見よ、あなたの王が
マルコによる福音書 第11章1-11節
川崎 公平
主日礼拝
■主イエスが小さなろばの子に乗って、都エルサレムにお入りになったという福音書の記事を読みました。それを見たたくさんの人が「自分の上着を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て敷いた」。そして皆が、声の限りに賛美の歌を歌ったというのです。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に祝福があるように。
いと高き所にホサナ」。
ここで福音書が語っていることは、主イエスが王として、エルサレムにお入りになったということです。大勢の人びとが、主イエスを王として迎えました。そしてまた主イエスも、そのために周到に準備をなさって、王としてエルサレムにお入りになりました。それは、先ほどあわせて読んだゼカリヤ書第9章9節の預言の実現でもありました。
娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。
あなたの王があなたのところに来る。
彼は正しき者であって、勝利を得る者。
へりくだって、ろばに乗って来る
雌ろばの子、子ろばに乗って。
見よ、あなたの王だ。あなたの王が、今あなたのところに来られたのだ。今日読んだ記事が語っていることは、言ってみればそれだけのことであります。それだけのことですけれども、たいへん多くのことを考えさせられる、また多くのことを考えなければならない出来事だと思います。
■「あなたの王があなたのところに来る」。いや、今おいでになったのだ。それはいったい、何を意味するのでしょうか。旧約聖書のサムエル記上第8章というところに、たいへん興味深い故事が伝えられています。それは紀元前11世紀という、気が遠くなりそうな昔にさかのぼることですが、神の民イスラエルが預言者サムエルに王を求めたというのです。まわりの外国には、どこの国にも立派な王さまがいるのに、なぜわれわれの国にだけ王さまがいないのか。われわれも、王に支配される国になりたい。そのような民の声を神はお聞きになって、サムエルにはっきりと言われました。「この民は、神であるわたしを捨てて、王の支配を求めているのだ」。その上で、神はサムエルに言われました。そこまで言うならよろしい、彼らの好きなようにさせなさい。ただし、あなたがたの王がどういうことをするのか、それだけは先に言っておこう。そう言って、王の権利をこのように伝えさせるのです。少し長いのですが、とても大切なところだと思いますので、最初から最後まで読みます。
「あなたがたを支配する王の権利は次のとおりである。まず、あなたがたの息子を徴用し、戦車に乗せ、騎兵にして王の戦車の前を走らせる。そうして自分のために千人隊の長、五十人隊の長を任命して、自分の耕作や刈り入れに従事させ、武器や戦車の用具を作らせる。また、あなたがたの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。さらに、あなたがたの畑、ぶどう畑、オリーブ畑の最も良いものを没収し、家臣に与える。また、あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、宦官や家臣に与える。あなたがたの男奴隷、女奴隷、有能な若者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたがたの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたがたは王の奴隷となる。その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう。しかし、主はその日、あなたがたに答えてはくださらない」(サムエル記上第8章11~18節)。
ところが、それでもイスラエルは頑として自分たちの主張を曲げようとはしませんでした。「いいえ、我々にはどうしても王が必要なのです」。そこから始まるさまざまな王の支配を記録するのが、サムエル記上下、そして列王記上下です。教派によっては、この四つの文書を列王記第一、第二、第三、第四と呼びます。まさしくさまざまな王の支配の記録です。この全四巻にわたる歴史書が何を語っているかというと、「なぜ国が滅びたのか」ということです。「なぜこの国は、滅びなければならなかったか」という観点からのみ、イスラエルの歴史を編んで見せた。そしてこの歴史書は、国が滅びた根本的な原因をここに見るのです。王を求めたから、だからこの国は滅びたのだ。具体的には、バビロニアという外国の軍隊によってエルサレムは焼き落とされ、国の主だった人はすべてバビロンに捕虜として連れて行かれるということが起こりました。
