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死が勝利者なのか

2024年11月10日

マルコによる福音書 第15章42-47節
川崎 公平

主日礼拝

 

■久しぶりにマルコによる福音書の続きを読みました。全体集会とかいろいろありまして、ほぼひと月、間が空きましたが、今朝第15章を読み終えると、残っているのは最後の第16章だけ、そこに書いてあることは、主イエス・キリストのご復活と、そのあとに起こった様々な事柄であります。これをクリスマス前までに読み終えて、来年1月からは新しくローマの信徒への手紙を読み始めたいと願っています。

マルコによる福音書を読むときに常に忘れてはならないひとつのことは、この福音書の最初のところで主イエスご自身が言われた言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(第1章15節)。主イエスはそう言って、救い主としての活動を開始されたというのです。「今や時が満ちたのだから、神の国が近づいたのだから」、だからこそ、今この時にすべきことがある。「悔い改めて、福音を信じなさい」。「神の国」という翻訳に私どもは慣れ切っているようなところがありますが、もう少し丁寧に訳すと、「神が王として支配される」ということです。「見よ、あなたの王が来られる。時が満ちて、これからは、神が王としてあなたがたを支配するのだから、悔い改めて、福音を信じなさい」。ここに、マルコの伝える決定的な事柄があります。

ただ不思議なことに、マルコによる福音書は、この最初の決定的な言葉を二度と繰り返すことはありませんでした。だからと言ってこの決定的な言葉を忘れていたわけでもありません。むしろマルコがこの福音書の中で何を書くときにも、片時も忘れなかったことはこのことで、「時は満ち、神の支配は近づいたのだ」。主イエスが病気の人を癒やされたときにも、そこで何が起こったかというと、「時は満ち、神の支配が近づいたのだ」。主イエスが語られたさまざまな教えのひとつひとつも、結局何をお語りになったのかと言えば、「時は満ち、神が王として支配されるのだ」という、ただこのひとつのことだけをお語りになったのです。その神の国の近づきの中で論争が起こったり、たとえば「神の国は、小さな子どもたちのものだ」と言われたり、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがずっと簡単だ」と言われたりするのですが、この福音書が最後に語ることは、結局人びとは、この神の支配を頑なに拒み、神のみ子キリストを十字架につけて殺した、ということであったのです。

そこで福音書を素朴に読む人は……私どもはそのあと復活という出来事が起こることを、まるで常識のように知っておりますから、何も感じないかもしれませんが、ここはひとつ、生まれて初めてこのイエス・キリストの物語を読んだつもりになって、よく想像力を働かせていただきたいと思います。この第15章に至りまして、当然問いが生まれるのです。「時は満ち、神の国は近づいた」と最初に書いてあったはずだけれども、いったい、どこに神の支配が見えるのだろうか。イエス・キリストにおいて神の支配が近づいたと思ったのに、いったいどうなってしまったのだろう。神の国は、近づけるところまで近づいたけれども、むしろそのために無残な最期を迎えてしまった、ということになるのだろうか。常識的に読めば、きっとそういうことになるだろうと思います。

■いよいよマルコによる福音書を読み終えるというところで、改めてこの福音書に「神の国」という言葉が、どこでどのように使われているのか、少し調べてみました。先ほどさらっと紹介した、神の国は子どものものだとか、金持ちが神の国に入るのは不可能だという第10章の言葉が、わりと最後の用例です。正確にはさらに数か所あって、第12章でひとりの律法学者がいちばん大切な戒めについて主イエスと語り合い、あなたの神である主を愛しなさい、そして自分を愛するように隣人を愛しなさい、という戒めを聞き取ったあとに、「あなたは神の国から遠くない」との約束をいただいています。それから第14章25節で、最後の晩餐と呼ばれる過越の食事の席上で、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われました。そのあとのいわゆる主イエスの受難物語においては、「神の国」という言葉はまったく出てきません。いったい、神の国はどこへ行ってしまったのだろうか。

けれどもそこで、もうひとつ私が気づいたことは、受難物語に「神の国、神の王としての支配」(ギリシア語をそのまま発音すると「バシレイアbasileia」)という言葉は出てこないのですが、その語尾をちょっと変えただけの「バシレウスbasileus」という、「王」という言葉が、第15章に入ると急にたくさん出てきます。「神の国」、バシレイアという言葉は完全に消え去ったように見えるけれども、「王」、バシレウスという言葉が急に頻繁に出てくる。主イエスのことを、いろんな人がいろんな場面で、「ユダヤ人の王」と呼ぶのです。もちろん誰も本気でイエスを王だなんて思っていない。もっぱら悪口として、からかいの言葉として「ユダヤ人の王、万歳、万歳」とか、「お前はキリストだろう、イスラエルの王だろう、だったら十字架から降りて来いよ」とか言うのです。しかしマルコによる福音書は、そのような表現を通してもまた、「この方こそ、真実の王なのだ」。「時は満ち、神が王として支配される、その支配がこのイエスにおいて始まったのだ」ということを、隠れた形で言い表そうとしたのだと思います。

けれども、その王は殺されてしまいました。今、アリマタヤのヨセフという人の手によって葬られるのです。神の国が近づいて、王そのものであられるお方が来られて、殺されて、そのあとどうなるのでしょうか。

■主イエス・キリストは、十字架で殺されて、そのあと葬られました。先ほどご一緒に唱えました使徒信条においても「主は十字架につけられ、死にて葬られ」と、その事実をはっきりと言い表しています。今朝ご一緒に読みました福音書の記事が伝えることは、そのことです。主イエスが十字架の上で息を引き取られて、しかし現実問題として、それで終わりというわけにはいきません。遺体をしかるべく処置しないといけない。そのまま放置されて、犬や鳥に食べられてしまうという可能性もあったかもしれませんが、主の十字架を遠くから見守っていた女性たちにとって、それだけは絶対に耐えられなかったでしょう。しかし、いったい誰が遺体を引き取るか。頼みの綱であるはずの弟子たちは、皆どこかに逃げてしまって、何の役にも立ちやしない。そういうところに突然姿を現したのが、アリマタヤのヨセフという人でした。こう書いてあります。

すでに夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身のヨセフが、思い切ってピラトのもとへ行き、イエスの遺体の引き取りを願い出た。この人は高名な議員であり、自らも神の国を待ち望んでいた人であった。

「思い切ってピラトのもとへ行き」。新共同訳では「勇気を出して」と訳されましたが、個人的にはそちらの翻訳のほうが好きです。それはもう、十字架というのは、つまりいちばん呪われた死に方ですから、その遺体を引き取るというのは、たいへんな勇気が要っただろうと思います。当時のローマの官憲は、たとえ十字架につけられた人間であっても、その人の家族以外には遺体の引き取りを許さなかったと言います。当然アリマタヤのヨセフも、「なんだ、お前は、あのイエスの身内か」と問われたと思いますし、ヨセフがどう答えたのかわかりませんが、場合によっては社会的に抹殺されかねないような、勇気ある行動であったことは確かです。「この人は高名な議員であり」と書いてあります。この言葉の解釈も実はなかなか簡単でないのですが、ただ有名というよりは、育ちがいい、家柄がいい、というようなニュアンスがあるようです。その良い家柄も、国の議員としての名誉も、全部台無しになるかもしれない。なぜそんな行動に出たのでしょうか。マルコによる福音書は、詳しいことは書きません。ただ簡潔に、「自らも神の国を待ち望んでいた」と言います。

いったい、ヨセフは何を待ち望んでいたのでしょうか。「神の国を待ち望んでいた」と書いてあるのですが、それは一方から言えばユダヤ人の信仰から言って当たり前のことで、逆に神の国を待ち望んでいないユダヤ人なんぞいるわけがない、だからこのマルコの記述には、実質的に何の意味もないのだと言う聖書学者もいます。しかしもしそうなら、そんな当たり前のことをなぜわざわざ書いたのでしょうか。もちろんヨセフが待ち望んでいた神の国は、当時のユダヤ人としての常識の範囲を越えるものではなかったかもしれない。まさかこのあと復活が起こるなんて、考えもしなかっただろうと思います。けれどもここで、マルコがわざわざ「この人も、神の国を待ち望んでいたのだ」と書いたのは、その望みに神が答えてくださったからです。神の国であります。神が命の力をもって支配されるのです。ヨセフの墓が、その場所となりました。

■マタイによる福音書にも同じような記事があって、そこにははっきりと、ヨセフは「自分の新しい墓に」主イエスのお体を納めた、と書いています。マルコにはそこまで書いてありませんが、文脈から言ってきっとそういうことでしょう。お育ちのよい議員ですから、きちんと自分の入る予定の新しい墓を用意していたのです。「ちょうどわたしの墓が空いているから、どうぞそこを使ってください」。そしてそういうところで、私はやはりどうしても想像の翼を広げたくなります。ヨセフは、繰り返しますが、いくら何でもこのお方が復活するなどということは考えていなかったと思います。しかし、どこかで主イエスのことを尊敬していたのでしょう。そうでなかったら、こんな勇気のいることをやりはしなかっただろうと思います。イエスさま、どうかここでお休みください。わたしもいずれ、あなたの横に眠らせていただきます。そのことを、楽しみにさえしたのではないだろうか。しかし、これは私の勝手な楽しい想像に過ぎません。

しかし、私の勝手な想像などではなく、これだけは確かなことは、三日目にこの墓が空っぽになったということです。「たいへんだ、墓が空っぽだ。イエスの遺体がない。お甦りになったのだ」。ヨセフのところにその知らせが届かなかったはずはありません。最後の47節に出てくる、「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの納められた場所を見届けた」という、その女たちがきっとヨセフにも伝えたんでしょう。そうであれば、ヨセフは、きっと心臓が破裂しそうな思いで、自分の墓に走ったと思います。自分の手で主イエスのお体を納めた場所を、しっかりと自分の目で確かめたでしょう。確かにここに置いた。間違いなくこの場所だ。ところが日曜日の朝、跡形もない。「あの方は復活なさって、ここにはおられない」。墓の入り口に転がしておいた巨大な石が、信じられないような姿で転がっているのを見ながら、ヨセフもまた心の深みで、神のみ声を聴かせていただいたと思います。「今こそ、時が満ちたのだ。神の国が近づいたのだ。あなたも悔い改めて、福音を信じなさい」。ヨセフが待ち望んでいた神の国が、こんな形で、自分の思いをはるかに越えた形で実現したことに驚いたのではないかと思います。

そしてまた、私はさらにこんな想像をするのです。ヨセフはきっと、そのあとも何度となく、自分の墓を訪ねたと思います。既に空っぽになった墓穴を見つめ直して……私は思うのですが、墓の入り口をふさいでいた石は横に転がっていたと言われるのですが、ヨセフはきっと、その石をずっと転がったまま大事にしたのではないかと思います。少なくとも、いつか自分が入るときまでは、開けっ放しにしていたのではないかと思います。主イエス・キリストは、ここに入ってくださった。この石を転がして、ここから出て行ってくださった。この墓を空っぽにしてくださった。そしていつか、わたしもここに入るんだ! ああ、早く入りたいなあ、とまで思ったかどうか、それはわかりませんが、復活の望みを信じて死んだことは確かです。ヨセフは、神の国を待ち望んでおりました。その望みに、神はキリストの復活という形で、答えてくださったのです。

■アリマタヤのヨセフについて、ひとつ実はたいへん興味深いことがあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書すべてに同じ記事があり、同じヨセフの名が残っているということです。これは案外珍しいことです。なぜそういうことになったかと言えば、ヨセフがのちに教会の仲間になったからでしかありません。それ以外の可能性はないと思います。だからこそ、マルコはここで「自らも神の国を待ち望んでいた」と書くのです。「自らも、ヨセフ自身も」。「も」というのはつまり、ほかの誰かと同じように、ヨセフ自身も、ということでしょう。誰と同じようになのでしょうか。福音書を共に読んでいる、われわれ教会と同じように。今このように教会の生活をしている、皆さんと同じように、ヨセフも神の国を待ち望んでいたし、その望みに神が答えてくださった。この人にも。もちろん、ここにいるひとりひとりのためにも、ということであります。福音書というのは、そのような教会の命の交わりの中で生まれた文書でしかないのです。

今朝の週報に予告を載せましたが、再来週の日曜日、24日の午後に、教会の葬儀についての説明会を行います。5年前にも同じことをしましたが、今後も何年かに一度は同じ趣旨のことを続けていきたいと考えています。教会員の皆さんにもぜひ聞いていただきたいのはもちろんですが、むしろ皆さんのご家族、特にまだ教会に来てくれていないご家族を誘っていただきたいのです。「お母さんが死んだときのためにね、とっても大事な話だから、午後から教会に来て。でもできれば、朝の礼拝から一緒に来て」。ついでに、その日の礼拝で読む予定になっているのは、マルコによる福音書第16章の最初の部分、キリストの復活の記事ですから、ご家族を誘うなら、できれば礼拝から来てほしいと思わずにおれません。キリストの復活こそ、教会で行う葬儀の基礎であります。

キリスト教式の葬儀というのは(こういう表現を許していただきたいと思いますが)、一般的に評判は悪くないと思います。仏教の葬儀と違って牧師の話はわかりやすいとか、暗くて意味不明のお経よりも明るい讃美歌を歌うのはとても励まされるとか、そういう感想もあっていいでしょう。けれども本当に大事なことは、わかりやすいとか明るいとかそんな次元のことではないので、「時は満ち、神の国は近づいた」という、このことなのです。私どもの王にほかならないキリストが、墓に葬られ、しかもその場所を、死の支配する場所ではなく、命の支配する場所に作り変えてしまわれました。復活のキリストこそ、私どもの王である。私どもの命の支配者である。もしそのことを信じることがなかったら、教会のしている葬儀だって、よその葬儀と大して変わらないということになるだろうと思います。

■先月、10月だけで、3人の方の葬儀をしなければなりませんでした。そしてまた3回も墓地を訪ねて納骨の祈りをしました。毎週必ずどこかで黒いネクタイを締めなければならない。さらに昨日は、週報の最後のところにお名前が記されていますが、かつてこの場所で葬儀をした3人のご家族の記念の礼拝をしました。愛する者を喪うということは、一方では、つらく、苦しいことです。その人間として当然の思いに蓋をする必要なんかありませんし、それを言ったら、主イエスご自身、誰よりも死を怖がっておられました。私どもの知る死の恐れを、このお方は私どもと一緒に、というよりも私どもの誰よりも深く味わってくださったのです。しかも、このお方こそが私どもの真実の王であり、このお方において神の命の支配が始まったのです。

特に今、愛する者を喪った悲しみの中にある人たちのために、この主イエスの言葉を贈りたいと思います。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。時は満ちたのですから、神の命の支配が既にここに来ているのですから、そうしたら、私どもは悔い改めなければなりません。悔い改めるとは、後悔することではありません。自分の罪を悔やんで、自分を責めることではありません。向きを変えて、神の方に向き直ることです。そして神の方を向いたら、当然しなければならないことがある。「福音を信じなさい」。

アリマタヤのヨセフは、そのキリストのみ声を、いちばん近くで聞くことのできた、幸せな人であったと思います。神の国をいちばん近くで経験することができました。神の命の戦いの、言ってみれば爆心地に立つことが許されたのです。まさにそこにおいて、「時は満ち、神の国は近づいたのだ」。そうしたら当然、心も体も神の方に向き直って、福音を信じないわけにはいきません。今、私どもにも、同じキリストのみ声が聞こえているのです。お祈りをいたします。

 

あなたのみ子イエス・キリストは、お甦りになりました。時が満ちたのです。あなたのご支配が近づいたのです。そうであるなら、私どもも、悔い改めることができますように。今あなたの前にまっすぐに立ちながら、マルコの伝えてくれた福音、喜びの知らせを信じることができますように。死の力を信じたくなる誘惑に打ち勝たせてください。どんな悲しみの中でも、どんな誘惑、どんな試練の中でも、あなたの支配を信じ、悔い改めて、あなたの福音を信じ抜くことができるように、どうかそのために、この教会の交わりを、あなたの力によって守り、導いてください。主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン