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神は何でもできるから

2024年1月14日

マルコによる福音書 第10章23-34節
川崎 公平

主日礼拝

■先週の礼拝に引き続いて、マルコによる福音書第10章の17節以下を読みました。ひとりの金持ちが主イエスの足もとにひざまずき、永遠の命を受け継ぐ道を尋ねながらも、それを得られず、「顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った」という、ある意味でたいへん悲しい話であります。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい」と、主イエスはこの金持ちの男に言われました。けれども彼は、遂にこれを受け入れることができなかったのです。

先週の礼拝では、最初の段落だけ、22節までを読んだのですが、今朝はさらに23節以下も続けて読みました。この金持ちの男が立ち去ったあと、主イエスは改めて弟子たちを見回して言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。それを聞いた弟子たちは驚いたというのですが、その驚きにさらに輪をかけるように主イエスは言われました。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」。何と申しますか、とにかく、私どもを当惑させる言葉です。あの金持ちは顔を曇らせながら立ち去ったというのですが、ある意味で私どもは立ち去る勇気もないままに、この主イエスの言葉の前に立ち尽くしているのかもしれません。しかし私は思うのですが、顔を曇らせながらでもよい。悩みながらでもいい。とにかく私どもは、今は主イエスのもとを立ち去ることなく、そのみ前に立っている。立ち尽くしている。そのことが、まず大切なことだと思います。私どもが今、この主イエスのみ言葉の前に立っているのは、自分で望んでそうしているのではなく、主イエスに招かれて、今ここに私どもは立たされているのだと思うのです。

■ところで今日は、さらに34節までの段落を一気に読みました。主イエスの受難予告と呼ばれる記事です。マルコによる福音書は第8章、第9章、そして第10章と三度、主イエスご自身が十字架と復活の予告をされたことを伝えていますが、その最後の受難予告の記事をあわせて読んだのです。その最初のところに、「さて、一行はエルサレムへ上る途上にあった。イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と書いてあります。これも非常に印象深い叙述です。エルサレムを目指して、十字架を目指して、先頭に立って歩いて行かれる主イエスのお姿は、弟子たちを驚かせ、従う者たちを恐れさせずにはおかなかったといいます。何も語らずとも、そのときの主の雰囲気が既に、並々ならぬものであったと思うのです。

なぜ主イエスは、十字架につけられなければならなかったのでしょうか。主イエスの十字架という出来事は、毎週牧師が基本的に十字架の話しかしないものですから、かえって私どもはこのことについて鈍感になってしまっているかもしれません。しかしもし私どもが同じ場所に立たされたならば、きっと私どもだって、「驚き、恐れ」ないわけにはいかなかっただろうと思います。主イエスのまなざしは、まっすぐにエルサレムだけを見つめております。そのキリストの後ろ姿に触れるだけで、ブルっとくるほどの、一種の凄みがあったのではないかと思うのです。

主イエスよ、なぜあなたはエルサレムに行かれるのですか。なぜあなたが十字架につけられなければならないのですか……。このときの主イエスのお心を、必要以上に推し量ることは許されないかもしれません。しかし、私はこう想像するのですが、「イエスが先頭に立って行かれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」、そのときの主のお心の、わりと大きな部分を占めていたのは、たった今、み前を立ち去ったばかりの金持ちの男のことであったかもしれません。「あの人のためにも、わたしはエルサレムに行かなければならない。嘲られ、唾をかけられ、鞭打たれ、殺され、そして復活しなければならない。あの人のためにも」。それはいったい、何を意味するのでしょうか。

■今日読みました最初のところに、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」(23節)という主のお言葉がありました。「本当に難しいんだよ、金持ちが神の国に入るのは」。この言葉の中に、さげすみの響きはないと思います。「ったく……。ああいうやつが地獄に落ちるんだ」というような態度はなかったと思います。今日の礼拝で歌うわけではありませんが、この聖書の記事を典拠にした讃美歌243番というのがあります。ご自分のもとから立ち去っていくひとりの金持ちの後ろ姿を見つめながら、「主のひとみ、主のまなざし」には、どんなに深い嘆きがあったことだろうかと歌うのです。考えてみると、聖書には主イエスの嘆きなどということはひとつも書いていないわけですが、本当にその通りだと思うのです。

今、私どもも主イエスに見つめられていると思います。主の日の礼拝というのはいつも、主イエスのまなざしの前に立つことです。だがしかし、その主イエスのまなざしに深い嘆きを読み取らなければならないとしたら、こんなに厳しいことはないかもしれません。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。本当に難しいんだよ、あなたのような人を救うのは。ものすごく、難しいんだ。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」。けれども重ねて、主イエスは弟子たちを見つめてこう言われました。「イエスは彼らを見つめて言われた。『人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ』」(27節)。「神にできないことは、何もないんだ」。今私どもも、主イエスに見つめられていると思います。十字架につけられたお方に、今見つめられているのです。

■ここで念を押しておきたいと思いますが、皆さんもまた、主イエスの言われるところの金持ちの部類に入ると思います。いやいや、自分は金持ちではないから、こういう主イエスの言葉を聞いても何の痛みも感じない、という人は、ひとりもいないと思います。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と言われるのですが、いったい預金の残高がいくらまでなら、安心していられるのでしょうか。100万円でしょうか。200万円でしょうか。300万円くらいなら、神さまに許してもらえるでしょうか。しかし、何だかどうも、話がおかしな方向に行ってしまっているようです。何がどうおかしいのでしょうか。

29節以下ではこうも言っておられます。「よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、来るべき世では永遠の命を受ける」。自分の住む家を持っているなら、その人は金持ちです。兄弟、姉妹、母、父、子どもを捨てていないなら、その人もここで言うところの金持ちです。畑を持っていたりすれば、それはもう本当に大金持ちでしょう。「家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑」、こういったものを持っている皆さんが「神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」というのは、しかしいくら何でも厳しすぎるようです。なぜそこまで言われなければならないのでしょうか。

「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。もう少し正確に言い直すならば、「財産により頼む者が神の国に入るのは難しい」と言ったほうがよいかもしれません。あの金持ちが、「全財産を貧しい人に施して、わたしに従いなさい」と言われたとき、なぜ顔を曇らせたか。なぜ悩みながら立ち去ったか。この財産を手放したら自分は死ぬと思ったからです。29節以下に列挙されていることも同じです。この家がなくなったら、自分は死ぬ。この家族がいなかったら、この畑を失ったら、自分の人生は終わる。ところが、そんな私どものためにもこう言われるのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。ほんの僅かでも財産があれば、それが僅かであればあるほど、かえって血眼になってその僅かな預金残高にしがみつくかもしれません。

私どもの人生というのは、神の目からご覧になったら本当に消えゆく霧のようなもので、現れてはたちまち消えるようなものでしかないかもしれませんが、それでもその人生を生きている自分自身にとっては、かけがえのない自分の人生なのです。そしてその人生を、少しでも豊かにしよう、少しでも充実させようとあくせくしながら、そのために、「財産」などと言われると、そんな大げさなものは自分には縁がないと思われるかもしれませんが、それこそ家を買ったり、家族を与えられたり、場合によっては畑とか、土地とか家とかマンションとか、いろんなものを苦労して手に入れて、これを手放すまいと懸命になるのですが、それを思いがけないしかたで失う悲しみを経験したり、あるいは財産をめぐって不幸な争いをしたり、そういうところで深刻な罪を犯したり……。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と主イエスが言われたとき、主はそういう私どもの人生のすべてを見つめておられたのかもしれません。私どもの弱さを、悲しみを、あるいは罪深さを主はじっと見つめながら、今私どものためにも言われるのです。「わたしのために、また福音のために、あなたがしがみついているものから手を放してごらん。わたしが必ず、百倍にして返してあげるから」。「わたしがひとりひとり抱き上げた、幼子のことを思い出してごらん。神の国は、幼子のような者に与えられるんだよ」。私どもも、主イエスの言われることがわからないでもないのです。でも、やっぱり難しいです。そんな私どもを見つめて、主イエスは言われるのです。「本当に、難しいなあ。金持ちが神の国に入るのは」。「人にはできないが、神にはできる。神は、あなたを救うことがおできになるのだ」。いったい、神は私どものために何をしてくださるのでしょうか。