■しかしそのあとも、エルサレムは神の都であり続けました。それはひとつの言い方をすれば、神がエルサレムを守ってくださったのだと言わなければならないでしょう。今申しましたバビロン捕囚が終わったあと、人びとはエルサレムに帰ることができました。破壊されたエルサレムの神殿も再建することができました。しかしそれですべてが円満に解決するわけはないので、その後も、エルサレムはたびたび外国の王を迎えました。主イエスが地上においでになる前、紀元前2世紀に、やはりイスラエルは外国の支配下にありましたが、アンティオコス四世エピファネスという王がエルサレムに来て、人びとの心のよりどころでもあった神殿を蹂躙しました。その至聖所に異教の神を祭り上げて、それは遂に、ユダヤの国中を巻き込むような戦争にまで発展しました。
それからまた100年くらいたって、紀元前63年には、ローマ帝国がユダヤを支配するようになりました。福音書をよく読むと、そこかしこにローマの支配を読み取ることができます。たとえば、福音書の中でなぜ徴税人があそこまで嫌われたかということも、その背後にローマ帝国の作った権力構造があったということを知らなければ、本当のところを理解することはできません。そのようなところに、主イエス・キリストは、王としてお入りになったのであります。
人びとはこれを見て、「ホサナ、ホサナ」と歌いました。「ホサナ」というのは、「われわれを救ってください」という意味です。それは、一時の感情的なものでしかなかったかもしれませんが、しかしまた他方から言えば、少なくとも千年を超える歴史の重みを背後に持つ、悲しいほどの歌であります。いつかこの歌を歌いたい。いったいいつになったら、「ホサナ、ホサナ」と歌えるのだろうか。当時のエルサレムにローマ皇帝が来ることは稀であったかもしれませんが、たとえばそのときエルサレムにはピラトという総督がいました。ローマの総督が任期を満了して帰って行き、また新しい総督がやって来るときには、それこそ子ろばなんかよりもずっと立派な馬車に乗って、王の権威をもって誇らしげにエルサレムに入城してきたかもしれません。そういう外国の支配者の誇り高ぶった姿を見つめながら、ユダヤの人びとは、いつの日か必ず、自分たちを解放してくれる真実の王が来てくださる、その日を待ち焦がれていたに違いないのです。
娘シオンよ、大いに喜べ。
娘エルサレムよ、喜び叫べ。
あなたの王があなたのところに来る。……
雌ろばの子、子ろばに乗って。
神よ、しかしそれはいつのことですか。いつまで待たなければなりませんか。神よ、この苦しみはあと何百年続くのですか……。ところが今ここに、子ろばに乗ってナザレのイエスがエルサレムにおいでになりました。「そうだ、この人だ」と人びとは大騒ぎして、「ホサナ、ホサナ」と歌った、その歌は、繰り返しますが、長い間歌いたくても歌えなかった歌です。遂に、今日こそ、われわれはこの歌を歌うことができる。涙を流しながら、「ホサナ、ホサナ」、「どうかわれらを救いたまえ」と歌った人もいたかもしれません。しかしその心のいちばん深いところにあったのは、かつてその千年以上昔、サムエルの時代にイスラエルが王を求めた、その愚かさと何ら変わりはなかったのであります。だからこそこの数日後には、ホサナと歌ったエルサレムの群衆が手のひらを反すように、「十字架につけよ、イエスを十字架につけよ」と叫び始めることにもなるのですが、そんな群衆の賛美の歌を、主が黙って受け入れておられたということは、本当に深い神のみ旨に根ざすことだと言わなければなりません。
■この福音書の記事において際立っていることは、ここでただ周りの人が「王さまだ、王さまだ、ばんざい」と騒ぎ立てたというだけでなく、主イエスご自身もまた、王として行動しておられるということです。主イエスはここで、私どもの王となろうとしておられます。なぜかと言うと、私どもにはどうしても真実の王が必要だからです。人びとが上着を脱いで道に敷いたり、ホサナ、ホサナと歌ったり、いずれも王を迎える姿勢であり、それをまた主ご自身も受け入れておられるし、事実、このお方は私どもの王であられるのです。しかし、どのような王がおいでになったのでしょうか。
王になるということは、そんなに簡単なことではありません。それは、古今東西、すべての権力者が知る難しさであると思います。既にサムエル記がはっきりと書いています。「あなたがたの息子を徴用し、戦車に乗せ、騎兵にして王の戦車の前を走らせる」、それが王というものだ。いくら何でもこの書き方は偏りすぎではないかと思われるかもしれませんが、たとえば税金を集めないで政治をすることはできません。人を使わずに国を治めることも、できないのです。それはそうなのですけれども、古今東西、サムエル記があそこで生々しく語っているような罪を犯さずに済んだ権力者も、おそらくはひとりもいないのです。ここで私は別に、偉そうな顔をして政治批判をするつもりはないのです。人間は皆罪人なのだという単純な真理を、聖書に基づいて語りたいと願うだけです。それは権力者の罪でもあると同時に、サムエル記の書き方からすればむしろ、王を求める人間の罪であると言わなければならないと思うのです。
そのようなところに、神の御子イエス・キリストがおいでになりました。このお方は、これまで一度も王を自称したことはありませんでした。ただの一度も、「わたしは王である」とはおっしゃらなかったのです。けれどもその一方で、主イエスが最初からお語りになったことは、「時は満ち、神の国は近づいた」(第1章15節)。正確に訳せば「神の王国が来た」、「神の王としての支配が近づいた」ということです。主イエスの地上での活動というのは実は最初から、王としてエルサレムに入城なさる、その時を目指してのものであったのです。
主イエスは、「あなたがたは、こう祈りなさい」と言って、〈主の祈り〉を教えてくださいました。「御国が来ますように」といつも私どもは祈るのですが、これも同じ言葉で、「神の王国が来ますように」ということです。「神よ、あなたが王でいてくださいますように」という祈りです。ところが、まさにここで、私どもの罪の真相が間接的に明らかになってくるかもしれません。神の支配が来ることよりも、わたしの王国が守られることの方がずっと大事です。「神よ、あなたの御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行われますように」と祈るように教えられるのですが、私どものほんねは違います。自分が偉くなるように、自分の王国が守られるように、自分の願いが(できれば自分の願いだけが)実現するように。そんなでたらめなことばかり考えている私どもだからこそ、自分に罪を犯した人のことは絶対に忘れないくせに、「わたしの罪を赦してください」という祈りがなかなか本当のものにならないのです。本当は自分が王になりたいのですが、本当の王になるのは実際には無理だし、それに王なんかになってしまったら毎日すごくたいへんそうだから、自分に都合のいい王さまがほしいのです。
■けれども、そのような私どものところに、真実の王なるイエス・キリストがおいでになったのです。ろばに乗って、しかも小さな子どものろばに乗って、あの都エルサレムにお入りになった。そこにどんなに深い神の思いが込められていることでしょうか。
人びとは、何が何だかわからないままに、「ホサナ、ホサナ」と歌いました。それは既に説明した通り「わたしたちを救ってください」という意味です。私どもは、今この歌を歌えるでしょうか。神よ、わたしを救ってください。わたしたちを救ってください。この世界を、どうかあなたが救ってください。しかし、何をどう救っていただかなければならないのでしょうか。エルサレムの群衆は、それを知りませんでした。知っておられたのは神と御子キリストだけでした。だからこそ神は、御子を小さなろばに乗せて、都エルサレムにお遣わしになったのです。
あなたの王があなたのところに来る。……
雌ろばの子、子ろばに乗って。
私はエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
この方は諸国民に平和を告げる。
その支配は海から海へ
大河から地の果てにまで至る。
ろばという動物は、たとえばこのゼカリヤ書にも出て来る「軍馬」とは対照的です。決して人に害を与えることはありません。だからこそ、戦いにおいては何の役にも立ちません。なぜこの王はろばに乗らなければならなかったか、エルサレムの人びとは、最初は理解できませんでした。しかしすぐに理解しました。
この数日後、人びとの賛美によって迎えられた主イエスは、同じエルサレムの都で、十字架につけられて殺されます。エルサレムの群衆は、すぐに感づいたのだろうと思います。このイエスという男は、「わたしの名がほめられるように、わたしの縄張りが守られるように、わたしの願いが実現するように」、そのために来たんじゃない。「わたしに罪を犯す者を」、火で焼き滅ぼしてくださるような、そういう王さまが来てほしかったんだけれども、なんか、違うみたい。「あなたに罪を犯す者を、あなたは赦すのだ」。冗談じゃない。それで、人びとは迷うことなく、このお方を十字架につけました。それは、くどいようですが、紀元前11世紀にも、紀元1世紀にも、そして現在21世紀においても、何ら変わることのない人間の悲しい罪の現実であります。
しかもそれでいて、私どもは十分に懲りているのです。戦車でもなく、軍馬でもなく、ろばの子に乗って来られる王が、どうしても私どもには必要なのです。
■この時のろばを調達するために、主イエスはたいへん不思議な段取りをなさいました。ふたりの弟子を使いにやって、「向こうの村に行くと、まだ誰も人を乗せたことのない、つまり、まだそんな仕事は無理そうな小さなろばがいるから、それを連れて来なさい。すると必ずろばの持ち主が現われて、『こら、何をするか』と言われるから、そのときには『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と答えなさい」。ずいぶんと無茶なことを言われました。少し理屈っぽい聖書の学者の中には、きっと主イエスはあらかじめろばの持ち主と段取りを打ち合わせていたのだろう、と考える人もいますが、そこまで頑張って自分を納得させようとしなくてもいいのであります。父なる神が、御子キリストと共に、み旨の実現のために着々と計画を進めておられる。そのことを読み取ることの方が、よほど大切だろうと思います。
特にここで際立っているのは、「主がお入り用なのです」と書いてあります。何気なく読み過ごしてしまうかもしれませんが、実はマルコによる福音書においてイエスご自身が自分のことを「主」と呼んだのはここだけです。それでまた人によっては解釈が分かれるので、ここでもイエスは自分が主なる神と等しい存在だと主張されたのではなくて、ここで「主」というのは、「ろばの主人」、「ろばの本当の持ち主」という意味だと考える人もいます。「このろばの本当の持ち主が必要としておられるのだから」と読むのです。いかにももっともらしい説明ですが、そうするとあとの話とつじつまが合わなくなります。「すぐここにお返しになります」と書いてあります。もしも主イエスがろばの本当の持ち主だということなら、わざわざ返すわけがないのです。けれどもここでは、必ずあとで返す。わたしはこのろばの持ち主ではないけれども、しかし主であるわたしがこのろばを必要としているのだから、どうか貸してほしい。必ず返すから。
この鎌倉雪ノ下教会でかつて牧師であった加藤常昭先生が、この箇所で説教しておられます。その中で、こういう趣旨のことを言っておられます。「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」というこの言葉の中に、王イエスのご支配の特質が見えている、というのです。少し引用します。
私どもは知っています。権力者が、これは自分たちに必要だと思った時には、何でも取り上げてしまうことを。もう若い方たちは知りません。やがて去りつつある私どものような世代の者は、まだ先の戦争の体験を忘れません。政府は徴兵と称して若い人びとを軍隊に駆り立て、その命まで意のままに用いました。また同じように教会をひとりで守っている牧師も、徴用と称して国の用に立つようにと無理やり連れて行き、無理やり働かせました。人だけではない。われわれは国の命令で、持っている金属を差し出さなければならなかった。私どもの教会は、教会堂の鐘まで持って行かれた。そして返してくれなかった。これが権力です。好きなようにできると思っている。主イエスは、ここでそのように好きなようにはなさらない。わたしの役に立ったら、後で返す、と言われたのです。
(『加藤常昭説教全集6 マルコによる福音書2』)
ここで加藤先生が言おうとしておられることは、十分に明らかだろうと思います。「これはあなたのろばだから、必ず返すよ」。そのような王だったからこそ、このお方は十字架につけられたのです。ろばに乗って、しかもそれをきちんとお返しになり、最後には十字架につけられたお方。このお方でなければ、私どもを本当に救うことはおできにならなかったのです。この世界が救われる道も、ただこのお方を王と仰ぐ以外、どこにも見出すことはできないのです。
このような主のみ心によって救われ、生かされていることを本当に知った私どもは、もう一度新しい思いで、このお方を王と仰いで、「ホサナ、ホサナ」と、新しい思いで本当の賛美を歌うことができます。そのように私どもの歌う歌のいちばん深いところに、どんなに深い罪があったとしても、すべてこのお方によって担われている、贖われている、赦されている。そのことを知るがゆえに、私どもはますますいっそう、このお方に対する賛美の歌を歌わないわけにはいきません。お祈りをいたします。
「ホサナ、ホサナ」、「どうかわたしたちを救ってください」と歌うエルサレムの人びとの声を主がお聞きになりながら、どれほど深い思いでその道を歩いてくださったことかと思います。私どもがこの世界にどんなに絶望していても、あるいは自分自身の罪にどんなに絶望することがあったとしても、ろばに乗ってエルサレムにお入りになった主の心の内には、確かな望みがあったと信じます。必ず、この世界は、あなたの御子イエスによって救われなければなりません。十字架につけられ、お甦りになった私どもの王を、今新しい思いで仰ぎながら、新しい賛美の歌を歌う者とさせてください。神よ、どうかわたしたちをお救いください。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン