1. HOME
  2. 礼拝説教
  3. 人間の頑なさに抗う神

人間の頑なさに抗う神

2023年12月17日

マルコによる福音書 第10章1-12節
川崎 公平

主日礼拝

■マルコによる福音書を礼拝の中で順番通り読み進めてまいりまして、今日は第10章の最初の部分を読みました。ここで主イエスが明確に教えておられることは、離婚の禁止であります。正確には、ここで主イエスは離婚だけでなく、再婚をも禁止しておられるようです。それにしても、またずいぶん特殊な話を読まされたものだ、という感想もあり得るかもしれません。そんなことはないと、私は思います。ここに記されていることは、およそ人間である以上、誰もが聞かなければならない福音であると思います。およそ人間という人間の、すべての人の罪が浮き彫りにされる聖書の言葉だと思うのです。

この福音書の記事の中心は、やはり何と言っても9節だと思います。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われるのです。6節からもう一度続けて読んでみます。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

お気づきの方も多いと思いますが、ここで主イエスは、創世記第2章に記されている人類の創造物語をなぞるように語っておられます。先ほど、その一部をあわせて読みました。創世記第2章18節以下です。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」。そう言って神は、野の獣とか空の鳥とか、いろんな相手を用意してみたけれども、それは本当の意味での助け手とはならなかったと、ちょっとした紆余曲折はありましたが、とにかくこうして人類最初の夫婦が誕生したというのです。そのとき、最初の人はこのように喜びの歌を歌いました。

「これこそ、私の骨の骨、肉の肉。
これを女と名付けよう。
これは男から取られたからである」(23節)。

「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」(24節)。ふたりは、とても幸せでした。しかしそれ以上に大切なことは、神がこのふたりをご覧になって、どんなに喜ばれたかということです。このふたりを造って、本当によかった。あなたがたは、一緒に生きていくんだよ。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。主イエスはそう言われました。その言葉に込められている神の喜びを思うべきなのであります。

■けれども、この人類最初の夫婦はたちまち危機に陥ります。今日は創世記第2章の最後までを読みましたが、聖書の本来の意図からすれば、そこで止めずに第3章まで読むべきであったかもしれません。このあとすぐに、こういう話が始まるのです。野の獣のうちでいちばん賢いのは蛇であったというのですが、この蛇がうまいこと言って女をだましたというのです。「この楽園には、本当においしそうな木の実がたくさん実っていますね。どれも食べちゃだめとか、神さまは本当にそんなことをおっしゃったんですか。ひどい話ですね」。そうしたら女は蛇に答えて、「ええと、そうじゃなくて、だいたいどれも食べていいんですけど、楽園の真ん中の木の実は食べてはいけない、触ってもいけない、死んでしまうから、と神さまは言われました」。すると蛇は言いました。「そんなのうそに決まっているじゃないですか。あの木の実を食べたら、あなたがたは神さまみたいに賢くなれるんで、それだけは避けたいと神さまはお考えなんですよ」。それで女は、蛇にだまされて木の実を食べました。夫にも、きっと何かうまいことを言って、一緒に食べさせました。そうしたらふたりは、自分たちがどんなに恥ずかしい格好をしているか、そのことに気付いて、いちじくの葉っぱで身を隠しました。お互いに対して自分を隠し合っただけではありません。神から身を隠そうとしました。けれども、当然隠れることなんかできません。

それでふたりは、ただちに神の問いの前に立たされました。「取って食べてはならないと命じておいた木から取って食べたんだね」。すると男は、意外にもすらすらと答えました。「あなたが私と共にいるように与えてくださった妻、その妻が木から取ってくれたので私は食べたのです」。こういうところを読みますと、聖書というのは、本当にわれわれの生活をよく知っているんだなと思わされます。「いやいや、神さま、違うんですよ、聞いてくださいよ。あなたが私と共に生きるようにと与えてくださったあの女が、私をだましたのです」。それをお聞きになった神は、きっと耐えがたい悲しみに耐えながら、今度は女に尋ねました。「何ということをしたのか」。そうしたらまた女はすらすらと答えるのです。「いえいえ、神さま、違うんですよ。蛇にだまされたのです。私はむしろ被害者です。私は何も悪くありません」。

「二人は一体である」と書いてあったはずですが、この夫婦はちっとも一体ではありませんでした。聖書は、このようにして罪がこの世界に入ったのだと言うのですが、その罪というのは、この最初の夫婦の物語がいみじくも伝えている通り、神と人との間を引き裂き、人と人との間を引き裂くものです。それが罪です。聖書が最初から明らかにしていることは、このような罪の真相であります。しかも同時に、この聖書という書物は、ここから全巻を通して、神がそれでも人間の罪に対して徹底的に戦われたことを伝えるのです。

■その神の思いを端的に言い表したのが、マルコによる福音書第10章9節の言葉だと思うのです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。ここに、どれほど深い神の思いが込められているか。この言葉の背後に、どれほどの神の悲しみがあったか。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。この言葉を成就させるために、神がどれほどの戦いをしなければならなかったか。そのことをよく考えなければならないと思うのです。ことは、必ずしも夫婦のつながりに限らないかもしれません。神が結び合わせてくださる人と人とのつながりというのは、夫婦以外にもいろいろあるだろうと思います。ところが、私どもひとりひとりが等しく持っている罪というものが何をしたいかというと、すべてのつながりを引き離そう、引き裂こうと、隙あらばあらゆる方法を用いて神のみ旨に逆らおうとするのです。「え? この木の実、食べちゃいけないんですか?」「いやいや、神さまがあんな妻を私にくださるから」。「違うんですよ、蛇がうまいこと言うものだから」。そんなことを言い合うために、神は人間をお造りになったのではないのであります。

天地創造の始めにまでさかのぼる神の悲しみ、そして罪に対する神の戦いは、主イエス・キリストの十字架において、その頂点に達しました。今朝読んでいるマルコによる福音書第10章というのもまた、主イエスが十字架を目指して旅をしておられる、その途上の記録であります。その次の第11章では、主イエスはいよいよ都エルサレムに入られます。そしてそのエルサレムで、数日の内に十字架につけられるのです。

その十字架に向かう道の途上で、「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」と尋ねた人びとがおりました。それは、「イエスを試そうとしたのである」とはっきり書いてあります。このような質問をしたファリサイ派と呼ばれる人たちは、もちろんイエスの正体を知りません。ところが実はこのお方は、神ご自身にほかなりませんでした。創世記の最初のところで、最初の夫婦がどのように壊れていったか、しかもそこで同時に、神と人との関わりがどのように崩れていったか、このイエスというお方は、最初から全部ご存じなのです。そのお方が、このような人間の問いの前に立たされるのです。「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」。「場合によっては、離婚も許されなくてはいけませんよね。どうなんですか」。けれども、もう一度申します。このような質問を受けなければならなかった、神の悲しみをよく考えなければならないと思うのです。

■ここで主イエスは、問いに対して問いで返しておられます。「モーセはあなたがたに何と命じたか」と言われるのです。そうしたら、実はファリサイ派も最初から答えを用意していたわけで、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と即答します。この「離縁状」というのは、旧約聖書の申命記第24章にその規定が出てきます。「ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる」(申命記第24章1節)。ここでひとつ注を付けると、ここでは夫が妻を去らせる、ということだけが規定されていて、妻が夫を捨てる、妻が夫に対して離婚を申し立てるということは、最初から視野に入っておりません。なぜかというと、当時、妻というのは財産のひとつくらいにしか考えられていなかったからです。そこは、さすがに聖書といえども時代の限界があったと言わなければならないのかもしれません。

けれども、それでも聖書は時代に対して一歩先んじていたところがありました。それこそ聖書は、神が人間の罪に対して徹底的に戦われた記録ですから……。それが、この「離縁状」という制度です。つまり、この離縁状があれば、「わたしはもう誰の妻でもありません。再婚が許された女です」という証明になりますから、どこかの男性がまたこの女性を妻として迎え、守ってくれるかもしれないのです。夫に捨てられた女性が、それでも人間として生きていくことができるように、その意味で女性を保護するために、「もし妻を離縁したかったら、きちんとその証明書を渡してあげなさい」。その意味では、この離縁状の規定は、実はもともと人道的な掟であったのだと説明されます。

けれども人間というのは罪深いもので、その離縁状の人道的な精神も、時代と共に忘れられていったと言われます。「離縁状さえ、渡せばいい。そうすれば夫は自由に妻を捨てることができるのだ」。そう受け取られてしまったのです。そこでまた問題になったのが、先ほど紹介した申命記第24章1節の解釈です。もう一度読んでみます。「ある人が妻をめとり、夫になったものの、彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、彼女に離縁状を書いて渡し、家を去らせることができる」。この「彼女に何か恥ずべきことを見いだし」というのは、いったいどういうことが該当するのだろうか。どういう理由があれば離婚してよいか、どういう線引きをすればいいのか。そこで律法学者の出番です。厳しい意見の律法学者は、基本的に離婚はだめだけれども、よその男と肉体関係があったら離婚もやむを得ない、しかしそれ以外の理由はだめだ、と教えたそうです。しかしまた寛容な律法学者は(何が寛容なんだかわかりませんが、妻を捨てたい身勝手な夫からすれば「寛容な」律法学者は)、料理がへたくそだったら離婚の正当な理由になると教えたそうです。にわかには信じがたいことですが、案外私どもの造る夫婦関係は、あるいはその他の人間関係だって、五十歩百歩であるかもしれません。

問題はしかし、今私どもがどうするのか、どう考えるのか、ということです。厳しくしたらいいのでしょうか。寛容にすればよいのでしょうか。しかし、どのくらい厳しくしたらよいのでしょうか。主イエスは、どのようにお答えになるのでしょうか。

■彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたがたの心がかたくななので、モーセはこのような戒めを書いたのだ」(4、5節)。

いったい、主イエスは、離婚を許したのでしょうか。それとも禁止したのでしょうか。この5節の主イエスのお答えは、私どもの意表を突くと思います。ファリサイ派は、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」、つまり、離婚は神の律法でも認められているじゃないですか、と言うのですが、主イエスはそれに対して、「なぜ離縁状の戒めが必要になったか、考えたことがあるか。神がこのような戒めを作らざるを得なかった、その神の悲しみを考えたことがあるか。それは、あなたがたの心がかたくなだからだ」。そう言われるのです。

この「かたくななので」という言葉については、もう少し丁寧に説明してもよいかもしれません。直訳すると、「あなたがたのかたくなさに対して」という言葉です。もっと強く訳せば、「あなたがたのかたくなさに抵抗して」という表現です。最初から繰り返しておりますように、神は天地を創造された、その最初から、私どもの罪と戦っておられる。私どものかたくなな心に抵抗しておられる。「離縁状」という掟もまた、その神の戦いの途上で生まれたものでしかなかったのです。

最近なぜか頻繁に紹介していますが、柳生直行先生という関東学院で長く教えた英文学者の新約聖書の翻訳があります。ひとりで新約聖書全巻を訳されました。この柳生先生の翻訳は、原文のギリシア語を一言一句几帳面に翻訳していくという方針ではないのです。それにもかかわらず、この先生の翻訳を読んでいると、ああ、ギリシア語が読めるというのはこういうことなのかと、舌を巻くことがよくあります。柳生先生は5節をこう訳しました。「モーセはそなたらの冷酷さを知っていたから、そなたらのためにそういうことを書いたのだ」。神は私どもの冷酷さをよくご存じで、それも結局、あの創世記の伝える、人類最初の失敗にさかのぼるのです。「いやいや、神さま、違うんですよ、あなたが私と共に生きるようにと与えてくださった女がいるじゃないですか。あれが私をだましたんですよ」。あなたがたの心が冷酷だから、神はそのことをよくご存じだから、離縁状という制度でも作らない限り、社会的に立場の弱い女性を守ることもできないじゃないか。

■「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。このような神の思いがあるにもかかわらず、それでも離婚しなければならないことはあると思います。そして私どもは、たとえ自分自身が離婚したことがなかったとしても、むしろそういう人たちに対しては同情の思いを持っていると思います。それぞれに、やむを得ない事情があるのです。夫婦の間柄というのは、あらゆる人間関係の中でもいちばん緊密な、それだけに人目に触れない、だからこそ最も深刻に人間の罪が現われる場所にもなります。そこで傷つき、苦しんだふたりが、それでも神を信じ、神に祈った上で、許される限りの最善の選択として離婚を決断するということは、むしろ当然あり得ることだと思います。何より神は、私どものかたくなさをよくご存じですから、天地創造の最初からそのことをよくご存じですから、こういう私どもの至らなさに同情してくださる方があるとすれば、それは他の誰でもなく、ただ神が私どもに同情してくださることを思うべきです。

しかしそれにしても、離婚ということは、人間にとっていちばんつらいことです。自分自身が傷つくし、自分だけでなく相手も傷ついていることを思うべきだし、子どもがいればその痛みは二倍にも三倍にもなるかもしれません。けれどもそこで、本当にいちばん痛んでおられるのは神であることを、私どもはどれだけ知っているでしょうか。その神の傷みは、このマルコによる福音書が特に第11章以降で明らかにするように、主イエス・キリストの十字架という形をとらざるを得なかったのです。天地創造の最初から、神は私ども人間の罪のために苦しんでこられました。痛んでこられました。その神の傷みの頂点が、キリストの十字架であったのです。

ここでわざわざ念を押す必要もないと思いますが、私は今、決して特殊な話をしているつもりはありません。特定の人にだけあてはまる話をしているつもりはないのです。すべての人間が、このキリストの十字架の前に立たなければなりません。「神は、あなたがたの冷酷さをよくご存じだから」と言われた主イエス・キリストの前に立たなければならいのは、すべての人間であります。

■この箇所の次の段落では、「子どものように神の国を受け入れなさい」という、これまたたいへん有名な主イエスの言葉を伝えます。

「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。

今朝はふたりの子どもの洗礼を行いました。このふたりに、今読みました主イエス・キリストの言葉を、教会から贈ることにしました。幼子は、大人と違って罪がないから、だから神の国は子どものものだと言われたのではないのです。やはり旧約聖書の創世記において、神が全世界に大洪水を起こされたあと、神はノアに言われました。「人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ」(第8章21節)。今朝み前に立つふたりの幼子も、私どもと同じ罪人でしかありません。ところが神は、あの洪水のあと、それでもわたしはこの人間を滅ぼすことは二度としないと誓われました。この罪人が、赦されているのです。愛されているのです。この幼子が親に抱かれているように。それならば私どももまた、幼子のように神の愛に抱かれて、この神の愛を受け入れるほかありません。この神の愛の言葉が、今朝このように与えられていることを、心から感謝して受け入れたいと思います。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」、アーメン。お祈りをいたします。

 

私どもに妻が与えられ、夫が与えられ、また共に生きるべき隣人が与えられているのは、私どもがその人たちを選んでいるのではありません。あなたが、与えてくださったのです。そのあなたの御心を受け入れる信仰を、私どもに与えてください。私どもは、心のかたくなな者ですから、共に生きるべき人間を好きなように選ぶことができると思い込んでおります。自分が幸せになるために役に立ちそうもない人とは縁を切ってよいと、自分の夫、自分の妻に対してもそのようなわがままな思いに生きることがあります。そんな私どもの冷酷さに対して、あなたがどんなに苦労なさったか、そのあなたの痛みの前に立つ者とさせてください。主のみ名によって祈り願います。アーメン