しかしまた逆に言えば、誰が何をどうしようと、あなたの寿命を僅かでも縮めることはできないんだ。あなたの命は、神のものだ。そのような神の愛の中で、この人は実に見事に、神のものを神にお返しする生涯を全うされたと思います。

今も、主イエスは、私どもにも問うておられると思います。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。天が、地上に入り込んできたのです。「生きるときも、死ぬときも、あなたはあなた自身のものではない。わたしのものだ」と、神の声が、天からの声が聞こえたのです。聞こえたなら、悔い改めないわけにはいきません。向きを変えて、「そうです、わたしはあなたのものです」と答えないわけにはいかないのです。そこにしか私どもの本当の幸いはないからです。まさしくこれが、生きるときにも、死ぬときにも、私どもの唯一の慰めなのです。

■最初に丁寧に説明いたしましたように、受難週の火曜日に起こったひとつの出来事であります。小さな論争、小さないさかいでしかなかったかもしれませんが、そこでますます深まった殺意は、遂に十字架に至りました。人間が、神のひとり子を殺したのです。ここに出てくる祭司長、律法学者たちは乾杯したかもしれません。これでひと安心、世界はわれわれのものだ。このぶどう園もわれわれのものだ。ところが三日目に、神が御子イエスをお甦らせになったとき、その人間の罪が丸ごとひっくり返されるということが起こりました。この世界が、神のものであることが明らかにされました。そうしたら、悔い改めないわけにはいかないのです。「神よ、すべてはあなたのものです。わたしの体も魂も、すべてはあなたのものです」。その事実の証しのために、教会は生きています。今私ども自身悔い改めつつ、神をまことに神とする生活を、み前にささげることができますように。お祈りをいたします。

 

父なる御神、どうか今、悔い改めることができますように。神のことを思わず、地上のことばかり考えて、自分のぶどう畑の豊かさを誇ったり、自慢したり、思い煩ったり、滑ったり転んだりばかりしている私どものいちばん深いところにあるのは、思い上がりの罪でしかなかったかもしれません。本当は、すべてがあなたのものなのです。生きるときも、死ぬときも、私どもの体も魂も、あなたのものであるという事実に慰められて、だからこそあなたの委ねてくださったぶどう畑に、思い煩うことなく立たせてください。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しながら、すべての栄光をあなたにお返しすることができますように。主のみ名によって祈り願います。アーメン