■ここで多くの人が、伝道者パウロのことを思い起こしています。昔あるところで、ここに登場する金持ちというのは実はパウロ本人ではなかったか、という説教を聴いたことがありますが、それはいくら何でも辻褄が合いません。しかし、もし仮に伝道者パウロがこの金持ちにどこかで出会ったとしたら、「いやあ、君は本当にぼくにそっくりだね」と言ったかもしれません。「君、子どもの頃から神の掟を全部守ってきたって? ぼくもだよ」。そう言って、パウロはこの金持ちの男のためにも、自己紹介をしたかもしれません。フィリピの信徒への手紙第3章の4節以下に、パウロは珍しく、と言ってもよいかもしれません、ずいぶん詳しく自分の話をしております。

とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります。肉を頼みとしようと思う人がいるなら、私はなおさらのことです。私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。

ここでパウロはもちろん、自分の預金残高を紹介しているのではありません。けれども結局は似たような意味で、パウロもまた容易に手放すことのできない豊かさを、誰よりも豊かに持っておりました。わたしにはこれがあるから、これもあるから、あれもあるから、だから自分は自分なんだ。これがひとつでもなくなったら、たちまちわたしは倒れる。それをここでパウロは、「肉の頼み」と呼んでいます。もしもの話ですが、仮にこのパウロが、あの金持ちにどこかでばったり出会ったとしたら、そこでもこのような自己紹介をしたかもしれません。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人で……」、「そういうわたしのような財産のある者が神の国に入るのは、本当に難しいんだ。というよりも、それはやっぱり、不可能なんだよ」。「けれども、『人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ』。そうイエスさまはおっしゃったじゃないか」。

パウロという人も、ある意味で、誰よりも豊かであった。そんなパウロをお救いになるために、神さまもずいぶん苦労なさったと思います。「パウロよ、本当に難しいなあ、あなたのような人を救うのは」。地上のいろいろな豊かさにしがみついている人を救うのは、本当に難しい。神にとっても、難しかったのです。けれども事実、神はパウロを救ってくださったし、今私どもを救っていてくださるのです。その救いの喜びを、ここでパウロは、「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています」。わたしはすべてを捨てさせていただきましたと、そう言うのです。私どもには、同じことを言うことが許されていないでしょうか。

■私どもは、弱い生身の人間ですから、何だかんだ言っても、やっぱりいろんなものから手を放すことができないのかもしれません。今、一段高い所から偉そうに説教している私だって、いざとなったら何にしがみつき出すかわからないと、正直に思います。「結局、人間なんてそういうものだ」と開き直るのは正しくないでしょうが、しかし結局そういうものなのかもしれません。そして、その理由を率直に尋ねるならば、死を恐れているからだとしか言いようがないのです。死を恐れているから、いろんなものから手を放すことができません。もともとあの金持ちの男も、死を恐れたから、主イエスの足もとにひざまずいたのです。「永遠の命をいただきたいのです。どうすればよいのでしょうか」。そして死の恐れに取り囲まれたまま、財産にしがみつき、主イエスのもとから立ち去ったのです。その後ろ姿をじっと見つめながら、それでも主イエスが、何としてもあの人を救わなければならないとお考えになったときに、主イエスが今私どもの内にも見つめておられるのは、まさしくこの死の恐れでありました。そこから人間を救い出すということは、これこそ人間にはできない、神にしかできないことであったのです。

けれどもそこで、私どもが激しく心を打たれることがあります。それならば、主イエスご自身は、死の恐れなんてものとは無縁の生涯を送られたのだろうか。とんでもないことで、このお方はむしろ私どもの誰よりも死を恐れておられました。そのことについては、先週の礼拝でも触れました。十字架につけられる前の晩、ゲツセマネと呼ばれる場所で、主イエスが徹夜で何を祈られたかというと、「神さま、死にたくありません。怖いです」ということでしかなかったのであります。「主イエスもまた、地上の命にしがみついておられたのだ」と、先週の礼拝で私は申しました。これは、ほとんど冒瀆すれすれの発言であったかもしれません。しかし私は、本当にそうだと思うのです。主イエスもまた、死を恐れておられたのです。最後の最後まで、地上の命にしがみつきたいという思いを、しかしかなぐり捨てるようにして、このお方は、地上の命ではなく、地上の財産でもなく、地上の名誉でもなく、ただ神のみ心だけにしがみついて、十字架への道を歩み通されました。その主イエスを父なる神が死人の中から甦らせてくださったとき、私どもの死の恐れが、どんなに深い主イエスの苦しみによって贖われているか、そのことを深く思わないわけにはいかないのです。

相変わらず、死を恐れている私どもなのであります。そのためにさまざまなものにしがみつき、恐れたり思い煩ったり、ものすごくけちんぼうになったり、ちょっと寛大なふりをしてみせたり、けれどもいちばん深い所には、癒やしがたい死の恐れがあるのです。そんな私どもを主イエスはじっと見つめながら、「本当に難しい、あなたのような人を救うのは」。「しかし、神には何でもできる」。あなたのためなら、神はどんなことでもする。そして、その神のなさることのためなら、わたしイエスはどんなことでもする。どんな苦しみにも耐える。どんな悲しみにも耐える。あなたのためなら。そう言われたのです。

■あの伝道者パウロは、その主イエス・キリストの心に触れて、こう書いたのです。「私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています」。もちろんその前提には、今申しましたように、主イエス・キリストがお甦りになったという事実があります。だからこそパウロは、先ほど引用したフィリピの信徒への手紙第3章で、さらに続けてこう書いたのです。

私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです(10~12節)。

ここでパウロは、はっきりと、「私は決して、完全な者になっているわけではない」と申します。わたしはあれを捨てた、これも捨てたと自慢気に書いたことを、ちょっと反省したというよりも、誤解を招きかねないと思ったのかもしれません。「キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています」。しかし、だからと言って勘違いしないでほしい。わたしは決して、今でも完全な者ではない。だからこそ「私は、キリストとその復活の力を知り」たいのだと言うのです。「キリストとその復活の力を知」れば、人間は新しくなれます。死の恐れから解き放たれて、新しい人間として立つことができます。

そしてそこで私のような者は、つい想像の翼を広げてしまいます。失望の闇の中へと立ち去って行ったあの金持ちの男は、間もなくキリストの復活の知らせを聞いたかもしれません。この第10章の次の第11章で、主イエスは都エルサレムに入られます。それから僅か一週間のうちに、キリストの十字架と復活という出来事が起こるわけですから、むしろこの人がキリストの復活の噂をひとつも聞かなかったということはほとんど考えられないと思います。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とひざまずいて尋ねたことを、忘れたはずもないのです。そのお方がお甦りになったという噂を耳にしたとき、この金持ちの男はどんなに驚いたことだろうか。「あのお方は、お甦りになったのだ。あそこでわたしが聞いた言葉のひとつひとつは、お甦りになったお方の言葉であったのだ」。

そのことに気付いたとき、この男もパウロと同じように、「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と、言えたかもしれません。もちろん、「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです」と、今私どももそう言わなければならないと思うのです。神には何でもできるから。私どもも一切の肉の頼みを捨てて、父なる神の全能の愛の中に立つことが許されているのです。お祈りをいたします。

 

甦りの主の日の朝、このような恵みのみ言葉のもとに立つことができ、心より感謝いたします。「とはいえ、肉の頼みなら、私にもあります」。それをいまだにしっぽのように引きずっている私どもの浅ましさを深く恥じつつ、今新しく、キリストとその復活の力を知りたいと心から願っています。あなたの愛を見えなくする一切の偶像から、私どもを解き放ってください。あなたこそ、私どもの父です。感謝して、主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン